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2019年9月

2019年9月26日 (木)

どんな大学がビッグデータ活用ツールを使うのか?

世の中の変化は速い。ビッグデータを活用して大学経営の進化を促進するツールは、もう提供されつつある。問題は、どんな大学が導入を決めるかである。課題は、提供されるツールを、真に使えるものにしていくために、経営と現場の双方が積極的に反応できるかである。こういうものは、先に行く大学が優位に立つとは分かっていても、費用対効果に不安を感じて判断停止に陥るかもしれない。また、現場に既存の手法へ拘りが強く危機感がない場合、経営に構想力がなく様子見を決め込む場合は、導入に至らない。先送りして、先に行った大学で成果が確認された時点で、マネをしたがるが、そのときには、周回遅れになっている恐れが強い。当然、負け組にならざるを得ない。まったく、データビジネスで日本の政府や企業が後手を踏んできたのと同じ図式である。

ビッグデータの活用については、経営にも現場にも、想像力が必要であろう。私立大学のビジネスモデルは、志願者という顧客の創造がポイントになっている。志願者を獲得するための広報宣伝のための人件費・物件費が効率的に使われているのか、疑問を持たない経営者はいないだろう。しかし、これまではデータが取れなかったので、手法の重点化には躊躇せざるを得なかった。また、入試部の活動自体がブラックボックスに入っていて、カイゼンのサイクルが回っているのかさえ、全く見えなかった。多くは、恐らく広告宣伝業界に良いように商売されてきたものだろう。経営者として、こうした状況を放置しているようでは、一般企業からは馬鹿にされても仕方がない。学者出身の経営者は、マーケティングについて何もご存知ないというわけである。

他方、現場サイドには、多くの場合、志願者の大幅な減少や要員の削減などの危機的な状況にでもならない限り、業務の効率化を率先して進めることは期待できない。しかも、他部署からは、入試部が何を考えて、何をして、どんな成果を上げているのか、全く見えない。これが見えるようになれば、仮説・実行・検証で業務の効率化のサイクルを回すことが可能になる。広報宣伝の実務がデータ活用により効率化されれば、入試部のマンパワーをより有効に活用することも可能になる。入試部のみならず、大学全体の職員数を業務改善で抑制することにもつながる。

私学経営が人口減少期に厳しさを増すのは確実である。結局、質の高い志願者を囲い込むことなくして、道は開けない。ブランド力を高めるには、入学者数だけ確保すれば済むわけではない。ビッグデータの活用を真っ先に考えるべきは、定員充足はしているが、中退率が相対的に高い中堅の大学であろう。志願者募集ばかりではなく、在学中の学業データ管理から個人・保護者への教育的助言・指導まで、ビッグデータの活用で個々の学修・就職効果を高めることも期待できる。このあたりの成果を得るには、サービス提供してくれる企業との二人三脚でシステムを使いこなす能力をいかに高められるかが問われる。AIの教育利用で、学納金以上の価値のあるサービスを、受益者に対してどのように還元できるか、まだ十分に見えていない段階だが、先に行く大学の経験値が高まることで、競争環境が劇的に変化することだろう。上昇気流に乗る大学には、学生も資源も教育人材も集まり、停滞する大学は人口減少の影響をもろにかぶることになる。この1~2年、決断を先送りする大学には、悲しい未来しかない残されないに違いない。せめて、心ある大学職員は、新しい手法・サービスについて勉強しておくべきだろう。たとえ、今は大半の役職員が関心を持たない状況だとしても・・・。

 

2019年9月19日 (木)

なぜ高等教育の無償化の施策は失敗するのか?

我が国でもようやく給付型奨学金の制度が誕生したが、安倍政権のおかげで、ごく低所得層の子供にも高等教育への道が大きく拓かれてめでたいという話は、あまり聞こえてこない。もともと、家庭の所得水準が相対的に低い子供には、国立大学に入学できる学力さえあれば、入学後、授業料が免除されている。新制度は、国立大学に入学するほどの学力はなく、家庭の所得水準が極めて低い子供に対して、定員充足率が低く、学力試験が選抜の意味を持たない私立大学(いわゆるFランクかそれに近い大学)への入学を促進する効果がある。そのような施策への予算投入は、学生の経済的自立への援助になる保障がないばかりか、競争力の弱い私立大学を追加的な公費により存続させるという副作用を生んでしまうので、施策として大いに疑問である。施策としての問題点については、今の段階できちんと批判する責任を、教育学の専門家は負うべきである。

以上については、過去にも記してきたことだが、「ルポ教育困難校」(朝比奈なを、朝日新書)を読んで、全世代型の社会保障という文脈においては、ほぼ全員が進学する高校レベルの教育機会を底辺から支えることに、より重点を置くべきだとの思いを強くした。新たに就任した文部科学大臣は、まずもって公立の教育困難校への視察に出かけるべきである。この本の著者が指摘しているように、高等学校等修学支援金制度が、公立の教育困難校から私立に生徒を奪われる副作用を及ぼしているなら、施策として軌道修正を図る必要があろう。この点も、文科省は、つぶさにチェックして、直ちにアクションにつなげるべきである。

端的に言えば、教育困難校にこそ、ヒトとカネを投入して、一人でも多くの生徒の個性と学力を伸ばして卒業させることが、人口減少の中で、支えあって健全な社会を築いていくために役に立つ人材を供給することになる。高卒の段階での教育格差を、教育困難校への手厚い措置で是正することが、結局は社会保障の収支バランスの改善にもつながる。少年期の教育の失敗は一生ついて回り、遅かれ早かれ公的支援に頼らざるを得ない人間を再生産してしまうからである。しかも、教育困難校の生徒には、個別に事情を抱えている者が多く、教育以前の問題でも手間がかかる。辞書も買えない家庭もあり、学習環境自体が専ら学校に依存することが避けられない以上、本人の将来だけでなく、社会の未来のために、教育困難校には、公財政からヒトもカネもかけるしかない。通う側としては教育困難校というレッテルは好ましくなかろうから、学習支援重点校とでも看板を掲げて、ソーシャルワーカーのような相談役も配置して、教員にも誇りとやりがいが持てる職場に変革していく必要があろう。

文部科学省は、従来から機会の平等には重きを置いてきたが、新自由主義的な競争原理への傾倒が過ぎた時代を経て、もう一度、原点に回帰する必要がある。人口減少という課題への対応の中で、経済格差、教育格差への緩和を政策の軸に、施策の在り方を再考してもらいたい。

2019年9月 6日 (金)

成長戦略の一環としての大学改革はどうなったのか?

2013年にアベノミクスの成長戦略の一環として、「国立大学改革プラン」が文科省から発表されたことを記憶されている方も多いと思う。安倍政権は、三本の矢の最も重要なポイントであった成長戦略の実現に成功したとは言えないので、文科省だけを責めるわけにはいかないが、つくづく好い加減なプランであったと感じている。そこには、当面の目標として、今後10年間で、世界大学ランキングトップ100に、我が国の大学10校以上を目指すと明記されている。そのための施策として、スーパーグローバル大学を創設し、37校が選定されたのだが、掲げた目標の達成が所詮無理だとして、税金の無駄遣いという批判が当時からなされていた。それから丸6年がたち、2019年になっても、10校にはほど遠い状態が続いている。少なくとも、目標が高すぎたか、達成手段がお粗末だったか、客観的な検証が必要である。恐らく自分たちだけでは荷が重いだろうから、第三者評価をお願いした方が良い。文科省の現役には気の毒だが、過去に先輩が策定したプランと施策の評価を虚心坦懐に行って、国民への説明責任を果たすしかなかろう。

当時も、どの大学ランキングを用いるのか、明確に答えられなかったようだが、一般的には、THE、QS、上海交通大学の3つが想定されていたはずである。故狡いやり方だが日本勢の成績が一番良いものを使うつもりだったのだろう。しかし、どれを採っても実質的に成績は伸びていない。むしろ、国内トップの東京大学でさえ、ランキングが下がり気味である。当時の現場の感覚としては、運営費交付金を切り下げた上に、若手教員の身分を不安定にし、かつ個々の研究時間を奪っておきながら、国際化を進めることでランキングを上げるという目標を立てる神経が理解不能だった。相対的に待遇の悪いポストに優秀な外国人が来てくれるわけはない。期限付きの年間数億円の資金を支援したところで、ランキングが上がるはずがない。現場では、このプランは、荒唐無稽でインパール作戦のような結果になると予想していた。もちろん、大学の経営陣にとっては、支援が何もないよりはましであるが、世界の大学間競争に勝つという規模の支援策ではなかった。帝国陸海軍の「失敗の本質」と、ある意味でよく似ている。限られた資源で現場が必死に成果を出しても、資源の物量で圧倒されては、国際競争には勝てない。したがって、大学側に責任を押し付けるわけにはいかないのである。

また、国立大学改革プランには、「今後10年で20以上の大学発新産業を創出」といううたい文句もある。これも、検証の対象にしたらよい。単に事業化ではなく、産業の創出という大風呂敷に該当するケースが幾つあったのか、売上高でどれほどの規模になっているのか、国民としては具体的に知りたいものである。安倍政権の成長戦略が失敗に終わったことは、経済界を含めて広く認識されている。安倍政権の中枢においても、新三本の矢を提唱した段階で、成長戦略が不発に終わったと総括しているはずである。したがって、文科省だけの責任ではない。しかし、国立大学改革プランのPDCAサイクルを回すことさえなく、大臣が代わるたびに新しいプランを出し続けているのは、いただけない。これでは、財務省はおろか、経済界、一般国民にも足元を見られるだけである。THEの新たなランキングの発表が例年通り9月下旬には行われるだろうが、トップ100にランクインする大学がなぜ増えなかったのか、しっかりと分析し、失敗の原因を明確にしてもらいたい。文科省の高等教育政策の再建のためにも必須のプロセスではないか?

 

2019年9月 3日 (火)

なぜオカミに頼らず改革できないのか?(2)

大学の価値は入学から卒業までに、一人一人の学生にどのような付加価値を与えられたかがポイントであり、それがタイムラグを経て、新聞社などが作成する大学のランキング(評判)に反映していく。大学入試には、受験生家庭の情念が詰まっているが、社会全体の人材育成のプロセスとして、その比重はさほど大きなものではない。大学改革というならば、国際的に、単位や学位の価値が低く評価されている現状を、いかに打破するかという課題に取り組むべきだろう。本質的な問題へのアプローチを見失い、声の大きい人の意見に引っ張られ、出口のない袋小路に迷い込まない方が良い。AI時代の大学教育という観点から、大学設置基準や単位制度を見直すとともに、MOOCsのようなICTを活用したオンライン教育に、先進的大学が世界レベルの経験値を蓄えるために、実験的システムの設計、デジタルアーカイブ(授業コンテンツ群)の構築、教育プログラム開発への支援などの施策を講じて、高等教育の未来への布石に注力してもらいたい。大学側(特に国立大学法人)にも、オカミに頼ろうとする経営を離れて、学納金を始め広く自己収入を増やす方向に、教職員の働き方を転換してもらいたい。文科省(=オカミの役割を果たせなくなった偽りの主役)、国公私立大学(=オカミ頼りに陥りがちの本来の主役)ともに、危機感をもって、直ちに熱せられている釜から飛び出なくては、高等教育の未来像は描けない。

 

なぜオカミに頼らず改革できないのか?(1)

大学入試改革の一環で、各大学の選抜学力試験に、大学入試センター試験の英語科目に代えて、民間の英語試験による結果を活用するというアイデアが、有力大学の離反で、事実上頓挫しかけている。選抜試験の1点刻みの合否判定に、民間試験の結果を持ち込むことは不可能だというのは正論である。民間試験の換算値を、受験生が納得する形で公平に作成することは、確かに不可能と言ってよい。もっとも、1点刻みの選抜試験を見直すことなしに、民間試験の活用がうまくいかないことは、誰の目にも自明であったと言わざるを得ない。大学側が1点刻みの選抜試験の維持に拘るならば、民間試験の組み入れはどうにも無理である。文科省も、そんな事情はとっくに承知であったろう。ホームページに特設サイトまで作って、今更ながら「やっている」感を出しているのは、もはやアリバイ作りのような印象である。本気で民間試験の組み入れを促進するには、有力大学の猛反対を押し切る覚悟で、選抜試験を1点刻みでやってはいけないとするガイドラインでも出すしかなかろう。腹をくくるなら、財政援助に響くと明示することで大学側は拒否しにくくなるから、大学入試改革は文科省の描く姿になっていくかもしれない。逆にそこまで押しつけの度合いを高めて批判を浴びたくないなら、民間試験結果の選抜試験への活用は進まないに違いない。

それにしても、日本という国は、制度の設計や変革を、なぜオカミに頼りたがるのだろうか?オカミの方針に従うことで、横並びの「平等」が保障されると、安心できるからだろうか?しかし、世界との競争を考えたとき、本当に安心なのだろうか?デジタル技術が社会インフラとして当然のものとなった21世紀には、こうしたオカミに頼る行動パターンが仇になっていると強く危惧している。デジタル経済社会を先導しているのは、企業や非営利団体など民間の組織である。オカミに頼りたがる組織は、この指とまれで前に進んでいく流れに乗れずに、後手を踏んで周回遅れになっていく。「危機感なき茹でガエル日本」(小林喜光監修、経済同友会著、中央公論社刊)に描かれている残念な状況にも、その基底にオカミ頼りの心的病理が潜んでいると思う。その病理から抜け出せないと、茹でガエル症状は、いつまでも続き、日本の凋落が止まらないのではなかろうか?

オカミに頼れなくなれば、大学入試改革は、各大学で考えるしかなくなる。文科省としては、茹でガエル症候群の治癒を目的に、思い切って役割を放棄してみたらどうか?失敗が目に見えているなら、一度ゼロに戻す意味もある。大騒ぎした記述式問題は妥協の結果、形ばかりに縮小されている。大山鳴動して何とやら、とても改革の名には値しない。18歳人口は減少が続く。私立大学の大半は、選抜試験以外の方法で学生確保に勤しんでいる。これからも、その傾向が続くため、選抜試験の役割は相対的に低下する。最近の調査によれば、高校3年次の3割は、授業以外の勉強時間がゼロであるという。同じ高卒といっても気が遠くなるほどの学力格差がありつつ、学納金が用意できる家庭の生徒は、事実上学力不問で高等教育に進学できる時代である。文科省は、大学入試に関わるよりも、底辺の底上げで高卒の学力格差を縮小する施策を展開した方が良い。毎年度実施している全国学力調査の分析から、仮説に基づいて種々の方策を導けるはずである。データに基づく施策に、ぜひ実証的手法で取り組んでもらいたい。

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