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播磨古寺散策II

2017年03月08日 11:56

播州古寺

  前に訪れた太山寺よりも、さらに鄙びた古刹を見つけ、薄日の覗く冬の週末に出かけた。神戸の郊外の山里にある如意寺は、まさに冬枯れ。人が訪れることもなく、冬の淡い光の中に沈んでいた。しかしお寺は管理が行き届き、境内はゴミひとつなく、はき清められ、伽藍はひっそりと清楚な姿を見せていた。

道路際に佇む山門(写真1)は、これから先が境内であったことを、訪れる人に示してくれるが、今は道路のそばに打ち捨てられように建っている。そこから程なく行くとお寺の入り口が見えて来る。如意寺の石碑(写真2)の向こうには文殊堂(写真3)が見える。伽藍の南端の傾斜地に建てられている高床式の建物で室町時代(1453年)に建てられたと記されている。
 比金山如意寺は今から1000年ほど前に法道上人によって開かれた天台宗の古刹で地蔵菩薩を本尊にしている。今は礎石のみを残す本堂を中心に、西に阿弥陀堂、東に三重塔、南に文殊堂を配している。その後荒廃したものを、正暦年間(990~994)に願西上人が復興した。隆盛時には24坊、境内は東西1744メートル、南北1308メートルの広大な寺域であったと伝えられる。
東端に建てられた3重の塔(写真4−6)は、長く風雪に耐えて生き残ってきたことを想像させるが、木を組み合わせて作った屋根の繊細さ、美しさは見事というより他にない。大山寺の3重の塔も優美であったが、如意寺の3重の塔にはより時代感、手作り感が感じられ、これがよく言う「詫び寂び」なのかと感嘆する。
西に立つ阿弥陀堂(常行堂、写真7)は修行のためのお堂で、阿弥陀如来を本尊としている。鎌倉時代に建てられた入母屋作りの建物で神戸市最古の建物と言われる。

 神戸の市街を外れた、山里に今はひっそりと佇む古刹、太山寺と如意寺は同じ天台宗の寺院で、同じような作りになっている。また少し離れた加西市にある一乗寺も天台宗のお寺で同じ作り、三重塔(写真8)の造形もよく似ている。
 これらの寺がすべて孝徳天皇の勅願で創建され、開基を法道仙人とする天台宗の寺院であることを考えればそれもうなずける。
 遠い昔、東播磨のこの地に仏教寺院が林立し、多くの僧侶や門徒で賑わい、この地が仏教文化で栄えていたことがうかがわれる。
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兵庫散策(高砂神社、御着城址、加古川城址)

2016年04月12日 10:50

高砂って?

1.高砂神社
結婚式で歌われる「高砂」は誰でも一度は聞いたことがあるめでたい歌だとは知っているが、どのような背景があって歌われるのかあまり知られていない。
神戸から30−40分くらい西に車で行くと姫路の手前に高砂市がある。そこの高砂神社を訪ねた。
能「高砂」発祥の地で、相生の松によせて夫婦愛と長寿を愛で、人世を言祝ぐめでたい能である。古くは『相生』『相生松』と呼ばれた。
 「高砂や、この浦舟に帆を上げて、この浦舟に帆を上げて、月もろともに出で潮の、波の淡路の島影や、遠く鳴尾の沖過ぎて、はや住吉(すみのえ)に着きにけり、はや住吉に着きにけり」と歌われる。

 能によれば九州阿蘇宮の神官が播磨の国、高砂の浦にやってきた。春爛漫の春風に浜辺の松が美しい。遠く鐘の音も聞こえる。そこに老夫婦が来て、木陰を掃き清める。老人は古今和歌集を引用して、高砂の松と住吉の松とは相生の松、離れていても夫婦であるとの伝説を説き、松の永遠、夫婦相老(相生にかけている)の仲睦まじさを述べる。そして老夫婦は自分達は高砂・住吉の松の精である事を打ち明け、小舟に乗り追風をはらんで消えて行く。
神官もまた満潮に乗って舟を出し(ここで『高砂や…』となる)、松の精を追って住吉に辿り着く。
 高砂神社このは相生の松がある。1つの根から雌雄2本の幹をもつ松が境内に生えた。この松は、尉と姥の2神が宿る霊松とされ、相生の松と称された。
初代相生の松は天禄年間に、2代目は兵火によって天正年間に枯死したと伝えられている。現在は5代目の松が枝を張る。
 その長寿の松は多くの和歌に詠まれ、百人一首にも「誰をかも 知る人にせむ 高砂の 松も昔の 友ならなくに」高砂は松や尾上にかかる枕詞。とか
「高砂の 尾の上〔え〕の桜 咲きにけり 外山の霞 立たずもあらなむ」
などがある。

2. 黒田官兵衛
 高砂神社の近くの姫路に黒田官兵衛ゆかりの御着城跡がある。赤松氏の一族で西播磨最大の領主だった小寺政隆が築き、本城とした。
官兵衛は、小寺政職にその才能を認められ、家督を継ぐまで御着城で政職の近習として仕えた。あれほどブームだった官兵衛も今やすっかり真田人気にとって変わっている。城跡と言っても何も残ってなく、今や公民館に使われている。
黒田家の墓所は福岡に存在し、兵庫には残ってなく、御着城跡公園内には、黒田官兵衛の顕彰碑が建立されている。
 加古川城は今は跡形もなく、称名寺というお寺が立っている。しかも工事中であった。信長の命を受け毛利征伐のため秀吉は播磨に入り、加古川城で播磨国内の城主を集め毛利征伐の軍議(加古川評定、1577年)を開いた。しかし三木城主別所長治の代理で出席した叔父の吉親は名門意識が強く、百姓から這い上がってきた秀吉を見下すところがあり、秀吉の不興をかい、その腹いせに別所長治を信長より離反させ、三木城の干ぼし作戦(食料を断つ)が始まる。12代加古川城主の糟谷(内善正)武則は、黒田官兵衛の推挙により豊臣秀吉に仕え三木合戦二参加した。加古川城には、織田信雄、信孝兄弟に、信長の弟の織田信包、それから細川藤孝、滝川一益、明智光秀、丹羽長秀、佐久間信盛といった信長の重臣たちが一堂に会し戦略を練ったとされる。

写真 高砂神社 1−4、相生の松 5−6、御着城跡 7-10、加古川城跡 11-12
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播磨の法隆寺と言われる鶴林寺

2016年02月26日 16:01

鶴林寺
播磨平野を横切り、播磨灘へと注ぎ込む加古川、その河口付近に聖徳太子が開いたとされ、西の法隆寺と称される天台宗の古刹、刀田山鶴林寺がある。
広い境内の中には本堂、太子堂、三重の塔、常行堂、鐘楼、行者堂、新薬師堂や護摩堂などの多数の伽藍が点在している。
崇峻天皇2(589)年、聖徳太子が16才の時、播磨の地にいた高麗の僧恵便のために秦河勝(はたのかわかつ)に命じ、仏教をひろめる為の道場として建てられた。
 白鳳時代に造像された聖観音像があり青銅に金箔を押した金銅仏で、すらりと立っている。その昔、盗人がこの仏像を盗み出し、溶かして一儲けをたくらんだが、「アイタタ」という観音の声に驚いて、像を返し改心したという伝説が残っている。本堂本尊の薬師三尊像は平安時代初期の木造古仏で、本尊の薬師如来は平安中期の作品である。その他に、日光菩薩、月光菩薩、持国天、多聞天(いずれも重要文化財)をこの本堂で祀っている。これら5体の仏像はいずれも秘仏で、宮殿と呼ばれる大きな厨子に納められていて、60年に1回しか開帳されない。

戦国時代には近隣の書写山が戦火に巻き込まれたが、姫路領主だった黒田孝高(官兵衞)の説得で信長派となり、戦火を免れた。官兵衛ゆかりのものとしては、天文9(1540)年ごろの官兵衛の父・職隆の書状や天正16(1588)年の官兵衛直筆の書状、信長や秀吉が鶴林寺への乱暴狼藉を禁じる禁制の文書のほか、織田勢に降伏した高砂城主・梶原景行が寄進した県指定文化財の机などが残っており、官兵衛と鶴林寺とは深いつながりがある。
 国宝としては本堂と太子堂がある。本堂は室町時代の入母屋造の本瓦葺きで、内部には秘仏の薬師三尊像と二天像が安置されている。
太子堂は平安時代に建てられ、堂内に壁画の聖徳太子像があることから太子堂と呼ばれているが、元来は法華堂と呼ばれていた。
2002年、韓国人窃盗団により宝物館から高麗仏画と聖徳太子絵伝が盗まれた。聖徳太子絵伝の方は翌年に取り戻されたが、高麗仏画、阿弥陀三尊像については韓国内で見つかったものの、返還されていない。

写真:
 1. 寺院山門 2. 案内 3. 4. 本堂 5. 太子堂案内 6. 太子堂 7. 薬師三尊 8. 三重塔

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龍田川、三室山の紅葉

2015年12月22日 13:09

 和歌に詠まれた紅葉

 平安時代の庶民にはもみじを愛でるという風習はなかったようだ。もっぱら桜を見る、花見が盛んだったようです。しかし、貴族の間では秋になると山野に出てもみじを鑑賞し、和歌に詠むという風流が流行った。
平安時代よりもはるか昔から紅葉の名所としてその名を馳せていたのは斑鳩の里にある龍田川とすぐそばの三室山。現在は龍田公園として整備され、紅葉や桜の名所として有名。

多くの和歌にも読まれ、百人一首にも在原業平と能因法師の2首が載っている。

在原業平の「ちはやぶる 神代もきかず 龍田川 からくれないに 水くくるとは」(古今和歌集)
神代の昔から聞いたことがありませんよ。龍田川が散り敷いた紅葉の鮮やかな紅色によって一面に染められているというのは。

能因法師の「あらし吹く 三室の山の もみじ葉は 龍田の川の 錦なりけり」
(後拾遺和歌集) 
晩秋のあらしによって舞い散った三室の山の真っ赤なもみじ葉が龍田川の川面いっぱいに覆い尽くし錦織りのようになっている。

この他にも古今和歌集には
「もみじ葉の 流れざりせば 龍田川 水の秋をば だれか知らまし」
坂上是則
「龍田川 もみじ葉流る 神なびの 三室の山に 時雨ふるらし」詠み人知らず などの和歌がある。

 先日、すこし盛りを過ぎたもみじを奈良龍田公園に見に行った。すでに12月も中旬にさしかかり、人もまばらでじっくりとこの和歌の雰囲気を味わうことができた。川の流れのすぐそばに紅葉の木があり、今年は暖かい日が続いたせいか、多くの紅葉がすでに散ってしまっていたが、中には今を盛りにと樹全体の葉を真っ赤に染めて柔らかい日差しの中に佇んでいる紅葉もあった。真っ赤になった葉の間から陽光が漏れ、折からの風で揺れ落ちて、地面で踊っていた。
三室山は標高82mの小さな山で神南備山とも呼ばれる。聖徳太子が斑鳩宮を造営するにあたり飛鳥の土産神をこの地に勧進されたのが由来。頂上には1.9mの五輪塔があり、能因法師の供養塔とされる(写真)。龍田川と三室山は現在龍田公園として市民に開放され。紅葉、桜の名所として親しまれている。

写真
1:龍田川公園紅葉1;2:龍田川1;3:龍田川2;4:紅葉2;5:紅葉3;6:紅葉4:7:龍田川を読んだ和歌の碑;8:能因法師の供養塔
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