私の考え出す基点を真っ当性の中に、出来るか否か
日本国の思いを馳せながら綴ってゆこうとの所存です。
日本国国家の資質を磨くことに趣を置かねばならない。国家本義の最も苦慮するところであります。
それだけに日本国の趣旨がしっかりしてなければならない。まずは国守りから説いてゆかねばならず、このたびの安保法案においても、国守りをおろそかにしていた付けであり、他の工作員が入り込み難儀する羽目になってしまったのです。
そもそも国守りの前提は憲法で定める性質のものではありません。仮に憲法で定められるとするならば、一層のこと敵側が攻め込んで来ればコテンパーにやっつける能力を添えてなければならないとすればいいのである。
憲法に恐れをなして攻め込んでこれないかもしれないのだ。憲法構造の社会にすればである。
しかしながら憲法優位性の社会を築いているわけではなく、あくまで人間社会基準の国造りをしているのでありますから、憲法は人間に付随し連続性の社会を維持するための後世へ道しるべを記するものであり、完璧なものではありません。
逐一修正するものにて時の人の英知が刻まれる憲法となっています。
が我が国の憲法は人間否定の洗脳憲法であり、とてもではないが国守りの概念が成り立っているとは思えないのです。
挙句に国守らんでもいい、国民が守るべきは憲法であると洗脳しているような、人間否定であります。不心得者の憲法であるのです。
それもそのがず、自前の憲法ではなく、押し付けられて物になっている。戦争にまけて打ちひしがれた日本国であり、国家の概念を確立するどころではなかったのでありましょう。日本人には相応しいものではなかった。
今にして思えば日本人気質を剥ぎ取る憲法であったのです。過ぎたことは仕方ないにしても今度の安保法案のごとく自分の国は自分で守る構造を打ち立てねばならない。日本人気質を育て上げる憲法づくりが本来の日本国憲法なわけです。
- 2015/09/29(火) 11:33:03|
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http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150926-00000096-mai-int
何よりも人権が権力によって否定されていることだ。人の権利は生まれた時から付いてくる。
国家国儀のやり方は国それぞれに違うのであろう。しかしながら国情の違いはあるにしろ、人である事の権益が否定されることはありません。何故なら生存権と一対のものであり、生まれてきなさんなと言うわけにはいかないのである。生存権否定であります。並びに人の権益も等しくそれぞれに有しているのであります。
ここに権力において人権を否定するところがある。支那共産党は支那の人と他の人の人権は違うと言っているのです。
歴史問題、国としての捉え方が異なると言うのです。支那で言う共産党に楯突く人間は人権を剥奪され拷問されると言う。
党に都合の悪い人間は人権がありませんとしている。党が人権を左右するとしているのであります。反共産党では人権は認めないと言う事でしょう。
人権を有するのは共産党員だけで、非人権者と肯定的な人権者が存在するとする。
何で区分けされているのかと言うと思想面で区分けされているのであります。考え方そのものを区分けし排除しているのであります。
党の考えがまともである、他の奴はまともでないと、人権を持つ人と持たない人とに区分けしている事になる。等しく誰にでも存在するとはしていないことです。
国において持っている人と持たない人と区分けしているのであります。人権を持たない人も左右されて生まれてくるのです。
その過程で人権を持たない人と、持てる人に区分けされ洗脳してゆくのでしょう。
民族を従属物思考に蔓延らせて何の人権ぞ!有能な人物が従属物にさせられるはずであります。支那では人権は洗脳力で区分けされている事になる。並びに権力においても人権は区分けされている。
しかも従属物社会をそのままにして民衆は生まれてくる。人を区分け概念に押し込めておいて、人権は国情の違いであると言わしめているのであります。
国家として成り立っていないのなら人権にも違いが生じましょうが、、、。
国家国儀の前提は人権を保護することにある。人権を破棄することは国家として存在していないことを意味する。
支那共産党は権力において人権の判別が可能としている事であります。つまり支那共産党の権力において人権を否定することも可能と言う事です。
つまり支那共産党の権力が人間否定の人権の上に存在している事です。人の持っている人権よりも支那共産党の権力が絶大であると言い含めている事です。
人権よりも党の権力が上にくる社会構造になっていますからそこんとこ間違えんようにねえと言う事です。
と言う事は人の世ではないことになります。権力構造が肯定されて人権が否定されて何の人の世ぞ!
人権を考慮するより権力構造社会を優先しているのですから、民衆はたまったものではなかろう。
よその国では人権が尊重されても、支那共産党は人権よりも権力が上にくる社会造りをしていますからそこんとこ分かってくださいねえと念を押しているのです。支那共産党では人権よりも権力が優先する構造でありますからあしからずと決め込んでいるのでしょう。
その権力は人と人との諍いごとを収めるためのものでなければならない。つまり権力の矛先が人権否定に結びついている事です。
- 2015/09/27(日) 18:16:05|
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http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-5968.html
これらは政府主体の観念性の中に生きる事であり、民間人の手にゆだねるべきことではないのですが、、、。
一個人には力の限界があり、後押ししてくれるのは日本国政府であります。日本人に正常な感覚を植え付けるのも国家の仕事であり、放送局と言えども日本人種主体性でなければならない。
ところが日本人主体性の放送をしなければならないのに、よそ者主体の放送を手掛けているのであります。つまりよそ者優先の日本人貶めの放送なわけです。
本来なら日本国社会構成に鑑み、日本人主体性の放送しなければならんものをよそ者主体性に作り上げて事無しとしているのです。
日本人そっちのけで放送しているのであります。どこの国の放送局やら分からないさまであります。
日本人気質を育てねばならないところをよそ者向きの気質を育ててどうするのであろうか?育てきれるはずもないのに!似せた放送局になると言うのなら分からんでもないが、、、。
国家法義の観念性にこのような放送局を許していたと言うのは我が国の落ち度でありましょう。政府自ら修正しなければならない。でないと日本国とは言えないようになる。日本人本義に逆らうものであるからして、、、。
- 2015/09/27(日) 08:05:30|
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http://d.hatena.ne.jp/satoumamoru/20150925/1443168510
http://www.epochtimes.jp/jp/2007/10/html/d57438.html
国にはそれぞれに偉人が輩出する。いわゆる国家財産であります。国の誇りとする人物輩出像であります。
国家基準の中に最も崇高の概念を持たされているからです。ゆえに国家の高邁さを誇るものです。
国家持続性の概念として歩調されているのです。
国際社会からも国家に位置する最高の人物像として描かれるところです。
支那にはそんなに偉い人はいませんと拒否しているのであります。拒否するくらいならまだいいのですが、あろうことか支那共産党にはそんなに偉い人は出たら困るのである都合が悪いのであるとひっ捕まえて拷問するのであります。
支那共産党はこの程度で良いとしているのでしょう。進化性の概念が存在するところではありませんとしているのです。
支那には偉い人が住む所ではありません、従属物をこしらえるところでありますからそこんとこ間違えんようにねえと生まれてくださいねえとしている。
人の成長する概念を破棄しているのであります。えらくなる事に生まれてもらっては支那共産党に都合が悪いから困るのである。
人の成長を破棄する法則でもあるのでしょうか?支那共産党に楯突いたらひっ捕まえて拷問するぞと言うわけでしょう。
これ国家としての概念構造ではありません。人類社会構造にこのような構造は存在しません。尤も人類社会を築かないのであれば話は別ですが、、、。
国は偉人を必要とせねばならない。国家の役目であります。
国家の役目を放棄するのなら話は別である。
生まれたところが悪かったとしてはならないのである。
- 2015/09/26(土) 10:29:03|
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http://www.sankei.com/politics/news/150922/plt1509220023-n1.html
国家は人物像において動く。広くは国民より選出するわけですが、国家国民の為によりよい人物像が要求されるのは言うまでもない。
ここに沖縄県の事がある。前知事の方針を撤回して、己の方針がまともであると言い張る御仁がいる。
意見はそれはそれで結構なことですが、人の世は連続性で引き継がれている。敷き詰めれば人物像において社会構造は成り立っている。
一人一人の概念が存在して最も適した活動なり行為が尊重されています。人々の要するところであるからです。
選択肢の概念を個々において成り立ちを覚え、現代の人々が潤うように取り図られているのです。
民主の概念構造であり、国家国儀の維持するところであります。その過程を破棄することまでは可能なのですが、一途に人物像否定まではもたらされず、前回の人を否定する段階ではないのです。
大衆の煮詰まったものが、後世の人物像において否定されては世の連続性が遮断されることであり、社会構造の概念が成り立たないようになる。人物像を否定しては話のし具合が出来なくなる。何故なら人は尊重する立場にいるからです。己が否定されてもどうも感じなければ、その分の価値しかありませんが、、、。
要する人の持っている進化性の概念を破棄する事になります。当方は進化性の概念を身に付けるものではありません。また人物像をこしらえるものではありません。当方が位は上であり跪くものをこしらえるのですとなる。居丈高概念ですが、、、。
他国人ならまだしも国家行動の概念を否定することがあってはならない。
己の主張に耳を傾けなければひどい目に合わせるぞと半ば脅し気味であります。国家の観念性を破棄して己の言う事を聞けと言う事でしょう。国家国儀の事は当方が取り仕切るとでも言うように沖縄県は当方の言うとおりになるのだと洗脳しているのだろうか?
政府も政府であり事の成り行きを現状の国守りを、自分の国は自分で守る責任を取り計らって説明せねばならなかったのでありましょう。
支那における拡張は感じないのであろうか?こっちの方と対決するのが先決でありましょうに!支那が通常の社会感覚を身に付けていればなんてことないのですが、南シナ海、尖閣事件を、サンゴ礁事件など見てもわかるように、尋常の感覚ではなく、そりゃあ従属物構造で進行しているから皆無でありましょう。
県民主体制の概念がどこまで浸透しているのか分からない。前知事のしたことなど知ったことではない。当方の言う事がまともであり、聞かなければならないと前知事の約束事を反故にして国家国事の事は当方にも言い分があり、国家は従わねばならないとしているのです。
国家は持続性概念で責任を有している。沖縄県に至っても国の責任範囲であり、国の責任範囲を放棄して沖縄県で持つと言うのなら分からんでもないが、、、。それでは日本国としての概念を破棄している事になり、要するに日本国無用と言う事でしょう。沖縄県が自立すると言う事でしょうか?己主張の観念性をどこにおいているのか見つけ出せないのかもしれない。
人物構造破棄してまでも沖縄県を守れるはずがないのに、、、。
- 2015/09/23(水) 13:48:04|
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例え憲法違反してでも人間は生息してゆかねばならない。人の世ならば人間生息の条件が優先しなければならない。
憲法が人間の生息罷りならんと言うわけがなかろう。
しかして人間生息の条件に適う構文でなければ憲法とは言えないのである。人間否定構文の憲法なんて存在しないのである。
敵側感情概念に入り込んで憲法違反と言い添えるは構造上において馴染まないのではなかろうか?
憲法に正常であると言う判定は自国内での憲法条項であり、敵側の観念像には効力はなきものである。わが国の憲法には限界があるのである。憲法にはなじまない敵側への抗力であります。
憲法は誰の為にあるのか?人間が作り得たのであるから人間の為に機能しなければならない。しかも自国民の為に機能しなければならない。
ここで言う憲法の資質が一途に日本国民よ憲法を守る事が己らの使命であると言い表しているのであります。後がどうなろうと憲法の知ったことではない。ここで日本国民守る立場を放棄しているのであります。
憲法が日本人に代わって日本国を守ってくれると言うのであれば、憲法に任せてもいいが、未だかって憲法が敵方の侵入を防いだと言う記憶はないのではなかろうか?
憲法概念は敵側撃退の構図ではなく、味方破壊の構図になってしまう。
憲法違反を問いただすならば憲法主体の社会構造にしなければならず、人の世の構造を否定しなければならない。
しかしながら憲法主体性の世作りをしているわけではないのである。憲法違反と言うならば解釈不全になってしまう。人間が作りし憲法が、解釈不能となってしまうのです。
憲法が人間に対して憲法違反と言うはずもなく、解釈において社会構造上不自然であると言うのである。
ならば正常な状態の解釈を導き出せばいい。それが役目であり、何もせずに憲法違反もなかろう。その役目を放棄して憲法違反もなかろう。
国家を守ろうとする行為が憲法違反となってしまう。要するに憲法が日本国は国家であってはならないと否定しているのであります。その否定している日本国に憲法が存在している事の不思議さ!何と例えていいのやら!
国家は少なくとも国守りを前提として成り立っている。その成り立つ条件を破棄せねば憲法違反として成り立たないと言うのであれば、不可解である。
人が守るのは命であります。憲法が人の命を守るのではありません。憲法の趣旨範囲は人間の趣旨活動の効力を優位性に導く要素でなければならない。人間の趣旨活動を否定するような構文は無効のものである。
何でって解釈不能に陥るからです。人の世の生活構文が憲法だからです。憲法が人の世の生活構文を破棄しているのです。それなのにどうやって日本国を守れと言うのであろうか?
人間の趣旨感情を否定しているのであります。憲法違反の解釈概念が不自然である。人間に憲法違反の解釈概念が存在することが不可思議である。
憲法は人間に正常な感覚の概念が要求される。人間に戦う事の観念性を放棄する世の中にしなければならないと言うのなら分からんでもないが、、、。
憲法守れ、平和を守れ、と言う前に人間の命を守る事が優先する。これは人の世の構造、第一義の定理であります。
憲法守れは人間の命はどうなってもいいのだろうか?人命を守る事は憲法違反にはならないはずだ。国家を守る事が憲法違反云々にはならないはずです。
国家の趣旨概念を放棄して憲法守れはないだろう。人命を蔑ろにして憲法守れはなかろう。並びに国家国民の命を蔑ろにして憲法守ったとはならないはずです。人の世が成り立たないようになる。人間の趣旨感情に相反する憲法となる。
国家は国民が守るものであります。特定の人が守るものではありません。国情の観念性の中に区分けする道理は存在しません。憲法が区分けして存在すると言うのなら話は別ですが、、、。
- 2015/09/22(火) 13:04:09|
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http://ttensan.exblog.jp/d2015-09-21/
法則概念の中に不正を暴く構造が定理付けされている。誰に対して設けられているのかと言う事ですが、人間が人間に対して法則概念を適用しているのです。
何で人間が人間に対して罰を被らせるのであろうか?その罰を被らせる意義は何であろうか?
人間である事の証明をさせるのですが、人間でないならばその罰を被らせる必要もないわけで、人間であるならば罪の意識を持っているであろうから、その罪を改めるべく侵してはいけないよとの戒めであり、人間の在り方を法則概念において説いているともいえる。
誰しも過ちがあるからその過ちを正して戒める事を第一義に醸している法則概念であります。
ここに罪を犯しても謝らない構図があることも事実で、罪を犯したと感じてじないと言う事もあるわけで、認識力の差が各々において違うと言う事です。
謝りの認識を持っていないのなら、始めっから誰も相手にしなくなるであろう、何ら付き合っても得るものはなく無駄だと言う事であります。
何となれば謝りの構図が存在しないと言う事は、居丈高に相手を見下している構図に相違なく、従属物に仕上げたい為の行為にほかならず、資する感情の中に過ちの構図が存在しないと言う意味になる。過ち構図の無い物言いは成立しないものであり、人においての物言いでないことになる
総体的に欠落した物の考え方しかできないと言う事であり、人間主体の考え方が存在していないと言う事になります。
つまり相手側に存在する謝りの構図を無視した付き合い方になり、効力概念を否定した仕草になる事です。人間の効力概念を否定した物言いになる事です。
我は人間の持ち合わせる効力概念を破棄しているのでありますから、そこんとこ間違えんようにお付き合いくださいませねえと言う事です。つまり相手側を動物感情になぞらえて見下げている事になります。
こんなんと付き合ってみても何ら得るところはないでしょう。あっちへ行ってくれとなるでしょう。まだ付き合ってもらえるから感謝しなければならないのですが、そこまで意識感覚があればの話ですが、、、。
資質観念像を自らこしらえねばなりません。あるいは国家ごとの、民族ごとの資質から執り行う事になります。従属物観念像を破棄してのものですから果たして成果があるのかどうかであります。
人においての観念像を仕上げる形になると思います。
相手側にも謝りの構図が存在しないものとして話をすれば別ですが、、、。
謝り構図は日本人であるのかないのか見分ける方法にもなりましょう。
反省謝罪は気質向上心の上に成り立つ概念であります。
- 2015/09/21(月) 12:46:26|
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日本国の国造りは日本人に任されている。日本人は日本国を作らなければなりません。
が日本国を作る前にしなければならないことがある。それは日本国を守る事であります(安保法案)。
日本人気質が生きる国にしなければならない。日本国をよそ者気質に染め上げるわけにもゆくまい。まさか鮮人気風の国造りをするのではあるまいなあ。よその輩の為に日本国があるのではありません。
よその為の国造りをする必要もないのですが、わが国には日本国無用と他の国の為の国造りをする輩が存在している。しかもおおらかにわが国に住み着いて日本国無用と叫んでいるのであります。
国家構築する概念を捉えきれないでいる我が国であるのです。よそから誑かされる効力が優勢で日本国民は難儀しているのであります。
この頃はインターが重要な役目を担っており、日本国存続を後押ししてくれている。
日本国の概念像に位置する構図を作り上げねばなりません。その構図に沿わないものは破棄しなければならない。日本国国家に対する相反する構図になるからです。
国家の概念構図がいかに大事かを推し量るものであります。よそ者に邪魔されてはならぬものであり、日本国排除の姿勢あらば即刻退治せねばならない。蔓延らせるのはもってのほか、よそ者気風など取り入れる必要はありません。
尤も日本人気風より優れていればこの限りではありませんが、、、。
日本人なら日本国を作り上げるのは当たり前のことであります。よその輩の為に日本国があるわけではありません。よその為の国造りをしてどうするのであろうか?
- 2015/09/21(月) 08:16:16|
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http://dogma.at.webry.info/201509/article_4.html
人間には五感がある。人であることの証明ですが、己だけにあるのではなく、相手側にも存在して、交互に意識し合う所に社会構造を作らしめている。
広くは国家構造に位置する国会であります。私としての概念を破棄して、公としての概念を優先して執り行う所であります。
あたかも国の行く末を占う大事な仕事であります。
相手否定構図を暴力において取り繕う事は許されていません。観念性における識別はわきまえておかねばならない。
議論を戦わす場において力づくの暴力行為は許されておらず、国会の持っている気質観念性を剥奪する行為であり、路上においての立ち居振る舞いとは違うものであります。
議会識別の観念性を破棄するものであり、国情の権威を蔑ろにするものである。日本議会否定であります。
やはりせっぱ詰れば人の持っている本性が現れるとは言うものの時と場所を心得ねば単なる感情屋になってしまう。
路上観念性と勘違いしているのでありましょうか?一辺倒思想であります。物事思慮の観念像に一辺倒思想は存在しません。あるとすれば別枠でありましょう。社会道義上に通用するものではありません。
日本議会に敬意のまなざしも感じないのであろう。
日本議会の権威を汚すように仕向けているのなら分からんでもないが、、、。
何のかんの言うな我々を送り出した国民を恨めとでも言うように、、、。
国会まで鮮人気風に染められたんではたまったものではない。
- 2015/09/20(日) 16:20:25|
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要するに感化されたと言う事ですが、その分毒性が強かったと言う事でしょう。
普通に日本人気風に染まるのですが、その逆の日本人が鮮人手法に嵌められていったのであります。
また日本人気風に染まるような輩ではなかったのが不幸を大きくしていったのでございます。染まるどころか日本人が染め上げられてしまったのでございます。
放送局、マスゴミ、野党の輩であり、自民党にもいるかもしれませんが、日本社会に蔓延る毒性は強い物がある。日本人気風が剥ぎ取られて行ったのであります。
日本人が退治できるのか否か将来の日本国がかかっているのであります。退治できなければますます毒が回ってきましょう。
いわゆる鮮人手法の効力が強まってくるのであります。国籍法もその一つでありましょう。
要するに日本人と区分け付かないようにして、社会構造の一端を牛耳ろうとの意気込みでありますから、手もなく蔓延られるのであります。
国家ごと手を打たねばならない時期に来ているのであります。さもなくば日本人の為の社会造りが破壊されるでありましょう。
現にその兆候は表れている。必要なのか必要でないのか選択肢の概念が要求される。
過去の日本人が対処できなかった付けが来ているのです。日本人に責任があるのです。在日朝鮮人が責任を取ってくれるはずがありません。また取らせてはならぬものです。取らせれば日本国放棄したとみなされるからです。
日本国は日本人の手で守らねばならない鉄則であります。
- 2015/09/19(土) 08:43:13|
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