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はてなキーワード: 北支とは

2025-02-08

昔、祖父からこんな話を聞いた。

北支事変のとき、夜戦でゲートルの白い布は目立つらしく、狙い撃ちされるので墨で黒く染める通達が出て、みんなで染めたそうだ。

当時祖父上海兵隊だった。

何故か朝起きてそんなことを思い出した。祖父が世を去って四半世紀近く経つ。

2025-01-03

anond:20250102214331

外務省の綿輸出政策で綿価格暴落し、世界日本非難した

CIAはたぶん興亜院アヘン産業支援し、農民アヘンを作り始め

米軍はそのアヘン撲滅の名目中国支援戦後日本農地改革

日本自給率が下がり米国産小麦も売れた

日本の綿ダンピングアヘン政策の反対派は大審院摘発していたが、戦後保険会社最高裁を作ったので隠蔽されている

満鉄北支那開発、商工経済会、経団連などの国策会社がした低賃金の綿類ダンピングこそ始源的な罪

2020-08-02

戦史叢書の巻名

1 戦史叢書第001巻 マレ-進攻作戦

2 戦史叢書第002巻 比島攻略作戦

3 戦史叢書第003巻 蘭印攻略作戦

4 戦史叢書第004巻 一号作戦<1>河南会戦

5 戦史叢書第005巻 ビルマ攻略作戦

6 戦史叢書第006巻 中部太平洋陸軍作戦<1>マリアナ玉砕まで

7 戦史叢書007巻 東部ニューギニア方面陸軍航空作戦

8 戦史叢書第008巻 大本営陸軍部<1>昭和15年5月まで

9 戦史叢書第009巻 陸軍軍需動員<1>計画

10 戦史叢書第010巻 ハワイ作戦

11 戦史叢書第011巻 沖縄方面陸軍作戦

12 戦史叢書第012巻 マリアナ海戦

13 戦史叢書第013巻 中部太平洋陸軍作戦<2>ペリリュー・アンガウル・硫黄島

14 戦史叢書第014巻 南太平洋陸軍作戦<1>ポートモレスビーガ島初期作戦

15 戦史叢書第015巻 インパール作戦ビルマ防衛

16 戦史叢書第016巻 一号作戦<2>湖南の会戦

17 戦史叢書第017巻 沖縄方面海軍作戦

18 戦史叢書第018巻 北支治安戦<1>

19 戦史叢書第019巻 本土防空作戦

20 戦史叢書第020巻 大本営陸軍部<2>昭和16年12月まで

21 戦史叢書第021巻 北東方陸軍作戦<1>アッツの玉砕

22 戦史叢書第022巻 西部ニューギニア方面陸軍航空作戦

23 戦史叢書第023巻 豪北方陸軍作戦

24 戦史叢書第024巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦

25 戦史叢書第025巻 イラワジ会戦ビルマ防衛破綻

26 戦史叢書第026巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦

27 戦史叢書第027巻 関東軍<1>対ソ戦・ノモンハン事件

28 戦史叢書第028巻 南太平洋陸軍作戦<2>ガダルカナルブナ作戦

29 戦史叢書第029巻 北東方海軍作戦

30 戦史叢書第030巻 一号作戦<3>広西の会戦

31 戦史叢書第031巻 海軍軍戦備<1>昭和十六年十一月まで

32 戦史叢書第032巻 シッタン・明号作戦ビルマ戦線崩壊と泰・佛印の防衛

33 戦史叢書第033巻 陸軍軍需動員<2>実施

34 戦史叢書第034巻 南方進攻陸軍航空作戦

35 戦史叢書第035巻 大本営陸軍部<3>昭和174月まで

36 戦史叢書第036巻 沖縄台湾硫黄島方面陸軍航空作戦

37 戦史叢書第037巻 海軍捷号作戦<1>台湾沖航空戦まで

38 戦史叢書第038巻 中部太平洋方面海軍作戦<1>昭和十七年五月まで

39 戦史叢書第039巻 大本営海軍部・聯合艦隊<4>第三段作戦前期

40 戦史叢書第040巻 南太平洋陸軍作戦<3>ムンダ・サラモア

41 戦史叢書第041巻 捷号陸軍作戦<1>レイテ決戦

42 戦史叢書第042巻 昭和二十年の支那派遣軍<1>二月まで

43 戦史叢書第043巻 ミッドウェー海戦

44 戦史叢書第044巻 北東方陸軍作戦<2>千島樺太北海道防衛

45 戦史叢書第045巻 大本営海軍部・聯合艦隊<6>第三段作戦後期

46 戦史叢書第046巻 海上護衛戦

47 戦史叢書第047巻 香港長沙作戦

48 戦史叢書第048巻 比島捷号陸軍航空作戦

49 戦史叢書第049巻 南東方海軍作戦<1>ガ島奪回作戦開始まで

50 戦史叢書第050巻 北支治安戦<2>

51 戦史叢書第051巻 本土決戦準備<1>関東防衛

52 戦史叢書第052巻 陸軍航空の軍備と運用<1>昭和十三年初期まで

53 戦史叢書第053巻 満州方面陸軍航空作戦

54 戦史叢書第054巻 南西方海軍作戦―第二段作戦以降―

55 戦史叢書第055巻 昭和十七・八年の支那派遣軍

56 戦史叢書第056巻 海軍捷号作戦<2>フィリピン海戦

57 戦史叢書第057巻 本土決戦準備<2>九州防衛

58 戦史叢書第058巻 南太平洋陸軍作戦<4>フィンシュハーヘン・ツルブ・タロキ

59 戦史叢書第059巻 大本営陸軍部<4>昭和178月まで

60 戦史叢書第060巻 捷号陸軍作戦<2>ルソン決戦

61 戦史叢書第061巻 ビルマ・蘭印方面 第三航空軍作戦

62 戦史叢書第062巻 中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降

63 戦史叢書第063巻 大本営陸軍部<5>昭和1712月まで

64 戦史叢書第064巻 昭和二十年の支那派遣軍<2>終戦まで

65 戦史叢書第065巻 大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯<1>

66 戦史叢書第066巻 大本営陸軍部<6>昭和十八年六月まで

67 戦史叢書第067巻 大本営陸軍部<7>昭和十八年十二月まで

68 戦史叢書第068巻 大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯<2>

69 戦史叢書第069巻 大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯<3>

70 戦史叢書第070巻 大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯<4>

71 戦史叢書第071巻 大本営海軍部・聯合艦隊<5>第三段作戦中期

72 戦史叢書第072巻 中国方面海軍作戦<1>昭和十三年四月まで

73 戦史叢書第073巻 関東軍<2>関特演・終戦時の対ソ戦

74 戦史叢書第074巻 中国方面陸軍航空作戦

75 戦史叢書第075巻 大本営陸軍部<8>昭和十九年七月まで

76 戦史叢書第076巻 大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯<5>

77 戦史叢書第077巻 大本営海軍部・聯合艦隊<3>昭和18年2月まで

78 戦史叢書第078巻 陸軍航空の軍備と運用<2>昭和十七年前期まで

79 戦史叢書第079巻 中国方面海軍作戦<2>昭和十三年四月以降

80 戦史叢書第080巻 大本営海軍部・聯合艦隊<2>昭和176月まで

81 戦史叢書第081巻 大本営陸軍部<9>昭和二十年一月まで

82 戦史叢書第082巻 大本営陸軍部<10昭和二十年八月まで

83 戦史叢書第083巻 南東方海軍作戦<2>ガ島撤収まで

84 戦史叢書第084巻 南太平洋陸軍作戦<5>アイタペ・ブリアカラバウル

85 戦史叢書第085巻 本土方面海軍作戦

86 戦史叢書第086巻 支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで

87 戦史叢書第087巻 陸軍航空兵器の開発・生産補給

88 戦史叢書第088巻 海軍軍戦備<2>開戦以後

89 戦史叢書第089巻 支那事変陸軍作戦<2>昭和十四年九月まで

90 戦史叢書第090巻 支那事変陸軍作戦<3>昭和十六年十二月まで

91 戦史叢書第091巻 大本営海軍部・聯合艦隊<1>開戦まで

92 戦史叢書第092巻 南西方陸軍作戦―マレー・蘭印の防衛

93 戦史叢書第093巻 大本営海軍部・聯合艦隊<7>戦争最終期

94 戦史叢書第094巻 陸軍航空の軍備と運用<3>大東亜戦争終戦まで

95 戦史叢書第095巻 海軍航空概史

96 戦史叢書第096巻 南東方海軍作戦<3>ガ島撤収

97 戦史叢書第097巻 陸軍航空作戦基盤の建設運用

98 戦史叢書第098巻 潜水艦

99 戦史叢書第099巻 陸軍軍戦備

100 戦史叢書100巻 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯<1>

101 戦史叢書101巻 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯<2>

102 戦史叢書102巻 陸海軍年表 付・兵器・兵語の解説

103 史料集 南方軍政

104 史料集 海軍年度作戦計画

2020-04-03

大人しく本やゲーム増田過ごすゴス田素間でムーヤン北支名と御(回文

おはようございます

サージカルマスク蒸したら殺菌できて何回か使えるのね!

とその情報だけを片手に今日は過ごします。

午前中後渡しの自由時間は15分しかないので、

たぶんこれも40秒で支度するうちの20秒ほどの時間で書き上げなくちゃいけない今日この頃なんだけど、

街は昼間はなんだか人出は変わらないような気もするし、

でも夜はお店も随分早くに閉まっちゃうから

飲みにも行けない盛り場が閉まってるけど、

相反してファストフード店なんかは相変わらず煌々と明かりを灯して24時間元気いっぱいに営業してるじゃない。

もう牛丼屋さんか定食屋さんか、

私の行きつけの食券制のパスタ屋さんでのちょいのみ需要が拡大してるのよ!

意外や意外でしょ?

でも残念ながらドリンクメニューがせいぜいルービーしか無いところが玉に瑕っちゃ瑕なんだけど、

とりあえずの

軽く一杯需要は満たしてくれそうなリーマンたちで一杯よ。

そんなこんなで夜も出歩けないけど

巣ごもり消費もいずれ爆発しそうな

自粛づかれもそろそろ出てきそうな昨今、

私は私でもしそうなったら1人の事務所閉店ガラガラシャッター閉めて、

家でゲームしたり本を読んだりしたり、

高校生の頃に勉強し損なった対数の本とかを読んでお利口になりたいところよ。

とりあえず、

雑誌ニュートンを挟んで色々な雑誌を買っておけば

買うだけで知的さアップできるから

オススメよ!

本屋レジで何冊か買う本の一番上にニュートンを置くと明らかにからさまなので、

2冊目ぐらいのところに挟んでレジ持って行けば、

お利口さを自然に出せるからやってみてね!

そろそろ出掛けるので今日はここまでよ。

うふふ。


今日朝ご飯

シャキシャキレタスサンドタマサンド

世の中の様子とは関係なく今日もシャキシャキレタスサンド

抜群のシャキシャキさ加減をもってして、

美味しく私の胃袋に収めたところで

またさらタマサンドを決める!と言うほぼいつものローテーションのルーチンよ。

美味しいものでも食べてQOLしたいところよ。

デトックスウォーラー

新しいちょっといい緑茶の茶葉買ってミルで擂り擂りしたいところだけど、

今あるお茶っ葉を全部使ってからにしようと思うので、

全力でホッツ緑茶ウォーター急須で煎れたところよ。

急須の持ち手のとっての中に水が溜まってちゃぽちゃぽするのがずっと気になってます

ここ水抜いて欲しいわ!


すいすいすいようび~

今日も頑張りましょう!おー!

2020-02-25

翳(原民喜

センター試験話題になったけど、全文読めるところが見つからなかったので)

底本:原民喜戦後小説 下(講談社文芸文庫1995年8月10日第1刷発行

     I

 私が魯迅の「孤独者」を読んだのは、一九三六年の夏のことであったが、あのなかの葬いの場面が不思議に心を離れなかった。不思議だといえば、あの本——岩波文庫魯迅選集——に掲載してある作者の肖像が、まだ強く心に蟠(わだかま)るのであった。何ともいい知れぬ暗黒を予想さす年ではあったが、どこからともなく惻々として心に迫るものがあった。その夏がほぼ終ろうとする頃、残暑の火照りが漸く降りはじめた雨でかき消されてゆく、とある夜明け、私は茫とした状態で蚊帳のなかで目が覚めた。茫と目が覚めている私は、その時とらえどころのない、しかし、かなり烈しい自責を感じた。泳ぐような身振りで蚊帳の裾をくぐると、足許に匐っている薄暗い空気を手探りながら、向側に吊してある蚊帳の方へ、何か絶望的な、愬(うった)えごとをもって、私はふらふらと近づいて行った。すると、向側の蚊帳の中には、誰だか、はっきりしない人物が深い沈黙に鎖されたまま横わっている。その誰だか、はっきりしない黒い影は、夢が覚めてから後、私の老い母親のように思えたり、魯迅の姿のように想えたりするのだった。この夢をみた翌日、私の郷里からハハキトクの電報が来た。それから魯迅の死を新聞で知ったのは恰度亡母の四十九忌の頃であった。

 その頃から私はひどく意気銷沈して、落日の巷を行くの概(おもむき)があったし、ふと己の胸中に「孤独者」の嘲笑を見出すこともあったが、激変してゆく周囲のどこかにもっと切実な「孤独者」が潜んでいはすまいかと、窃(ひそ)かに考えるようになった。私に最初孤独者」の話をしかけたのは、岩井繁雄であった。もしかすると、彼もやはり「孤独者」であったのかもしれない。

 彼と最初に出逢ったのは、その前の年の秋で、ある文学研究会の席上はじめてSから紹介されたのである。その夜の研究会は、古びたビルの一室で、しめやかに行われたのだが、まことにそこの空気に応(ふさ)わしいような、それでいて、いかにも研究会などにはあきあきしているような、独特の顔つきの痩形長身青年が、はじめから終りまで、何度も席を離れたり戻って来たりするのであった。それが主催者の長広幸人であるらしいことは、はじめから想像できたが、会が終るとSも岩井繁雄も、その男に対って何か二こと三こと挨拶して引上げて行くのであった。さて、長広幸人の重々しい印象にひきかえて、岩井繁雄はいかにも伸々した、明快卒直な青年であった。長い間、未決にいて漸く執行猶予最近釈放された彼は、娑婆に出て来たことが、何よりもまず愉快でたまらないらしく、それに文学上の抱負も、これから展望されようとする青春とともに大きかった。

 岩井繁雄と私とは年齢は十歳も隔たってはいたが、折からパラつく時雨をついて、自動車を駆り、遅くまでSと三人で巷を呑み歩いたものであった。彼はSと私の両方に、絶えず文学の話を話掛けた。極く初歩的な問題から再出発する気組で——文章が粗雑だと、ある女流作家から注意されたので——今は志賀直哉のものノートし、まず文体研究をしているのだと、そういうことまで卒直に打明けるのであった。その夜の岩井繁雄はとにかく愉快そうな存在だったが、帰りの自動車の中で彼は私の方へ身を屈めながら、魯迅の「孤独者」を読んでいるかと訊ねた。私がまだ読んでいないと答えると話はそれきりになったが、ふとその時「孤独者」という題名で私は何となくその夜はじめて見た長広幸人のことが頭に閃いたのだった。

 それから夜更の客も既に杜絶えたおでん屋の片隅で、あまり酒の飲めない彼は、ただその場の空気に酔っぱらったような、何か溢れるような顔つきで、——やはり何が一番愉しかったといっても、高校時代ほど生き甲斐のあったことはない、と、ひどく感慨にふけりだした。

 私が二度目の岩井繁雄と逢ったのは一九三七年の春で、その時私と私の妻は上京して暫く友人の家に滞在していたが、やはりSを通じて二三度彼と出逢ったのである。彼はその時、新聞記者になったばかりであった。が、相変らず溢れるばかりのもの顔面に湛えて、すくすくと伸び上って行こうとする姿勢で、社会部入社したばかりの岩井繁雄はすっかりその職業が気に入っているらしかった。恰度その頃紙面を賑わした、結婚直前に轢死(れきし)を遂げた花婿の事件があったが、それについて、岩井繁雄は、「あの主人公は実はそのアルマンスだよ」と語り、「それに面白いのは花婿の写真がどうしても手に入らないのだ」と、今もまだその写真を追求しているような顔つきであった。そうして、話の途中で手帳を繰り予定を書込んだり、何か行動に急きたてられているようなところがあった。かと思うと、私の妻に「一たい今頃所帯を持つとしたら、どれ位費用がかかるものでしょうか」と質問し、愛人が出来たことを愉しげに告白するのであった。いや、そればかりではない、もしかすると、その愛人同棲した暁には、染料の会社設立し、重役になるかもしれないと、とりとめもない抱負も語るのであった。二三度逢ったばかりで、私の妻が岩井繁雄の頼もしい人柄に惹きつけられたことは云うまでもない。私の妻はしばしば彼のことを口にし、たとえば、混みあうバスの乗降りにしても、岩井繁雄なら器用に婦人を助けることができるなどというのであった。私もまた時折彼の噂は聞いた。が、私たちはその後岩井繁雄とは遂に逢うことがなかったのである

 日華事変が勃発すると、まず岩井繁雄は巣鴨駅の構内で、筆舌に絶する光景を目撃したという、そんな断片的な噂が私のところにも聞えてきて、それから間もなく彼は召集されたのである。既にその頃、愛人と同居していた岩井繁雄は補充兵として留守隊で訓練されていたが、やがて除隊になると再び愛人の許に戻って来た。ところが、翌年また召集がかかり、その儘前線派遣されたのであった。ある日、私がSの許に立寄ると、Sは新聞第一面、つまり雑誌新刊書の広告が一杯掲載してある面だけを集めて、それを岩井繁雄の処へ送るのだと云って、「家内に何度依頼しても送ってくれないそうだから僕が引うけたのだ」とSは説明した。その説明は何か、しかし、暗然たるものを含んでいた。岩井繁雄が巣鴨駅で目撃した言語に絶する光景とはどんなことなのか私には詳しくは判らなかったが、とにかく、ぞっとするようなものがいたるところに感じられる時節であった。ある日、私の妻は小学校の講堂で傷病兵慰問の会を見に行って来ると、頻りに面白そうに余興のことなど語っていたが、その晩、わあわあと泣きだした。昼間は笑いながら見ものが、夢のなかでは堪らなく悲しいのだという。ある朝も、——それは青葉と雨の鬱陶しい空気が家のうちまで重苦しく立籠っている頃であったが——まだ目の覚めきらない顔にぞっとしたものを浮べて、「岩井さんが還って来た夢をみた。痩せて今にも斃れそうな真青な姿でした」と語る。妻はなおその夢の行衛を追うが如く、脅えた目を見すえていたが、「もしかすると、岩井さんはほんとに死ぬるのではないかしら」と嘆息をついた。それは私の妻が発病する前のことで、病的に鋭敏になった神経の前触れでもあったが、しかしこの夢は正夢であった。それから二三ヵ月して、岩井繁雄の死を私はSからきいた。戦地にやられると間もなく、彼は肺を犯され、一兵卒にすぎない彼は野戦病院殆ど碌に看護も受けないで死に晒されたのであった。

 岩井繁雄の内縁の妻は彼が戦地へ行った頃から新しい愛人をつくっていたそうだが、やがて恩賜金を受取るとさっさと老母を見捨てて岩井のところを立去ったのである。その後、岩井繁雄の知人の間では遺稿集——書簡は非常に面白いそうだ——を出す計画もあった。彼の文章が粗雑だと指摘した女流作家に、岩井繁雄は最初結婚を申込んだことがある。——そういうことも後になって誰かからきかされた。

 たった一度見たばかりの長広幸人の風貌が、何か私に重々しい印象を与えていたことは既に述べた。一九三五年の秋以後、遂に私は彼を見る機会がなかった。が、時に雑誌掲載される短かいものを読んだこともあるし、彼に対するそれとない関心は持続されていた。岩井繁雄が最初召集を受けると、長広幸人は倉皇と満洲へ赴いた。当時は満洲へ行って官吏になりさえすれば、召集免除になるということであった。それから間もなく、長広幸人は新京文化方面役人になっているということをきいた。あの沈鬱なポーズ役人の服を着ても身に着くだろうと私は想像していた。それから暫く彼の消息はきかなかったが、岩井繁雄が戦病死した頃、長広幸人は結婚をしたということであった。それからまた暫く彼の消息はきかなかったが、長広幸人は北支で転地療法をしているということであった。そして、一九四二年、長広幸人は死んだ。

 既に内地にいた頃から長広幸人は呼吸器を犯されていたらしかったが、病気の身で結婚生活飛込んだのだった。ところが、その相手資産目あての結婚であったため、死後彼のものは洗い浚(ざら)い里方に持って行かれたという。一身上のことは努めて隠蔽する癖のある、長広幸人について、私はこれだけしか知らないのである

     II

 私は一九四四年の秋に妻を喪ったが、ごく少数の知己へ送った死亡通知のほかに満洲にいる魚芳へも端書を差出しておいた。妻を喪った私は悔み状が来るたびに、丁寧に読み返し仏壇ほとりに供えておいた。紋切型の悔み状であっても、それにはそれでまた喪にいるものの心を鎮めてくれるものがあった。本土空襲も漸く切迫しかかった頃のことで、出した死亡通知に何の返事も来ないものもあった。出した筈の通知にまだ返信が来ないという些細なことも、私にとっては時折気に掛るのであったが、妻の死を知って、ほんとうに悲しみを頒ってくれるだろうとおもえた川瀬成吉からもどうしたものか、何の返事もなかった。

 私は妻の遺骨を郷里墓地に納めると、再び棲みなれた千葉借家に立帰り、そこで四十九日を迎えた。輸送船の船長をしていた妻の義兄が台湾沖で沈んだということをきいたのもその頃であるサイレンはもう頻々と鳴り唸っていた。そうした、暗い、望みのない明け暮れにも、私は凝と蹲ったまま、妻と一緒にすごした月日を回想することが多かった。その年も暮れようとする、底冷えの重苦しい、曇った朝、一通の封書が私のところに舞込んだ。差出人は新潟県××郡××村×川瀬丈吉となっている。一目見て、魚芳の父親らしいことが分ったが、何気なく封を切ると、内味まで父親の筆跡で、息子の死を通知して来たものであった。私が満洲にいるとばかり思っていた川瀬成吉は、私の妻より五ヵ月前に既にこの世を去っていたのである

 私がはじめて魚芳を見たのは十二年前のことで、私達が千葉借家へ移った時のことである私たちがそこへ越した、その日、彼は早速顔をのぞけ、それから殆ど毎日註文を取りに立寄った。大概朝のうち註文を取ってまわり、夕方自転車で魚を配達するのであったが、どうかすると何かの都合で、日に二三度顔を現わすこともあった。そういう時も彼は気軽に一里あまりの路を自転車で何度も往復した。私の妻は毎日顔を逢わせているので、時々、彼のことを私に語るのであったが、まだ私は何の興味も関心も持たなかったし、殆ど碌に顔も知っていなかった。

 私がほんとうに魚芳の小僧を見たのは、それから一年後のことと云っていい。ある日、私達は隣家の細君と一緒にブラブラ千葉海岸の方へ散歩していた。すると、向の青々とした草原の径をゴム長靴をひきずり、自転車を脇に押しやりながら、ぶらぶらやって来る青年があった。私達の姿を認めると、いかにも懐しげに帽子をとって、挨拶をした。

「魚芳さんはこの辺までやって来るの」と隣家の細君は訊ねた。

「ハア」と彼はこの一寸した逢遭を、いかにも愉しげにニコニコしているのであった。やがて、彼の姿が遠ざかって行くと、隣家の細君は、

「ほんとに、あの人は顔だけ見たら、まるで良家のお坊ちゃんのようですね」と嘆じた。その頃から私はかすかに魚芳に興味を持つようになっていた。

 その頃——と云っても隣家の細君が魚芳をほめた時から、もう一年は隔っていたが、——私の家に宿なし犬が居ついて、表の露次でいつも寝そべっていた。褐色の毛並をした、その懶惰な雌犬は魚芳のゴム靴の音をきくと、のそのそと立上って、鼻さきを持上げながら自転車の後について歩く。何となく魚芳はその犬に対しても愛嬌を示すような身振であった。彼がやって来ると、この露次は急に賑やかになり、細君や子供たちが一頻り陽気に騒ぐのであったが、ふと、その騒ぎも少し鎮まった頃、窓の方から向を見ると、魚芳は木箱の中から魚の頭を取出して犬に与えているのであった。そこへ、もう一人雑魚(ざこ)売りの爺さんが天秤棒を担いでやって来る。魚芳のおとなしい物腰に対して、この爺さんの方は威勢のいい商人であった。そうするとまた露次は賑やかになり、爺さんの忙しげな庖丁の音や、魚芳の滑らかな声が暫くつづくのであった。——こうした、のんびりした情景はほとんど毎日繰返されていたし、ずっと続いてゆくもののようにおもわれた。だが、日華事変の頃から少しずつ変って行くのであった。

 私の家は露次の方から三尺幅の空地を廻ると、台所に行かれるようになっていたが、そして、台所の前にもやはり三尺幅の空地があったが、そこへ毎日八百屋、魚芳をはじめ、いろんな御用聞がやって来る。台所の障子一重を隔てた六畳が私の書斎になっていたので、御用聞と妻との話すことは手にとるように聞える。私はぼんやりと彼等の会話に耳をかたむけることがあった。ある日も、それは南風が吹き荒んでものを考えるには明るすぎる、散漫な午後であったが、米屋小僧と魚芳と妻との三人が台所で賑やかに談笑していた。そのうちに彼等の話題は教練のことに移って行った。二人とも青年訓練所へ通っているらしく、その台所前の狭い空地で、魚芳たちは「になえつつ」の姿勢を実演して興じ合っているのであった。二人とも来年入営する筈であったので、兵隊姿勢を身につけようとして陽気に騒ぎ合っているのだ。その恰好おかしいので私の妻は笑いこけていた。だが、何か笑いきれないものが、目に見えないところに残されているようでもあった。台所へ姿を現していた御用聞のうちでは、八百屋がまず召集され、つづいて雑貨屋小僧が、これは海軍志願兵になって行ってしまった。それから豆腐屋の若衆がある日、赤襷をして、台所に立寄り忙しげに別れを告げて行った。

 目に見えない憂鬱の影はだんだん濃くなっていたようだ。が、魚芳は相変らず元気で小豆(こまめ)に立働いた。妻が私の着古しのシャツなどを与えると、大喜びで彼はそんなものも早速身に着けるのであった。朝は暗いうちから市場へ行き、夜は皆が寝静まる時まで板場で働く、そんな内幕も妻に語るようになった。料理の骨(こつ)が憶えたくて堪らないので、教えを乞うと、親方は庖丁を使いながら彼の方を見やり、「黙って見ていろ」と、ただ、そう呟くのだそうだ。鞠躬如(きっきゅうじょ)として勤勉に立働く魚芳は、もしかすると、そこの家の養子にされるのではあるまいか、と私の妻は臆測もした。ある時も魚芳は私の妻に、——あなたそっくり写真がありますよ。それが主人のかみさんの妹なのですが、と大発見をしたように告げるのであった。

 冬になると、魚芳は鵯(ひよどり)を持って来て呉れた。彼の店の裏に畑があって、そこへ毎朝沢山小鳥が集まるので、釣針に蚯蚓(みみず)を附けたものを木の枝に吊しておくと、小鳥簡単に獲れる。餌は前の晩しつらえておくと、霜の朝、小鳥は木の枝に動かなくなっている——この手柄話を妻はひどく面白がったし、私も好きな小鳥が食べられるので喜んだ。すると、魚芳は殆ど毎日小鳥を獲ってはせっせと私のところへ持って来る。夕方になると台所に彼の弾んだ声がきこえるのだった。——この頃が彼にとっては一番愉しかった時代かもしれない。その後戦地へ赴いた彼に妻が思い出を書いてやると、「帰って来たら又幾羽でも鵯鳥を獲って差上げます」と何かまだ弾む気持をつたえるような返事であった。

 翌年春、魚芳は入営し、やがて満洲の方から便りを寄越すようになった。その年の秋から私の妻は発病し療養生活を送るようになったが、妻は枕頭で女中を指図して慰問の小包を作らせ魚芳に送ったりした。温かそうな毛の帽子を着た軍服姿の写真満洲から送って来た。きっと魚芳はみんなに可愛がられているに違いない。炊事も出来るし、あの気性では誰からも重宝がられるだろう、と妻は時折噂をした。妻の病気は二年三年と長びいていたが、そのうちに、魚芳は北支から便りを寄越すようになった。もう程なく除隊になるから帰ったらよろしくお願いする、とあった。魚芳はまた帰って来て魚屋が出来ると思っているのかしら……と病妻は心細げに嘆息した。一しきり台所を賑わしていた御用聞きたちの和やかな声ももう聞かれなかったし、世の中はいよいよ兇悪な貌を露出している頃であった。千葉名産の蛤の缶詰を送ってやると、大喜びで、千葉へ帰って来る日をたのしみにしている礼状が来た。年の暮、新潟の方から梨の箱が届いた。差出人は川瀬成吉とあった。それから間もなく除隊になった挨拶状が届いた。魚芳が千葉へ訪れて来たのは、その翌年であった。

 その頃女中を傭えなかったので、妻は寝たり起きたりの身体台所をやっていたが、ある日、台所の裏口へ軍服姿の川瀬成吉がふらりと現れたのだった。彼はきちんと立ったまま、ニコニコしていた。久振りではあるし、私も頻りに上ってゆっくりして行けとすすめたのだが、彼はかしこまったまま、台所のところの閾から一歩も内へ這入ろうとしないのであった。「何になったの」と、軍隊のことはよく分らない私達が訊ねると、「兵長になりました」と嬉しげに応え、これからまだ魚芳へ行くのだからと、倉皇として立去ったのである

 そして、それきり彼は訪ねて来なかった。あれほど千葉へ帰る日をたのしみにしていた彼はそれから間もなく満洲の方へ行ってしまった。だが、私は彼が千葉を立去る前に街の歯医者でちらとその姿を見たのであった。恰度私がそこで順番を待っていると、後から入って来た軍服青年歯医者挨拶をした。「ほう、立派になったね」と老人の医者は懐しげに肯いた。やがて、私が治療室の方へ行きそこの椅子に腰を下すと、間もなく、後からやって来たその青年助手の方の椅子に腰を下した。「これは仮りにこうしておきますから、また郷里の方でゆっくりお治しなさい」その青年の手当はすぐ終ったらしく、助手は「川瀬成吉さんでしたね」と、机のところのカードに彼の名を記入する様子であった。それまで何となく重苦しい気分に沈んでいた私はその名をきいて、はっとしたが、その時にはもう彼は階段を降りてゆくところだった。

 それから二三ヵ月して、新京の方から便りが来た。川瀬成吉は満洲吏員就職したらしかった。あれほど内地を恋しがっていた魚芳も、一度帰ってみて、すっかり失望してしまったのであろう。私の妻は日々に募ってゆく生活難を書いてやった。すると満洲から返事が来た。「大根一本が五十銭、内地の暮しは何のことやらわかりません。おそろしいことですね」——こんな一節があった。しかしこれが最後消息であった。その後私の妻の病気悪化し、もう手紙を認(したた)めることも出来なかったが、満洲の方からも音沙汰なかった。

 その文面によれば、彼は死ぬる一週間前に郷里に辿りついているのである。「兼て彼の地に於て病を得、五月一日帰郷、五月八日、永眠仕候」と、その手紙は悲痛を押つぶすような調子ではあるが、それだけに、佗しいものの姿が、一そう大きく浮び上って来る。

 あんな気性では皆から可愛がられるだろうと、よく妻は云っていたが、善良なだけに、彼は周囲から過重な仕事を押つけられ、悪い環境機構の中を堪え忍んで行ったのではあるまいか親方から庖丁の使い方は教えて貰えなくても、辛棒した魚芳、久振りに訪ねて来ても、台所の閾から奥へは遠慮して這入ろうともしない魚芳。郷里から軍服を着て千葉を訪れ、晴れがましく顧客歯医者で手当してもらう青年。そして、遂に病躯をかかえ、とぼとぼと遠国から帰って来る男。……ぎりぎりのところまで堪えて、郷里に死にに還った男。私は何となしに、また魯迅作品の暗い翳を思い浮べるのであった。

 終戦後、私は郷里にただ死にに帰って行くらしい疲れはてた青年の姿を再三、汽車の中で見かけることがあった。……

 
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