蒲生氏郷が毒殺されたという説を考える
蒲生氏郷を郷土の誇りとして顕彰するために、大正八年(1919)日野町の上野田・ひばり野に 蒲生氏郷公像が建設されたのだが、昭和一九年(1944)に武器生産に必要な金属資源の不足を補うため供出されてしまったため、地元の多くの人々の尽力と協賛のもとに昭和六三年(1988)に再建され た。
右手には筆を持ち、左手には紙を持っているようなのだが、日野観光協会のHPによると、「文禄元年(1592)名護屋陣に向かう途中、中山道武佐の宿より郷土日野を望み、『思ひきや 人のゆくへぞ定めなき わがふるさとを よそに見んとは』の歌を詠む氏郷の姿を写したものです。」と解説されている。
ところが、氏郷は朝鮮出兵・文禄の役に参陣したのち肥前名護屋城陣中で下血し、以降体調を崩して、文禄四年(1595)に40歳の若さでこの世を去っている。
蒲生氏郷は日野に生まれ育ったのだが、日野城主であったのは天正十年(1582)から天正十二年(1584)とかなり短く、蒲生氏郷が伊勢国松ヶ島に転封されて日野を去ったのは28歳であった。
若くして日野を去ったにもかかわらず故郷に名を残した蒲生氏郷が、どのような人物であり、どんな人生を送ったのかを最初に振り返っておこう。
蒲生氏郷は弘治二年(1556)年に六角義賢(ろっかくよしかた)の重臣であった蒲生賢秀(かたひで)の三男として近江国蒲生郡日野に生まれ、幼名は鶴千代と名付けられた。
永禄十一年(1568)に足利義昭を奉じて上洛の途にあった織田信長と近江守護である六角義賢・義治父子との間で行なわれた観音寺城の戦いで六角氏が滅亡すると、賢秀は鶴千代を人質に差し出して織田信長に臣従したという。ところが、この時十三歳であった鶴千代が織田信長に気に入られることになる。
『名将言行録』にはこう記されている。
「信長これを見て、蒲生が子眼晴常ならず、尋常の者にはあるまじ。天晴(あっぱれ)なる若者哉。信長が娘に合わせんとて、岐阜城に止め、弾正忠*の一字を賜わり名を忠三郎と賜う。
信長の前にて、毎度武辺の談論あり。氏郷年十三。常に座に在り、深更に及ぶといえども、終に倦怠することなく、一心不乱に語る者の口本(くちもと)を守り居たり。稲葉貞通(さだみち)これを見て、蒲生が子は尋常の者にあらず、彼にして一廉(ひとかど)勝れたる武勇の者に成らずんば、成る者はあるまじきと言われけり。
(永禄)十二年八月、信長、大河内の城に発向す。氏郷年十四。ただ一人抜掛し、多勢の中に戦い、能き首取りて帰る。信長大に感じ、自ら打鮑取りて賜わりけり。是より大小の戦功、数うるに遑(いとま)あらずや。」
*弾正忠家:戦国時代の尾張国守護代、清洲織田氏(大和守家)に仕える清州三奉行の一つに織田弾正忠家があり、織田信長はこの家系に属する。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1043026/39
氏郷は、初陣で戦果を挙げたのち信長の次女を娶って日野に帰国し、元亀元年(1570)の朝倉攻めや姉川の戦い、天正3年(1575)の長篠の戦いなどに従軍して、数多くの武功を挙げている。
【安土城】
天正十年(1582)に本能寺の変が起こった時に、日野城で事変の情報を聞いた氏郷は安土城にいた父・賢秀に連絡し、城内にいた信長の一族を安土城から日野城に移動させてお守りしている。そののち賢秀から家督を継いだというが、氏郷はその年の12月に十二ヶ条の掟を日野城下に出して、今までの独占販売権、非課税権などの特権を持つ商工業者を排除して自由な取引市場をつくり、新興商工業者を育成して地域経済の活性化を図ろうとしたのである。
信長亡き後は、氏郷は秀吉に付くこととなり、天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いの際は秀吉軍撤退の殿(しんがり)を務め、戦いのあとで12万石に加増されて伊勢松ヶ島に転封となっている。したがって蒲生氏郷は、日野城主としては2年程度務めたにすぎないということになる。ついでに言うと、氏郷の実子2人はいずれも早世し、長男の子も早死にしたために蒲生家は寛永十一年(1634)に断絶となっているのである。
【仁正寺藩邸跡】
一方、蒲生家の居城であった日野城は、関ヶ原の戦いののち廃城となり、慶長十一年(1606)に破却されているが、元和6年(1620)に市橋長政が仁正寺藩を立藩して日野城の跡地に藩邸を建設し、その後明治四年(1871)まで251年もの間、市橋家が日野を治めている。
日野の人々にとっては市橋家のほうがはるかに長い付き合いであったことになるのだが、「郷土の誇り」とする人物を選ぶとなると、今も蒲生氏郷の名が最初に挙がるようなのだ。
その理由は、彼の人望の高さもあるのだろうが、任期中もまた転封後も、日野商人に便宜をはかることで、日野を豊かにしたことが大きいのだと思う。
前回の記事でも紹介した通り、天正十二年(1584)に蒲生氏郷が伊勢松ヶ島に転封されると、日野商人達は氏郷を追うようにしてその地に一街区を拓いて移り住み、さらに氏郷が天正十八年(1590)に陸奥国会津に転封されると、再び氏郷に従って商圏を拡大していったことが記録に残されている。
【豊臣秀吉】
ところで、秀吉が氏郷を遠国の陸奥国会津に移封したのはなぜなのか。
『名将言行録』にはこう記されている。
「…秀吉諸将を会し、会津は関東の要地なり。勝れたる一将を撰みて鎮圧せしめずんばならぬ地なり。汝ら遠慮なく意見を記して見すべしと言わる。細川越中守忠興、然るべしと言う者十人には九人あり。秀吉これを見て、汝ら愚かもまた甚だし。我天下を容易く得しことは理わりなり。この地は蒲生忠三郎ならでは置くべき者なしとありて、氏郷に90万石を賜う。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1043026/42
要するに、伊達政宗に対する備えとして蒲生氏郷が適任であると秀吉が判断したというのだが、『名将言行録』には秀吉が氏郷を上方から遠ざけた別の理由も記されている。
「氏郷、会津へ行く時、秀吉袴を脱ぎ氏郷に着せられ、自ら氏郷の袴を着らる。さて氏郷奥州へ行くことを如何存じおりしやと尋ねられければ、近臣殊の外迷惑がり候と申す。秀吉聞きて、いかにも左あるべし。こちに置きては怖ろしき奴なり。故に奥州に遣わすとぞ言われけり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1043026/42
秀吉は信長が認めた器量人である氏郷を恐れて、上方から遠ざけたことは充分あり得る話だと思う。氏郷自身も、会津転封を命ぜられた際に、恩賞を賜るなら小国でも西国をと望んでいたのに、辺境では天下取りの機会が失われると悲しみ涙を流したと伝わっている。
『名将言行録』を読み進んでいくと、蒲生氏郷が毒殺されたと記されている。
文中の「九戸役」とは、天正十九年(1591)、南部氏一族の有力者である九戸政実が、南部家当主の南部信直および奥州仕置を行う豊臣政権に対して起こした反乱である。
【石田三成】
「九戸役の後、石田三成、都へ帰り、ひそかに秀吉に申様、此度氏郷が軍容を視侍るに、尋常の人には候わず、彼の軍行七日が程引きも切らず、然るに一人も軍法を犯す者候わず、この人殿下の御為に、二心を懐かざらんには、かかる御固また餘にもあるべからず、心得させ給いて然るべき人なりと申ししかば、密に毒を与えられぬ。之に依り忽ちに病に犯されて終に空く成りにける。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1043026/49
氏郷は天正十八年(1590)十一月にも葛西大崎一揆鎮圧に向かう途中で伊達政宗から誘いを受けた茶席で毒を盛られ、帰って急いで毒を吐いたことが『氏郷記』に記されている。この書物も国立国会図書館デジタルコレクションに公開されており、誰でもPCで読むことが出来る。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771450/91
先ほど紹介した『名将言行録』の記述は『氏郷記』の次の部分を参考に書かれたものと思われるが、重要な部分なので引用させていただく。
「爰(ここ)に石田治部少輔三成は、昔の梶原平三景時に越えたる讒臣*なり。ある時潛(ひそか)に太閤へ申されけるは、…会津宰相こそ謀も勝れ、能き侍をも数多持ちて候え。先年九戸一乱の砌罷下りて、彼が計略を見候に、軍勢を七日路に続け、その人数仕い法度の品々、目を驚かし候いつる。かかる良将を愛して置かせ給わば、養虎の愁、踵(きびす)を廻(めぐら)すべからずとぞ申しける。太閤相国秀吉公も、常々訝(いぶかし)く思召しけるに、かく言上しければ、彼氏郷を失わん談合評定取々なり。…氏郷は、錐袋にたまらぬ風情にて、一言の端も、人に指を指されじと嗜まれしかば、太閤斯様に思召すも、余儀なくぞ覚えし。されどまた忠功第一の人なれば、如何ともすべきようなかりけり。然れば唯人知れず害毒せよとて、ある時毒を飼い給いしとかや。此毒や祟りけん、去朝鮮征伐の頃も、下血を病まれけり。猶それより以下(このかた)、気色常ならず、面黄黒にして、項頸(うなじ)の傍ら肉少なく、目の下微(すこ)し浮腫(はれ)しかば、去りし秋の頃、法眼正純を召して、養生薬を用いられしが、其後腫脹弥(いよいよ)甚しかりければ、去年名護屋にて宗叔が薬相当しけるとて、又彼を召して、薬を用いられしかども、更に其験なかりけり。同十二月朔日、太閤如何思召しけん。江戸大納言加賀中納言へ仰付けられて、諸医を召し、氏郷の脈を見せよとありければ、両人承って、竹田半井道三以下の名医を集め、脈を見せられけるに、各大事にて候とぞもうしける。明くる文禄四年正月迄、宗叔薬を盛りけれども、氏郷次第に気力衰えしかば、それより道三の薬を用いられけり。されども早叶わずして、同二月七日、生年四十歳と申すに、京都にて朝の露と消えられけり。」
*讒臣(ざんしん):讒言して主君におもねる臣下
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771450/123
【肥前名護屋城】
『氏郷記』は『名将言行録』よりかなり具体的に記されていて理解しやすいのだが、この記述が正しいとすると、石田三成が秀吉に讒言して氏郷に毒を盛った時期は、「九戸役」が終結した天正十九年(1591)の秋から朝鮮出兵(文禄の役)が起きた文禄元~二年(1592~3)までということになる。
そして、その毒が原因となって、文禄の役に参陣した氏郷が肥前名護屋で下血し、その後、外見からも重病であることが窺える症状が出たという。
屈強な武士が40歳という若さで体調を崩して命を落とすことは考えにくく、毒殺されたとする説があっても何も不思議なことではではないのだが、氏郷が亡くなったのは文禄四年(1595)二月なので、石田三成に毒を盛られたにしては結構長く生きていることが気になるところである。
では、通説ではどうなっているかを調べると、氏郷は毒殺ではなく、病気で死んだことになっているようだ。
一般的に事実の不存在の立証は『悪魔の証明』とされて難しいものなのだが、何を根拠にして毒殺説を否定しているのだろうか。
Wikipediaには、こう解説されている
「豊臣秀吉(『氏郷記』)や石田三成(『石田軍記』、『蒲生盛衰記』)などによる毒殺説もあるが、下記の理由により否定されている。
秀吉は氏郷の治療にあたり、施薬院全宗が医師団を指揮し、曲直瀬玄朔、一鷗軒宗虎を長老格とする9名の医師団による輪番治療を行わせた。曲直瀬玄朔(まなせげんさく)が残したカルテ『医学天正記』には文禄の役へ出兵の途中、文禄2年(1593年)に名護屋城で発病し、文禄4年(1595年)に没するまで、3年間患い症状が出たと記されている。腹水がたまり、顔面や手足に浮腫ができるといった徴候から、氏郷は今でいう直腸癌だったと推測されている。他に死因として肝臓癌が上げられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E7%94%9F%E6%B0%8F%E9%83%B7
【曲直瀬玄朔】
秀吉が氏郷の治療の為に文禄三年十二月に名医を集めたことは、先ほど紹介した『氏郷記』にも出ていたが、曲直瀬玄朔は幼少の頃両親を失い、母の兄である曲直瀬道三に育てられて医者となった人物である。かなりの名医であったらしく、『医学天正記』には正親町天皇、後陽成天皇を初め、信長、秀吉、秀次、秀頼ほか、毛利輝元、加藤清正などの治療が記録されているという。
http://kenblog1200.at.webry.info/201305/article_15.html
国立国会図書館デジタルコレクションに『医学天正記』があり、ネットで全文が公開されている。
『医学天正記』の原文は漢文なのでやや読みづらいが、書いていることは何となくわかる。次のURLに氏郷のカルテがあり、この記述が氏郷病死説の根拠とされているのだが、簡単に内容をまとめておこう。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920433/236
【『医学天正記』の蒲生氏郷についての記述部分】
氏郷は文禄の役に参陣し肥前名護屋で下血した際には、堺の医師である宗叔(そうしゅく)が主治医を務めていた。
文禄3年に曲直瀬玄朔が氏郷を訪問した際には顔色が黄黒で首筋の肉がやせ衰え、目の下に浮腫があったとあり、秋に再び訪問した際には氏郷の腫れがひどくなり、むくみも増していたとある。そして12月に入って秀吉は、徳川家康と前田利家に命じて9人の名医を招いて診察させている。曲直瀬玄朔は「十中九は大事(危険)」と診断したが、他の医師はそこまで危険と考えず、特に主治医の宗叔は難しいのは十のうち一と診断したそうだ。
前田利家は曲直瀬玄朔に氏郷の治療を頼んだのだが、主治医が手を引かないので治療は出来ないと断った。その後も宗叔の投薬が続けられて、3カ月後に氏郷はわずか40歳でこの世を去ったのである。
毒を盛られてから三年も経ってから死んだ場合は、その死因を「毒殺」とは言わないのかもしれないが、『氏郷記』が記しているように毒を盛られたことをきっかけに体調を崩し、衰弱して死んでいったということならばあり得る話だと思う。
冒頭の蒲生氏郷像は文禄元年(1592)名護屋陣に向かう途中で歌を詠む氏郷の姿なのだが、『思ひきや 人のゆくへぞ定めなき わがふるさとを よそに見んとは』と詠んだ時の氏郷は重い病に冒されていたのだろうか。名護屋の陣に着く直前か、陣の中で毒を盛られたから下血したということではないのだろうか。
【豊臣秀次】
ところで、氏郷の死後に驚くような出来事が起っている。
氏郷が亡くなった年である文禄四年(1595年)六月末に、突然秀次に謀反の疑いが持ち上がり、秀吉によって七月に切腹を命じられ、八月には秀次の家族や側室・侍女ら39名が処刑されている。
驚くべきことに、先ほど紹介した『医学天正記』を著した曲直瀬玄朔も流罪に処せられている。曲直瀬玄朔は秀次の喘息の治療のために秀次邸に出入りしていたことが引っ掛かったようである。
この時代は、秀吉の後の天下を狙っていた人物が少なからず存在した。蒲生氏郷も豊臣秀次も、将来のライバルとなる人物を消すための何者かの工作にかかった可能性を感じるのは私ばかりではないだろう。しかしながら、もしそのような工作があったとしても、それを裏付ける証拠となるものが残されることはほとんどないと言って良い。
このブログで何度も書いているように、いつの時代もどこの国でも、勝者は、勝者にとって都合の悪い史実を封印し、勝者にとって都合の良い歴史を編纂して広めようとするものである。この種の工作が行われた場合は、特にその工作に将来の為政者が関与していた場合は、記録は改竄されるか封印されるのが常ではないか。
【蒲生氏郷】
最後に氏郷の辞世の歌を記しておく。
かぎりあれば 吹かねど花は 散るものを 心みじかき 春の山風
(風など吹かなくても、花の命には限りがあるのでいつかは散ってしまう。それを春の山風は何故こんなに短気に花を散らしてしまうのか)
春の山風とは氏郷を早死にさせた運命を意味すると思うのだが、氏郷はこの言葉の中に、誰か具体的な人物が関与していることを匂わせようとしたのかもしれない。
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【ご参考】豊臣秀吉の死後の覇権争いについてこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。
豊臣秀吉が死んだ後の2年間に家康や三成らはどう動いたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-426.html
徳川家康が大坂城を乗っ取り権力を掌握したのち石田三成らが挙兵に至る経緯
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-427.html
石田三成の挙兵後、なぜ徳川家康は東軍の諸将とともに西に向かわなかったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-429.html
天下分け目の関ヶ原の戦いの前に、家康はいかにして西軍有利の状況を覆したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-430.html
宣教師やキリシタン大名にとっての関ヶ原の戦い
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-377.html
島左近は関ヶ原の戦いで死んでいないのではないか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-425.html
右手には筆を持ち、左手には紙を持っているようなのだが、日野観光協会のHPによると、「文禄元年(1592)名護屋陣に向かう途中、中山道武佐の宿より郷土日野を望み、『思ひきや 人のゆくへぞ定めなき わがふるさとを よそに見んとは』の歌を詠む氏郷の姿を写したものです。」と解説されている。
ところが、氏郷は朝鮮出兵・文禄の役に参陣したのち肥前名護屋城陣中で下血し、以降体調を崩して、文禄四年(1595)に40歳の若さでこの世を去っている。
蒲生氏郷は日野に生まれ育ったのだが、日野城主であったのは天正十年(1582)から天正十二年(1584)とかなり短く、蒲生氏郷が伊勢国松ヶ島に転封されて日野を去ったのは28歳であった。
若くして日野を去ったにもかかわらず故郷に名を残した蒲生氏郷が、どのような人物であり、どんな人生を送ったのかを最初に振り返っておこう。
蒲生氏郷は弘治二年(1556)年に六角義賢(ろっかくよしかた)の重臣であった蒲生賢秀(かたひで)の三男として近江国蒲生郡日野に生まれ、幼名は鶴千代と名付けられた。
永禄十一年(1568)に足利義昭を奉じて上洛の途にあった織田信長と近江守護である六角義賢・義治父子との間で行なわれた観音寺城の戦いで六角氏が滅亡すると、賢秀は鶴千代を人質に差し出して織田信長に臣従したという。ところが、この時十三歳であった鶴千代が織田信長に気に入られることになる。
『名将言行録』にはこう記されている。
「信長これを見て、蒲生が子眼晴常ならず、尋常の者にはあるまじ。天晴(あっぱれ)なる若者哉。信長が娘に合わせんとて、岐阜城に止め、弾正忠*の一字を賜わり名を忠三郎と賜う。
信長の前にて、毎度武辺の談論あり。氏郷年十三。常に座に在り、深更に及ぶといえども、終に倦怠することなく、一心不乱に語る者の口本(くちもと)を守り居たり。稲葉貞通(さだみち)これを見て、蒲生が子は尋常の者にあらず、彼にして一廉(ひとかど)勝れたる武勇の者に成らずんば、成る者はあるまじきと言われけり。
(永禄)十二年八月、信長、大河内の城に発向す。氏郷年十四。ただ一人抜掛し、多勢の中に戦い、能き首取りて帰る。信長大に感じ、自ら打鮑取りて賜わりけり。是より大小の戦功、数うるに遑(いとま)あらずや。」
*弾正忠家:戦国時代の尾張国守護代、清洲織田氏(大和守家)に仕える清州三奉行の一つに織田弾正忠家があり、織田信長はこの家系に属する。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1043026/39
氏郷は、初陣で戦果を挙げたのち信長の次女を娶って日野に帰国し、元亀元年(1570)の朝倉攻めや姉川の戦い、天正3年(1575)の長篠の戦いなどに従軍して、数多くの武功を挙げている。
【安土城】
天正十年(1582)に本能寺の変が起こった時に、日野城で事変の情報を聞いた氏郷は安土城にいた父・賢秀に連絡し、城内にいた信長の一族を安土城から日野城に移動させてお守りしている。そののち賢秀から家督を継いだというが、氏郷はその年の12月に十二ヶ条の掟を日野城下に出して、今までの独占販売権、非課税権などの特権を持つ商工業者を排除して自由な取引市場をつくり、新興商工業者を育成して地域経済の活性化を図ろうとしたのである。
信長亡き後は、氏郷は秀吉に付くこととなり、天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いの際は秀吉軍撤退の殿(しんがり)を務め、戦いのあとで12万石に加増されて伊勢松ヶ島に転封となっている。したがって蒲生氏郷は、日野城主としては2年程度務めたにすぎないということになる。ついでに言うと、氏郷の実子2人はいずれも早世し、長男の子も早死にしたために蒲生家は寛永十一年(1634)に断絶となっているのである。
【仁正寺藩邸跡】
一方、蒲生家の居城であった日野城は、関ヶ原の戦いののち廃城となり、慶長十一年(1606)に破却されているが、元和6年(1620)に市橋長政が仁正寺藩を立藩して日野城の跡地に藩邸を建設し、その後明治四年(1871)まで251年もの間、市橋家が日野を治めている。
日野の人々にとっては市橋家のほうがはるかに長い付き合いであったことになるのだが、「郷土の誇り」とする人物を選ぶとなると、今も蒲生氏郷の名が最初に挙がるようなのだ。
その理由は、彼の人望の高さもあるのだろうが、任期中もまた転封後も、日野商人に便宜をはかることで、日野を豊かにしたことが大きいのだと思う。
前回の記事でも紹介した通り、天正十二年(1584)に蒲生氏郷が伊勢松ヶ島に転封されると、日野商人達は氏郷を追うようにしてその地に一街区を拓いて移り住み、さらに氏郷が天正十八年(1590)に陸奥国会津に転封されると、再び氏郷に従って商圏を拡大していったことが記録に残されている。
【豊臣秀吉】
ところで、秀吉が氏郷を遠国の陸奥国会津に移封したのはなぜなのか。
『名将言行録』にはこう記されている。
「…秀吉諸将を会し、会津は関東の要地なり。勝れたる一将を撰みて鎮圧せしめずんばならぬ地なり。汝ら遠慮なく意見を記して見すべしと言わる。細川越中守忠興、然るべしと言う者十人には九人あり。秀吉これを見て、汝ら愚かもまた甚だし。我天下を容易く得しことは理わりなり。この地は蒲生忠三郎ならでは置くべき者なしとありて、氏郷に90万石を賜う。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1043026/42
要するに、伊達政宗に対する備えとして蒲生氏郷が適任であると秀吉が判断したというのだが、『名将言行録』には秀吉が氏郷を上方から遠ざけた別の理由も記されている。
「氏郷、会津へ行く時、秀吉袴を脱ぎ氏郷に着せられ、自ら氏郷の袴を着らる。さて氏郷奥州へ行くことを如何存じおりしやと尋ねられければ、近臣殊の外迷惑がり候と申す。秀吉聞きて、いかにも左あるべし。こちに置きては怖ろしき奴なり。故に奥州に遣わすとぞ言われけり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1043026/42
秀吉は信長が認めた器量人である氏郷を恐れて、上方から遠ざけたことは充分あり得る話だと思う。氏郷自身も、会津転封を命ぜられた際に、恩賞を賜るなら小国でも西国をと望んでいたのに、辺境では天下取りの機会が失われると悲しみ涙を流したと伝わっている。
『名将言行録』を読み進んでいくと、蒲生氏郷が毒殺されたと記されている。
文中の「九戸役」とは、天正十九年(1591)、南部氏一族の有力者である九戸政実が、南部家当主の南部信直および奥州仕置を行う豊臣政権に対して起こした反乱である。
【石田三成】
「九戸役の後、石田三成、都へ帰り、ひそかに秀吉に申様、此度氏郷が軍容を視侍るに、尋常の人には候わず、彼の軍行七日が程引きも切らず、然るに一人も軍法を犯す者候わず、この人殿下の御為に、二心を懐かざらんには、かかる御固また餘にもあるべからず、心得させ給いて然るべき人なりと申ししかば、密に毒を与えられぬ。之に依り忽ちに病に犯されて終に空く成りにける。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1043026/49
氏郷は天正十八年(1590)十一月にも葛西大崎一揆鎮圧に向かう途中で伊達政宗から誘いを受けた茶席で毒を盛られ、帰って急いで毒を吐いたことが『氏郷記』に記されている。この書物も国立国会図書館デジタルコレクションに公開されており、誰でもPCで読むことが出来る。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771450/91
先ほど紹介した『名将言行録』の記述は『氏郷記』の次の部分を参考に書かれたものと思われるが、重要な部分なので引用させていただく。
「爰(ここ)に石田治部少輔三成は、昔の梶原平三景時に越えたる讒臣*なり。ある時潛(ひそか)に太閤へ申されけるは、…会津宰相こそ謀も勝れ、能き侍をも数多持ちて候え。先年九戸一乱の砌罷下りて、彼が計略を見候に、軍勢を七日路に続け、その人数仕い法度の品々、目を驚かし候いつる。かかる良将を愛して置かせ給わば、養虎の愁、踵(きびす)を廻(めぐら)すべからずとぞ申しける。太閤相国秀吉公も、常々訝(いぶかし)く思召しけるに、かく言上しければ、彼氏郷を失わん談合評定取々なり。…氏郷は、錐袋にたまらぬ風情にて、一言の端も、人に指を指されじと嗜まれしかば、太閤斯様に思召すも、余儀なくぞ覚えし。されどまた忠功第一の人なれば、如何ともすべきようなかりけり。然れば唯人知れず害毒せよとて、ある時毒を飼い給いしとかや。此毒や祟りけん、去朝鮮征伐の頃も、下血を病まれけり。猶それより以下(このかた)、気色常ならず、面黄黒にして、項頸(うなじ)の傍ら肉少なく、目の下微(すこ)し浮腫(はれ)しかば、去りし秋の頃、法眼正純を召して、養生薬を用いられしが、其後腫脹弥(いよいよ)甚しかりければ、去年名護屋にて宗叔が薬相当しけるとて、又彼を召して、薬を用いられしかども、更に其験なかりけり。同十二月朔日、太閤如何思召しけん。江戸大納言加賀中納言へ仰付けられて、諸医を召し、氏郷の脈を見せよとありければ、両人承って、竹田半井道三以下の名医を集め、脈を見せられけるに、各大事にて候とぞもうしける。明くる文禄四年正月迄、宗叔薬を盛りけれども、氏郷次第に気力衰えしかば、それより道三の薬を用いられけり。されども早叶わずして、同二月七日、生年四十歳と申すに、京都にて朝の露と消えられけり。」
*讒臣(ざんしん):讒言して主君におもねる臣下
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771450/123
【肥前名護屋城】
『氏郷記』は『名将言行録』よりかなり具体的に記されていて理解しやすいのだが、この記述が正しいとすると、石田三成が秀吉に讒言して氏郷に毒を盛った時期は、「九戸役」が終結した天正十九年(1591)の秋から朝鮮出兵(文禄の役)が起きた文禄元~二年(1592~3)までということになる。
そして、その毒が原因となって、文禄の役に参陣した氏郷が肥前名護屋で下血し、その後、外見からも重病であることが窺える症状が出たという。
屈強な武士が40歳という若さで体調を崩して命を落とすことは考えにくく、毒殺されたとする説があっても何も不思議なことではではないのだが、氏郷が亡くなったのは文禄四年(1595)二月なので、石田三成に毒を盛られたにしては結構長く生きていることが気になるところである。
では、通説ではどうなっているかを調べると、氏郷は毒殺ではなく、病気で死んだことになっているようだ。
一般的に事実の不存在の立証は『悪魔の証明』とされて難しいものなのだが、何を根拠にして毒殺説を否定しているのだろうか。
Wikipediaには、こう解説されている
「豊臣秀吉(『氏郷記』)や石田三成(『石田軍記』、『蒲生盛衰記』)などによる毒殺説もあるが、下記の理由により否定されている。
秀吉は氏郷の治療にあたり、施薬院全宗が医師団を指揮し、曲直瀬玄朔、一鷗軒宗虎を長老格とする9名の医師団による輪番治療を行わせた。曲直瀬玄朔(まなせげんさく)が残したカルテ『医学天正記』には文禄の役へ出兵の途中、文禄2年(1593年)に名護屋城で発病し、文禄4年(1595年)に没するまで、3年間患い症状が出たと記されている。腹水がたまり、顔面や手足に浮腫ができるといった徴候から、氏郷は今でいう直腸癌だったと推測されている。他に死因として肝臓癌が上げられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E7%94%9F%E6%B0%8F%E9%83%B7
【曲直瀬玄朔】
秀吉が氏郷の治療の為に文禄三年十二月に名医を集めたことは、先ほど紹介した『氏郷記』にも出ていたが、曲直瀬玄朔は幼少の頃両親を失い、母の兄である曲直瀬道三に育てられて医者となった人物である。かなりの名医であったらしく、『医学天正記』には正親町天皇、後陽成天皇を初め、信長、秀吉、秀次、秀頼ほか、毛利輝元、加藤清正などの治療が記録されているという。
http://kenblog1200.at.webry.info/201305/article_15.html
国立国会図書館デジタルコレクションに『医学天正記』があり、ネットで全文が公開されている。
『医学天正記』の原文は漢文なのでやや読みづらいが、書いていることは何となくわかる。次のURLに氏郷のカルテがあり、この記述が氏郷病死説の根拠とされているのだが、簡単に内容をまとめておこう。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920433/236
【『医学天正記』の蒲生氏郷についての記述部分】
氏郷は文禄の役に参陣し肥前名護屋で下血した際には、堺の医師である宗叔(そうしゅく)が主治医を務めていた。
文禄3年に曲直瀬玄朔が氏郷を訪問した際には顔色が黄黒で首筋の肉がやせ衰え、目の下に浮腫があったとあり、秋に再び訪問した際には氏郷の腫れがひどくなり、むくみも増していたとある。そして12月に入って秀吉は、徳川家康と前田利家に命じて9人の名医を招いて診察させている。曲直瀬玄朔は「十中九は大事(危険)」と診断したが、他の医師はそこまで危険と考えず、特に主治医の宗叔は難しいのは十のうち一と診断したそうだ。
前田利家は曲直瀬玄朔に氏郷の治療を頼んだのだが、主治医が手を引かないので治療は出来ないと断った。その後も宗叔の投薬が続けられて、3カ月後に氏郷はわずか40歳でこの世を去ったのである。
毒を盛られてから三年も経ってから死んだ場合は、その死因を「毒殺」とは言わないのかもしれないが、『氏郷記』が記しているように毒を盛られたことをきっかけに体調を崩し、衰弱して死んでいったということならばあり得る話だと思う。
冒頭の蒲生氏郷像は文禄元年(1592)名護屋陣に向かう途中で歌を詠む氏郷の姿なのだが、『思ひきや 人のゆくへぞ定めなき わがふるさとを よそに見んとは』と詠んだ時の氏郷は重い病に冒されていたのだろうか。名護屋の陣に着く直前か、陣の中で毒を盛られたから下血したということではないのだろうか。
【豊臣秀次】
ところで、氏郷の死後に驚くような出来事が起っている。
氏郷が亡くなった年である文禄四年(1595年)六月末に、突然秀次に謀反の疑いが持ち上がり、秀吉によって七月に切腹を命じられ、八月には秀次の家族や側室・侍女ら39名が処刑されている。
驚くべきことに、先ほど紹介した『医学天正記』を著した曲直瀬玄朔も流罪に処せられている。曲直瀬玄朔は秀次の喘息の治療のために秀次邸に出入りしていたことが引っ掛かったようである。
この時代は、秀吉の後の天下を狙っていた人物が少なからず存在した。蒲生氏郷も豊臣秀次も、将来のライバルとなる人物を消すための何者かの工作にかかった可能性を感じるのは私ばかりではないだろう。しかしながら、もしそのような工作があったとしても、それを裏付ける証拠となるものが残されることはほとんどないと言って良い。
このブログで何度も書いているように、いつの時代もどこの国でも、勝者は、勝者にとって都合の悪い史実を封印し、勝者にとって都合の良い歴史を編纂して広めようとするものである。この種の工作が行われた場合は、特にその工作に将来の為政者が関与していた場合は、記録は改竄されるか封印されるのが常ではないか。
【蒲生氏郷】
最後に氏郷の辞世の歌を記しておく。
かぎりあれば 吹かねど花は 散るものを 心みじかき 春の山風
(風など吹かなくても、花の命には限りがあるのでいつかは散ってしまう。それを春の山風は何故こんなに短気に花を散らしてしまうのか)
春の山風とは氏郷を早死にさせた運命を意味すると思うのだが、氏郷はこの言葉の中に、誰か具体的な人物が関与していることを匂わせようとしたのかもしれない。
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【ご参考】豊臣秀吉の死後の覇権争いについてこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。
豊臣秀吉が死んだ後の2年間に家康や三成らはどう動いたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-426.html
徳川家康が大坂城を乗っ取り権力を掌握したのち石田三成らが挙兵に至る経緯
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-427.html
石田三成の挙兵後、なぜ徳川家康は東軍の諸将とともに西に向かわなかったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-429.html
天下分け目の関ヶ原の戦いの前に、家康はいかにして西軍有利の状況を覆したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-430.html
宣教師やキリシタン大名にとっての関ヶ原の戦い
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-377.html
島左近は関ヶ原の戦いで死んでいないのではないか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-425.html
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