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毛利元就の「三本の矢」の教えはいつの時代の創作なのか

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Category戦国武将
毛利元就と言えば、「三矢の訓(おしえ)」が有名だ。

毛利元就

元就の臨終の床で、長男隆元(たかもと)、次男吉川元春(きっかわもとはる)、三男小早川隆景(こはやかわたかかげ)の三人の息子を枕元に呼び寄せて、矢を一本ずつ与えて「折ってみよ」と命じ、息子たちが難なくこれを折った。
今度は三本の矢を束にして、また「折ってみよ」と命じたところ、息子たちは誰もこれを折ることが出来なかった。
元就は一本では脆い矢も束になれば頑丈になることを示し、毛利家も三兄弟が結束すれば、他国から攻められることはないと訓えたという話だ。

三本の矢人形

この「三矢の訓」の話はテレビでも何度か子役が出てくるのを見たような記憶があり、人形や絵などでも見たことがあるので私も長い間本当にあった話だと信じていたが、最近になって友人からこの話は、時代背景からあり得ないことを教えてもらった。

まず、毛利元就がなくなったのは元亀二年(1571)で、享年75歳であった。
長男の隆元は、それより8年前の永禄六年(1563)に尼子攻めに参加する途上で41歳で急死しているので、元就の臨終の床にいる事はあり得ない。
また、元就の臨終の時に、次男の元春は41歳、三男の隆景は38歳の壮年ということになる。三本の矢を折れないのが少年であれば理解できるが、この年齢の男性なら三本の矢を束ねたくらいならそのままへし折ってしまうだろう。
だから、毛利元就の臨終の床での場面設定は明らかに作り話である。

また毛利元就の子供は3人ではなく実は12人いた。男10人女2人の子沢山である。なぜ、「三本の矢」なのかと、調べるといろんな疑問が湧いてくる。

では、このような作り話がいつ頃から流布したのだろうか。
ネットでいろいろ探すと、中国新聞の特集記事が見つかった。この話が広まったのはどうやら明治時代の教科書がきっかけらしいのだ。
http://www.chugoku-np.co.jp/Mouri/Mr97041801.html
このサイトを読むと、明治15年(1882)編纂の道徳教育書「幼学綱要」にこんな話が登場していると書いてある。

毛利元就病てまさに死せんとす。諸氏を前に召し、其子の数の矢を束ねて力を極めて之を折れども断えず。また其一条を抜き、随って折れば随って断ゆ。曰く、兄弟はこの矢の如し。和すれば則ち相依って事をなし、和せざれば則ち各々敗る…」。
と、ここでは矢の話が出てくるが兄弟の人数も名前も記されていない。

また大正8年(1919)文部省編纂の「尋常小学読本」にも良く似た話が出てくるのだが、ここでは「父のおしえ」と言う表題で、毛利元就の名前も記されていないそうだ。
中国新聞のこの記事ではこの話が、長男隆元、二男元春、三男隆景に矢を折らす「三矢の訓」に変化したかははっきりしないと書いてある。

自宅の本棚から小学館文庫の「精選『尋常小学修身書』」を取り出して確認すると、昭和9年の「尋常小学修身書」が掲載されていて、ここではこうなっている。

「…元就には、隆元・元春・隆景という三人の子があって、元春・隆景は、それぞれ別の家の名を名のることになりました。元就は、三人の子が、先々はなればなれになりはせぬかと心配して、いつも『三人が一つ心になって助け合うように。』といましめて居ましたが、或る時、三人に一つの書き物を渡しました。…」(p337)

と、今度はどこにも矢の話が出て来ないのだ。「三矢の訓」は明治時代の「幼学綱要」から大正・昭和の「尋常小学校修身書」が混ぜ合わさったような話になっていることがわかる。

昭和9年の「尋常小学修身書」に書いてあることは、概ね史実に基づいたものである。
毛利元就は弘治三年(1557)11月25日に隆元・元春・隆景三兄弟の結束を説く14ヶ条からなる教訓状を残しているのだ。

三子教訓状

この「三子教訓状」は国の重要文化財に指定されていて、現在山口県防府市の毛利博物館に収蔵されている。

原文は次のURLで、
http://www5d.biglobe.ne.jp/~dynasty/sengoku/tegami/m405.htm
現代語訳は次のURLで読む事が出来る。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%AD%90%E6%95%99%E8%A8%93%E7%8A%B6

これを読むと、毛利元就が言っている事は、矢の話はないものの、「三矢の訓」に近い内容であることがわかる。

(口語訳)
「第三条
改めて述べるまでもないことだが、三人の間柄が少しでも分け隔てがあってはならぬ。そんなことがあれば三人とも滅亡すると思え。諸氏を破った毛利の子孫たる者は、特によその者たちに憎まれているのだから。たとえ、なんとか生きながらえることができたとしても、家名を失いながら、一人か二人が存続していられても、何の役に立つとも思われぬ。そうなったら、憂いは言葉には言い表わせぬ程である。

第四条
隆元は元春・隆景を力にして、すべてのことを指図せよ。また元春と隆景は、毛利さえ強力であればこそ、それぞれの家中を抑えていくことができる。今でこそ 元春と隆景は、それぞれの家中を抑えていくことができると思っているであろうが、もしも、毛利が弱くなるようなことになれば、家中の者たちの心も変わるものだから、このことをよくわきまえていなければならぬ。


第六条
この教えは、孫の代までも心にとめて守ってもらいたいものである。そうすれば、毛利・吉川・小早川の三家は何代でも続くと思う。しかし、そう願いはするけれども、末世のことまでは、何とも言えない。せめて三人の代だけは確かにこの心持ちがなくては、家名も利益も共になくしてしまうだろう。…」

次男の小早川隆景には子供がなく、豊臣秀吉の甥・羽柴秀俊が養子となり小早川秀秋をなのるも嗣子なくして病没し小早川家は断絶したのだが、毛利元就が第六条で述べたとおり毛利家も吉川家は戦国時代から江戸時代、明治時代を生き抜き今も続いている。毛利元就の想いが子孫に伝わったということなのか。

三矢の訓」は誰が聞いてもいい話で、わかりやすくて含蓄がある。
しかし、子供に道徳を教えるためにいい話をわかりやすくしようとして、明治時代に史実を曲げてしまったことは良くなかった。教科書で一度でもそういうことをすると、長い間に史実でないことが日本人の常識となってしまう。

三矢の訓跡碑

広島県安芸高田市吉田町の「少年自然の家」の敷地は毛利元就の居館跡と伝えられているが、この場所は以前大江中学校(昭和43年[1968]に廃校)の敷地であった。

校地内に毛利元就の居館があったことから、当時の中学校生徒会の手で昭和31年に「三矢の訓跡」の碑が建てられてそれが今も残っている。

サンフレッチェ広島

サッカーJリーグの「サンフレッチェ広島」というチーム名は、「サン」は日本語の「三」、「フレッチェ」はイタリア語の「矢」を意味し、この「三矢の訓」にちなんだものであることは言うまでもない。

「三矢の訓」が作り話であることがわかっていれば、大江中学校の生徒会が碑を作ることもなかったであろうし、広島のサッカーチーム名も異っていたことであろう。 史実と異なる話を創作して伝えたことの罪は本当に重いと思う。
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4Comments

一読者  

元就の三子

元就はあの昔の大大名には珍しく、正妻(吉川氏)が生きているうちは妾をおいていなかったようです。あの三兄弟(及び娘一人)は正妻の生んだ子供で、下の子供たちとは年が全然違うのです。ですからこの三兄弟だけのエピソードがたくさん残っているわけなのです。

元就は手紙魔でして、家族に宛てた手紙も大量に残っているようです。また自分が出した手紙はすべてコピーを取っていたらしいです。昔の人の几帳面さには驚きますね。

2016/07/26 (Tue) 12:23 | EDIT | REPLY |   

しばやん  

Re: 元就の三子

一読者さん、コメントありがとうございます。

随分毛利元就にお詳しいですね。そんなに元就の書いた手紙が残っていることは知りませんでした。

戦国時代のことは、いままで不勉強だったので、もっと勉強して記事を増やしていきます。

2016/07/26 (Tue) 19:57 | EDIT | REPLY |   

一読者  

特に元就に詳しいわけではないのですが、地元の人間なので、毛利氏関係の本を見るとついつい買って読んでみるし、地元の人間としての基礎知識が少しあるところへ読むので、頭に残りやすいというところでしょうか。覚えなくてもいいことをたくさん覚えてしまいました。

X「生んだ」--> 「産んだ」
の漢字の間違いをあとで気づいて、「西軍についた毛利氏と島津氏の家康に対する交渉力の違い」の記事へのコメントのほうへ間違って追加してしまっていることに気づきました。申し訳ありません。

2016/07/27 (Wed) 00:30 | EDIT | REPLY |   

しばやん  

Re: タイトルなし

了解です。

どの分野でも、基礎的な知識を吸収すると、その関連分野に興味の範囲が広がることがよくあります。
自分が面白いと思って学んだことは、しっかり頭に残りますね。

2016/07/27 (Wed) 07:38 | EDIT | REPLY |   

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