人間のみならず、生きとし生けるもの全てを「遺伝子を明日へと運ぶための器」として考えるなら、存在するだけで「意味」はあるのだと思う。 いまはその「意味」を見いだせなくても、いやむしろ今の時代に「意味」が無いからこそ「明日」にはその「意味」が明らかになる可能性があるわけで。
でも、「意味」と「価値」は違うわけで。
「明日」になって判明する「意味」が、世の中に「毒」をまき散らすだけの存在であったというものであれば、それは多くの人にとって「無価値」であり「有害」であるということ。 でも、その「毒」がもしかしたら人間に仇成す存在への切り札になる時代が来るかもしれない。 「価値」は、人によって、時代によって変わってしまう定義でもある……かなと。 だからある人によっては「大切な人」であっても、別の人には「どうでもよい人」になってしまうのかなー……。
「どうして人殺しをしてはいけないのですか?」 という問いかけがたまにWeb界隈を走りますけれど。 以前はこの問いに対する答えを―― 「人間は社会の中で生きる存在であるから、その社会を脅かす存在は許されない」 ――と考えていました。
でもなぁ……と、ふと。
先述のように、人間という存在は「可能性」のかたまりであるという「意味」があることに気付きました。 人を殺すということは、そのあまたある「可能性」を消し去ってしまうこと。 それは人殺しをした人が生き続けていくことで成し得るかもしれない「可能性」と定義の上では同等であるわけで、そして誰しも「ひとひとり以上の可能性」は持ち得ていないわけで。 つまり、人を殺すと言うことは、その人がもつ「意味」だけでは負うことも償うことも埋め合わせることもできない「責」であると思うのです。 絶対的に。
ただし社会を営む存在として「価値」が無いと、その者が持つであろう「可能性」では対価にならないほどに「無価値」であると、そう判断されるのであれば、社会がその「責」を負うことで「排除」することも仕方のないことだと思うのです。 もし将来、ここで無くした「可能性」のために世界が終わるのだとしても。 今日と明日と、そしてもう少しだけ先の未来のために、ひとつの「可能性」を失ってでもいまの社会を守りたいと願うのならば。 その覚悟を社会で共有できるのであれば。
「意味」の無い人間なんて、いないのだと。 でも「価値」の無い人間は、いるのだと。 「殺す」という「行為」は、この社会この世界に生きる存在として許されることではないと。 でも「殺したい」という「思い」は、相手を「無価値」だと判断した結果ゆえなので仕方のないことではないかと。
そんなことを考えた三月下旬。
だから、「意味」だけでなく「価値」を自分に見つけていこう、授けていこう。
そんなことも考えた今日この頃。
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