「特別な日本」を守る、「駄目なものは駄目」という守護神
・日章旗切り貼りし民主マーク!鳩山氏「神聖なマーク、きちんとつくるべき」<よくよく考えてみると、布切れの切り貼りが問題視されたり、「われわれの神聖なマークなので、きちんと作られなければいけない」という理屈がすんなりと――少なくとも謝罪しないよりは――人々に受け入れられる状況って結構凄いことなんじゃないだろうか。つまり、如何に日本人が宗教的なものにどっぷりと浸かっているかという。
・核や天皇について語ることはもはやタブーではなくなった。しかし、日本人が持つ呪術性や宗教性について問うことは未だタブーであるようにも思う。
・例えばこの問題の場合、何故それが駄目なのかという理由もハッキリしないまま、いつの間にかそれが「悪いこと」に認定され、「悪いこと」をしたとされる側もまた、その咎めに対して何か疑問を呈することもなくあっさりとその非を認め、謝罪してしまう。
・恐らく、この行為に対して本気で怒っている者なんて殆どいないだろう。そもそもこれは、旗を焼いたり踏みつけたりすることでその裏に想起される共有イメージを通して何かを傷つけようとするような類のものでないことは明らかなわけだし。
・だが本気で怒っている人はいなくとも、この社会がこれをすんなりと「悪いこと」として認めてしまう素地を持っていることは確かだ。
・で、結局これは何故「悪いこと」なんだろう。その理由は、常識に外れる、不謹慎、人を不快にする、ふざけている、とかそんなところなんだろうけど、それはあくまでパッケージであって、その中身を説明したことにはならない。
・例えば、「コスト削減にも繋がるし別にいいじゃない」というような意見が出てきても良いはずなのだが、実際に公式の場所で大っぴらにそんなことを言う人間は出てこない。「何故それが悪いことなのか」という問題に真剣に向かい合うことを促す人間も出てこない。
・何故なら、本気でその中身を確認しようとすれば、「駄目なものは駄目」という守護神が現れて、その中身を明らかにしようとする行為を阻もうとするからだ。それでも尚その中身を明らかにしようとした者は、神聖な場所を侵そうとした者として民衆から責め立てられ、地位を剥奪されたりするだろう。
・だから誰も怖がってそれに手をつけようとしない。そうやって神聖な場所に隠されているその“何か”は決して表舞台に晒されることはない。つまりそれがタブーであるということ。
・切り貼りに関して「宗教的配慮が足りない」と言ったなら、それは一応批判理由にはなる。宗教的配慮というのもまたパッケージであるかのように思えるが、そもそも誰もが共有出来る具体的な根拠がなく、それでも尚尊重されるべきものというのが宗教なので。
・しかし、宗教的配慮をしなければならないということは、当然それを信仰しない他の者の行為を制限することでもあり、自由と競合することになる。そこで法やモラル、マナーなどの観点から、其々どこまでその配慮のために自由を制限すべきなのか、という一般的な議題が持ち上がって来て、そのすり合わせが行われるようになる。
・だが実際には、切り貼りに対する問題提起という始点からいきなり「その理由はハッキリとはしないが、とにかく悪いこと」という終点が導き出されてしまう。それが議題化されて持ち上がってくることもないままに。何故なら、守護神にそれを議題化することを阻まれ、結論に辿り着くまでの過程が一切消し飛んでしまうからだ。
・これは別に切り貼りに限ったことではない。この「駄目なものは駄目」という守護神は実に様々な場面に現れては、何故それが駄目なのか、という理由を明確にすることを妨げていく。
・一つ確かなのは、その守護神が現れるということは、人々の間にその理由を明らかにすることを忌避するような意思が働いているということだ。
・しかし何故その理由を隠さなければならないのか。誰もが(納得するかどうかは別として)共有することが出来るような具体的根拠がそこにあるとするならば、さっさとそれを提示してしまえばいいじゃないか。しかしそれはなされない。ということはつまり、実は元々そこに具体的な根拠なんてないんじゃないのか。要するにそれは宗教的理由からなのではないかと。だからこそそれを明かせない。
・そしてこれは単に、「無いから明かせない」というだけではないように思う。というのも、日本では一般的に宗教に対してあまり良いイメージが抱かれておらず、それ故それに対して侮蔑や蔑みのような冷ややかな視線が向けられることも多い。尚且つ、多くの日本人は自分のことを無神論(無宗教)者だと思っている。
・にもかかわらず、もし自分が宗教的な理由を根拠として何かを主張したり支持したりしているということが明らかになれば、かねてから無神論者であると言ってきた己自身の主張が嘘だったことになってしまう。その上、平生から自分がそれに送ってきた冷ややかな眼差しが全て自分自身に跳ね返って来てしまうことにもなる。つまり一種の自傷のような状態に陥ることを余儀なくされる。
・だからそういう事態を避けるために、無意識にそれを忌避しようとする意思が働いているんじゃないかと。そして忌避にはさらにもう一つ理由があるように思う。
・大抵の人間は、自分の国の風土に何か特別性を見出し、それを誇りとしていたりすることだろう。そして日本の場合、社会の大部分が宗教の手によって汚されておらず、日本人の多くが宗教以外の“何か”を共有していて、それによって其々の行動は律され、その秩序が整然と保たれている、というような認識がその誇りを形成する一つの材料になっているように思う。
・それが宗教的なものであると認識されていないことによって神聖さが保たれている宗教というか。そしてその宗教性は、「日本独自の文化や風土」という多少和らげられた表現に置き換えられ、諸外国のそれらとはまた違うものとして差別化が図られる。それによって「日本の特別性」が維持される。
・ところが、その“何か”もまたただの宗教であると判明してしまえば、その神聖さは失われ、もはや日本は(その面に於いて)特別な国ではなくなってしまう。今まで特別なものであったはずのそれは、諸外国のそれらと「宗教」という同一のまな板の上に並べられ、単にそれらの内の一つでしかなくなり、輝きを失ってしまう。つまりその忌避は、そのような変質を恐れてのものであり、ある種のプライドを守る闘いでもあるのではないかと。
***
・日の丸を元にしてそれとは分からないようなものを形作った時、人々はそれに対してどのような反応を示すだろうか。一見日の丸を元にして作っていたように見えて、実は全く別のものが元になっていた時、或いは、日の丸を一旦糸に戻し、その糸を使って別の何かを作った時、信仰者はその事実を知っている時と知っていない時でその行為にどのような反応を示すのか。
・そういうことを考えてみると、人間にとっては事実よりも認識の方が遥かに重要なんじゃないかと思えてくる。
・神聖さは何処から来て何処へ行くのか。結局それは、人間の内側からやって来て、また内側へと消えて行くものでしかない。但し、その「行き来」は外部からの刺激によって規定されるものであったりもする。
・核や天皇について語ることはもはやタブーではなくなった。しかし、日本人が持つ呪術性や宗教性について問うことは未だタブーであるようにも思う。
・例えばこの問題の場合、何故それが駄目なのかという理由もハッキリしないまま、いつの間にかそれが「悪いこと」に認定され、「悪いこと」をしたとされる側もまた、その咎めに対して何か疑問を呈することもなくあっさりとその非を認め、謝罪してしまう。
・恐らく、この行為に対して本気で怒っている者なんて殆どいないだろう。そもそもこれは、旗を焼いたり踏みつけたりすることでその裏に想起される共有イメージを通して何かを傷つけようとするような類のものでないことは明らかなわけだし。
・だが本気で怒っている人はいなくとも、この社会がこれをすんなりと「悪いこと」として認めてしまう素地を持っていることは確かだ。
・で、結局これは何故「悪いこと」なんだろう。その理由は、常識に外れる、不謹慎、人を不快にする、ふざけている、とかそんなところなんだろうけど、それはあくまでパッケージであって、その中身を説明したことにはならない。
・例えば、「コスト削減にも繋がるし別にいいじゃない」というような意見が出てきても良いはずなのだが、実際に公式の場所で大っぴらにそんなことを言う人間は出てこない。「何故それが悪いことなのか」という問題に真剣に向かい合うことを促す人間も出てこない。
・何故なら、本気でその中身を確認しようとすれば、「駄目なものは駄目」という守護神が現れて、その中身を明らかにしようとする行為を阻もうとするからだ。それでも尚その中身を明らかにしようとした者は、神聖な場所を侵そうとした者として民衆から責め立てられ、地位を剥奪されたりするだろう。
・だから誰も怖がってそれに手をつけようとしない。そうやって神聖な場所に隠されているその“何か”は決して表舞台に晒されることはない。つまりそれがタブーであるということ。
・切り貼りに関して「宗教的配慮が足りない」と言ったなら、それは一応批判理由にはなる。宗教的配慮というのもまたパッケージであるかのように思えるが、そもそも誰もが共有出来る具体的な根拠がなく、それでも尚尊重されるべきものというのが宗教なので。
・しかし、宗教的配慮をしなければならないということは、当然それを信仰しない他の者の行為を制限することでもあり、自由と競合することになる。そこで法やモラル、マナーなどの観点から、其々どこまでその配慮のために自由を制限すべきなのか、という一般的な議題が持ち上がって来て、そのすり合わせが行われるようになる。
・だが実際には、切り貼りに対する問題提起という始点からいきなり「その理由はハッキリとはしないが、とにかく悪いこと」という終点が導き出されてしまう。それが議題化されて持ち上がってくることもないままに。何故なら、守護神にそれを議題化することを阻まれ、結論に辿り着くまでの過程が一切消し飛んでしまうからだ。
・これは別に切り貼りに限ったことではない。この「駄目なものは駄目」という守護神は実に様々な場面に現れては、何故それが駄目なのか、という理由を明確にすることを妨げていく。
・一つ確かなのは、その守護神が現れるということは、人々の間にその理由を明らかにすることを忌避するような意思が働いているということだ。
・しかし何故その理由を隠さなければならないのか。誰もが(納得するかどうかは別として)共有することが出来るような具体的根拠がそこにあるとするならば、さっさとそれを提示してしまえばいいじゃないか。しかしそれはなされない。ということはつまり、実は元々そこに具体的な根拠なんてないんじゃないのか。要するにそれは宗教的理由からなのではないかと。だからこそそれを明かせない。
・そしてこれは単に、「無いから明かせない」というだけではないように思う。というのも、日本では一般的に宗教に対してあまり良いイメージが抱かれておらず、それ故それに対して侮蔑や蔑みのような冷ややかな視線が向けられることも多い。尚且つ、多くの日本人は自分のことを無神論(無宗教)者だと思っている。
・にもかかわらず、もし自分が宗教的な理由を根拠として何かを主張したり支持したりしているということが明らかになれば、かねてから無神論者であると言ってきた己自身の主張が嘘だったことになってしまう。その上、平生から自分がそれに送ってきた冷ややかな眼差しが全て自分自身に跳ね返って来てしまうことにもなる。つまり一種の自傷のような状態に陥ることを余儀なくされる。
・だからそういう事態を避けるために、無意識にそれを忌避しようとする意思が働いているんじゃないかと。そして忌避にはさらにもう一つ理由があるように思う。
・大抵の人間は、自分の国の風土に何か特別性を見出し、それを誇りとしていたりすることだろう。そして日本の場合、社会の大部分が宗教の手によって汚されておらず、日本人の多くが宗教以外の“何か”を共有していて、それによって其々の行動は律され、その秩序が整然と保たれている、というような認識がその誇りを形成する一つの材料になっているように思う。
・それが宗教的なものであると認識されていないことによって神聖さが保たれている宗教というか。そしてその宗教性は、「日本独自の文化や風土」という多少和らげられた表現に置き換えられ、諸外国のそれらとはまた違うものとして差別化が図られる。それによって「日本の特別性」が維持される。
・ところが、その“何か”もまたただの宗教であると判明してしまえば、その神聖さは失われ、もはや日本は(その面に於いて)特別な国ではなくなってしまう。今まで特別なものであったはずのそれは、諸外国のそれらと「宗教」という同一のまな板の上に並べられ、単にそれらの内の一つでしかなくなり、輝きを失ってしまう。つまりその忌避は、そのような変質を恐れてのものであり、ある種のプライドを守る闘いでもあるのではないかと。
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・日の丸を元にしてそれとは分からないようなものを形作った時、人々はそれに対してどのような反応を示すだろうか。一見日の丸を元にして作っていたように見えて、実は全く別のものが元になっていた時、或いは、日の丸を一旦糸に戻し、その糸を使って別の何かを作った時、信仰者はその事実を知っている時と知っていない時でその行為にどのような反応を示すのか。
・そういうことを考えてみると、人間にとっては事実よりも認識の方が遥かに重要なんじゃないかと思えてくる。
・神聖さは何処から来て何処へ行くのか。結局それは、人間の内側からやって来て、また内側へと消えて行くものでしかない。但し、その「行き来」は外部からの刺激によって規定されるものであったりもする。