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楠正成と神戸

2009年06月29日 18:01

楠正成
楠木正成はこの戦いに敗れて自刃するのだけれど、その当時の地形は今は殆ど残っていない。肝心の湊川も大きく西の方に曲げられ会下山を掘削し地下を通っている。この川は川床が平地より高く、土手で囲まれ、たびたび氾濫を繰り返す暴れ川であったらしい。今は湊川公園になっている。湊川は、天王谷川と石井川が合流し、長田港、苅藻島付近で海へと注ぐ。この湊川は過去に2回付け替えられており、古い順に和田岬(大和田の港)へ流れる古湊川、川崎町(現在のハーバーランド・神戸港)へ流れる旧湊川、苅藻川と合流し長田港へと流れる新湊川と呼ばれる。
会下山は楠正成の陣どった山である。行ってみて分かった事であるが、以外と海からは急勾配になっている。

戦いは戦わずして撤退した後醍醐天皇方の完敗であり、国際的に取り上げられMinatogawa Battleと言われている。
Battle of Minatogawa
Date:1336
Location: near the Minatogawa river
Result: Ashikaga victory
Belligerence Ashikaga rebels : Imperial forces
Commanders: Ashikaga Takauji: Kusunoki Masashige and Nitta Yoshisada
Casualities: Masashige commits suicide

今回湊川神社、湊川公園と会下山へ行って来た。
湊川神社は楠正成を奉ったお社である。その名にふさわしく楠の生い茂った神社内で、時折、ひとが訪れてお参りしている。この神社には水戸黄門自筆の墓碑「呼忠臣楠子之墓」がある。
湊川公園には楠正成の馬上姿の銅像がある。
会下山は海側からは結構急な勾配の山で、海に至るまでが一望できる。大和田の岬に上陸してくる足利軍を迎え撃つには最適の場所であろう。会下山の中腹で思いがけないものを見つけた。世界的植物学者で日本に自生する植物を体系的に整理し、多くの名前をつけた牧野富三郎博士の研究所跡があった。
尊敬する一人である牧野博士は小学校しか出ていないのに、東京帝大教授、博士となった人物である。牧野博士についてはまたとりあげるとする。
頂上は思ったより広く、今は公園になり、桜の木が多く神戸の花見の名所になっている。この山が楠正成の陣した所だと分かるのは唯一「大楠公湊川の陣跡」の石碑のみ。
写真 1. 湊川神社の本殿 2. 水戸光圀が墓碑を書いたという碑 3. 大楠公の墓 4. 神社の正門 5. 正成の騎乗姿の像 6. 湊川跡の石碑 7.牧野富三郎研究所跡の石碑 8. 正成陣跡 9. 会下山からの風景 10. 初夏の夕焼け

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My faraway

2009年06月24日 17:38

無情

大学で知り合って無二の親友となったHKは理系の学生では珍しく万葉集がとても好きでした。そのせいもあって妙に文学好きの僕と気があい、よく奈良の万葉の里を訪ねて歩き回ったものだった。その頃のぼくはどちらかというと万葉集よりも古今集や金塊集などの和歌の方が洗練されているようで好きだった。

午前中で学校を抜け出し、奈良へ急いだある日の夕方。「あああれが天の香具山でこれが畝傍山か耳成山か」などそこここに見える山や川全てが万葉の舞台。中大兄皇子の歌「香具山は 畝火雄々しと 耳成山と 相争ひき 神代より かくにあるらしいにしえも しかにあれこそ うつせみも 妻を争ふらしき」を思い浮かべながらとぼとぼと日の暮れかかる大和路を歩いた。時は晩秋、麓にはすでに夜陰が忍び寄り、急に肌寒く感じられるようになって、残光が山の頂を茜に照らし出し、その神々しさにうっとりとしたものだった。その残光も色褪せてあたりが夜の帳に包まれ始めると、なぜか急に寂しく、物悲しくなり、二人は無言で家路を急いだのでした。

その彼が突然、死んでしまった。30歳を目前にしての自殺でした。残暑の残る暑い暑い夏の終わりでした。僕はおそ巻きながらやっと人生の方向を決めて、研究で身を立てようと決心し、秋からアメリカに留学するという一ヶ月前の出来事でした。そのため、今やっている仕事を片付けようと夜遅くまで必死で働いていて、自分のことばかりで精一杯、彼がわざわざ死のひと月前に東京に訪ねて来てくれたときも、自分のこれからの夢や抱負ばかりを一方的に話したに違いありません。もう少し彼が何を求めているのか、わざわざ訪ねてきた訳を察してあげる事ができたらと悔やまれてなりません。それからほどなく、突然の電話で、慌ただしく徳島に飛び、葬儀にでることになりました。身体も魂もふぬけになったように、その時のことは余り覚えていません。ただ火葬場での煙が風もない昼下がりの暑い中を、まっすぐに上っていくのをじっと見つめ、魂もあの煙とともに昇っていくのかなとぼんやり思っていました。夏の終わりを惜しむかのように蝉の鳴き声だけがあたりを包み、いっそう暑さを増していました。僕は流れ落ちる汗を拭きながら、炎天下に立ち尽くす事しかできませんでした。

一見、彼は周りからは公私ともに順調にいっているように見えました。同級では一番の出世頭ですでに助教授になっていましたし、結婚も予定されていました。なぜ死んだのか遺書がなかったので、その理由は今となっては分かりようもありません。全く自殺する理由など考えられないくらい、うらやましいくらい傍目からは順調に見えました。
突然、心におおきな穴がぽっかりと空き、例えようのない侘しさを感じました。人生の無情、不条理を感じました。

そんな彼が好きだった歌 「大和は国のまほろば たたなづく青垣山こもれる 大和しうるはし」や 「あおによし奈良の都に咲く花のにおうがごとく今盛りなり」をどこかで耳にする度、未だに心がきゅんと縮こまり、人って何だろう?生きるって何だろう?と心が叫びます。

その後、すぐに留学をし、お墓に参る機会がなかったので、帰国してとるものもとりあえず墓参りをしました。彼の実家は北九州の小倉にあり、ご両親と弟さんとの3人家族でした。ご両親に会って何を話したかは定かではありませんが、朝日新聞の記者をされていた厳格そうなお父さんは「亡くなった親孝行なHとはできが違い、どうしようもない弟は早稲田を出た後、ぶらぶらしていたけど、今は落ち着いて予備校の先生をやっている」とすこしあきらめたようなそれでいて許しているような寂しげな顔で話された事だけを覚えています。

墓は父親の実家のある山口県の田布施の田園地帯の真ん中の灌木の生い茂った丘の麓にありました。夕暮れまじかで、日が落ちるのとの競争でタクシーを乗り付けての慌ただしい墓参りでした。実家は父親の兄が跡を継ぎ、農家を守っておられました。墓参りを終わるとあたりはまさに漆黒の闇に包まれ、ぽつんと田んぼの中に建つ一軒の農家の明かりが妙に明るく輝いて感じられました。
あれからもう30年以上になります。もう一度、最後のお参りをしなくてはと考える歳になってきました。



田舎のたこと都会のたこ

2009年06月22日 17:10

田舎のたこと都会のたこ

研究室に明石から通っている女性がいる。生まれてこのかた30数年、旅行以外明石から出た事がないという。一年前に当研究室に勤めたのが初めての明石以外の地だという。神戸と明石では電車で15分の距離。それでも明石を出ての大冒険らしい。じっと同じ所で、周りを見ないようにして生きていく。自分の慣れ親しんだ環境で、親や兄弟と気心知れた人たちと心地よく、過剰な刺激が無いように暮す。たこ壷に入って自分でふたをしてできるかぎり、あたりを見ないように、なにも聞かないようにする。
その女性に言わせると「たこ壷からでえへんで!明石はたこだけではあらへん。鯛もあるで、魚貝類もおいしいで。明石は極楽や」となる。

一方で、北陸の片田舎から出て来た女性もいる。彼女は反対に地方の人間社会、同一の価値観にがんじ絡めに縛られた社会から飛び出したい。そんな閉鎖社会の鎖を解きはなして、「私自由に生きたい。干渉されたくない」確かにそうなのよ。「田舎はすぐにあそこの家の長女はまだ結婚しないのか, 女の子が大学院まで行ってどうするのとか」そんなの大きなお世話。「村の人は、他人には興味ない振りをして、耳はダンボの耳。人の生活を覗き見して、ひそひそと噂するのが楽しみ。それしかやることがないのよ」確かに!「そんな所に今更帰ってみなさいよ。どんなことになるか」確かに! 「親も兄弟もいるから楽は楽なんだけど」確かに!となる。

さてさて都会のたこ壷と田舎のたこ壷、あなたはどちらがお気に入りですか?
都会のたこは誰もだれがとなりのたこ壺にはいっているかには目もくれない、孤独な社会。気が向いたらつぼから出て行って、刺激を求めればいい、慰み合えばいい。生活の糧を得るために最小限の閉鎖社会とつきあって、あとは個々の日常にもどればいい。小さなたこ壷が無数あり、だれがどの壺に入っているか知らない、都会。
一方、壺の数が少なく、お互いにどの壺に誰が入っているかのみならず、その壺にすむ人々の容姿、性格から経歴にいたるまで個人情報は筒抜けの小さな街や村。どちらをお好みであろうか?
私はたくさんあるたこ壷にまぎれて、ひっそりと自由にくらせる都会のたこ壷の方が好きだった。最近は歳をとり、田舎で少々の人間関係の煩わしさにも少しは耐えられる自信ができ、田舎での晴耕雨読にも憧れている。そんな生活にあこがれてブログのタイトルに「たおやかな生活」とつけたが、すぐに間違いに気づかされた。日々の研究活動をする限り、そんな事はあり得ないと。「テンションを上げて、頑張っていい成果を、面白い成果をあげるぞ」。と自分に言い聞かせないと脱落してしまう社会だ。社会はすぐに言う。「お前達はいい気なもんだ、税金で趣味の研究をし、生活まで面倒を見てもらえる」と。そんなのは遠い昔の研究者。今の研究者はすぐに評価され、悪ければキックアウトされ、研究費ももらえない。
この競争社会一生懸命働き、ストレスも受ける、いやなこともやる。つき合いが嫌いでも人と付き合いネットワークを作る、論文もうまく書け、英会話もできるように、プレゼンテーションもうまくする、研究者だからといって研究だけに没頭できるわけではない。時間がいくらあっても足りない。これが普通だ。だからブログのタイトルも改訂版から「たおやかな生活を夢見て」と変えた。何人の人がお気づきであろうか?
現在の研究者はたこ壷に潜んでいる訳にはいかない。否応無しに壺から引っぱり出される。壺の外でのたこ踊りが一人前にできないたと生き残れない。これが研究者の現実。

環境と感受性

2009年06月17日 12:40

幻の光


この宮本輝の小説は人生に大きな大きな影響を与えた。この本を読んで無性になみだがとどめなく流れ、せつなかった。哀しかった。人の世の不条理が心に焼き付いた。

「きのう、わたしは32歳になりました。兵庫県の尼崎から、この奥能登の曾々木という海辺の町に嫁いできて丸3年が過ぎたから、あんたと死に別れて、かれこれ7年にもなるんです」という書き出しで始まる。

「どん底の貧乏生活の幼少期を過ごした尼崎の阪神国道沿いの木造アパートに小学校6年のときあんたが後添いの連れ子として引っ越ししてきた。私はそのとき以来頭がよく、格好いいあんたが好きになった」
お互いに中学校をでると働きはじめ、あんたは鉄工所の見習い工員になった。二人は大人になるのを待って結婚し、初めての子供を産んで3ヶ月後に、わたしは理由も判らん自殺というかたちであんたを喪ったんでした。それ以来、もぬけの殻になって生きてきた。幸せの絶頂期、なんであんたは自殺したんやろ。その理由はいったいなんやろとわたしは呆けた頭で考えに考えてーーそれでも分からなかった。
なんの理由も見つからぬ自殺という形で、愛するものを喪った地団駄をふむような悔しさとわびしさ。

まわりの人の勧めで子連れで人のいい子持ちの板前と再婚して能登の片田舎で幸福な生活をおくれるようになった彼女に、今なお前夫への思慕が噴きあがることがある。なんでこんな理由も分からぬ不条理な不幸が自分の身の上に降り掛かるのだろうか。考えれば考える程,分からない。この絶望感と寂寞感。
そんななか、夫やまわりの人々の優しさに次第に新しい人生をがんばろうと思う様に次第になる。この小説の希望は幻かもしれないが光が差し込みそうな将来を予感させて終わることだ。

この小説を読んだ時ほどショックを受けたことはない。涙が次から次へと溢れ、人生の哀しさ、不条理、明日知れぬ運命が心に刻み込まれた。何故これほど哀しいのか理由もなく、ただ哀しかった。この小説が性格形成、思想形成に大きな影響を与えたことは間違いない。

しかしまたずーと後になって読み返した時にはそれ程のショックは受けなかった。小説を読む「歳やおかれた環境とそのときの精神状態」によって全く受けとる印象が異なる。昔感激した映画を期待してもう一度見たけどそれほどではなかった。逆に昔は何にも感じなかったが、今度見たときはすごく感激した。という事は往々にしてある。人間はその時々の環境に左右されて、価値観も変わる。優しくなったり、冷たくなったり、寛容になったり、厳しくなったりして生きている。
しかし未だに最初に読んだ時のショックは忘れない。


Dream, Dream, Dream

2009年06月13日 16:25

夢の又夢

夢をみた。多分明け方だと思う。しっかりと内容を覚えているから。港に白い客船が数隻係留されている。防波堤の向こうは、晴れているのに大きな浪がうねっている。風が妙にきつい。大きな浪のうねりの合間にクジラの尻尾が見える。目を転じて左手をみれば、島があって、そこの造船所のドックには3隻の大型客船が係留されている。海峡に面して、島の突端に白亜の洋館がみえる。屋根はモスグリーンで塗られ、尖塔が海峡を睥睨している。
島の山の頂きには大きな枝を四方にはった樹がみえる。となりにいた誰かが言った。「よく学校を抜け出して、あのような大きな樹の下の秘密の基地で、よくホーン漂流記(こんな本はない)や15少年漂流記を読んだなあ」夢の中の自分が言う。「今だってやろうと思えばできるじゃあない。少年の頃の夢の実現が」見てもないホーン岬の風景が夢で出てきたのは昔「impossible voyage」という本を読んだ時の、印象が強力であったためかも、マゼラン海峡の方がもっとすごく感じたんだけど。いずれにしても夢の中、そんなに筋が通っているはずもない。
ホーン岬は南米最南端の岬でドレーク海峡に面している。岬を通過する経線をもって太平洋と大西洋の界とする。それより南は南極大陸だ。
少し北にあがるとマゼラン海峡がある。 この海峡は大西洋と太平洋の潮位の差により、いつも海峡は潮が渦巻き、幾多の暗礁、狭いが上に流れも速い。天候はいつも荒れていて、屈指の航海の難所。大西洋と太平洋を結ぶ重要な航路であるが、難所故に南のドレーク海峡を大回りする船も多かった。マゼラン海峡を自ら操縦して通った船長は船乗り仲間からは畏敬の念で見られ、相手が司令官でも足を机の上に投げ出したまま、話してもいいとさえ言われる。今ではほとんどがパナマ運河を通る。

湊川の戦い

2009年06月11日 12:19

楠正成

今朝方から雨も本降りとなり、梅雨に突入した。窓を開けているとひんやりとした風に肌寒い。時折車が雨を轢いて走る音を聞きながら仕事をするのが好きだ。車のたてる喧噪が雨音にかき消されて、雨をはねる音だけが聞こえてくる。

楠の通りに面して湊川神社がある。湊川神社は楠木正成を奉った社である。
後醍醐天皇方の楠正成と新田義貞の連合軍はここ神戸の地、湊川で足利尊氏と足利直義の軍を迎え撃った。
足利尊氏は一時期新田義貞や楠木正成らに破れ、九州に落ち延びていた。楠正成はこの有利な折に尊氏と和睦する事を進言するが、後醍醐天皇の聞き入れることとならず、新田義貞に追討を命じ、正成は国元での謹慎を命ぜられる。しかし義貞が播磨の国の白旗城の赤松則村を攻めあぐねている間に、足利方は体制を立て直し、京都に攻め上がってきた。危険を感じた義貞は兵庫まで撤退し、この地で立て直しを計った。後醍醐天皇は正成に救援を命じた。ここで湊川の戦いと称する戦いが勃発する。

新田軍は本陣を和田岬と会下山の中間地点の2本松におき、和田岬にも軍勢を配して足利軍の上陸に備えた。楠軍は湊川の西の会下山に陣を敷いた。足利直義を司令官とする主力部隊は西国街道を進み、和田岬の新田軍には少弐頼尚が側面から攻撃をかけた。また、斯波高経の軍は山の手から会下山に陣する楠木正成の背後に回った。さらに、細川定禅が海路を東進し生田の森から上陸すると、義貞は退路を絶たれる危険を感じて東走し、楠木軍は孤立する

ここで誰も居なくなった和田岬から、悠々と尊氏の本隊が上陸した。楠木正成は重囲に落ち、奮戦するものの多勢に無勢、楠木軍は壊滅。正成は弟の楠木正季ら一族とともに自害し、義貞は京へ退却した。
神戸駅から歩いて5分の所に、楠木正成・正季兄弟終焉の地として楠木一族を祀った湊川神社があり、徳川光圀自筆の「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑などが存在する。

楠の通り

2009年06月09日 18:43



インフルエンザ騒動もいつのまにか立ち消えになり、またもとの静かな神戸に戻った。
梅雨に入りそうで,入らない少し湿り気のある風が吹く、坂道を神戸駅から歩いてくると楠の大木が道の両側に植えられた50m程の道に行き着く。ちょうど今の時期は葉が萌葱色から薄緑そして深いみどりへと通るたびに変わる、一年で一番美しい時期である。
楠は常緑高木で関東以西に自生し,高さ30m直径5mにも及ぶ大木となる。春の終わりに、白く小さな花をつけ、その木は防虫,防腐効果にすぐれ、家具などに使用される。昔は楠から樟脳という防虫剤を抽出し衣服の虫除けに使っていた。この樟脳の成分はカンファーと呼ばれる二環性モノテルペンケトンで、楠の葉や枝などのチップを水蒸気蒸留することで結晶として容易に得られる。かってはカンファーの名の如く、カンフル剤「強心薬」としても使われていた。さわやかな香りがする。
 
そんなことを考えながら楠の大木の下を歩いている。楠の葉の合間から漏れてくる陽光が風に揺れ、足下に光のさざ波を作る様を見ても、科学的なことを思い浮かべたがる一生物研究者の興ざめた頭を片隅に押しやり、できる限り自然の美を味わうようにしている。
暑くなる夏までの枝葉を大きくはって威風堂々と,それでいて枝と枝の間隔が密でなく風が吹くと一斉にその葉を揺らし、さわさわと音を出す今の楠が一番好きだ。



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