2008年05月02日 18:05
宮本輝作 「錦繍」
香櫨園に住む勝沼亜紀は障害をもつ息子に満天の星を見せてあげようと思い立ち、紅葉の真っ盛りの蔵王山に行く。
「蔵王のダリア園から、ドッコ沼へ登るゴンドラリフトの中で、まさかあなたと再会するなんて、本当に想像すらできないことでした」の書き出しではじまる錦繍は宮本輝が終生背負っているテーマ「人の哀しさ、愛おしさ、生きるとは、命とは」を考えさせる作品でもある。ゴンドラの中で「私は見事な紅葉をみたくてゴンドラに乗り込んだのに、片時も樹林に目を移すことなく、目前の一人の男性を凝視しつづけていたのです」と有馬靖明と再会する。
下りのゴンドラは親子だけでゴンドラ外にみえる真っ赤な紅葉と悲しく波立つ心とで「全山が紅葉しているのではなく、常緑樹や茶色の葉や、銀杏に似た金色の葉に混じって、真紅の繁みが断続的にゴンドラの両脇に流れさっていくのでした。それ故に、朱い葉はいっそう燃え立っているように思えました。何万種もの無尽の色彩の隙間から、ふわりふわりと大きな炎が噴きあがっているような思いに包まれて、私は声もなく、ただ黙って鬱蒼とした樹木の配色に見入っておりました。私はあの烈しい紅葉の色合いに酔ったまま、確かに、何かしら恐ろしいものを、しかもしんと静まった冷たい刃に似たものを、樹木の中の炎に感じたのでございます」と亜紀は心情を吐露する。
夜になり旅館を抜け出してダリヤ園のベンチに清高と座っていつまでも宇宙のきらめきに見入っていると、「ああ、それらの星々のなんと寂しかったことでございましょう。そしてそれら星々の果てしない拡がりが、なんと途方もなく恐ろしく感じられたことでございましょうか。私は、あなたと十年振りに、突然みちのくの山中で再会したということが、なぜかとても悲しい出来事であったように感じられて仕方ありませんでした。私は顔をあげて星を眺めつつ、悲しい、悲しいと心に中で呟いてみました。するといっそう悲しさが募ってきて、十年前のあの事件のことが、スクリーンに映し出される様に甦って来たのでした」と十年前に幸せな結婚生活をしていたこと、さらに別れる原因になった心中事件にと触れていく。現在、亜紀は勝沼という大学講師と再婚し、8歳の障害児をかかえているが、夫とは冷えきった結婚生活を送っている。一方で、有馬靖明は絶望にうちひしがれているところを令子という逞しくて明るい女性に生きる力を与えられる。
有馬靖明は中学時代を東舞鶴で過ごした。「東舞鶴は私には不思議な暗さと淋しさを持つ町に見えました。冷たい潮風の漂う、うらぶれた辺境の地に思えたのでした。実際、東舞鶴は京都の北端の、日本海に面した閑散とした町でした。冬は雪、夏は湿気、それ以外の季節はどんよりしたあつい雲ばかり」といううら寂れた町であか抜けて、美しく、大人びて、不良がかった、華やかな瀬尾由加子に惹かれていく。その由加子に京都で再会し深い関係になり、無理心中へとつながる。「なぜ由加子が自らの命を絶ったのか、なぜ彼女が私をナイフで刺したのか。私と由加子の間に、唯人も立ち入ることのできない烈しい秘密めいた愛情というものが実際に存在したかどうかも、曖昧模糊としたもので、烈しかったのはあの舞鶴での少年時代だけのことであった」と自分の心情を述べている。別れ話をもちかける。「私の中にふたつの心がありました。やはりあぶくみたいに湧いてくる嫉妬、それと安堵でした。これで何のトラブルもなく別れられるという身勝手な安心感が、私に妙に大人ぶった鷹揚な態度を取らせていました」。由加子の計った無理心中の結果、彼女は一命を落とす。靖明はかろうじて一命をとりとめ、亜紀との離婚を余儀なくされる。亜紀はその話を聞き、「涙が涸れるほどいつまでも泣いていたのでございます。私は悲しかったのでありません。これから、何か不幸なことが始まって行きそうな気がして、烈しい恐怖に駆られていたのでした。私は帰宅を急ぐ勤め人の群れに混じって。黄昏の御堂筋をまた帰っていきました。泣いたあとの顔を伏せて歩きながら、私は離婚の決意をしました。行きたくもないのにむりやり船に乗せられてしまい、すうっと岸壁から離れてしまった、そんな思いがしました」。愛しているのに無理矢理別れさせられた不幸と、悲しさと、不安が入り交じった心境がよく現れている文章です。
ドッコ沼のリフトで再会し、靖明は「あなたと、松葉杖をついた息子さんが、ゆっくりとした歩調で通り過ぎていくのを眺めていました。林のところを過ぎ、山道を右に曲がって、完全に姿が消えてしまってからも、私は長いことその場に立ち尽くして、おふたりの消えていった道の曲がり角を見ていました。その道に降り注いでいる金色の木漏れ日が、かって自分の人生で一度も見たこともない寂しい荒涼とした光の刃となって、私の汚れた垢まみれの心に突き刺さってきました」と再会時の思いを表現し、その時の心の動揺がよめる。
「彼女はとても十四歳の少女とは思えぬ媚態で、私にほほをすり寄せ、唇をはわせた。十四歳にして、何のためらいもなく、男にそのように振る舞えることが、瀬尾由加子という人間のもっていた一つの業といえるのではないか。由加子の体の感触を、私は自分の心のあちこちに感じました。私は死んでいる自分を見つめていたもう一つの自分に、がっしりとまとわりついて離れていこうとしなかった「あるもの」の正体がなにであったのか、おぼろげに判り始めたような気がしてきました」。宮本輝特有の「あるもの」との抽象的な表現。それをこう説明しています。「己のなした全ての行為と、そればかりではなく、行動にあらわぬまでも、心に抱いただけにしか過ぎない恨みや怒りや慈しみや愚かさなどの結晶が、命そのものにくっきりと刻みこまれ、決して消えることのない烙印と化して、死の世界に移行した私を打擲していたのではあるまいか」。
うーむ、難しい。このように哀しい命の営みが、美しい風景を背景に、ちりばめられ、いっそうその哀しみをそそる。
宮本輝の「心根のやさしさ、人間愛」がこの哀しさ、寂しさに救いをあたえる。亜紀には靖明と離別後に再婚した勝沼との間に清高という障害児がいる。その清高が亜紀の生命の火となり、靖明にとっては令子という逞しい女性が生命の杖となって新たな道を踏み出すことを決意させて小説は終わる。
宮本輝の小説は奥が深く、人生を考えさせてくれる。必ずと言っていいほど、人の死があり、悲しみがあり、それを北陸地方の寂しい、陰鬱な情景がいっそうその情感を深め、明るい華やかな情景として神戸がでてくる。最後には、宮本輝独特の人間愛がでてきてすくわれる。よほど、香櫨園が好きなのか、本作品では香櫨園に由加子がすんでいることになっているが主な舞台は秋の蔵王である。この小説は全て手紙のやりとりという、形式で進められていく。何遍読んでも心を打つ、しかも奥の深い小説である。好きなだけに愛着があり、省略することができず、長い長い解説になってしまった。
香櫨園に住む勝沼亜紀は障害をもつ息子に満天の星を見せてあげようと思い立ち、紅葉の真っ盛りの蔵王山に行く。
「蔵王のダリア園から、ドッコ沼へ登るゴンドラリフトの中で、まさかあなたと再会するなんて、本当に想像すらできないことでした」の書き出しではじまる錦繍は宮本輝が終生背負っているテーマ「人の哀しさ、愛おしさ、生きるとは、命とは」を考えさせる作品でもある。ゴンドラの中で「私は見事な紅葉をみたくてゴンドラに乗り込んだのに、片時も樹林に目を移すことなく、目前の一人の男性を凝視しつづけていたのです」と有馬靖明と再会する。
下りのゴンドラは親子だけでゴンドラ外にみえる真っ赤な紅葉と悲しく波立つ心とで「全山が紅葉しているのではなく、常緑樹や茶色の葉や、銀杏に似た金色の葉に混じって、真紅の繁みが断続的にゴンドラの両脇に流れさっていくのでした。それ故に、朱い葉はいっそう燃え立っているように思えました。何万種もの無尽の色彩の隙間から、ふわりふわりと大きな炎が噴きあがっているような思いに包まれて、私は声もなく、ただ黙って鬱蒼とした樹木の配色に見入っておりました。私はあの烈しい紅葉の色合いに酔ったまま、確かに、何かしら恐ろしいものを、しかもしんと静まった冷たい刃に似たものを、樹木の中の炎に感じたのでございます」と亜紀は心情を吐露する。
夜になり旅館を抜け出してダリヤ園のベンチに清高と座っていつまでも宇宙のきらめきに見入っていると、「ああ、それらの星々のなんと寂しかったことでございましょう。そしてそれら星々の果てしない拡がりが、なんと途方もなく恐ろしく感じられたことでございましょうか。私は、あなたと十年振りに、突然みちのくの山中で再会したということが、なぜかとても悲しい出来事であったように感じられて仕方ありませんでした。私は顔をあげて星を眺めつつ、悲しい、悲しいと心に中で呟いてみました。するといっそう悲しさが募ってきて、十年前のあの事件のことが、スクリーンに映し出される様に甦って来たのでした」と十年前に幸せな結婚生活をしていたこと、さらに別れる原因になった心中事件にと触れていく。現在、亜紀は勝沼という大学講師と再婚し、8歳の障害児をかかえているが、夫とは冷えきった結婚生活を送っている。一方で、有馬靖明は絶望にうちひしがれているところを令子という逞しくて明るい女性に生きる力を与えられる。
有馬靖明は中学時代を東舞鶴で過ごした。「東舞鶴は私には不思議な暗さと淋しさを持つ町に見えました。冷たい潮風の漂う、うらぶれた辺境の地に思えたのでした。実際、東舞鶴は京都の北端の、日本海に面した閑散とした町でした。冬は雪、夏は湿気、それ以外の季節はどんよりしたあつい雲ばかり」といううら寂れた町であか抜けて、美しく、大人びて、不良がかった、華やかな瀬尾由加子に惹かれていく。その由加子に京都で再会し深い関係になり、無理心中へとつながる。「なぜ由加子が自らの命を絶ったのか、なぜ彼女が私をナイフで刺したのか。私と由加子の間に、唯人も立ち入ることのできない烈しい秘密めいた愛情というものが実際に存在したかどうかも、曖昧模糊としたもので、烈しかったのはあの舞鶴での少年時代だけのことであった」と自分の心情を述べている。別れ話をもちかける。「私の中にふたつの心がありました。やはりあぶくみたいに湧いてくる嫉妬、それと安堵でした。これで何のトラブルもなく別れられるという身勝手な安心感が、私に妙に大人ぶった鷹揚な態度を取らせていました」。由加子の計った無理心中の結果、彼女は一命を落とす。靖明はかろうじて一命をとりとめ、亜紀との離婚を余儀なくされる。亜紀はその話を聞き、「涙が涸れるほどいつまでも泣いていたのでございます。私は悲しかったのでありません。これから、何か不幸なことが始まって行きそうな気がして、烈しい恐怖に駆られていたのでした。私は帰宅を急ぐ勤め人の群れに混じって。黄昏の御堂筋をまた帰っていきました。泣いたあとの顔を伏せて歩きながら、私は離婚の決意をしました。行きたくもないのにむりやり船に乗せられてしまい、すうっと岸壁から離れてしまった、そんな思いがしました」。愛しているのに無理矢理別れさせられた不幸と、悲しさと、不安が入り交じった心境がよく現れている文章です。
ドッコ沼のリフトで再会し、靖明は「あなたと、松葉杖をついた息子さんが、ゆっくりとした歩調で通り過ぎていくのを眺めていました。林のところを過ぎ、山道を右に曲がって、完全に姿が消えてしまってからも、私は長いことその場に立ち尽くして、おふたりの消えていった道の曲がり角を見ていました。その道に降り注いでいる金色の木漏れ日が、かって自分の人生で一度も見たこともない寂しい荒涼とした光の刃となって、私の汚れた垢まみれの心に突き刺さってきました」と再会時の思いを表現し、その時の心の動揺がよめる。
「彼女はとても十四歳の少女とは思えぬ媚態で、私にほほをすり寄せ、唇をはわせた。十四歳にして、何のためらいもなく、男にそのように振る舞えることが、瀬尾由加子という人間のもっていた一つの業といえるのではないか。由加子の体の感触を、私は自分の心のあちこちに感じました。私は死んでいる自分を見つめていたもう一つの自分に、がっしりとまとわりついて離れていこうとしなかった「あるもの」の正体がなにであったのか、おぼろげに判り始めたような気がしてきました」。宮本輝特有の「あるもの」との抽象的な表現。それをこう説明しています。「己のなした全ての行為と、そればかりではなく、行動にあらわぬまでも、心に抱いただけにしか過ぎない恨みや怒りや慈しみや愚かさなどの結晶が、命そのものにくっきりと刻みこまれ、決して消えることのない烙印と化して、死の世界に移行した私を打擲していたのではあるまいか」。
うーむ、難しい。このように哀しい命の営みが、美しい風景を背景に、ちりばめられ、いっそうその哀しみをそそる。
宮本輝の「心根のやさしさ、人間愛」がこの哀しさ、寂しさに救いをあたえる。亜紀には靖明と離別後に再婚した勝沼との間に清高という障害児がいる。その清高が亜紀の生命の火となり、靖明にとっては令子という逞しい女性が生命の杖となって新たな道を踏み出すことを決意させて小説は終わる。
宮本輝の小説は奥が深く、人生を考えさせてくれる。必ずと言っていいほど、人の死があり、悲しみがあり、それを北陸地方の寂しい、陰鬱な情景がいっそうその情感を深め、明るい華やかな情景として神戸がでてくる。最後には、宮本輝独特の人間愛がでてきてすくわれる。よほど、香櫨園が好きなのか、本作品では香櫨園に由加子がすんでいることになっているが主な舞台は秋の蔵王である。この小説は全て手紙のやりとりという、形式で進められていく。何遍読んでも心を打つ、しかも奥の深い小説である。好きなだけに愛着があり、省略することができず、長い長い解説になってしまった。
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