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年の瀬のあなたへ 愛の形(3) 

2008年12月26日 16:22


年の瀬の最後のブログとして
(1)新年を迎える心境
世界中が未曾有の不景気に突入しようがしまいが新しい年はくる。100年に一度の大混乱だそうだ。不謹慎かもしれないが大混乱を経て歴史はかわる。もう少し若いときに、この混沌に出会いたかった。どのような新しい秩序が打ち立てられ、歴史がまた動き始めるのか見極めるのが楽しみ。彗星のごとく現れたオバマが魔法の杖で持って鮮やかにこの混乱をおさめるのか?更なる混沌が現れるのか?残念ながら日本はその改革の主役にはなれないことは明らかであろう。
私は老兵として鮮やかなお手並みでこの困難さを一気に解決してくれる人物もしくは明治維新のように一群の人物の登場を待ちわびるのみである。

(2)更なる愛の形 (3)
清水辰夫作「イーツ!」

この変わったタイトルの小説も少年時代の淡い恋を描いた、大人になりかかる少年の純な心情と背伸びした少女とのときめきと、切なさを伴った愛の形がうまく描かれた作品。

榊原加奈子は母子家庭に育ち、母親はあやしげな飲み屋を経営している。加奈子は「容貌は校内の女子生徒の中でもずば抜けていた。大柄で、四肢のバランスが取れ、躯のまるみが他の生徒とはまるでちがった」という男子生徒の憧れの、なにかと噂の多い女性である。
時々店にでて母親を手伝っている。啓介は風呂の帰りに、加奈子が客の酔っぱらいに絡まれて、怒り、逃げるように歩いている所に出くわす。「ろくに街灯もない暗い街だったが、西の空に月がでていた。あと2、3日で満月になろうかという大きさだ。その月の光に照らされ,加奈子の姿は薄れながらもまだ見えていた。啓介はあとを追い始めた。4、5分行くと城山に突き当たる。山地の端にある勾配のきつい山で、手前の峰の頂上に中世の山城の跡があった。この山頂へ、高校一年の秋、ふたりでなんどか通った。秋の演劇祭に参加したときの稽古を、この城山でやったのだ。出し物はイプセンの「人形の家」。啓介は石段の上まで戻ってきて腰をおろした。眼下に街の中心部が望めた。駅の北側は一面の田だった。いま、月の光を浮かべて巨大な湖のように静まり返っているのがそれだ。田植え前の水が張られているせいだった。ところどころ青い蛍光灯がともっている。まだ残っている、誘蛾灯だった。その先は闇に沈んでなにも見えない。日本海が5キロ先の丘陵の向こうにあった。」石段に腰掛けての会話。「カウンターの中にしかいないわよ。疑ってるんでしょう」「吸ってるわよ。煙草ぐらい。お酒はあんまり好きじゃないけど」ばか。イーツ!だ。「今夜はまだ吸っていないわよ」

啓介の父親の経営している工場も不況で、借金取りが押し掛ける有り様だ。啓介は借金取りが押し掛けてくる家を離れ、よく城山の木陰で勉強した。とある神社のお祭りの夜。神楽の見物客のなかに英語教師の殿村が奥さんらしい女性といた。そこから少し離れた竹やぶの陰に加奈子がいた。からっとした空気の気持のいい夜だった。あいにく月は出ていなかった。城山に向かい、いつもの石段を上がって、一番上で腰をおろした。「勉強はかどっている?」「全然。それどころでじゃなくなりかけている。大学へ行けるかどうか怪しくなってきた。工場がつぶれるかもしれない」「この街が嫌いなのね」「嫌いだ」あたしもよ。「大嫌い」「どこに行くか当てはあるの?」「前は神戸に行こうと思っていた」叔父の一人が芦屋に住んでいた。大学の第一志望を旧神戸高商、いまの神戸大学にしていたのはそのせいだ。「わたしも行こうかな」「さっきお宮で殿村を見かけた。奥さんらしい女の人と一緒だった。あいつとつきあっているという噂はほんとか」「気になるの?」

工場はついに差し押さえられる。啓介が外に出て,町中を歩いていると、そこに殿村の妻が血相を変えて、加奈子の母親のやっている飲み屋に飛びこんだ。「このメス猫が、メス猫がが」というきしむようなわめき声が漏れてきた。頭を手でかばった女性がなかから転がりでてきた。加奈子だった。加奈子が顔を上げて、啓介であることに気づいた。彼女は顔をゆがめて激しく狼狽し、両腕で胸を抱えてうずくまった。ワンピースが引きちぎられ、そこから乳房がのぞいていた。日が暮れてきた。明かりがともり、目の前が滲んできて、色彩が少しずつ消え始めた.鰯雲がでていた。柿が色づきかけている。さっきまで飛び回っていた秋あかねが姿を消し、代わって蝙蝠が飛び始めた。

加奈子はそれから学校へでてこなかった。殿村のほうは謹慎処分になって自宅待機を命じられた。
「この一週間毎日ここに来て、君を待っていた。はじめは懐中電灯を持ってきて、その光で参考書を広げていた」加奈子が真顔になって聞いていた。加奈子は時計をみた。「いかなきゃいけないところがあるの。そろそろ下りなきゃ」「どこに行くんだ」加奈子は駅の方を指差した.

ぱらぱらとしか人影を見なかった。駅の待合室は空っぽで、駅前広場のバス停には灯りのついていないバスが一台停まっているきりだった。「もういいから帰ってよ」浜崎と書かれた行き先表示灯に赤ランプがともった。車内の灯りがともった。こちらを見ていた男の顔がはっきり見えた。英語教師の殿村だった。
「なにを考えているんだ。行くんじゃない。残るんだ。加奈子。やり直そう。ぼくと一緒にやり直そうよ。一緒にこの街を出て行くんだ.君の面倒をみてやれるやつはぼくしかいない」加奈子が涙をぼろぼろこぼしながらうなずいた。目をしばたき、顔をくしゃくしゃにして、溢れでる涙を手で拭った」うなずいてみせた。加奈子はありがとうと言っていた。バスのドアが閉まり、運転手がギアを入れた。つぎの瞬間、加奈子は身を翻すとバスめがけて駆け出した。加奈子がガラス窓に顔をおしつけて啓介を見ていた。バスが彼の前をさしかかると突然加奈子はイーツ!という顔をしてみせた。さびしくて、かなしくて、うれしくて、せつなくて、くやしくて、加奈子は涙を流しつづけていた。バスは加奈子を乗せて走り去った.波が引くような音を残してすべてのものが啓介の前から走り去った.

このラストのシーンもうまい。高校3年生の男の純情でいとしいくらい切ない感情とその年頃の女性の背伸びした、しかし大人になりきっていない感情がうまく表現されていて、青春時代のときめきと、言い表せない切なさと、さらに現実の厳しさを扱った小説として秀逸。

クリスマスイブのあなたに

2008年12月24日 11:50


愛の形 (2)

江國香織作「冷静と情熱の間Rosso」と辻仁成作「冷静と情熱の間Blu」

この作品は江國香織が女性「あおい」の立場で書き、辻仁成が男性の「順正」の立場で書いてRossoとBluの2冊にまとめられた。全く独立した形であおい自身の日常と10年前の出来事への追慕の情が書かれ、順正の日常と過去の消しがたい悔恨の情が書かれる。
「あおい」はミラノ育ちの日本人で現在はミラノにアメリカ人のボーイフレンド「マーブ」と一緒に静かで満ち足りた生活を送っている。週に3日はジュエリーショップで働き、あとは図書館がよいをして過ごす日常だ。ミラノの夏。ケプレロ通りの泰山木が咲いた。この花が咲くと夏がきたと思う、と昔母が言っていた。泰山木の花は白くて大きく、甘く強い匂いがするけど、肉厚の葉っぱがあまりにびっしり繁っていて、その茂みに隠れてしまうので、下をとっていても気づかないひとが多い。
ある日日本人学校の同級生の崇が訪ねてくる。話は順正の話になる。何があったの?あんなに仲が良かったのに、なにがあったの?
阿形順正は、私の人生のなかの、決して消えないとんでもないなにかだ。彼との間の出来事は、遠い昔の学生時代の恋などではない。私は大学のそばのアパートに住んでいて、アパートと言っても木造の一軒家。順正は梅が丘のアパートに住んでいて、お互いのアパートでたのしくてめまぐるしく、あらゆる感情が凝縮された濃密な時間をすごしたかわからない。20歳だった。私たちは大学の裏庭にいて、――約束をしてくれる?あの時私は、普段に似ず勇気をかき集めて言った。私にしてみれば、生まれてはじめての愛の告白だったから。フィレンチェのドーオモにのぼるなら、どうしてもこのひととのぼりたい。そう思ったのだった。順正はいかにも順正らしい屈託のなさで約束してくれた。いいよ。2000年の5月か。もう21世紀だね。

ほんとうに来てしまった。階段の先に小さな青空がみえる。空だけを描く画家になりたい。順正は昔、そんなことを言った。いい風。私は風に顔を突き出す様にしてそれを味わった。フィレンチェのドーオモの頂上を吹いていく風。壁にそってゆっくり歩く。赤茶色の屋根屋根の向こう、はるか遠くには緩やかな丘陵が見える。わたしの目は一点にすいよせられた。その人は、片膝をたててすわっていた。しばらく立ったまま、私は順正を見ていた。小柄な姿勢のいい、10年の歳月を経てもまるで変わっていない様にみえる、なつかしい順正を。
順正」会いたくて会いたくてたまらなかった、と、告白しているような苦しい声で、その人の名前を口にした。ふりむいた順正の、記憶よりも削げた頬。息がとまるかと思った。フィレンチェの街を見下ろすドーオモのてっぺんで、やわらかな、夕陽の光の中で。

嵐のような3日間であった。嵐のような、そして光の洪水のような。30歳の誕生日おめでとう。来るとは思っていなかったよ。もうあんな約束忘れてしまっていると思っていた。幸せにいきていると聞いていたから、絶対こないと思っていた。幸せに?よくわからなかった。もう忘れてしまっていた。「マーブ」も、ミラノも、物語の中のように遠い。順正と私は、ドーオモの狭い階段を一緒に降りた。順正はフィレンチェの街にくわしかった。 「住んでいたんだ」そんなことを言って、私を驚かせた。順正がフィレンチェに住んでいた。ミラノから目と鼻の先の、歴史におきざりにされたようなこの小さな町に。
川沿いの並木道に、街灯の明かりがつき始めていた。私は目の前にいる男性を、完璧な信頼を持って眺めた。その豊かでやわらかな黒い髪や、おどろきや喜びの一つ一つに敏感に反応する瞳、時々照れくさそうな微笑みを浮かべる色の薄い唇、育ちの良さをうかがわせる首すじ。知ってる。その一つ一つをかって私は愛したし、いまもまた依然として、こんなに愛してる。「あおい」の今の生活の話をして。私は小さく息をすい、息を吐いた。身体をよじって順正の顔をみた。哀しそうな顔を。ジュエリー店で働いていること。そこで「マーブ」と出会ったこと。一緒に暮らし始めたこと。マーブと別れたことは言えなかった。「幸せなんだね」

列車が中央駅のホームにすべりこんだ。夕方だ。うす曇りの鈍色の。順正はひきとめなかったし、私もまた、ひきとめてほしいとは言えなかった。ちょっぴり気まずい思いをしながら現実の住むミラノへと帰っていく。

「順正」の場合
この街はいつだって光が降り注いでいる。ここにきてから、ぼくは一日たりと空を見上げなかった日はない。青空はどこまでも高く、しかも水で薄めた絵の具で描いたように涼しく透き通っている。霞のような雲はまるで塗り残した画用紙の白い部分みたいにその空の中を控えめに漂い、風や光と戯れるのを喜んでいる。順正はフィレンチェで絵画の修復の技術を勉強し、「芽実」と暮らしている。「芽実」は「あおい」とはなにもかもが正反対。痩せているのに、頬がふっくらしているあおいとは好対照に、芽実の肉感的な身体つきは彼女の血の問題に由来して、こちらを恥ずかしくさせるくらい隙がなく情熱的。

あの時最初二人は、かって幼少の頃「あおい」が暮らしていたこのミラノのことを話していたのだった。その日あおいはめずらしく情熱的に語り続け、彼女の方からあの約束を口にした。私の30歳の誕生日に、フィレンチェのドーオモのね、クーボラの上で待ち合わせするの。どお? 30歳か。あと十年も先のことだ。
フィレンチェの工房が閉鎖され東京に戻ることになる。10月のある日、母校成城大学へ足を延ばすことにした。小田急線に乗って、成城学園前で降りた。駅は当時のままだった。改札を出た途端、記憶が一気に甦った。自然に体は動き出していた。「あおい」と時々待ち合わせたビルの2階の喫茶店はもうなくなっていた。記憶に或る花屋やブテイックやケーキ屋を見つけるたびに、胸に込み上げてくる仄かな熱で目元が緩んだ。ここをぼくたちは片寄せ合って歩いたのだった。あの頃の二人の面影がそこら中に溢れている。校門を入ると、記憶が一層激しく感情を揺さぶってきた。何もかも6年前のままだった。思い出がそこら中に残っていた。歩くたびに胸が熱くなった。季節は同じく秋だった。落ち葉を踏みしめてぼくは坂道を駆けた。振り返る「あおい」の顔に満面の笑みが溢れていた。

時は流れる。そして思い出は走る汽車の窓から投げ捨てられた荷物さながら置き去りにされる。時は流れる。つい昨日のことのような出来事が、或る時、ある瞬間に、手の届かないほど昔の出来事として記憶の靄の彼方に葬り去られることがある。時は流れる。人は不意に記憶の源に戻りたいとなみだぐむことがある。1999年初春。長い冬が終わって、日差しにも温もりの片鱗が宿り、風は冷たいながらも清々しく、新しい季節の到来を伝えていた。また春が来た。ぼくは羽根木公園の梅が薄紅色に咲き誇り、青空と地面の間を水彩の具で線を引いたように淡くにじませているのを見上げながらため息まじりに口腔で呟いてみた。ぼくの側に「芽実」がいたし、ぼくもまだ無職だったし、それにぼくは過去に引っ張り回され相変わらず「あおい」のことを忘れられずにいた。
ねえ、「あおい」って誰なの。その人のことが今でも忘れられないの?順正とその人の間に何があったの。ぼくと「あおい」の子供を返せと叫んでいたけど。二人の間に子供がいたの?ああ、ほんの一瞬だけど、いた。でももう居ない。流産だった。
今も「あおい」さんのことが忘れられないんでしょう。「芽実」の声は闇の中で震えていた。忘れられないと言いかけて口を噤んだ。もう二度と愛し合うことはない。それでいいじゃないか。「芽実」は出て行った。ドアが再び閉じられ、室内は暗くなった。

空が白みだすと、窓を開け、外の空気を吸ってみた。鼻孔の奥がつんと澄み、肺に朝の空気が染み渡る。西暦2000年の5月25日だった。着替えると、日の出を待たずに外に出た。息をひそめて夜明けを待った。空が明け始めると、鳩の群れが大円蓋のさらに上空を飛び去った。八時半、大聖堂の扉が開き、ぼくは中に入った。頂上にはまだ誰ものぼっていなかった。ぼくはクーポラの真裏に腰を下ろした。待っている時間の長さは、つまり悟るための長さだ。
次第に太陽が傾きはじめた。空があかくなりはじめていた。建物の屋根に光が反射している。「順正」声が耳元をかすめる。風の悪戯かと思った。しかし、耳はしっかりと懐かしい感触を覚えていた。振り返ると、そこに待ちこがれた人がいた。
しかし「あおい」は昔の「あおい」でなかった。「あおい」は、アメリカ人の恋人に愛され、これほど美しくなったのだった。「あおい」の肉体の変化や体臭の変化にぼくは気がついてしまった。そこには全くぼくというものが介在できない域が存在していた。二人はいったい何を抱きしめていたのだろう。ぼくが抱いていたのは8年前の「あおい」だった。「あおい」もきっと8年前のぼくを抱いていたはず。ふたりは過去と寝た。

ミラノまでの切符を買ったあおいが僕の手から鞄を受け取った。腕時計をみてあと「5分だわ、と告げた。行くね」わずか三日。たったの三日でこの八年が、修復ではなく、清算されてしまったのだった。
ぼくは改札の手前で彼女を見送った。新しい世紀。何を糧に生きていけばいいのだろうか。冷静が最後は勝った.
「あおい」もう一度心の中で彼女の名を呼んでみる。大切なのは現在。ぼくはまだ何も試していない。試さないで、彼女を一人彼女の現在へと送り返しては駄目だ。この八年を再び凍りつかせては駄目だ。ユーロスターで行けばまだ「あおい」の列車よりも早くつくことに気づく。ユーロスターに飛び乗る。新しい100年を生きようと誓いながら。

 男は過去をひきずりその情熱が8年という時間の流れと、別々の人生を歩んできたという重みに勝る。一方、女は過去の情熱は情熱として最後には、8年の重み、現実の生活という冷静さが勝る。男は常に夢想し、情熱を追いかけ、女はいつも現実的、冷静が最後は支配する。

坂の上の雲と松山(2)

2008年12月19日 17:00

松山探訪(2)

翌日は穏やかないい天気の日曜日、まだ人影がまばらな城趾公園を落ち葉を踏みながら散策する(写真4)。山の上に青空を背景に松山城が見える。公園の片隅にあった茶室でお茶をいただく。ロープウエイでお城に上る。お城からは松山の街が一望され、瀬戸内海も遠くに穏やかに光っていた。赤く染まった紅葉や桜の葉は陽の光を透過して鮮やかに光り、風にそよいでいた。蒼天に映える天守閣と太鼓櫓。日本独特の石垣や屋根の曲線(写真5)。
お城の中に入る。お城は火災で焼け落ち、昭和40年に入って、むかしのお城を復元したもの。全てが忠実に木造で復元されているせいもあって、お城の構造、天守閣の構造、屋根や壁の張り方などを解説した長い映画をみてよく仕組みがわかった。
讃岐うどんがこの際ぜひ食べたかったのだけど、どこを探しても伊予うどんと言われる柔らかいうどんしかなかった。隣どうしの県でこうも違うとは。近いとどうしても対抗意識がでるのであろうか?仕方なしに、伊予うどんの釜ゆでを頼んだら、その量たるや大量すぎて、食べるに手間取り時間がなくなる。前日の昼のうどんも今日のうどんも柔らかく、讃岐うどんへの思いは、ついに果たせなかった。無念。慌てて、タクシーで好古の墓地のある道後温泉に向かう。しかし運転者は好古の名前を知らず、なんていうことだ。やっと墓地にたどり着き慌ただしくお参りをし(写真6)、せっかく温泉にきたのに、道後温泉の前を素通りしてまた慌ただしく空港へ向かった。
往きの飛行機は天候が悪く、揺れて、気分の悪くなる人が続出したが、帰りは飛行機が揺れる事も無く、伊丹空港へと着陸し、無事今回の旅は終わった。
写真(1)城趾公園a-c; 写真(2)松山城a-d; 写真(3)道後温泉a-b; 写真(4)雲海 from I.

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坂の上の雲と松山

2008年12月15日 19:55

松山探訪(1)
ある初冬の土曜日「坂の上の雲」愛好会メンバー6人で、Tuka君の送別会をかね、松山を訪れた。来年NHKドラマで「坂の上の雲」が放映されるとあって、松山にある坂の上の雲ミュージアムが混むこと必須であるとの懸念から、今年中に行こうとの愛好会メンバーの念願がやっとかなっての旅行であった。
伊丹空港からプロペラ機に乗って1時間ちょっとの旅。プロペラ機は低空を飛ぶので、瀬戸内海の島々がこれぞまさに箱庭のように眺望された。広がる雲海の途切れから、瀬戸内海の穏やかなきらめく海が見下ろせ、その中に島なみがが点在する様は絵画そのものであった。

 淡い冬の日差しに映えて舞う銀杏の葉は黄金色に染められ(写真1)、松山の街は静かなたたずまいの中ひっそりとしていた。正岡子規上京までの住居を保存して作られた子規堂には子規の勉強した机や遺品が狭い部屋の中に盛りだくさん陳列してあった(写真2)。子規は「坂の上の雲」の前半における主要な登場人物で、秋山真之と親交があった文筆家。ホトトギスを主宰し、それまでの写実的な俳句から脱皮すべく俳句革新を目指した。真之と子規との親交は明教館での小、中学を通して深められ、さらに松山市内で発行されていた文芸雑誌「風詠新誌」に二人とも和歌を投稿する間に意気投合した。子規のみならず後に日本海海戦の作戦参謀となる真之も文学少年であった。この片鱗が日露開戦劈頭に打った電文「天気晴朗なれども浪高し」にも現れてる。
二人して上京し東大予備門へ入るが、真之は経済的な理由や兄の好古が陸軍に入隊していたこともあって、19歳になって海軍兵学校へと入学する。このきっかけになったのはもう一人の松山出身の幼なじみの清水則遠が突然の病で急逝したことだった。真之は海軍士官学校入団の決意を子規に送った歌で述べている。「送りにし 君がこころを 身につけて  波しずかなる 守りとやせん」。子規はその返歌として「海神も 恐るる君が 船路には  灘の波風 しづかなるらん」と真之の行く末の平穏を祈っている。この歌を境に、二人の道は大きく分かれていくことになる。

にわかに雨が降り出すなかを、慌ただしく秋山兄弟の育った生家を復元した記念館へと入った(写真3)。秋山真之、好古の銅像が建つ庭。特に感銘したのは兄弟をよく知る親族の方が普段の兄弟を語られたビデオをみて、真之は寝ても覚めてもいつも国家のことばかり考えていたと言われたこと。真之は辞世の句「不生不滅 明けて鴉の 三羽かな」を詠み51歳で永眠。
この3羽とは子規と志し半ばでなくなった親友の清水則遠のことであろうと考えられている。一方、好古は近衛師団長、朝鮮駐剳軍司令官、教育総監を務めた後退役し、松山の中学校の校長に就任して若者の教育にあたり、71歳で世を去る。雨の中を慌ただしく撮ったため、確認を怠り、残念ながら真之の銅像の写真はぼけてしまっていた。好古の像は威風堂々と撮れた。
秋山真之、好古兄弟個人の活躍については次の回に譲るとして、ここでは松山訪問と二人の由緒ある場所を訪ねての感想にとどめた。

その後、夕方慌ただしく「坂の上の雲ミュージアム」を訪れた。ミュージアムは4階建ての立派な円形の窓の大きい近代的ビルで、建築家・安藤忠雄氏による設計のもとに建てられ、各階はスロープで結ばれ、ゆったりと歩きながら鑑賞できる様になっている。
中でも秋山真之の海軍兵学校での成績表があり、2番と4点差での首席であったことなど興味深いものがあった。一方、資料は無いが兄の好古は陸軍士官学校をびりから2番で出たという。また日本海海戦の劈頭でのあの檄文「本日天気晴朗なれども浪高し」の原稿(残念ながらコピー)もある。一時間ほどかけてゆっくりと館内を見学し、ミュージアムを後にした。一番楽しみにしていたミュージアム訪問であったが、どちらかというと資料よりも坂の上の雲の読者からの絵や感想文が多くて、物足りない気もした。
松山探訪(2)に続く。
写真(1)銀杏と電車 a-c; 写真(2)子規堂 a-c; 写真(3)秋山兄弟生家 a-c

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山崎豊子作「不毛地帯」

2008年12月11日 15:08

陸軍参謀「瀬島龍三」と「不毛地帯」の壱岐正

瀬島龍三は大本営作戦参謀として太平洋戦争開戦以降の陸軍のほぼ全ての作戦の立案、指導にあたった。
陸軍士官学校を次席で卒業(1932年、首席は原四郎)。陸軍大学校は首席での卒業であった。太平洋戦争では作戦参謀としてマレー上陸作戦、ガダルカナル撤退作戦、ニューギニア作戦、インパール作戦、菊水作戦を担当した。
戦争末期の1945年7月1日から関東軍参謀となり、対ソ防衛戦を指揮する。8月15日に日本が降伏。東軍司令官の山田乙三や秦総参謀長と極東ソ連軍総司令官アレクサンドル、バシレフスキー元帥に停戦交渉に赴くも、捕虜となる。極東裁判においては、陸軍中将を最後に予備役に入り、終戦当時は大陸鉄道司令官であった草場辰巳と関東軍総参謀副長(陸軍少将)の松村知勝とともにソ連国の証人として出廷し、自分は満州国設立や対ソ連戦の指揮には携わっていないと証言する。草場辰巳は訴追側証人として出廷する前に自決した。
その後、瀬島はシベリアに11年の長きにわたって抑留、強制労働に従事させられ、生きた地獄を味わうこととなる。復員後、1958年伊藤忠商事に入社し、入社3年目で業務部長、翌年には取締役業務本部長、半年後に常務、さらに入社19年後に専務、副社長、副会長を経て会長になった。さらに中曽根康弘政権のブレーンとして活躍し、95歳の長き人生を全うし永眠。

 山崎豊子作「不毛地帯」では、瀬島がモデルの壱岐正は関東軍参謀として終戦を迎える。シベリア抑留を経て帰国し大阪に本社がある近畿商事(伊藤忠商事)の社長大門一三のたっての頼みで入社し、個人経営的な前近代的商社を日本の代表的な商社にするため、参謀としての能力を会社経営戦略に生かす。個人ではなく組織として動く会社をめざし、糸偏商社の名前を返上して、重化学工業に強い商社にするために力を発揮する。ライバルとして出てくる鮫島辰三(東京商事)は日商岩井の元副社長海部八郎がモデルとされる。海部は神戸大を卒業後日商に入社し、副社長にまで昇進した人物。特に航空機における商圏を確立し、航空自衛隊FX選定におけるF-4や、F-15採用では、いずれも、日商岩井がメーカー代理店となり、同航空機部は「海部軍団」と呼ばれ伊藤忠商事の瀬島機関と対比された。ダグラス・グラマン事件で外為法違反・偽証罪の容疑で逮捕され、副社長を辞任。小壱岐も本人の意思とは別に利権がらみの戦闘機の機種選定での防衛庁への戦闘機売り込みに関わるようになり、その過程で友人の航空自衛隊防衛部長・川又空将補を死に追いやることになる。その後当分の間アメリカ近畿商事の社長として勤務し、日本に帰ってきた後、副社長に昇格し、脱繊維を目指し、自動車の外資との連携や参謀時代にいやというほどその必要性を感じた石油の獲得をめざし、日本のエネルギー自立をはかるべく、石油採掘の事業を立ち上げる。
終盤では大門社長が独断でした綿糸取引が大損となり、老害が目立ち始めると、社長を辞めるように辞職を勧告する。一方、イランでの石油がやっと5本目の井戸を掘ったところから噴出し、周囲から次期社長の声が出る中を大門社長とともに会社を辞す。一人シベリアに散った同僚たちの慰霊を慰めるべくシベリアに出立する飛行機の中で昔を回想するシーンで小説は終わる。

しかし現実の人物は会長にまで上り詰め、国家の要職にもつき95歳という長寿を生きている。生涯、多くの人々を死に追いやった作戦を立案し、指導した事への反省の弁は生涯聞かれなかった。私は戦争初期、中期のころの作戦については失敗に終わったものもある程度仕方ないと思っているが、終盤に至って菊水(楠木正成の旗印)作戦などの無謀とも言える特攻作戦をも立案した責任は大きいと言わざるを得ない。その結果海軍では2,045名、陸軍では1,022名が特攻により戦死した。菊水作戦を指揮した宇垣纏中将は、終戦の玉音放送を聴いた後に、艦上爆撃機「彗星」で出撃して「最後の特攻」を行い、沖縄諸島方面で戦死した。

陸軍は代々陸軍大学を優等で卒業した軍刀組が組織の中枢を占め、卒業席次で出世がきまるという慣行があった。陸軍大学のごく一部の究極の学校秀才たちの独善によって戦争が遂行されたことに日本の不幸がある。一方の海軍では席次はそれほど重視されなかった。しかし陸軍秀才組の多くは人間的に冷酷だとか、残虐だとかいうことはなく、ある面「不毛地帯」の壱岐正のような合理的で折り目正しい素顔を持っていた。戦後になって、このような学校秀才万能システムが今度は官僚機構に持ち込まれ、大蔵省、財務省のごくわずかなエリートたちの支配する官僚となった。しかも、これらの組織の秀才たちは誰一人として、自ら立案した計画が失敗しても責任を取ろうとはしないことも同じである。しかし官僚機構もいまでは破綻しつつある事は皆さんご承知の通り。

開発コンセプトと戦略のギャップ

2008年12月04日 16:52

戦力と戦略

 以前から不思議に思っていたことだが、第2次世界大戦のヨーロッパ戦線において、なぜあれ程破竹の勢いで攻め、たちまちフランスを占領し、英国軍をダンケルクから追い落としたドイツ軍がその勢いに乗って英国に攻め込めなかったのか? 結局は英国の制空権の獲得ができなかったことにその敗因があるという。
ヨーロッパはほとんどが陸つづきで、お互いに国境を接している。そのため地上戦をおこなう戦車と航空兵力が勝敗を決めることになった。一方太平洋戦争では主に海上がその戦闘域となり、大きな勝敗は空母および航空兵力の優劣で勝敗が決まった。狭い領域で戦うヨーロッパでは航続飛行距離の短い航空機でよく、一方の太平洋域では航続距離の長い飛行機が必要とされた。

ではなぜドイツ軍は英国との空中戦に負けたのか?
詳しく主な戦闘機の性能を比較してみる。ドイツ空軍 「Luftwaffe, ルフトバッフェ」の主力はメッサーシュミット教授の設計によるあの名機、メッサーシュミットBf109。一方英国空軍 「Royal Air Force, RAF」の主力はスピットファイヤー。参考のために上げると日本の主力機は三菱重工社製の日本が誇るゼロ式戦闘機。

ルフトバッフェの主力戦闘機メッサーシュミットBf109は 3.1万機製造され、補助戦闘機フォッケウルフFw190は 2.2万機製造されたのに対し、RAFの主力戦闘機スッピットファイヤーMk2は3万機でハリケーン1が3万機の製造。日本の場合海軍の零戦が1.1 万機で陸軍の一式戦「隼」が6,000機というお粗末さ。ルフトバッフェは単座戦闘機をほとんどメッサーシュミット一種に絞っていたが、英国は3種の戦闘機を持っていた。更にルフトバッフェは機甲部隊と戦術空軍とによる電撃戦を得意とし西ヨーロッパの国々を圧倒していく。しかし、1940年の初夏にドーバー海峡を隔てた大英帝国に触手を伸ばした頃からメッサーシュミットの栄光に影がさし始める。
      全長(m) 全幅(m)  翼面積  総重量(トン) 出力(馬力)
Bf109E   8.64    9.9    16.2     2.5      1100
スピット2   9.12    11.2    22.5     3.1     1200
零戦21    9.2     12.0    22.4     2.41     940

Bf109は単座戦闘機の中でもかなり小さく、零戦は大きさの割に軽く、代わりに馬力が弱い。メッサーシュミットはヒットエンドラン戦術重視型、零戦はドッグファイト戦術重視型でその中間がスピットファイヤーといえる。
更に性能の比較を見ると最大速度はBf109Eが570km/hに対し、スピット2が580km/hで零戦が540km/hとほぼ同格で遜色ない。他の性能も大差ない。このような戦力でルフトバッフェと英国空軍(RAF)の死闘が始まる。英国はまさに後のない戦いであった。4ヶ月に及ぶ死闘はBattle of Britainと呼ばれる。

ルフトバッフェは単発戦闘機Bf109が 800機、双発戦闘機BF111が250機、急降下爆撃機ユンカース87が260機と双発爆撃機He111などが1,000機をもって攻めたてた。
迎え撃つRAFはスピットファイヤーが370機とホーカーハリケーンが 710機である。戦力からみれば圧倒的にルフトバッフェが有利であった。特に主力戦闘機においてBf109が800機に対しSpit2が370機と決定的な差があり、誰しもが戦前に予想すればルフトバッフェの圧勝の予想パターンであった(三野正洋著 ドイツ軍の小失敗の研究より)。

 しかし英国は圧倒的に不利な航空兵力を補うため、開発したばかりのレーダーを最大限に活用した。一方のドイツ軍はレーダーをあまり重要視していなかった。またドイツ軍は目標が散漫であった。Londonを叩きたいのか?工場を叩きたいのか?レーダーサイトを叩きたいのか? 英国戦闘機を殲滅したいのか?もしドイツ空軍の司令官がまず英国戦闘機を殲滅し、その後後顧の憂い無く様々な爆撃目標を叩くという戦略をもっていたらどうなったであろうか?多分ドイツ空軍圧勝であったであろう。空軍元帥“ふとっちょ”ゲーリングには能がなく、自分の既得権益を守ることに汲々としすぎ、的確な戦略目標を示せなかった。ゲーリングはRuftwaffe産みの親で、ドイツ空軍創設には多大な貢献をしたが、実践向きではなかった。そこにドイツの不幸がある。

 すでにドイツはフランスを占領していたので、ドーバー海峡沿岸の基地を利用できた。攻撃目標のLondonまではわずか160km.どう考えてもドイツ空軍の圧勝間違いなく思われた。しかし主力戦闘機メッサーシュミットの航続距離は700 km。 ということはLondonに着くまでに燃料の1/3を消費することになり、London上空には30分しかいられない。スピットファイヤーの航続距離も大差ないが、英国上空で戦っているから、いつでも降りることができる。両者のドックファイトが始まると、あっという間に30分経ち、明らかにメッサーシュミットの航続距離の不足あるいは滞在時間の不足が目立ち始める。英国の迎撃戦闘機隊はすぐにこの事実に気づき、空中戦を引き延ばし始めた。Bf109は戦闘を打ち切って戦線を離脱する必要にかられ、逃げるとそれを追尾し海峡近くで撃墜されることや不時着が相次いだ。戦闘に強く身軽な戦闘機という設計のコンセプトが今度は決定的に弱点となってルフトバッフェに襲いかかった。
ドイツ空軍がこの弱点をはやく気づき改良していたらどうなったであろうか?

かくして英国への侵攻は完全に失敗に終わった。最終的にドイツ軍の損失は戦闘機、爆撃機が1733機で乗員3050名に対し、英国側の損失は915機で乗員600名という英国空軍(RAF)の圧勝で終わった。これを転機にドイツ軍の電撃的な作戦は影を潜め、ヒットラーは戦線をロシアに転換し、泥沼の勝利なき戦いへと突き進むことになる。
一方わが零戦の航続距離は、海を超えて攻撃する必要性を考慮して設計されたためか1880 kmとダントツに長く、米海軍のF4Fも1680 kmと長い航続距離の戦闘機を設計している。さらに零戦は補助タンクをつけ航続距離をのばしていた。ドイツ軍はこれを採用していない。

 いくら優れた兵器(航空機)でも使われる場とか供給力とかが考慮されていないと、その真価を発揮出来ない。少々能力で劣った航空機でも単純な構造で、部品の補給や生産量が多ければ、優秀な航空機を圧倒できる。ドイツはどちらかというと技術にこり過ぎ、戦略全体を見失ってしまった。日本の場合は精神力ばかりを重視し、人を粗末にしすぎた。確かに零戦は優秀な戦闘機であったが、戦闘能力ばかり考えたコンセプトで設計され、機体が軽く、敵の銃弾が隔壁を貫通しパイロットに致命傷をあたえることが多く、戦争が長引くと熟練したパイロットの不足に陥った。日米間の生産量の圧倒的な差はなんとも埋めがたい。更に決定的なのは米国や英国は大型爆撃機(特に四発の)を持っていて、軍需工場などを叩くことができた。ドイツや日本は戦略的空軍というようなコンセプトがなく、大型長距離爆撃機(双発爆撃機は存在したが)を持たなかった。米国空軍がB29などの大型戦略爆撃機で日本の工業地帯や都市に対し絨毯爆撃を行い、徹底的に破壊尽くし、戦意を削いだことは有名である。B29などの戦略大型爆撃機はエンジンに排気タービン(ターボチャージャー)を装備し、空気の薄い高度でも濃縮された空気をエンジンに供給できた。日本は撃ち落とした機体を調べ、排気タービンをコピーしたけれど、タービンの羽に必要とされる高度の合金、冶金技術が伴わず、結局完成することはできなかった。太平洋戦争における航空兵力、海軍力についてはべつの機会に述べるとする。

長期戦においては結局総合的な戦略というものが最後には効いてくる。 bestと思われる戦闘機(兵器)(製品)での戦いが常に勝つ訳ではない。これらの歴史の失敗は大きな戦略にのっとったコンセプトよる航空機(兵器)(製品)開発の必要性を教えてくれる。

中山鹿之介

2008年12月01日 18:15

尼子一族と中山鹿之介

尼子一族の運命。毛利と中国地方の覇を争って、敗れ没落して行く尼子家に忠誠を尽くし自らも滅んで行った中山鹿之介。尼子家再興のため、圧倒的な大軍の毛利軍に対峙する悲壮感と絶望感。信長の政争の駆け引きに翻弄されていく姿。幼少の頃、このような読み物に涙し、義憤し、その生き様に感動した。
鹿之介は自ら命を断つことはせず、逃げて、逃げて、逃げのびて、艱難辛苦を排し幾度でも立ち上がり、尼子家再興を目指した。またいつも「我に七難八苦を与え給え」と祈り、身を挺して獅子奮迅の働きをするも、果せず惨死。享年34歳。その生き様の清冽潔癖さは人の心を打つ。

尼子家は宗家京極氏が守護を務める出雲の守護代として月山富田城(安来市広瀬)に拠り、出雲と隠岐の守護代を務めて雲伯の国人を掌握し、次第に実力を蓄え、中国地方で大内氏と対等な勢力図を築いた。
しかし大内氏を滅ぼした安芸国の戦国大名毛利元就の石見東部への侵攻を受けるようになり、その応戦中に尼子晴久が月山富田城にて急死。晴久の急死という最悪な事態を引きずったまま、晴久の子義久は毛利氏の攻勢に耐えきれず、1566年に月山富田城を包囲する毛利氏に降り、戦国大名尼子氏は滅亡した。
 立原久綱や山中鹿之介らは、義久、倫久、秀久の尼子三兄弟を杵築まで見送ることが許され、そこで主従決別の盃を交した。これが主君義久と尼子家臣らとの永訣であった。鹿之助らは望みを将来にかけて故国出雲をあとにした。

山中鹿之助(鹿助)
山中鹿之助は眉目秀麗で堂々たる体躯の若者であったらしい。戦場では三日月の兜をかぶり、獅子奮迅の働きをしてその勇壮ぶりが轟いていたという。
しかし、お家断絶後、鹿之助の人生は、ひたすら「尼子家の再興」に費やされることになる。

山中鹿之助らは1569年に京都で出家していた尼子一族の孫四郎を還俗させ、勝久と名乗らせた。
そして、その勝久の元に主家再興の兵を挙げた。
但馬から海路で隠岐を経て出雲に上陸するや、鹿之助はすかさず各地に檄を飛ばし、
短期間の間に6,000もの兵を集め、新山城を拠点にし、かつての本拠・月山富田城を狙う。尼子軍は新山城に本営を移し、故城の富田城を攻撃したが奪回できず、明けて1570年、2月、迫り来る毛利軍25,000を7,100の兵をもって月山の近くの布部山(要害山)に迎え撃った。しかし、毛利の大軍の前に大敗し、尼子十勇士の一人横道兵庫助を失った。ついで、山中鹿介につぐ十勇士の大立物、秋上庵介が毛利に降り、さらに佐太の勝間城の戦に勝久の側近、三刀屋蔵人や十勇士に名をつらねる上田早苗介が討死した。尼子方高瀬城主米原綱寛は毛利方に城を明け渡し、尼子の本陣新山城に退去した。鹿之助自身も伯耆末石城に居たところを攻囲され、降伏してしまう。
これによって鹿之助はかろうじて一命は助けられるも、尾高城(現米子市)に幽閉され,再興第1戦は終わる。

尼子牢人が京都に走ったころ、鹿之助も脱獄して京へとのぼる。その頃、戦国の舞台は織田信長によって回転の速度を早めようとしていた。鹿之助らは信長の援助を得て因幡国に進出し、再興第2戦を企図する。しかし、因幡から伯耆、そして出雲奪回への計画はもろくも崩れ、またも京都に舞い戻った。

 尼子再興の第3回戦の舞台は山陰から山陽に移され、播州上月城が主戦場となる。すなわち、信長の先陣で中国征伐の総帥羽柴秀吉と、毛利の総帥毛利輝元を補佐する吉川元春・小早川隆景との対決である。 毛利方の赤松氏が籠る上月城は秀吉軍によって落とされ、代わって尼子勝久・山中鹿之助らが羽柴軍の最前線を担い上月城に入った。毛利軍は山陰山陽の両道より三万の軍勢を以って、1578年、上月城を包囲した。秀吉は急ぎ救援の為、高倉山に陣を進めたが、信長の指示により三木城攻略を優先し、尼子主従は見捨てられた。上月城は孤立し遂に勝久は毛利氏に降伏、開城自刃し尼子氏は滅亡した。ここに出雲尼子氏は完全に滅亡したのである。上月城はJR姫新線「上月」駅又は中国自動車道の「佐用」で降り、神戸より車、電車で2時間の場所。
こんな小さな山城を3万の毛利軍が十重二十重と囲ったとはまさに強者どもが夢の跡。
 一方、鹿之助は降人となり捉えられて、西へ送られる途中、備中松山城のふもと、高梁川と成羽川の合流点にあたる合の渡において謀殺された。鹿之助は、忠誠を貫いた一生を終えた。34歳
しかし、山中鹿之助の遺児で次男である新六は後に鴻池と名乗り、豪商、鴻池家がここにはじまる。
歴史の第一幕が終わり、第2幕の歴史がここに始まる。



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