2014年01月15日 18:11
浪速の天文学者
麻田剛立
江戸時代の日本の科学水準が世界でも一流だったということを前のブログで書いたが、これは国内から自然に湧き出るように科学を行なう人が増え、様々な領域で一流の研究者が輩出した結果だ。今回、それ程名前は知られていない?が、ケプラーの法則(第三法則)を独自に導き出した浪速の天文学者麻田剛立について調べた。
麻田は江戸時代の天文学者 (1734-1799)。豊後国杵築藩出身。幼い頃から天体に興味を持ち、傷寒論などを読み独学で医学、天文学を学んだ。初めての和暦を作った渋川春海は(1639-1715)であるので両者が出会う事はなかった。彼が活躍した時代は春海が亡くなり、元禄文化が終わった宝暦—天明文化の時期であった。
天文学への志やめ難く、38歳に突然杵築藩を脱藩し大坂に入った。その後は麻田剛立と名を変え、大阪本町4丁目で医を業としながら研究を続けた。
剛立の学風は漢訳西洋天文書の『崇禎暦書』をベースとし、理論を実測で確認するという近代的なもので、西洋よりはるかに劣る機器や技術で、ケプラーの第三法則と同じ法則を独自に発見したといわれる(出典 麻田剛立『五星距地之奇法』)。
ケプラーは1619年に惑星の運動に関する法則として第一法則(楕円軌道の法則)、第二法則(面積速度一定の法則)、第三法則(調和の法則)よりなるケプラーの法則を発表した。第三法則は惑星の公転周期の2乗は、軌道の長半径の3乗に比例するというものである。公転周期の長さは楕円軌道の長半径のみに依存して決まることを意味する。楕円軌道の離心率に依存しないので、楕円軌道の長半径が同じであれば、円運動でも楕円運動でも周期は同じになる。この法則はニュートン力学で導くことができるのだそうだ。
しかし当時日本の天文学者がそうだったように麻田は惑星の軌道を円と認識し、「惑星軌道の半径の3乗と公転周期の2乗が比例する」と言う趣旨の記述をしており、正確に同じ法則を発見していたとは言えない。また一部には麻田の法則性発見に疑問をもつ科学史家もいるが、麻田が惑星軌道を楕円と認識せず、円と考えたうえで上記の法則を記述していたという“事実誤認”は、逆に麻田剛立の発見が彼独自のものであった可能性を強くしている。何れにしても麻田は全く閉鎖された社会で、観測事実に基づき独自に惑星の運動の法則を導き出した。
また麻田はオランダから輸入した初の高倍率グレゴリー式反射望遠鏡によって、日本最古の月面観測図を記した。8年後に起こる日食の情報を三浦に手紙で送った際、その月面観測図を併記した。この手紙は後年見つかり鹿毛敏夫がそれを題材に『月のえくぼを見た男』を書いている。アサダと命名された月のクレータは麻田に由来する。
麻田は自分で集めたデータを基に、独自に法則を見いだし、考察を加えるという現在と同じ手法で研究をおこなっている。世界の情報から隔離された状態で、天体観測し、それを趣味のレベルに終わらせる事なく本(論文)として世に出した。
当時のヨーロッパではコペルニクス、ガリレオなる錚々たる学者が地動説なるものを唱え、すでに地球が太陽の周りを回転しているという事が分かり始め、天文学者の間で盛んに議論されていた頃である。隔離された遠い日本の地で、金もない一学者が、お金も名誉も地位も関係なく、捏造や改竄もなく、純粋に天文学が好きで、このような偉大な業績を成し遂げた事は見習うべきものがあると思う。研究の原点を見るような気がする。
彼の下には多くの弟子が集まり「麻田学派」と呼ばれる一派が形成された。麻田は1799年65歳で没した。墓は浄春寺(大阪市天王寺区夕陽丘町)にある。彼の死後多くの弟子達、高橋至時・山片蟠桃・間重富らが活躍した。高橋至時は剛立の下に弟子入りし天文学、暦学を学んだ。丁度その頃西洋の天文学をまとめた最新の著書『暦象考成後編』を目にする。そこにはケプラーの唱えた楕円軌道が説明されていた。その理論を習得し、貧しい中、なけなしの金をはたいて望遠鏡を買い、天文学に熱中した。後に幕府の天文方となって寛政暦を作った。彼の業績はそこに留まらず多くの優秀な弟子を育てた、改暦のため江戸にいた時、伊能忠敬が弟子入りし、伊能忠敬に暦学、天文学を教え、文化元年(1804年)に死去した。享年41。遺体は上野の源空寺に葬られている。
伊能忠敬は至時の死後も測量を続け、日本全国の測量事業を完了させた。忠敬はその後の文政元年(1818年)、測量後の地図作成作業の途中で亡くなった。遺言で忠敬は、師である至時のそばに葬ってほしいとの言葉を残したため、源空寺に、至時と隣り合って墓石が置かれている。
麻田によって産まれた麻田学派なるものが、時代を経て、身分を越えて、継承され、高橋至時や伊能忠敬など優秀な人材を輩出し、江戸時代の天文学、暦学、測量学の発展に大きく寄与した。
麻田剛立
江戸時代の日本の科学水準が世界でも一流だったということを前のブログで書いたが、これは国内から自然に湧き出るように科学を行なう人が増え、様々な領域で一流の研究者が輩出した結果だ。今回、それ程名前は知られていない?が、ケプラーの法則(第三法則)を独自に導き出した浪速の天文学者麻田剛立について調べた。
麻田は江戸時代の天文学者 (1734-1799)。豊後国杵築藩出身。幼い頃から天体に興味を持ち、傷寒論などを読み独学で医学、天文学を学んだ。初めての和暦を作った渋川春海は(1639-1715)であるので両者が出会う事はなかった。彼が活躍した時代は春海が亡くなり、元禄文化が終わった宝暦—天明文化の時期であった。
天文学への志やめ難く、38歳に突然杵築藩を脱藩し大坂に入った。その後は麻田剛立と名を変え、大阪本町4丁目で医を業としながら研究を続けた。
剛立の学風は漢訳西洋天文書の『崇禎暦書』をベースとし、理論を実測で確認するという近代的なもので、西洋よりはるかに劣る機器や技術で、ケプラーの第三法則と同じ法則を独自に発見したといわれる(出典 麻田剛立『五星距地之奇法』)。
ケプラーは1619年に惑星の運動に関する法則として第一法則(楕円軌道の法則)、第二法則(面積速度一定の法則)、第三法則(調和の法則)よりなるケプラーの法則を発表した。第三法則は惑星の公転周期の2乗は、軌道の長半径の3乗に比例するというものである。公転周期の長さは楕円軌道の長半径のみに依存して決まることを意味する。楕円軌道の離心率に依存しないので、楕円軌道の長半径が同じであれば、円運動でも楕円運動でも周期は同じになる。この法則はニュートン力学で導くことができるのだそうだ。
しかし当時日本の天文学者がそうだったように麻田は惑星の軌道を円と認識し、「惑星軌道の半径の3乗と公転周期の2乗が比例する」と言う趣旨の記述をしており、正確に同じ法則を発見していたとは言えない。また一部には麻田の法則性発見に疑問をもつ科学史家もいるが、麻田が惑星軌道を楕円と認識せず、円と考えたうえで上記の法則を記述していたという“事実誤認”は、逆に麻田剛立の発見が彼独自のものであった可能性を強くしている。何れにしても麻田は全く閉鎖された社会で、観測事実に基づき独自に惑星の運動の法則を導き出した。
また麻田はオランダから輸入した初の高倍率グレゴリー式反射望遠鏡によって、日本最古の月面観測図を記した。8年後に起こる日食の情報を三浦に手紙で送った際、その月面観測図を併記した。この手紙は後年見つかり鹿毛敏夫がそれを題材に『月のえくぼを見た男』を書いている。アサダと命名された月のクレータは麻田に由来する。
麻田は自分で集めたデータを基に、独自に法則を見いだし、考察を加えるという現在と同じ手法で研究をおこなっている。世界の情報から隔離された状態で、天体観測し、それを趣味のレベルに終わらせる事なく本(論文)として世に出した。
当時のヨーロッパではコペルニクス、ガリレオなる錚々たる学者が地動説なるものを唱え、すでに地球が太陽の周りを回転しているという事が分かり始め、天文学者の間で盛んに議論されていた頃である。隔離された遠い日本の地で、金もない一学者が、お金も名誉も地位も関係なく、捏造や改竄もなく、純粋に天文学が好きで、このような偉大な業績を成し遂げた事は見習うべきものがあると思う。研究の原点を見るような気がする。
彼の下には多くの弟子が集まり「麻田学派」と呼ばれる一派が形成された。麻田は1799年65歳で没した。墓は浄春寺(大阪市天王寺区夕陽丘町)にある。彼の死後多くの弟子達、高橋至時・山片蟠桃・間重富らが活躍した。高橋至時は剛立の下に弟子入りし天文学、暦学を学んだ。丁度その頃西洋の天文学をまとめた最新の著書『暦象考成後編』を目にする。そこにはケプラーの唱えた楕円軌道が説明されていた。その理論を習得し、貧しい中、なけなしの金をはたいて望遠鏡を買い、天文学に熱中した。後に幕府の天文方となって寛政暦を作った。彼の業績はそこに留まらず多くの優秀な弟子を育てた、改暦のため江戸にいた時、伊能忠敬が弟子入りし、伊能忠敬に暦学、天文学を教え、文化元年(1804年)に死去した。享年41。遺体は上野の源空寺に葬られている。
伊能忠敬は至時の死後も測量を続け、日本全国の測量事業を完了させた。忠敬はその後の文政元年(1818年)、測量後の地図作成作業の途中で亡くなった。遺言で忠敬は、師である至時のそばに葬ってほしいとの言葉を残したため、源空寺に、至時と隣り合って墓石が置かれている。
麻田によって産まれた麻田学派なるものが、時代を経て、身分を越えて、継承され、高橋至時や伊能忠敬など優秀な人材を輩出し、江戸時代の天文学、暦学、測量学の発展に大きく寄与した。
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