大友宗麟はキリスト教に接近し、洗礼を受ける前から神社仏閣を破壊した
*大友義鎮(おおともよししげ): 豊後国大友氏第21代当主。永禄5年(1562)に出家し「宗麟」と号した
大友義鎮が豊後の国主となったのは天文19年(1550)のことだが、その翌年にフランシスコ・ザビエルを府内の城中に引見して、キリスト教の教義を聴き、領内での布教を許可したことから、領内でキリスト教の信仰が拡がって行くことになる。
前回の記事で紹介した、山本秀煌氏の『西教史談』にこう記されている。
「これより府内はキリスト教の根拠地となり、宣教師等は此処を中心として各地に伝道することとなった。
こうして各地に伝道した結果、新宗教に帰依する者続々起こり、数年ならずして幾千人の信者を得るに至り、府内・臼杵にキリシタン寺院が建てられ、宣教師の住宅は構えられ、学校・病院・孤児院など、キリスト教の社会的事業もまた大いに勃興するの機運に到達したのである。
しかるに、府内に起こった信者は多くは下級民であった。上流社会の人々は少なかった。それ故に新宗教の勢力も甚だ微弱であったように思われる。…けれども天正5年頃より大友家一族の中にキリスト教に帰依する者が続々起こり、宗麟また受洗するに至り、有力なる家臣の新宗教に加わるもの続出し、信者数万人を数えるに至り、豊後地方は広くキリスト教の行わるる所となったのである。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/963109/50
大友義鎮がザビエルを引見したのは天文20年(1551)のことだが、本人はその後も長らく禅宗に帰依し、永禄5年(1562)に門司城の戦いで毛利元就に敗れた後に出家して「宗麟」と号している。出家して仏門に入ったことで、この時点では宗麟がキリスト教を強く信仰していた可能性は極めて低かったと断じざるを得ない。
ところが天正6年(1577)に島津軍と戦った耳川の戦いの直前に宗麟が宣教師フランシスコ・カブラルから洗礼を受け、48歳の時に正式にキリスト教徒となっているのだが、ザビエルを引見してから洗礼を受けるまでに27年間も年月を要している。
なぜ、洗礼を受けるためにこれだけ長い年月がかかったのだろうか。
山本秀煌氏は前掲書でいくつか理由を挙げているが、1つは宗麟の治める豊後国の国情である。
宗麟は弘治2年(1556)に来日したインドの支部長ヌゲー師より洗礼を受けることを勧められたそうだが、心の中ではキリスト教を弘めたいとの志があるとしつつも、「現下国家多難のときでありまして、その素志を達することが出来ません。…騒乱のあと遂に教法を改めることあらば、彼等この機に乗じ、祖先の教法を廃する者を亡ぼさんと称し、隣境の諸侯と結んで予を攻めんこと必定であります。然るに、私はこれに抗するの威力がありません…」と述べて断ったという。
そもそも大友宗麟の父・義鑑は、義鎮の異母弟である塩市丸に家督を譲ろうと画策し、義鎮の廃嫡を企み義鎮派の粛清を計画していたところを、それを察知した義鎮派重臣が謀反を起こして塩市丸とその母を殺害し義鑑も負傷したという政変が起って、義鎮が家督を継いだという経緯にある。周辺諸国とのあいだにも領土を奪い合う争いがあったが、大友家内部においても多くの対立があり、その上に宗教上の対立を持ち込むことは難しかった事情は理解できる。
宗麟が長い間洗礼を受けなかった理由は、彼の操行や家庭の事情などの指摘もあるのだが、最大の理由はキリスト教への信仰を持たなかったからであると、山本秀煌氏が明確に書いておられる。
ではなぜ、宗麟は信奉すらしていないキリスト教を若い頃から厚遇し、布教を許したのであろうか。
山本氏は前掲書でこう述べている。
「思うに、彼がキリシタンを厚遇したのは、キリシタンと密接の関係ある外国貿易を盛んならしめん為であったに違いない。当時外国より日本に渡って貿易に従事していた者はポルトガル人のみであって、その貿易はキリシタンと離るべからざる関係を有していた故に、外国貿易を奨励せんには、どうしてもキリシタン宣教師を好遇しなくてはならなかったのである。
…
天下に覇たらんとするに当たって、まず必要なるものは軍用金の調達であった。併せて武器の精鋭なることであった。而してこれを得るには外国貿易を奨励するほかはなかった。是れ彼がポルトガル商人を招待し、家臣を海外へ派遣し、以て武器を購入した所以(ゆえん)である。彼が大友の主君となってから数年にして、九州のうち6か国を掌握するに至ったのは、将士の忠誠にあずかって力があったのは無論であるが、またその資金の豊富なることと武器の精鋭なるとにあったことは、今改めてここに特筆するを要しない。当時国崩しと称した大砲の如きは、恐らく大友氏の専有であって、他にその類がなかったであろう。後年宗麟の居城丹生島(にぶじま)城が薩軍の猛撃を受けて落城しなかったのは、ただに要害が堅固であったばかりでなく、またその国崩しの威力が与って力のあったのは疑うことが出来ない。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/963109/55
Wikipediaによると、宗麟は貿易によって得た利益を用いて室町幕府13代将軍・足利義輝に接近し、永禄2年(1559)には幕府より豊前国、筑前国の守護に任じられ、さらに九州探題に補任され、翌年には左衛門督に任官し、大内家の全盛期を創出した。
しかしながらに永禄10年(1567)以降、毛利元就が北九州に触手を伸ばすようになり、毛利氏との戦いが始まる。
宗麟は宣教師に鉄砲に用いる火薬の原料である硝石の輸入を要請し、その理由として「自分はキリスト教を保護する者であり毛利氏はキリスト教を弾圧する者である。これを打ち破る為に大友氏には良質の硝石を、毛利氏には硝石を輸入させないように」との手紙を出したという。
その後、永禄12年(1569)毛利元就を安芸国に撤退させるも、翌年に肥前で龍造寺隆信に大敗し、さらには天正5年(1577)に薩摩国の島津義久が日向国に侵攻を開始した。宗麟が洗礼を受けたのはこの年である。
薩摩との戦いに勝利するためには、大量の武器弾薬が不可欠である。そのために宗麟は、宣教師の要求に応えざるを得なくなる。山本氏の前掲書の解説を引用する。
「宗麟が神社・仏閣を破棄し、山伏・僧侶を追放した中で、最も有名なるものは、萬壽寺の焼打ちと彦山の攻撃との2つである。前者は元亀元年(1570)であって、後者は天正5年*(1577)の出来事である。2つとも彼がキリスト教に改宗しない前であったことは注目すべきことである。
大友記にいっている。
『宗麟公はキリシタンに帰依せられ、神仏は我宗の魔なり。然れば国中の大社・大寺、一宇も残さず破却せよとて、一番に住吉大明神の社を、山森紹應に仰せ、焼拂いはせで打ち崩す。次に萬壽山破壊の承りは、橋本正竹にして、彼の寺へ行向い、山門より火をかける。時しも辻風烈しく吹きかけて、回廊・本堂に燃えければ、仏僧・経論・聖経、忽ちに寂滅の煙と立ち昇る。…
尚も宗麟より吉弘内蔵助に国中の神佛薪にせよと仰せつければ、山々在々に走り回りて、神佛尊容を薪にす』云々。
また有名なる彦山退治の記事がある。曰く
『彦山退治とて、清田鎮忠に三千の兵を相添え遣わさる。山中三千の山伏、身命を棄てて防ぐといえども、鎮忠上宮まで責めのぼり、一宇も残らず灰燼になす。掛りたる処に山伏二名高声に叫ばわり、大友宗麟7代までの怨霊とならんと、罵詈して、腹かき切り、猛火の中へ飛び入りける』云々」
*天正5年: 彦山焼打ち時期は『豊筑乱記』には天正4年(1576)とあるようだ。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/963109/57
少し補足すると、萬壽寺という寺は、平安時代に今の大分市元町付近に建てられた寺で、その後衰退したが徳治元年(1306)大友家第五代当主大友貞親が再興したという。
『群書類従. 第拾四輯』に『大友記』の原文があるが、そこには萬壽寺の焼打ちについて
「方八町の寺内に三百余箇所の大伽藍。甍を並べ建てたるを、只一片の煙となす。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879783/335
と記されている。
800m四方の境内に300以上の大伽藍があったというから随分大きな寺であったようだが、この寺はその後天正10年(1582)にも大友宗麟の嫡男である大友義統(よしむね)に焼かれて、寺社領が没収され家臣の恩賞とされたという。
「彦山」は今では「英彦山」と記されるが、中世以降は山伏の修験道場の行場となり、戦国時代の盛時には、山中の衆徒三千の坊舎があり、大名に匹敵する兵力を保持していたのだそうだ。
その彦山の衆徒が、キリシタンを支援する大友氏と敵対するようになったことは当然の成り行きだと思うのだが、秋月氏と彦山が通じたことに宗麟が怒り、天正4年4月に清田鎮忠、上野鎮俊を大将として4300人の兵を彦山に出陣させている。しかしこの時は山の腰を囲んだだけで山上には攻め上がらなかったようだ。
しかしながら、宗麟が洗礼を受けた後の天正9年(1581)には徹底的に彦山を破壊している。
山本氏の解説を再び引用する。
「天正9年になって、終に山上に攻め上がり、権現の社頭を始め、僧坊民屋に至るまで、一宇も残さず焼き払い、仏像・祭器・経巻等に至るまで、悉くこれを焚滅してしまったのは、かなり痛切な悲惨事であった。…一山の衆徒の遁走せし者が、大友家の敵たる島津・秋月の軍に投じて種々の讒言を放ち。『豊府の宗室大臣等は皆異教を奉じ、寺観・祠廟を毀ち、神主仏像を火中に投じた』と言い放ち、邪宗徒征伐を宣伝されたということは、大友家にとって少なからず打撃であった、」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/963109/62
しかしながら、大友宗麟が洗礼を受けた後の大友家は衰退の一途をたどっている。
天正6年(1578)に耳川の戦いで島津軍に大敗し、多くの重臣を失った。
天正7年(1579)頃からは、蒲池氏・草野氏・黒木氏などの筑後の諸勢力が大友氏の影響下から離れ、領内の各地で国人の反乱が相次ぎ、さらに島津義久や龍造寺隆信、秋月種実らの侵攻もあって大友氏の領土は次々と侵食されていく。
天正15年(1587)に島津義久の攻撃で大友氏の滅亡寸前まで追い詰められるも、豊臣秀長率いる豊臣軍10万が九州に到着し、さらに秀吉も10万の兵を率いて九州平定に出陣し、各地で島津軍を破っていく中で宗麟は病に倒れ58歳でこの世を去っている。
宗麟の葬儀はキリスト教式で行われ、自邸に墓が設けられたそうだが、後に嫡男の義統が改めて府内の大知寺で仏式の葬儀を行い墓地も仏式のものに改めたという。
九州平定後は秀吉の命令で義統には豊後一国を安堵されたのだが、大友宗麟はキリスト教に接近し、宣教師の言う通りに神社仏閣を破壊したことを、最後に後悔してはいなかったか。
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