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2019年8月

2019年8月 8日 (木)

大学でパワハラ防止法への関心が低いままでいいのか?

2019年5月に、「女性の職業生活における活躍の推進に関する法律」が成立し、早ければ大企業には2020年4月から施行と報じられている。この改正法の中で、いわゆる労働施策総合推進法の中に、パワハラが法制化されたのだが、大学現場には、ほとんど浸透していない。パワハラは、①職場において行われる、②優越的な関係を背景とした言動であって、③業務上必要かつ相当な範囲を超えたものと定義されている。雇用主は、労働者からの相談に応じ、適切に対応するために必要な体制の整備その他の雇用管理上必要な措置を講じる義務を負う。端的にパワハラ自体を禁止していないものの、防止措置義務が定められたので、パワハラ事案の発生が認定されれば、結果として措置が不十分だったと断じられることを覚悟しなければならなくなるだろう。また、パワハラのない職場で働く権利を侵害したとして損害賠償も課せられることになりそうである。

法律専門家の見解では、パワハラ事案は、スポーツ及び学校において、とりわけリスクが大きいとされる。この点に関しては、Jurist2019年4月号の、川井圭司教授(同志社大学)及び横田光平教授(同志社大学)の論考を参照されたい。要は、スポーツ及び学校には、構造的にパワハラ事案が発生しやすいリスク環境が宿っているということである。学生は、教育サービスの顧客であり、大学との雇用関係はないが、パワハラの法制化をきっかけに、研究室や運動部で教職員から受けたパワハラへの告発が進むものと思われる。運動部は、スポーツ及び教育の共通集合という意味で、とりわけハイリスクである。にもかかわらず、大学現場では、上記の改正法に対する認識も、リスクに対する認識も,いまだに稀薄である。ある意味で、現場には、昔から、「教育指導」としてパワハラ(時に暴力)が蔓延しているため、当事者の感覚がマヒしていると思われる。しかし、これからも昔のままで済むわけがない。早くマヒしている感覚を、世間並みにリセットしなければならない。これまで当たり前にやってきたことが、実はパワハラになりうる(なっている)からである。

大学の方も、意図して目を背けているわけではなかろうが、国立大学は、運営費交付金の評価に基づく配分の拡大に戦々恐々としており、私立大学は、私学法改正に伴い、今年度内の寄付行為変更等の手続きが課されている。また、すべての大学で、新テストの導入に伴う入試の在り方の見直しも必須になっている。さらに、国立大学協会は利害の不一致で組織がバラバラになりかけている。要は、目の前の案件処理で忙しすぎて、パワハラ防止のことに気が回らないのではないか?スポーツ庁は、目前の東京2020の成功しか見ておらず、大学への指導力も乏しい。大学スポーツ協会(UNIVAS)が発足したと言っても、相当数の有力大学が不参加で、利害の異なる競技団体と大学を同じ会員とした構造上の無理もあり、当初の目標であった日本版NCAAには、ほど遠い状態である。文部科学省高等教育局は、中教審答申において、2040年における高等教育の未来予想図を示せなかったように、政策面での地位低下が著しい。総括すれば、パワハラ防止という教育・学術・スポーツの現場にとって、重要なテーマに、誰もリーダーシップを発揮できない状態に陥っている。

このまま改正法の施行に移行すれば、最もリスクが高いとされているスポーツ及び学校は悲惨なことになりそうである。教職員(及び学生)からのパワハラ事案の告発への対応に翻弄されるとともに、予防のためのリスクアプローチの実行に、相当な時間とカネがかかる。いまだに大学を悩ましている研究不正以上に、件数も金額も、大学にとって大きな負担になるに違いない。経営者は、課題を正しく認識し、教職員の意識改革を含む総合的な対策に乗り出さねばならない。意外に大きな危機が、静かに忍び寄っているのである。

2019年8月 4日 (日)

文部科学省の解剖で何が変わるのか?(2)

行政を担う政策マンとしての専門性を磨いてこなかったために、社会の変化に対応したリーダーシップを施策の形で取れないままでは、三流官庁そのものである。先輩たちからの聞き取りを含めて、政策・施策の棚卸作業を、有望な若手に徹底的にやらせて、鍛錬・勉強の機会にすればよい。危機感だけあって、政策・施策で何をどうしたらよいか分からないのでは、組織の弱体化を止められない。幹部みなが賛成する事業しかやらない企業は、右肩上がりにはならない。文部科学省は、すでに最安値圏にある。過去の反省を糧に、力量と志のある人間には、失敗を恐れず新規のテーマに挑戦させるのが、唯一の再生への道になるだろう。これまでの典型であった消極的・内向的な人間は、幹部であろうとも、もはや要らない。官房付けにでもして、若手に席を譲ってもらえばよい。そんな役所になれば、リーダーシップのある志の高い人間が集まってくる。これまでのように、ひたすら行儀よくしているだけでは、何も変わらない、変えられない。10年後に再び「解剖」があれば、相変わらずの三流官庁だと言われるだけだろう。尤も、文部科学省が存在していればの話である。

 

 

文部科学省の解剖で何が変わるのか?(1)

「文部科学省の解剖」(青木栄一編著、東信堂)には、①文部科学省が、他省庁との関係に、極めて消極的・内向的な認識を有している、②他省庁との政策論議を苦手とする三流官庁という見解は、2016年に至っても妥当性を持つと、述べられている。その根拠として、教育振興基本計画への数値目標の記載が財務省の反対で3度も実現しなかったこと、もんじゅの廃炉が経済産業省出身者らを中心に決められたことが挙げられている。こうした記述は、学者らしい婉曲的な表現で柔らかになされているが、内容自体は、霞が関の落第生という烙印を押されたに等しい。この2年ほどの数々の事件を経て、文部科学省内には危機感が共有されているものと思うが、なぜ、こうした事態を招いたのか、マネジメントの問題はもちろんのこと、既存の政策自体の妥当性についても反省・再考すべきだと考える。

企業でもあることだが、結局、先輩たちの失敗(不作為を含む)の累積が、今日の危機的な事態を招いているので、立て直しには、主流をなしていた先輩たちへの批判を避けて通れない。その点への遠慮なり、今の幹部の自己保身が、文部科学省の改革への最大の障害になっているのではないか?あるいは、再就職問題以降、OB・OGとの接触を極端に抑制してしまった結果、立場や意見の異なる種々の先輩たちの気づきを再生に生かせなくなっているのではないか?要は、組織の構造的改革に向かうべき時に至っても、「解剖」が指摘する消極的・内向的姿勢が目立っている。これを乗り越えることなくして、汚名返上は不可能である。

この点をリードするのは、事務次官や文部科学審議官の役割に他ならない。世の中に変革の成果を明確に見せなければ、落ちこぼれの三流官庁という最悪のイメージは払拭できない。省内に対するメッセージとしては、人事が最大のポイントだが、今夏の時点では、幾つかの変化は場当たり的な印象しか与えないものである。弱いトップの下では、局の組織がバラバラになる危険性を感じる。その上、好き嫌いで人事をされたのでは、部下は堪ったものではない。この変化も単なる打ち上げ花火のつもりなのだろうか?

マネジメント改革に加えて、過去の政策・施策に関する反省こそ、今、取り組むべき最も重要な課題である。当然と考えられてきた政策・施策を含めて、一切の棚卸作業を進めるべきである。文部科学省は、世界トップ100に10大学を入れるといった実現の目途がない目標を無責任に掲げてきた。あるいは、株式会社立教育機関の認可など結果責任の持てない規制緩和を実行してきた。今また、国立大学法人への運営費交付金の流動化(評価に基づく配分)が始まっている。新たな給付型奨学金を含む修学支援システムも、制度の運用の公正性、施策としての費用対効果に大きな疑問がある中で、準備が進んでいる。大学入試改革は、制度設計の当初から迷走を続けており、国民からは改革の理念や成果が全く見えなくなっている。他方で、社会教育など、時代に即した展開を停止しているとしか思えない分野も無為無策に放置されている。渋々やらされたことも多かろうが、やっているのは文部科学省自身であり、決して責任は免れない。過去の失敗への反省なくして、未来の成功は導けない。

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