2012年07月27日 17:37
方丈記
だれしも一度は鴨長明の書いた無常感、厭世感漂う名文の方丈記の最初の出しを読んだ事があるであろう。しかし方丈記を最後まで読んだという人は非常に稀だと思う。最近「自由訳方丈記」という本(新井満著)が出版されたので、読んでみた。
鴨長明が生きていたのは丁度,平家が興り、滅んで行く時代に重なり,加えて未曾有の大災害の打ち続く時代であったらしい。
現在にあっても、大地震、大津波や原発事故に続いて、竜巻や大洪水が起こり、自然の脅威に打ちのめされているところに政情不安もあって日本の将来に暗い影を落としている。現在と鴨長明の時代は大災害に痛めつけられ、閉塞感の漂う似た時代であった。鴨長明はそのように暗い陰鬱な時代を過ごし、かの有名な方丈記を書いた。方丈記は当時実際に起こった数々の大災害を記録した書でもある。
鴨長明が出家したのは、49歳の年、下鴨神社の神官になる一歩手前の河合神社の禰宜に後鳥羽院の推薦があったにもかかわらず、一族の鴨祐兼の反対にあってなれなかった、現在にもある出世競争に敗れたためであるとも、打ち続く災害や浮き世の人間関係の煩わしさが嫌になってともいわれる。4年間大原に住んだ後、日野の山中に「方丈」の庵(一丈四方(方丈)、5畳程度)を建てて暮し始め、方丈記を執筆し、62歳で没した。
世の無常、儚さを歌った書として平家物語と双璧をなす方丈記の有名な冒頭の一小節は
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と、栖とまたかくのごとし。
たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き、いやしき、人の住ひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ねれば、昔ありし家は稀なり。或は去年焼けて、今年作れり。或は大家亡びて小家となる。住む人もこれに同じ。所も変らず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。朝に死に、夕に生るるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。
知らず、生れ死ぬる人、何方より来たりて、何方へか去る。また知らず、仮の宿り、誰が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その主と栖と、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。或は露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。或は花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕を待つ事なし」。
常なるものは何もなく、変わらぬものなど何もない。と無常感溢れた文章だが、このような心になったのは、出世競争に敗れただけではなく、大火事、竜巻や飢饉、大地震などの災害が次から次に起こり、明日の我が身も知れないという現実があったことが大きく影響しているのではないかと思われる。方丈記の中に出てくる災害を書き連ねてみた。
大火事
方丈記によると安元の大火事(1177年)が起こり、都の東南から出た火事は、西北の方向に燃え広がり、朱雀門,大極殿、大学寮や民部省までが焼け落ち、平安京の3分の1が焼けたという。
鴨長明曰く「人間どもは愚かな事に、火災の危険が満ちている事も知りながら、性懲りも無く同じ場所に新しい家を造ろうとして、同じ過ちをくりかえそうとする」。
大竜巻
治承4年(1180年)治承の大竜巻が京の街を襲う。平安京の東北、中御門京極あたりから、大きな竜巻が起こり,六条大路のあたりまで吹き荒れた。例を見ない竜巻、未曾有の竜巻に襲われ、都の人々は不吉な予感にかられた。
福原遷都
大竜巻から2ヶ月後突然の遷都が行なわれた。遷都によって、京の都はみるみる荒廃して行った。しかし遷都先の福原の地はあまりにも狭く、市街の区画を満足に得る事もできず、不満が募った。そして何もかもが中途半端なまま、半年後にはまた平安京に戻ってしまった。平安京に戻ったところで昔住んでいた家屋敷は壊してしまった後だから、後の祭りである。
長明曰く「昔の優れた天子達は民衆を慈しあわれみ,世を救おうというのに今の時代の政治が如何に貧しくて情けないことか」
大飢饉
平安京に都を戻した翌年(1181年)養和の大飢饉が起こりその飢饉は2年続いた。春と夏には日照りが続き、秋と冬には大風が吹いた。洪水もおきた。作物は全く実らず、京の街路のそこここに餓死した無数の死体が転がっている。
大地震
養和の飢饉からさほど経たない頃、今度は凄まじい地震(マグニチュード7.4)が起きた。元暦の大地震(1185年)で、山は崩れ、河川をせき止め、津波が押し寄せて来た。平安京は多くの寺院や神社が建ち並んでいるが、ことごとく崩壊した。激しい揺れは間もなく収まったが、余震が3か月も続き生きた心地がしなかった。
地震の直後こそ平安京の人々はこの世が無常であること、儚い事を思い知らされ、煩悩もいくらか薄れたかのように思われたが、人の心は歳月が過ぎるとともに、もとに戻ってしまった。
平清盛が太政大臣になったのが1167年でそれから10年後、1177年に大火事があり,これを境に次々に大災害が起こり、あれよあれよと言う間に平家は滅んでしまう。1180年には竜巻が起こり、その年に福原遷都し、また京都に戻り、その年に平清盛が亡くなる。1181年と1182年に養和の大飢饉が起こる。その翌年の1183年には平家は都落ちし、源義仲入京。1185年には壇ノ浦の合戦で平家は完全に滅亡する。
平家が治めていた時代、未曾有の天変地異が続き、人心が乱れに乱れていたことも、平家の滅亡を速めた。
翻って現在を見てみると、妙に方丈記の時代と相通じるところがある。想定外の地震,津波、竜巻、洪水という大災害が打ち続き、それに追い打ちをかけて原発事故という人災、更には政治が全く当てにならない。
このような大混乱の時代、昔は源氏が台頭し、平家に取って代わったように、リーダーシップをとって舵取りをするカリスマが現れるものであるが、それは橋下さん or 石原さん それともだれ?
だれしも一度は鴨長明の書いた無常感、厭世感漂う名文の方丈記の最初の出しを読んだ事があるであろう。しかし方丈記を最後まで読んだという人は非常に稀だと思う。最近「自由訳方丈記」という本(新井満著)が出版されたので、読んでみた。
鴨長明が生きていたのは丁度,平家が興り、滅んで行く時代に重なり,加えて未曾有の大災害の打ち続く時代であったらしい。
現在にあっても、大地震、大津波や原発事故に続いて、竜巻や大洪水が起こり、自然の脅威に打ちのめされているところに政情不安もあって日本の将来に暗い影を落としている。現在と鴨長明の時代は大災害に痛めつけられ、閉塞感の漂う似た時代であった。鴨長明はそのように暗い陰鬱な時代を過ごし、かの有名な方丈記を書いた。方丈記は当時実際に起こった数々の大災害を記録した書でもある。
鴨長明が出家したのは、49歳の年、下鴨神社の神官になる一歩手前の河合神社の禰宜に後鳥羽院の推薦があったにもかかわらず、一族の鴨祐兼の反対にあってなれなかった、現在にもある出世競争に敗れたためであるとも、打ち続く災害や浮き世の人間関係の煩わしさが嫌になってともいわれる。4年間大原に住んだ後、日野の山中に「方丈」の庵(一丈四方(方丈)、5畳程度)を建てて暮し始め、方丈記を執筆し、62歳で没した。
世の無常、儚さを歌った書として平家物語と双璧をなす方丈記の有名な冒頭の一小節は
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と、栖とまたかくのごとし。
たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き、いやしき、人の住ひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ねれば、昔ありし家は稀なり。或は去年焼けて、今年作れり。或は大家亡びて小家となる。住む人もこれに同じ。所も変らず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。朝に死に、夕に生るるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。
知らず、生れ死ぬる人、何方より来たりて、何方へか去る。また知らず、仮の宿り、誰が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その主と栖と、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。或は露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。或は花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕を待つ事なし」。
常なるものは何もなく、変わらぬものなど何もない。と無常感溢れた文章だが、このような心になったのは、出世競争に敗れただけではなく、大火事、竜巻や飢饉、大地震などの災害が次から次に起こり、明日の我が身も知れないという現実があったことが大きく影響しているのではないかと思われる。方丈記の中に出てくる災害を書き連ねてみた。
大火事
方丈記によると安元の大火事(1177年)が起こり、都の東南から出た火事は、西北の方向に燃え広がり、朱雀門,大極殿、大学寮や民部省までが焼け落ち、平安京の3分の1が焼けたという。
鴨長明曰く「人間どもは愚かな事に、火災の危険が満ちている事も知りながら、性懲りも無く同じ場所に新しい家を造ろうとして、同じ過ちをくりかえそうとする」。
大竜巻
治承4年(1180年)治承の大竜巻が京の街を襲う。平安京の東北、中御門京極あたりから、大きな竜巻が起こり,六条大路のあたりまで吹き荒れた。例を見ない竜巻、未曾有の竜巻に襲われ、都の人々は不吉な予感にかられた。
福原遷都
大竜巻から2ヶ月後突然の遷都が行なわれた。遷都によって、京の都はみるみる荒廃して行った。しかし遷都先の福原の地はあまりにも狭く、市街の区画を満足に得る事もできず、不満が募った。そして何もかもが中途半端なまま、半年後にはまた平安京に戻ってしまった。平安京に戻ったところで昔住んでいた家屋敷は壊してしまった後だから、後の祭りである。
長明曰く「昔の優れた天子達は民衆を慈しあわれみ,世を救おうというのに今の時代の政治が如何に貧しくて情けないことか」
大飢饉
平安京に都を戻した翌年(1181年)養和の大飢饉が起こりその飢饉は2年続いた。春と夏には日照りが続き、秋と冬には大風が吹いた。洪水もおきた。作物は全く実らず、京の街路のそこここに餓死した無数の死体が転がっている。
大地震
養和の飢饉からさほど経たない頃、今度は凄まじい地震(マグニチュード7.4)が起きた。元暦の大地震(1185年)で、山は崩れ、河川をせき止め、津波が押し寄せて来た。平安京は多くの寺院や神社が建ち並んでいるが、ことごとく崩壊した。激しい揺れは間もなく収まったが、余震が3か月も続き生きた心地がしなかった。
地震の直後こそ平安京の人々はこの世が無常であること、儚い事を思い知らされ、煩悩もいくらか薄れたかのように思われたが、人の心は歳月が過ぎるとともに、もとに戻ってしまった。
平清盛が太政大臣になったのが1167年でそれから10年後、1177年に大火事があり,これを境に次々に大災害が起こり、あれよあれよと言う間に平家は滅んでしまう。1180年には竜巻が起こり、その年に福原遷都し、また京都に戻り、その年に平清盛が亡くなる。1181年と1182年に養和の大飢饉が起こる。その翌年の1183年には平家は都落ちし、源義仲入京。1185年には壇ノ浦の合戦で平家は完全に滅亡する。
平家が治めていた時代、未曾有の天変地異が続き、人心が乱れに乱れていたことも、平家の滅亡を速めた。
翻って現在を見てみると、妙に方丈記の時代と相通じるところがある。想定外の地震,津波、竜巻、洪水という大災害が打ち続き、それに追い打ちをかけて原発事故という人災、更には政治が全く当てにならない。
このような大混乱の時代、昔は源氏が台頭し、平家に取って代わったように、リーダーシップをとって舵取りをするカリスマが現れるものであるが、それは橋下さん or 石原さん それともだれ?
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