2009年08月28日 12:44
夏の終わりにー雑感―
晩夏とは夏の華やかさとは裏腹になんと物悲しい響きを含んだ言葉だろうか。今まさに晩夏。過ぎ去った夏の輝きを惜しむ晩夏と、過ぎ去った青春の挽歌がクロスするせいであろうか?
いつのまにかクマゼミの大合唱も聞こえなくなり、朝晩はさわやかな風が吹くようになってきた。夕べともなると、弱々しいが、確かな虫の音が道端のここかしこの草むらから聞かれる。あれ程暑かった夏も終わりを迎えようとしている。クマゼミが急に鳴かなくなったら、秋らしくミンミンゼミやヒグラシが鳴き始めると思っていたら、何の音沙汰もない。昔は晩夏にはミンミンゼミやヒグラシが鳴いて、もうすぐ夏休みも終わりだよ、夏の宴も終わりだよと告げるがごとくに鳴いたように記憶しているが。
夏休みがあと2-3日で終わる頃になると、日記をまとめて書いたり、図工や絵を慌てて描いたりした。なにしろ小学生の頃は、「天然ばか」と親たちからよくいわれていた通り、宿題なんて全くそっちのけで、ジョロウグモを戦わせたり、あり地獄を一日中眺めたり、山野をかけ巡って朝から晩までトンボ採りに夢中になっていた。日記で困るのは天気である。一ヶ月半にも及ぶ天気をどうやって調べるか。今のようにネッットがある訳でなし。これには悪知恵が働いた。測候所に行ってその日の天気を丸写しし、その後に天気にあわせて出来事をでっち上げる。しかしそうすると、同じような遊びが何日かおきに繰り返し現れる。そんな事は知った事ではない。夏休みの終わりまでにはちゃんと体裁を整えたはずであった。が先生から見れば、あちらこちらからボロがのぞいているらしく、夏休み明けに早速廊下に立たされるはめになった。
そんな廊下から校庭を眺めれば、アキアカネがいつの間にか山から下りて来て、風にそよぐコスモスの周りを、飛び始め、夏の饗宴の終わりをそっと知らせていた。子供心にもちょっぴりとしんみりした気分になった。
古来の風流人達によって、秋は夕暮れがいいと相場は決まっている。
かの有名な枕草子でも
「秋は夕暮れ。夕日のさして、山の端いとう近うなりたるに、鳥の寝床に行くとて、三つ四つ、二つ三つなど、とび急ぐさえあはれなり。まいて雁などのつられたるが、いと小さく見ゆるはいとをかし。日いりはてて、風の音、虫の音など、はた言うべきにあらず」と秋の夕暮れを絶賛している。
また新古今和歌集のなかでもあわれなる幽玄の秋の夕暮れを歌った3首の優れた三夕の和歌が有名である。
寂蓮法師「さびしさはそのいろとしもなかりけり、槙立つ山の秋の夕暮れ」
西行法師「心なき身にもあわれは知られけり、鴫立つ沢の秋の夕暮れ」
藤原定家「見渡せば花も紅葉もなかりけれ、浦のとまやの秋の夕暮れ」
秋の夕暮れはいつの世にあっても人の心にわびしさ、さびしさを植え付けずにはおかない。華やかできらめく夏も終わり、ちょっぴり物悲しく、落ち着いた秋の訪れ。晩夏から初秋への季節の移り変わり。皆さんはいかが秋の夜長をお過ごしであろうか?
もし心に余裕のある人がいたら、あなたの窓から、秋の夕暮れをしばし眺めて見てはいかがだろうか?
自称詩人のペンペン
晩夏とは夏の華やかさとは裏腹になんと物悲しい響きを含んだ言葉だろうか。今まさに晩夏。過ぎ去った夏の輝きを惜しむ晩夏と、過ぎ去った青春の挽歌がクロスするせいであろうか?
いつのまにかクマゼミの大合唱も聞こえなくなり、朝晩はさわやかな風が吹くようになってきた。夕べともなると、弱々しいが、確かな虫の音が道端のここかしこの草むらから聞かれる。あれ程暑かった夏も終わりを迎えようとしている。クマゼミが急に鳴かなくなったら、秋らしくミンミンゼミやヒグラシが鳴き始めると思っていたら、何の音沙汰もない。昔は晩夏にはミンミンゼミやヒグラシが鳴いて、もうすぐ夏休みも終わりだよ、夏の宴も終わりだよと告げるがごとくに鳴いたように記憶しているが。
夏休みがあと2-3日で終わる頃になると、日記をまとめて書いたり、図工や絵を慌てて描いたりした。なにしろ小学生の頃は、「天然ばか」と親たちからよくいわれていた通り、宿題なんて全くそっちのけで、ジョロウグモを戦わせたり、あり地獄を一日中眺めたり、山野をかけ巡って朝から晩までトンボ採りに夢中になっていた。日記で困るのは天気である。一ヶ月半にも及ぶ天気をどうやって調べるか。今のようにネッットがある訳でなし。これには悪知恵が働いた。測候所に行ってその日の天気を丸写しし、その後に天気にあわせて出来事をでっち上げる。しかしそうすると、同じような遊びが何日かおきに繰り返し現れる。そんな事は知った事ではない。夏休みの終わりまでにはちゃんと体裁を整えたはずであった。が先生から見れば、あちらこちらからボロがのぞいているらしく、夏休み明けに早速廊下に立たされるはめになった。
そんな廊下から校庭を眺めれば、アキアカネがいつの間にか山から下りて来て、風にそよぐコスモスの周りを、飛び始め、夏の饗宴の終わりをそっと知らせていた。子供心にもちょっぴりとしんみりした気分になった。
古来の風流人達によって、秋は夕暮れがいいと相場は決まっている。
かの有名な枕草子でも
「秋は夕暮れ。夕日のさして、山の端いとう近うなりたるに、鳥の寝床に行くとて、三つ四つ、二つ三つなど、とび急ぐさえあはれなり。まいて雁などのつられたるが、いと小さく見ゆるはいとをかし。日いりはてて、風の音、虫の音など、はた言うべきにあらず」と秋の夕暮れを絶賛している。
また新古今和歌集のなかでもあわれなる幽玄の秋の夕暮れを歌った3首の優れた三夕の和歌が有名である。
寂蓮法師「さびしさはそのいろとしもなかりけり、槙立つ山の秋の夕暮れ」
西行法師「心なき身にもあわれは知られけり、鴫立つ沢の秋の夕暮れ」
藤原定家「見渡せば花も紅葉もなかりけれ、浦のとまやの秋の夕暮れ」
秋の夕暮れはいつの世にあっても人の心にわびしさ、さびしさを植え付けずにはおかない。華やかできらめく夏も終わり、ちょっぴり物悲しく、落ち着いた秋の訪れ。晩夏から初秋への季節の移り変わり。皆さんはいかが秋の夜長をお過ごしであろうか?
もし心に余裕のある人がいたら、あなたの窓から、秋の夕暮れをしばし眺めて見てはいかがだろうか?
自称詩人のペンペン
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