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真田信繁の生き様 (2)

2016年10月28日 17:55

真田丸築城

 打って出るか籠城するかの議論が紛糾したのち、淀殿や大野修理の専断で籠城が決定すると、幸村は大阪城での籠城戦をシュミレーションしてみた。大阪城は東は湿地、北は天満川、西は難波港という天然の要害に囲まれているので、徳川の大軍が陣を張るのは南だと予想し、南側に最も防衛力を集中する必要があると考えた。そこで幸村は城の南側の弱点を補うものとして、三の丸の南、玉造口の外に、東西180mほどの半円形の真田丸という出城を築き、5000人の兵で守備することとした。
 大阪城は周囲の長さが8Kmにも及ぶ総構の難攻不落の巨城として名を馳せており、徳川家康は力づくで大阪城を落とすのは難しいと考え、城内にスパイを配置して、敵の切り崩しにかかるとともに、攻撃のチャンスを窺い、無断で攻撃することを禁じていた。
 一方、幸村は戦闘開始から数日経っても敵が攻めてこないので、敵は功名を焦り始め、さぞイライラしていることだろうと考え、徳川方に心理戦を仕掛けた。真田丸の前列に布陣していた前田利常隊を挑発した。真田丸前方200m先に小山があり、この山に少数の鉄砲隊を配置して、前田隊を連日狙撃した。前田隊に死傷者が出たが、家康はまだ突撃を許さない。小山の鉄砲隊を追い払おうと前田隊は小山に出撃したが、すでに真田隊は撤退した後であった。真田隊から、それをからかわれ、嘲笑された前田隊はその挑発に我慢ができず、突撃命令が出る前に、真田丸を攻撃、それを見ていた井伊直孝、藤堂高虎、松平忠直の各隊もつられて真田丸に殺到した。まさに幸村の思う壺、できるだけ引きつけての鉄砲の一斉射撃を行った。徳川方は甚大な損害を被り、これを機に真田丸には迂闊に近寄れなくなった。家康もこのままでは拉致があかず、長期戦になってしまうことを嫌い和議に持ち込むことにした。
 秀頼は最初は和議に反対していたが、連日大砲の弾が打ち込まれ、母淀君の神経が参っていたところに、その一発が居室を直撃し、侍女8名が即死するに及んで、淀君が強硬に主張して和議が結ばれた。ここでは家康の心理戦が効を奏する。
 和議を結ぶことが決まった時点で、秀頼の敗北が決定的になる。豊臣方は徹底して籠城するという作戦を立て、近隣の米を全て高い金で買取り、徳川の大軍がすぐに兵糧が尽き、また冬の厳しい寒さでの野営で士気が下がることを予想した戦略を立てていたのに、戦のわからぬ淀殿の言い分で和議。これでは何のために立てた戦略だったのか、戦わずしてすでに負けている。孫子の兵法でも戦いの上策は戦わずして勝つこと(百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり)と書かれており、戦わないことの重要性が説かれ、家康の作戦勝ち。

夏の陣
 和議が結ばれ外堀、内堀が埋められた時点で、大阪城は裸城となり、外からの攻撃を防ぐことはできなくなっていた。
こうなってしまっては、幸村といえども家康を打ち破る作戦があるわけでなく、あとは死に場所を求めての戦いになった。策があるとすれば、奇策しかない。ただただ家康の首を取ること。茶臼山に陣取っていた幸村は赤い旗に真っ赤な鎧(真田の赤備え)に身を包んだ赤い軍団の真田隊3000を率いて、家康の首のみを目指して一丸となって突撃した。家康の前面にいた、越前松平軍1万3000を蹴散らし、家康本陣へと殺到した。本陣前では旗本隊が必死に防戦、真田隊の猛攻を受け、壮絶な乱戦となった。真田隊の討ち死にが相次ぐが、隊列を整えて、3度本陣への突撃を試みた。そしてついに家康の「馬印」が引き倒すまで進撃した。家康にとって馬印が倒されるほどの激戦は「三方原の戦いで武田信玄に大敗した時と真田に攻められた今回の2度だけである。家康は腹を切ることを覚悟したが、側近に止められた。
 しかし真田勢は多勢に無勢、次第に消耗し追い詰められ、撤退をやむなくした。幸村は疲労困憊し、四天王寺に近い安居神社で傷口を治療してる時に、越前松平隊の西尾仁左衛門に槍で刺され、討ち取られた。思う存分に暴れ、十分戦い尽くし、疲労困憊の幸村は西尾に「自分の首をとり、手柄にせよ」と言ったという説もある。後日褒美を与えるため西尾に面会した家康は、西尾が自分が討ち取ったという話を聞いて、お前なんかに幸村が打ち取れるはずがないと言ったという。幸村、享年48歳。

 家康は冬の陣の折、信濃10万石を条件に徳川方につかないかと持ちかけたが、幸村は即座に断っている。また幸村の家臣はどんな不利な戦況でもだれも降参せず、粛々と最後まで戦ったとされる。なぜ幸村は負けるとわかっている戦いにうってでたのか?なぜ幸村の軍隊が一丸となって無謀とも言える突撃をおこなえたのか?想像するしかないが、当時の武士はかぶき者と言われ、目立って派手に振る舞い、後世に名を残すことが誉であるとの価値観を持っていたので、武士の意地、潔い死に場所を求めた? 後藤又兵衛は確かにそうだったかもしれないが、幸村はそれよりも圧倒的に不利な状況下、自分がどれだけできるか、自分の力を試したかった?男として大名の息子として生まれ、父親ゆずりの自分の才能に自信のあった幸村は、家康という大きな壁をぶち破り、困難であればあるほど、自分の実力を天下に示したいという欲求があった?
 第二次世界大戦時、山本五十六は戦争に反対し、米国とは絶対に戦えないと主張しておきながら、命を賭してまでは反対せず、真珠湾攻撃を企画したのと似ている。彼も軍人として、大きな敵であればあるほど胸のどこかに、自分の持てる全ての力を試してみたいという気持ちがあったのかもしれない。

写真1、2:真田丸跡にある三光神社、写真3:大阪城と繋がっていると言われる抜け穴、写真4:真田幸村像、 写真5:茶臼山戦場跡、 写真6:安居神社、 写真7、8:幸村最後の地、
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