2012年12月06日 18:28
「海賊とよばれた男」 百田尚樹著
百田尚樹は「永遠の0」で直木賞を受賞してブレークし、「風の中のマリア」、「モンスター」、「影法師」とたて続けに作品を発表してきた新進気鋭、と言っても50過ぎの禿げたおっちゃん作家である。長年関西地区で人気のテレビ番組、探偵ナイトスクープの作家として活躍し、一部の人には名を知られていた。テレビ番組で広範な雑多なテーマを扱って来た経験を生かして小説を書いている。「永遠の0」で特攻隊を題材にしたかと思えば、スズメバチを扱った「風の中のマリア」では雌スズメバチを主人公に据えスズメバチの生態が描かれ、更に、「影法師」では江戸時代の硬直化した身分制度により、生まれ育った家柄が何ものにもまして優先される閉塞した社会で生きる下級武士の苦悩と友情を書いている。
今回「海賊とよばれた男」を書いた。
現在の混沌とした国難の時、時代を切り拓く人物が求められる。この小説で扱った人物はまさにその様な人物で、がんじがらめの規制や官僚の抵抗また圧倒的な力を持ち業界を牛耳って来たメジャーと戦って戦争で何もかも失い自由に石油を扱うことが出来なかった戦後、純国産の石油会社、出光興産を興した出光佐三をモデルにした伝記小説である。彼の信念は「どんな事があっても家族同様の社員の首を切ることは絶対にしない」で社員一丸になって困難を乗り越えて来た。
出光佐三は明治18年(1985年)福岡の宗像郡赤間村に生まれた。子供の頃は虚弱で強度の近眼でその上神経症だったため、世の中に伍して生きて行くためには教育を身につける事が必要だと本人は思っていた。そのため、中学へ進学したかったが、明治の時代小学校を出たら直ぐに働くことが当たり前であったこともあり、進学は父親に許されなかった。やむなく、父親には内緒でこっそりと仕事の合間に勉強をし、秘密で福岡商業を受験、合格した。
すると、父親はもはや進学に反対する事はなかった。福岡商業を卒業した後は更に、商業の最高学府である東京高等商業学校(現一橋大学)に進みたいと思っていた。日本で唯一の高商である東京高商は天下の難関校として知られており、入試も旧制中学校の履修科目にそっていたため、実業学校から進学するのはほぼ不可能だった。そんなおり、日本で二つめの高商として神戸高商が設立された。神戸高商は実業学校から優秀な生徒を集めたいと考え、実業学校卒業生にも門戸を開いていた。神戸高商の初代校長の水島鐡也は学生をまるで家族のように遇し、世話をした。彼の哲学は「士魂商才」で「商売は単なる金儲けだけではない」を教育しようとしていた。その考えは強く佐三の心を打った。しかし当時は日露戦争の戦勝気分でバブルになっていて、時の神戸商工会議所の会長も「商売は銭儲けにつきる」と金儲けに徹するべきだとの講演をしたが、反発するように「黄金の奴隷たる勿れ」との言葉が学生達の間に流行し、心を捕らえていた。佐三もこの言葉が好きで胸深く刻みこみ、生涯この言葉を忘れたことはなかった。
卒業後の進路について具体的な考えは無かったが、夏休み中東北を旅行中秋田の油田を見学する機会があり、石油がこれから石炭に変わってエネルギー源の中心となって、世界を一変させるのではという漠然たる予感を抱き、石油に関係する仕事につきたいと思っていた。
卒業後同級生のほとんどが大きな商社や銀行に就職したのに対し、佐三は神戸の小麦粉を扱う従業員3人の酒井商会の丁稚となり、大八車に小麦粉を乗せ、売り歩いた。同級生からは大いに馬鹿にされたが,初志貫徹し、2年後に独立して門司で自分の店を持った。そこで機械油の取り扱いを商売の中心に移した。しかし、機械油の販売はすでに大きな会社が独占をしており入り込める余地などまず無かった。門司や下関は港町である。港をボンヤリと眺めているとポンポン船と呼ばれる焼玉エンジンをつんだ船が多く行き通っていた。焼玉エンジンの燃料には灯油が使われていたが、成分上大差のない軽油でいいのであれば大幅な値下げが期待できるのではないかと思った。実際、焼玉エンジンは軽油でも遜色ない性能を発揮した。軽油を販売するとたちまちの内に多くの顧客がついたが特約店に絞られて門司以外で売ることに対して文句が出た。佐三はそれではと陸上ではなく海上での舟渡しで油を売り、たちまち市場を席巻し荒しまくったので海賊とよばれる様になった。これが小説のタイトルにも使われた。
それでも風当たりが強くなり、国内での商売に限界を感じた佐三は、満州に活路を見出すことにし、満鉄の列車の車軸油に目をつけた。それまで車軸油はスタンダード石油とテキサス石油という外資系の会社が独占していた。突破口を開いたのは、徹底した性能比較であった。満州は非常に寒く厳冬期には-20度を超える。外資系の油が低温に弱い事を予想し、低温でも凍らない油をブレンドして試験に持ち込んだ。案の定、外資系の油は亟寒の環境下で凍結したが佐三が持ち込んだ油はさらさらのままであった。これ以降満鉄の車軸油はすべて佐三の油に切り替えられ、満鉄が終焉する時まで使用された。
しかし事態は日本が戦争に敗れた事で一変する。また0からの出発である。敗戦国に自由となる石油などあるわけも無く、当分の間ラヂオの修理で社員を養っていた。世の中が落ち着き、石油の需要が出てくると統制下にあった石油の自由販売を目指して、業界、官僚、GHQとの戦いを始めた。業界や官僚は既得権を守るためには何でもやった。難癖をつけ無理難題をいい、全く理論も何もあったものではなかったが、以外にGHQ(米軍司令部)は理論上正しい事は認め、業界や官僚の何の理由もない反対には強く指導してくれた。
更に欧米の大きな石油会社(メジャー)に規制されず、自由に石油扱うため、日本で初のタンカーを建造し、アメリカのメジャーに属さない会社から原油を買いつけた。しかしすぐにメジャーが嗅ぎつけ、アメリカの石油は全く入らなくなった。つぎに佐三が目を付けたのはイランであった。イランはそれまでイギリスが支配していた石油の国有化に踏み切ったときであった。秘密裏にテヘランに飛び契約を交わした時、イランは出光なんていう会社を全く信用してていなかった。
その時の交渉の描写「我々は嘘をついたりごまかしたりする会社ではない」。正昭(長男)が言った。「しかし、会社というのは、利益の追求を第一に考えるところだろう。」「国岡商店(出光)はそんな会社ではない!」武知は激しい口調で言った。「今も国岡商店は日本国のことを考え、国際石油カルテルと必死で戦っている。メジャーと手を結べば楽に利益が出せるにもかかわず、決っして提携しないでいる。そして今も危険を冒して、こうしてイランにやってきているではないか。」と自分達の立場を堂々と述べている。
佐三はイランに向かって日章丸が神戸を出港するのを見送った。その時の文章。
イギリス海軍により、封鎖されている、イランアバダン港へ虎の子の日章丸を送り込む。日章丸が出港する日、神戸で出港を見送った。
「その日は素晴らしい快晴で、六甲の山並みが朝日を浴びて光っているのが見えた。岸壁には日章丸が静かにその巨体を浮かべていた。船橋の上には日章旗が燦然とはためいている。今からこの船がはるかアラビアまで旅するのだと思うと、鐡造(佐三)は武者震いした。不意に、酒井商店の丁稚として大八車を引き、神戸港に来た日の光景が脳裏に鮮明に甦った。あれは明治42年、23歳の春だった。港に並ぶ船を見ながら、いつかは自分も船を持って世界に打って出る夢を見た。そして今その時が来た。」
運良くイギリス海軍の待ち伏せをかい潜って日本に石油を運ぶことに成功する。しかしこの快挙も長続きしなかった。というのはアメリカのCIAが影で操ってあっけ無くクーデターが起こり、パレビー王朝が復活することとなる。またしも石油の供給先を奪われた出光であったが、今度はガルフ石油と手を結むというしたたかさを示す。
その後も様々な嫌がらせを物ともせず、石油の統制を試みる業界や官僚と戦う。執拗な嫌がらせの原因の一つは官僚や銀行からの天下りを一切採用しなかったことにある。全て純粋に出光興産で育ってきた社員が一致団結して事に当った。出勤に際して、タイムカードも無ければ出欠簿も無く、労働組合もない会社であった。
その後、佐三は石油を自由に扱える様に規制緩和を成し遂げ、出光興産を日本で2番目に大きな石油会社までに育て上げる。そして昭和43年95歳の長寿を全うして永眠する。まさに波瀾万丈、英雄的な生き様の一生であった。
出光佐三は侍の志を持った芯の通った明治の男で、金儲けのためだけの商売はけしてしなかった。権力に重ねず、圧力に屈せず、国のため、人のためという高い志を持った商売をした。しかもしたたかで、次々に生じる難問を諦めずフレキシブルに解決して行く能力はまさに卓越している。しかし佐三だけで無くここに出てくる佐三のまわりの人物は、大きな志をもった侍たちで、佐三と同じ価値観を持ち、同じ目的に情熱を持って向かって行った。会社が利益を得る事を目標とする組織を超え、魂で結ばれた組織になっていた。佐三への絶対的信頼は信義に劣ること、心に恥じる様なことはけしってしないという侍魂と、何よりもかれの根底に流れる人間としての暖かさから生まれたのであろう。
佐三がどんな事があっても社員の首を切らない事に対して、「多くの社員を抱えるとどうしようも無い者がいるだろう。そんな人物も首にしないのか」と尋ねたところ、佐三は会社員は家族と同じである。家族の中には一人くらいどうしようも無いものもいる。だからと言ってそんな子供を見捨てる事はできるか?そんな子供程、一生懸命世話するではないか。会社でもそんな人物程は特別に世話をすると答えている。
人を騙してでも金も受けしようとする人物、権力にはペコペコして寄らば大樹の陰で信念のない人物や面倒な事や紛争を嫌がり、国の事や世の中の事を考えない人物が多い、この混沌とした現在日本、まさに出光佐三の様な人物が求められる。 裸一貫からのし上がって成功した佐三の人並み外れた決断力と実行力には驚かされる。
ひ弱で引っ込み思案、事なかれ主義が横行する現在、佐三の様なスケールの大きいたくましい侍が必要とされる。 国難の折このような救世主は現れないものか? このような傑物は非常に稀であるが、いない訳ではあるまいと思うが。
百田尚樹は「永遠の0」で直木賞を受賞してブレークし、「風の中のマリア」、「モンスター」、「影法師」とたて続けに作品を発表してきた新進気鋭、と言っても50過ぎの禿げたおっちゃん作家である。長年関西地区で人気のテレビ番組、探偵ナイトスクープの作家として活躍し、一部の人には名を知られていた。テレビ番組で広範な雑多なテーマを扱って来た経験を生かして小説を書いている。「永遠の0」で特攻隊を題材にしたかと思えば、スズメバチを扱った「風の中のマリア」では雌スズメバチを主人公に据えスズメバチの生態が描かれ、更に、「影法師」では江戸時代の硬直化した身分制度により、生まれ育った家柄が何ものにもまして優先される閉塞した社会で生きる下級武士の苦悩と友情を書いている。
今回「海賊とよばれた男」を書いた。
現在の混沌とした国難の時、時代を切り拓く人物が求められる。この小説で扱った人物はまさにその様な人物で、がんじがらめの規制や官僚の抵抗また圧倒的な力を持ち業界を牛耳って来たメジャーと戦って戦争で何もかも失い自由に石油を扱うことが出来なかった戦後、純国産の石油会社、出光興産を興した出光佐三をモデルにした伝記小説である。彼の信念は「どんな事があっても家族同様の社員の首を切ることは絶対にしない」で社員一丸になって困難を乗り越えて来た。
出光佐三は明治18年(1985年)福岡の宗像郡赤間村に生まれた。子供の頃は虚弱で強度の近眼でその上神経症だったため、世の中に伍して生きて行くためには教育を身につける事が必要だと本人は思っていた。そのため、中学へ進学したかったが、明治の時代小学校を出たら直ぐに働くことが当たり前であったこともあり、進学は父親に許されなかった。やむなく、父親には内緒でこっそりと仕事の合間に勉強をし、秘密で福岡商業を受験、合格した。
すると、父親はもはや進学に反対する事はなかった。福岡商業を卒業した後は更に、商業の最高学府である東京高等商業学校(現一橋大学)に進みたいと思っていた。日本で唯一の高商である東京高商は天下の難関校として知られており、入試も旧制中学校の履修科目にそっていたため、実業学校から進学するのはほぼ不可能だった。そんなおり、日本で二つめの高商として神戸高商が設立された。神戸高商は実業学校から優秀な生徒を集めたいと考え、実業学校卒業生にも門戸を開いていた。神戸高商の初代校長の水島鐡也は学生をまるで家族のように遇し、世話をした。彼の哲学は「士魂商才」で「商売は単なる金儲けだけではない」を教育しようとしていた。その考えは強く佐三の心を打った。しかし当時は日露戦争の戦勝気分でバブルになっていて、時の神戸商工会議所の会長も「商売は銭儲けにつきる」と金儲けに徹するべきだとの講演をしたが、反発するように「黄金の奴隷たる勿れ」との言葉が学生達の間に流行し、心を捕らえていた。佐三もこの言葉が好きで胸深く刻みこみ、生涯この言葉を忘れたことはなかった。
卒業後の進路について具体的な考えは無かったが、夏休み中東北を旅行中秋田の油田を見学する機会があり、石油がこれから石炭に変わってエネルギー源の中心となって、世界を一変させるのではという漠然たる予感を抱き、石油に関係する仕事につきたいと思っていた。
卒業後同級生のほとんどが大きな商社や銀行に就職したのに対し、佐三は神戸の小麦粉を扱う従業員3人の酒井商会の丁稚となり、大八車に小麦粉を乗せ、売り歩いた。同級生からは大いに馬鹿にされたが,初志貫徹し、2年後に独立して門司で自分の店を持った。そこで機械油の取り扱いを商売の中心に移した。しかし、機械油の販売はすでに大きな会社が独占をしており入り込める余地などまず無かった。門司や下関は港町である。港をボンヤリと眺めているとポンポン船と呼ばれる焼玉エンジンをつんだ船が多く行き通っていた。焼玉エンジンの燃料には灯油が使われていたが、成分上大差のない軽油でいいのであれば大幅な値下げが期待できるのではないかと思った。実際、焼玉エンジンは軽油でも遜色ない性能を発揮した。軽油を販売するとたちまちの内に多くの顧客がついたが特約店に絞られて門司以外で売ることに対して文句が出た。佐三はそれではと陸上ではなく海上での舟渡しで油を売り、たちまち市場を席巻し荒しまくったので海賊とよばれる様になった。これが小説のタイトルにも使われた。
それでも風当たりが強くなり、国内での商売に限界を感じた佐三は、満州に活路を見出すことにし、満鉄の列車の車軸油に目をつけた。それまで車軸油はスタンダード石油とテキサス石油という外資系の会社が独占していた。突破口を開いたのは、徹底した性能比較であった。満州は非常に寒く厳冬期には-20度を超える。外資系の油が低温に弱い事を予想し、低温でも凍らない油をブレンドして試験に持ち込んだ。案の定、外資系の油は亟寒の環境下で凍結したが佐三が持ち込んだ油はさらさらのままであった。これ以降満鉄の車軸油はすべて佐三の油に切り替えられ、満鉄が終焉する時まで使用された。
しかし事態は日本が戦争に敗れた事で一変する。また0からの出発である。敗戦国に自由となる石油などあるわけも無く、当分の間ラヂオの修理で社員を養っていた。世の中が落ち着き、石油の需要が出てくると統制下にあった石油の自由販売を目指して、業界、官僚、GHQとの戦いを始めた。業界や官僚は既得権を守るためには何でもやった。難癖をつけ無理難題をいい、全く理論も何もあったものではなかったが、以外にGHQ(米軍司令部)は理論上正しい事は認め、業界や官僚の何の理由もない反対には強く指導してくれた。
更に欧米の大きな石油会社(メジャー)に規制されず、自由に石油扱うため、日本で初のタンカーを建造し、アメリカのメジャーに属さない会社から原油を買いつけた。しかしすぐにメジャーが嗅ぎつけ、アメリカの石油は全く入らなくなった。つぎに佐三が目を付けたのはイランであった。イランはそれまでイギリスが支配していた石油の国有化に踏み切ったときであった。秘密裏にテヘランに飛び契約を交わした時、イランは出光なんていう会社を全く信用してていなかった。
その時の交渉の描写「我々は嘘をついたりごまかしたりする会社ではない」。正昭(長男)が言った。「しかし、会社というのは、利益の追求を第一に考えるところだろう。」「国岡商店(出光)はそんな会社ではない!」武知は激しい口調で言った。「今も国岡商店は日本国のことを考え、国際石油カルテルと必死で戦っている。メジャーと手を結べば楽に利益が出せるにもかかわず、決っして提携しないでいる。そして今も危険を冒して、こうしてイランにやってきているではないか。」と自分達の立場を堂々と述べている。
佐三はイランに向かって日章丸が神戸を出港するのを見送った。その時の文章。
イギリス海軍により、封鎖されている、イランアバダン港へ虎の子の日章丸を送り込む。日章丸が出港する日、神戸で出港を見送った。
「その日は素晴らしい快晴で、六甲の山並みが朝日を浴びて光っているのが見えた。岸壁には日章丸が静かにその巨体を浮かべていた。船橋の上には日章旗が燦然とはためいている。今からこの船がはるかアラビアまで旅するのだと思うと、鐡造(佐三)は武者震いした。不意に、酒井商店の丁稚として大八車を引き、神戸港に来た日の光景が脳裏に鮮明に甦った。あれは明治42年、23歳の春だった。港に並ぶ船を見ながら、いつかは自分も船を持って世界に打って出る夢を見た。そして今その時が来た。」
運良くイギリス海軍の待ち伏せをかい潜って日本に石油を運ぶことに成功する。しかしこの快挙も長続きしなかった。というのはアメリカのCIAが影で操ってあっけ無くクーデターが起こり、パレビー王朝が復活することとなる。またしも石油の供給先を奪われた出光であったが、今度はガルフ石油と手を結むというしたたかさを示す。
その後も様々な嫌がらせを物ともせず、石油の統制を試みる業界や官僚と戦う。執拗な嫌がらせの原因の一つは官僚や銀行からの天下りを一切採用しなかったことにある。全て純粋に出光興産で育ってきた社員が一致団結して事に当った。出勤に際して、タイムカードも無ければ出欠簿も無く、労働組合もない会社であった。
その後、佐三は石油を自由に扱える様に規制緩和を成し遂げ、出光興産を日本で2番目に大きな石油会社までに育て上げる。そして昭和43年95歳の長寿を全うして永眠する。まさに波瀾万丈、英雄的な生き様の一生であった。
出光佐三は侍の志を持った芯の通った明治の男で、金儲けのためだけの商売はけしてしなかった。権力に重ねず、圧力に屈せず、国のため、人のためという高い志を持った商売をした。しかもしたたかで、次々に生じる難問を諦めずフレキシブルに解決して行く能力はまさに卓越している。しかし佐三だけで無くここに出てくる佐三のまわりの人物は、大きな志をもった侍たちで、佐三と同じ価値観を持ち、同じ目的に情熱を持って向かって行った。会社が利益を得る事を目標とする組織を超え、魂で結ばれた組織になっていた。佐三への絶対的信頼は信義に劣ること、心に恥じる様なことはけしってしないという侍魂と、何よりもかれの根底に流れる人間としての暖かさから生まれたのであろう。
佐三がどんな事があっても社員の首を切らない事に対して、「多くの社員を抱えるとどうしようも無い者がいるだろう。そんな人物も首にしないのか」と尋ねたところ、佐三は会社員は家族と同じである。家族の中には一人くらいどうしようも無いものもいる。だからと言ってそんな子供を見捨てる事はできるか?そんな子供程、一生懸命世話するではないか。会社でもそんな人物程は特別に世話をすると答えている。
人を騙してでも金も受けしようとする人物、権力にはペコペコして寄らば大樹の陰で信念のない人物や面倒な事や紛争を嫌がり、国の事や世の中の事を考えない人物が多い、この混沌とした現在日本、まさに出光佐三の様な人物が求められる。 裸一貫からのし上がって成功した佐三の人並み外れた決断力と実行力には驚かされる。
ひ弱で引っ込み思案、事なかれ主義が横行する現在、佐三の様なスケールの大きいたくましい侍が必要とされる。 国難の折このような救世主は現れないものか? このような傑物は非常に稀であるが、いない訳ではあるまいと思うが。
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