最近話題になってたヌード美術公開講座の訴訟の話。
会田誠氏の美術講座を巡り女性が訴訟「自己責任」とする弁護士も
女性側の情報(言動)が後追いで伝えられてきたりと、事態はいまだ流動的なので様子を見守りたい案件ですがー。
しかしこれ、結論からいうと初手から大学側の対応が間違ってるんじゃね?て。
ああ、もちろん「講師がどういう人物で、受講する際には個人の判断で~」うんたらとかいう警句が不足していたという部分での間違いでは無く。
それはある程度、前例に則って適当な量があった(のではないか)と見聞きしています。
それ以上は必要ないんじゃないかって考えます。
断っておきますが、わたしは女性の批判に賛同はしません。
しかし女性には批判をする自由があり、それまでの女性の言動によって批判それ自体の価値が毀損されてはいけないと考えます。
対応が間違っていたのは、それを批判されたときの初動です。
示談になど応じるべきでは無かったし、それを秘匿させようと女性と交渉したことです。
美術とはどういうものであるか、表現とはどういうものであるか。
それをこの大学は理解していなかったし、その担い手であるという覚悟も無かった。
あったのは組織を運営していく商売としての顔だったと考えます。
…まあ、それでも下手を打っているのですから、この分野の商人としての才も疑わしいかもしれませんが。
WEBを回っていますと、会田誠という講師を事前調べれば回避できたというような指摘も見受けられるのですが、そんなの必須じゃありませんし。
ヌードのモデルを数十年もやっていながら、氏の名前を知らぬのは不勉強だとも。
いやいやいや、待って待って。
そもそもが、そうした講師の学説を聴講し、新たな知見を得に行く場として公開講座があるという側面はもっと考えられるべきです。
なかには事前に調べて行くことが受講に際しての誠意だなどと言う人もいましたが、なんですか誠意って。
受講する態度として事前準備を怠っているためにそれでは学びも不十分になるのではという指摘ならまだしも、誠意!
そんなことを言い出すほうこそ、昨今言う「お気持ちヤクザ」の呼称に相応しく思います。
必須ではない対応や、過剰な配慮。
そうしたものを要求することが、まさしく「お気持ちヤクザ」でしょう?
また、気分を害したなら受講を辞めるべきとの意見にも同意しかねます。
もちろんそうすることも可能でしょう。
しかし最後まで聴講すればその嫌悪的表現にも何らかの意図があるのではないかとの希望や願い、想いを捨てきれずに最後まで聴講したというのも、それはまた学徒としての姿勢であるものではないでしょうか。
その結果、絶対的な批判との烙印を押して訴訟に踏み切ったのでしょう。
…まあ、残念な話だったね、お互いに、なんですが。
講師と聴講生という立場では。
だからこそ、あいだに立つ大学側の対応がお粗末だったと考える次第。
今回の件、不幸だったのは講師のひとりが「会田誠」氏であったことだと考えます。
サブカル系のジャンルにおいて、氏の名前を「調べないでも」知っている人が多数に渡っていたために炎上した。
なぜなら「自分でも知っている人のことを、何故知らないんだ」という違和感から、すべきことを怠っているような印象を女性に持ったのではないかと。
その先入観があるがために「事前に調べるべき」だの「知っていて当然」だの、当初の問題には存在しなかった要素を持ち出して女性の言動を批判することになっているのではないかと考えます。
今回の問題は──
「公開講座の内容から精神的苦痛を受けた」
「その件を学校に対応求めた」
「学校は非を認め示談を提案した」
「その際に問題を外部に漏らさぬよう要請した」
「その要請から、学校の対応に不信感を抱いた」
──だけですよ。
ホント、学校はバカなことしたなぁ…と思います。
※この話は、あくまで現状、わたしが知り得た限りの情報に基づいて記しています。
※現状、まだ錯綜しているというか新事実が明らかになったりしてくる可能性もありますし、その際、何かおかしな発言になってしまう場合はゴメンナサイです。