行きの電車の中で読んでいた本が読み終わらなくて、それがあまりにも気になりすぎたために秋原UDXの chiocciol@ pizzeria のテラス席に陣取って読み進めたり。
天気良かったからって! ギネス1パイント片手に! 往来で! 素敵な本を読書!
――はぁ~、倖せや~(´Д`)。
キャラ萌えリテラシー。(Something Orange) エロゲで「本物の」美少女を描く難しさ、或いは安直な美少女表現への批判(Half Moon Days) 媒体がラノベだったりエロゲだったり同一ではありませんけれど、3次外での「美」を考察していたところが重なっていたので印象深かったり。
わたしは設定としての「美」(可愛いなども含んで)は、キャラが立つ上での基礎点でしか無いと思うのですよ。
Something Orange さまで指摘されているように、どれだけの修辞を重ねたところで「美」の大きさが設定以上に強められることは無いと思うので。
だもので例としてあげられている『とある飛行士への追憶』の引用部分についてもさして意味無い部分として斜め読みしてしまっています。
でも全く意味がないというのかといえばそうでもなく、基礎である「美」についてどれだけの考察を行っているかという筆者の準備について察せられる部分であるので、重ねての修辞が無駄だとは思わないのです。
ただ「設定」として加えただけではなく、この場合の「美」について筆者はどう考えているのかイメージがある……ということへの証明だと思うので。
Half Moon Diary さまでは「丁寧に描写されれば(中略)可憐さが伝わってくる」と、ちょっと逆の指摘をしてますけれど、まぁ、エロゲはビジュアルありきの媒体ですし指摘するところが異なるのも当然なのかなーとか。
そもそもテキストのルール?が異なっているので、一元化は無理だと思いますし。
でも、だからこそ3次外の媒体で「美」を語るときの要点が浮かんでくるのかなーとか。
それは、ラノベだろうとエロゲだろうと――
登場するヒロインの容姿が可愛い(美しい)のは不文律である ――ということです。
なぜならそこで描かれる物語は「現実」ではなく「理想」であるべきはずだから。
主人公が男子である場合、関わってくる女の子たちが普通の容姿であるというような「現実論」では物語が成立せず、「理想論」である「可愛らしさ(美しさ)」でもって紡がれることも当然だと思うのです。
つまりは「理想論」という異常性の上で成り立っている媒体である、ということでしょうか。
誰だって見目麗しい相手にかまってもらいたい基本があります。
そこでは自分(の感情移入対象である主人公)がカッコイイかどうかは問題ではありません。
むしろ「格好良くない自分(主人公)にも感情を向けてくれる『可愛い(美しい)』ヒロイン」という構図のほうが、現実とは異なる理想を描いてくれているために良いのかもしれません。
で、まあ、みんなが可愛かったら(美しかったら)相対的には「美しくない」ってことになりませんか?という話であると思うのですよ。
ええ、そうの通りです。
Half Moon Diary さまでは他のキャラクターとの差別化をするための手法として「ヒロインを慕うファンクラブの有無」を挙げられています。
あー、まぁ、そういう物証的な比較もできるでしょうけれど、ちょっとそれは対象とするヒロインの枠から外れたところかなーと思ったりします。
そんなアタッチメントみたいな設定で、他者と比較して勝利となるまでの「可愛らしさ」を得ることは出来ないのではないか。
仮にファンクラブがヒロインから離れて他のキャラへ移ったとしたならば、その「可愛らしさ」まで移行してしまうことになってしまいます。
んーと、わたしが思うところの差別化って、「ヒロインの行動様式」ではないかなーと。
ビジュアルとしての可愛らしさはヒロインとして持ち得ている当然の資質であることは先述しました。
そのうえで「モブキャラとは違う行動を為す」というポイントを加えられたキャラこそが「可愛いヒロイン」になるのではないかなーと思うのですよー。
柔らかい物腰とか、凛々しい指導力とか、旺盛な挑戦心とか、過度の自虐趣味とか、周囲への無関心とか。
もう、とにかく「一般的ではない言動」こそが3次外媒体における「可愛らしさ(美しさ)」の要点であるのではないかと!
よってラノベやエロゲの送り手が重視すべきは外見がどうのという記号論の末端ではなく、もっとキャラクターの行動起因となるべく性格や嗜好・思考の部分であると思うのです。
Half Moon Diary さまで取り上げられている『とらドラ!』の逢坂大河嬢を思い出してください。
彼女が可愛らしいのはそのミニマムでお人形さんのように整った容姿ですか?
思いこみが激しくて強引なところがある反面、泣き虫だったりドジッ子だったりする言動のギャップが「可愛らしい」のではありませんか?
Something Orange さまで取り上げられている『とある飛行士への追憶』でファナが可愛らしく思えるのは、旅立ったあとで見えてくる彼女の強い気性の部分でありませんでしたか?
このような流れを踏まえた上で指摘するのですけれどもー。
キャラクターを設定する際、「ツインテール」だの「メガネ」だの、外見に関わるところで差異化させるのって大きな意味は付与できないのではないかなーとか。
もちろんそういう嗜好カテゴリーが現状で存在することは知っていますし、それがまた「萌え」という枠組みで受け入れられていることも知っています。
でも、それは受け手である消費者が築く結果論であるべきで、送り手である制作者がそうした記号でキャラクターを立たせようとすると失敗するのではないかと思うのです。
アクセントとして用いるまだしも、当該キャラを説明するときに――
「このキャラは『メガネっ娘』です」
――なんて説明は恥ずかしくないですかーと。
「ツインテール」だの「メガネ」だのは絵を見ればわかること。
キャラクターを活かすのって、一見してわかることだけでは済まされないトコロにキモがあると思うのですよねー。
しかしながら「行動様式」を登場したその瞬間に受け手に理解させるというのはなかなかに難しいトコロです。
もちろんそれができれば「つかみがOK!」ということになりますし、そういう印象深い登場シーンを描ける人こそ優秀な書き手ということになるのでしょうけれど。
んでも、世の中そうした優秀な人ばかりではないでようし、だからこそラノベなら挿絵が、エロゲなら立ち絵やイベント絵など、外見で印象づけられるビジュアルとのセットで売り出されているのだと思うのです。
受け手の感受性、そして送り手の力量へのハードルを下げる意味で。
あ、べつにこうしたことを言うからといって「文芸作品のほうが立派である」ということを主張しているワケではないです。
ただラノベやエロゲのほうが大衆へ受け入れられやすい手法を考えているということだと思う……ということです。
おそらくそうした大衆寄りな構造を、たとえば「文壇の偉い人」たちは嫌っているのではないかなーと推測したりもします。
俗っぽさが、ね(^_^;)。
……あるいは「書き手」ひとりで勝負してないという手法がフェアに思われてない、のかも。
ビジュアルがなければ印象づけられないのか!とか。
こちらとしては「そういうルール(感性)で勝負するのも勝手ですけれど、残念なことにわたしたちのルールとは違うみたいですね」としか言えませんけれど、もー(´Д`)。
――ああ、いわゆる「越境作家」という方々は、こうしたビジュアルの恩恵を受けずともキャラクターを印象づけることができる人たちのことを言うのかも。
となればこちらののルールをひとつ制覇した上での飛躍なのですし、やはりその実力については折り紙付きと言わざるを得ないのでしょう(好き嫌いは別にして)。