fc2ブログ

普段の中に正当性を求めて

私の考え出す基点を真っ当性の中に、出来るか否か 日本国の思いを馳せながら綴ってゆこうとの所存です。

体罰

人にもそれぞれあり、罰を受けて強くなる人も居れば、苦痛に感じる人もいる。

競技においては楽をして頂点を目指そうなどと思ってはならない。ここに師弟関係を育むところの体罰と言う一つの方策が垣間見られるのであります。

要は己の器量次第なのですが、誰でも自分に都合よく解釈しがちであり、苦痛とあらば相手が悪いとなります。良好の方に捉えれば愛の鞭と感じられましょうが、、、。

各人の気の持ちようで、ある面では薬にもなると言うことであります。これも個人の資質とも兼ね合い、時と共に変化し、必ずしも一定ではない。

その答えが頂点を目指す為の体罰仕込であり、苦しいがゆえの頂点造りであります。

楽をして頂点を目指していたつもりが、苦しんでこその頂点と言うことで限られた物だけにしか与えられていない、それだけにたくさんの苦しみが待ち受けている。

勝ち抜いてこその頂点であり、限度があるものの苦しい手練と思えば耐えることもありましょう。

これも程度ものであり、人にもよるのであります。指導者との心意気の問題で行き過ぎれば、体罰として苦痛を呼ぶことになってくる。

当人を尊重したままの体罰であればいいが、気の向くままの見せしめのようなものであってはならないし、本人との掛け合いも交じり合わなければ一方的に仕込むものではなかろう。

ここで相手にも否定する道理をこしらえなければならない、自分はこうこうこう言うわけでこのように思うとの交わる言葉を発せられるように、一方通行の面持ちではなしに趣旨に添うような体系でなければならない。

難しい舵取りにはなりましょうが、指導者の本質にせまるところであり、心身の交流が望まれる。

教える側教えられる側、頭脳戦ではないだけに体力的な面をカバーするには精神の作用を期待するのですが、見えないだけに過剰気味に期待するのかもしれない。


すべての者に通り一遍に体罰を加えればいいというものではなく、人それぞれに見合った教え方があるはずであり、それぞれの人の効果を考えた上での体罰でなければならない。

敷き詰める体罰の観念像に苦痛を伴うのでは効果も喜びも半減する。

個人差もあり、やわな指導では頂点を目指す精神力が生まれるとは思えないが、それでも精一杯に個人として満足できればいいが、日本国の代表としてやっているからには、厳しい練習にも耐えて日の丸を揚げたいとの気持ちに駆られることはあるであろう。

果たして楽な練習をして頂点は極めるのには難しくもあり、成し遂げれば当人の技が生きていたということであり、ここら辺の見極めが難しいのである。

ある程度日本的な気風の面もあり、闘争心を植えつける為には一番近い指導法でもあるのであろう。

教えるもの教えられるもの、言いたいことも、言えない風潮もあり、弱く仕向ける為に体罰をしているわけではなかろうが、強くなりたい為の体罰と心得る。

勢い限度を超えた事になってしまっているのであろう。

己の才覚を磨く為に、己の器量を試す為に、先輩諸氏に力と技を、精神力に抜きん出る為に教わる競技方法でありましょう。

  1. 2013/01/31(木) 15:51:17|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

マスゴミ無用論


日本国の発展に寄与しなければならないのは普通のことです。国家国民の使命であります。

住んでいる以上は日本国土の概念像に恩恵を受けているのであります。

この恩恵を感じないところが存在する。俗に言われるマスコミでありますが、自国民を誑かす様相であり、よその国向けの概要を組みあげて、日本国民をほったらかしであります。

国民の役目にはならず、日本国民の選びえた指導者の粗探しを引っ掻き回して、どうだマスゴミの探求力はたいしたものだろうと自画自賛しているのであります。

手前があくまで日本社会の牽引車であるがごとくに、皆の注目度を浴びたいのであろうが、時すでに別趣向の段階に移行中であり、時期失すれば下手をしたら害になることすれ益になることはないかもしれない。

今後は日本国民の位置に立った見方が求められましょう。

よその国の見方に立ってどうするのであろうか?また出来ようにも無意味なことであり、それこそ誑かしまやかしの構図になってしまいましょう。

ところがわが国には何を思ってか、日本国民の心情を踏み躙っても存在している、マスゴミが幅を利かして、日本国土に居ついているのであります。

またわが国も鷹揚というか腑抜けと言うか、さっさと免許権を剥奪すればいいものを野放しにしているのであります。

その分日本国の繁栄が遅れることになってゆきます。

安倍政権にマスゴミ由来の観念性を剥ぎ取ることができる法則をこしらえてもらいたいものであります。日本国民に無益なマスゴミとして君臨することは無用のことであります。

日本人に不利益な事態を引き起こしている。
  1. 2013/01/31(木) 10:20:16|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

結婚は双方の合意に基づく

http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-4947.html#comment

>「民族差別の存在に起因した迷いから婚約破棄したのは不当」<引用

差別は一方的に述べる言葉ではなく、男性側も差別と意識して破棄したわけではなかろう。自らの政治信念に反するから、結婚を破棄しただけのことではないか?

結婚は双方の合意に基づくものだから、双方に煮詰まる条件が途中に崩れたと言うことでありましょう。

その崩れた条件を話し合いにて埋め合わせするなりして尚且つも政治心情に合わないから取りやめたと言うのは正式な口上書になるのではなかろうか?

何が非に至ったのだろうか、双方に如何なる落ち度が発生したか逐一煮詰めて行くことになるだろう。

結婚する前から金銭的な面を補充しなければならないとは不自然なことではある。

結婚して相手側のへまで著しく心身を傷付けられた、寄って慰謝料を払う破目になったと言うのなら分かるが、煮詰まる前の段階であり、時期において欠落条項があまりに大きかったので、結婚するのに引っかかったと言うことである。

当人同士の合意を基に成り立つ結婚ですから互いが欠落条項を確認していればよかったのでしょうが、、、。

何の縁かは知りませんが、少しの間だけでもあなたを知り合えた事に感謝いたします。どうぞまたいい人が見つかりますようにと互いを優しく健闘しながら日本人ならば別れましょうに!そうはならなかった。

その観念性が沸かないと言うのにも不可解である。

気心を傷付けられたにしろ、これは双方にも言えることで一方的に発生することはない。してお金よこせでは尋常の女心ではないような気がしている。

83年の大阪地裁の判例の「差別意識に起因し、不当だ」 との引用を持ち出している。

これでは男性側も素直には喜べないところであり、出処進退を明らかにしなければ、また日本社会にひびが入ることにはなるであろう。

普通に人との出会いは重宝なもので貴重なものであり、夢膨らむものでもありましょう。

その出会いを事が成らんからとて相手側に負担を掛けるものでもなかろう。

如何に人の心を踏みにじっているか分かろうと言うもの。あってはならないことである。

日本社会を撹乱させることにもなってくる。人の世に金銭の分け隔てを感じさせる。

男性側から調べられたのならいざ知らず、結婚出来ることが前提であるのなら、黙っていてもよかったのではなかろうか?

まずはそっちの方に趣をおくはずである。わざわざ障害になる物言いを持ち出していることに不自然さを覚えるのである。

破綻させる為に女性は祖父が在日韓国人だと市議に告げたとも考えられないこともない。後になって差別云々として損害賠償せよと訴える気心から察すればの話である。このように勘ぐられても仕方ないのではなかろうか?

  1. 2013/01/30(水) 09:23:05|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

平和憲法解釈 


わが国は憲法の概念構図を何処においているのだろうか?国家国民本位のものではないのではかなろうか?

と言いますのも、わが国の憲法は相手が攻めてきても武力行使はならず、戦争を放棄しなさいと促しているのです。憲法が国家を守り抜く姿勢を放棄しなさいと言う。

わが国の憲法は国家国民を守る必要はありません、守り抜くのは憲法であると言うのです。平和憲法を守ってくださいと国民が犠牲になっても憲法を守りぬくのが筋と言うものですと国民に促しているのです。

国家国民本位のものでなければならない。憲法は国家国民を守り抜く為に造られている。国家は憲法を守り抜く為に存在しているとは言うものの、敵側進入の攻撃精神には当てはまらず、これを憲法解釈で導いているところに問題がある。

憲法通りに世が進行すればいいのですが、憲法どおりに進行しないからとて世を罰するわけには行かないだろう。

法を罰したって万能の法にはなりません。ならば人間も万能の人間にはなり得ないない以上はどっちもどっちと言うことであり、人間に打ち勝って法を罰する仕組みがない以上は、人間の意思決定が否定する存在にはならないのです。何処を優先して考えるかであり、人間の器量を信じるより手はないのです。

否定するとすれば法の概念を否定すれば事は足りるのです。法との戦いではなく、人間の意思との戦いなわけで、優れた人間の意思活動が信念の働きとなって世を支えなければならない。

法を改正するまで待って効力を期待するのでしょうか?改正できなければどうするのでしょうか?その間に起こった出来事は責任取るのでしょうか?

事件は法則どうりには進展しないものです。趣旨は人間の趣向を世は賄っているのであり、法の趣向尊重を抱いた生活体系ではないのであります。

憲法はあくまで人の記述解釈上に存在する補助的固定観念性に由来する。

固定観念性を維持するもので、人間を支えるわけではありません。人間を導くための一つの方策として法に依存しているのであり、改正するなりは人々の知恵によるところであります。

敵側が日本側の憲法どおりに動いてくれればいいが、わが国の憲法を敵側が守れないのなら、日本側の一方的な思い込みの憲法になってしまい、敵側には無用の法規でありましょう。

国が滅びてもよくぞ憲法を守ってくれたと誰が喜ぶのでしょうか?喜ぶとすれば敵側にほかなりません。

日本国が滅びては憲法を守った意義がなくなってしまう。何の為の憲法かと言うことになる。憲法持っても持たなくても結果は一緒ではないかとなってしまう。

国民を守るための憲法が、敵側が喜ぶような憲法を持っていたことになります。

憲法条項が命のやり取りの戦争次元において適用させるには無理がある。

武力行使の命を剥奪する概念像が戦争であり、テロなどの行為であります。
敵側もわが国と同等の気概を持ち、憲法で戦争放棄を謳っているのであれば話も通じようが、戦う前から戦争放棄とは筋が通らないのではなかろうか?何で日本側だけ一方的に戦争を放棄し自虚解釈せねばならないのだ?

いわゆる平和憲法は相手次第の条件付憲法と言うことが出来る。

敵側依存のどうにでもなる憲法であったのです。但し書きの要る条件付の憲法であったのです。

憲法を改正しなければ敵をやっつけることが出来ないとはちと妙なことである。

憲法の国守りの概念が逸脱していることになる。国守りの構図にはなってはおらず、憲法を守ることに趣旨をおいているのだから、国民は滅んでも憲法の趣旨を守らなければならないとしているのです。国家国民を守る構図でないことが分かります。

敵側をやっつけるのに議員の三分の二以上の賛成を得なければやっつけることが出来ないとは理不尽であり、不可解であります。

議員の三分の二以上の賛成を得るまでに、国が滅ぼされればどうするのでしょうか?持ちこたえるのが国民の務めであるとでも言うのであろうか?

戦争次元の国守りの精神は多数決の論理では成立しないのであります。

国民が独りでも敵側と戦えば英雄であり、国の誇りとするところである。憲法に違反したとして逮捕するのでしょうか?つまり国を救う為に敵側と戦って逮捕されるとは不自然であります。まやかしの憲法になってしまう。ひいてはまやかしの国民にでもする魂胆でありましょうか?
  1. 2013/01/29(火) 10:53:14|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

企業戦士

http://d.hatena.ne.jp/satoumamoru/20130126/1359171711#c

日本国において日本人が伝統を維持しながら日本国の安全を確保して行った。

日本人同士の気質が上手く機能して行った一つの民族の誇りでもありました。

あまりにも日本人の気質の良さに見舞われて、安全と言う言葉が国内に安易に解き放たれた。

治安の良さもさることながら、よそ者にも利用されようとは思わなかったに違いない、防備の面で疎かになっていった。

果てはスパイまでもが安全に活動できるようになってしまい、わが国が貶めを食らう破目になっている。

が、よその国では日本社会では考えられないことが起こり得る。今回のアルジェリア人質事件最悪の結末となってしまい、外交上の保全策の至らなさを暴露することになった。

資源もらうのにも命を掛けてもらわねばならない。犠牲の上に資源を頂いている事になる。これからも事件に巻き込まれること大であり、未然に防ぐことが求められる。

日本は外に出て行かねば資源はもらえない。しかも命を掛けて政情が不安定なところならなおさらでありましょう。

現地任せではなかなかに難しい身の守り方になるかも知れない。普通の状態で出かけるには今回のようにまた犠牲がでてしまう。

しっかりした防備体制をして出かけてゆかねばならないことになる。果たしてテロに合わないようにして命がけで資源を確保せねばならない、いやと言うわけにはいかず、苦難の日本国資源獲得であります。

日揮の有能な企業戦士であり、日本国の為に命を掛けて遠いアルジェリアでの仕事振りであった。

このたびの企業戦士の無言の帰国は日本国の為に日本人の為に誇りを一身に背負っての活躍であり、心中はまさか命を落すことになろうとは思われていなかったのではなかろうか?

現在日本国に住んでいる我々には遠いアルジェリアで働いておられるとは思っていなかった。
  1. 2013/01/28(月) 09:20:16|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

政治家の資質

http://senkyo.mainichi.jp/news/20121127dde041010044000c.html

日本人の為になると思って送り出した政治家が、日本人の為には働かず、よその国の為に尽くしているのであります(民主党)。

選び方がまずかったと言えばそれまでですが、何ゆえよその国の為に働く人物を選ばざるを得なかったのか?

選びえた国民にもある程度の責任は発生するのである。選んだから仕方ないでは済まされないこともでてくる。

選び方にしても完全な仕組みではないから模索中なのですけれども、他に優れた選び方があるようには思えないから、維持しているだけのこと。政治体系は何処も一緒ではなく、政情不安定なところもあって一定ではない。

日本人の為の政治をもらわねばならない。日本人の趣旨を生かした政治をしてもらうのが筋であります。

あまりにも紛らわしい政治家が多すぎる。何故このような政治体系になってしまったのか?検証する仕組みをもたなければならぬ。どこの国にいるのか分からないようになる。

マスゴミと言う俗語まで繁盛するさまであり、日本人基点には動いていない社会であります。国家国民の責任であります。

このままではよその国から攻められましょう。防備の面においても、核もなければ、憲法までも縛られて、戦うことを放棄して相手国の言うとおりになりなさいとそうすれば戦わないで済むと属国趣向になるように仕込まれている。

独り立ち不可能の憲法を持っているのであります。自分の国を自力で守りきれないのなら潰されて当たり前であり、いつまでも一人前にはならないのであります。また扱えないのであります。

憲法のせいではないにしろ、同盟国のアメリカから守ってくれているからいいようなものの、腑抜け同然の国情なれば、いつ攻められても可笑しくないような状態である。

日本人の為にならない政治家は去れ!
  1. 2013/01/27(日) 15:39:21|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

メイド・イン・ジャパン


昔は日本製と言ったら安かろう悪かろうとか言われていた。

ここからが日本人の切り返しの上手いところで、これでは日本人の恥と思ったのであろう。

しかして今では日本製でないと具合が悪いとまで言われるようになった。

要するに世界に日本人の気質が知れ渡ることになったのであります、腕前を誇れるようになったのであります。

それでも人間が作ったものですから完璧なものは造れっこない。

ならば精巧なものを造らねばならない、それもただ作ればいいと言うものではなく、日本製でないと持たないものを造らねばならない。

造る人の心意気が入ったものでなければならない。極めれば手作りと言うことですが、その分には魂がこもっていると言うことです。

製品にも魂を込めるような造りをしなければならない。なまじっかの心意気では造れるものではないと日本人でないとこの製品は無理なのではないかと、その分には価格との勝負になりますが、コスト削減もいいが、これからは良質の長持ちをする製品が要求されましょう。

日本人の器用さでもって物造りの製品を、それでも外国の製品に太刀打ち出来ないものもあり、何処で日本製らしい商品に仕上げるのか?

車も10年はたいした故障もなく、20年ぐらいは持てるのでありましょう。

メーカーを泣かせることになりますが、優秀さは何にも変え難いものであります。

日本の追求する道筋が見えてきたような気もしている。
  1. 2013/01/26(土) 11:03:41|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

差別の概念構造


差別と言う観念用語は一方的に発生するものではありません。

すなわち手前が先に差別と言う用語を発すれば、相手側にも差別と言う用語が発生している事に気付かねばなりません。手前だけが用いる差別用語にはならないのです。

何処に対して差別と言う観念性を導き出したのか、ここを問うことから始めなければならない。

手前勝手な一人合点の解釈であり、相手側が否定すれば意味は通じないことになります。

相手側には差別と言う観念性は存在してはならないと一方的に否定している事になります。

己は差別用語を使っていいが、相手は使ってはならないと言う規定は存在しません。相手側にも差別と言う用語は存在する。

差別と言う用語は話し合いの概念上に存在するものではありません。何故なら相互に対等の意味合いで賄っているのであり、一方的に差別と言う用語を押し込んでくると言うことは対話の概念構図に違反していることになります。

差別と言う観念を抱くこと自体が相手より優位性を得んが為の工作であり、相手否定の構図が読み取れるであろう。

対話は双方の了解の下に成立する事柄であり、一方だけが都合勝手に解釈するものではありません。

ゆえに差別と言う用語の観念性は存在しません。あるとすれば死語として解釈すればかまいませんが、、、。これも相互に理解する解釈基点が必要となるでしょう。

  1. 2013/01/25(金) 16:38:51|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

朝鮮学校の主張

http://blog.goo.ne.jp/pandiani/e/cba2e4aa6018df79102932ef7c003c44
http://mainichi.jp/select/news/20130125k0000m040015000c.html

国家の趣旨概念に基づいて、どこの国も民衆を賄う義務がある。

ましてや教育機関ともなれば未来の国家財産であり、国家発展の意味からも、欠かすことの出来ない養育であります。

それでもよその国の分までは賄うようにはなってはおらず、国々においては当時国が賄うのが定石でありましょう。

日本国の繁栄を元に造られている国家基本の構図であります。

よその国の構図を賄うようには造られていません。また出来るはずがありません。

よその国の概念構図まで分かるはずがないのでから、また分かろうとするのが間違いであり、よその国の概念構図を尊重しなければならないのは当然の事です。

国家の概念構図はこのようにして成り立っている。
日本国の趣旨など知ったことではない、朝鮮学校の趣旨を優先しなければならないとすれば、よその国になってしまい、日本国でない様になってしまう。

日本国の趣旨を蔑ろにすることは日本国・国家の存立を危うくするものであり、国民を裏切る行為となります。

つまりよその国にはよその国のやり方があり尊厳性を大事にしなければならず、かき乱すことは許されないことであります。

国家の概念構図に沿うものであり、よその国の尊重心に趣をおいているからです。

本来が日本国は日本人を育てるところであります。日本人の趣旨に則り日本国に貢献して日本の繁栄を願うものであります。

よその国の人を育てて、よその国の繁栄を願うものではありません。

それはよその国への侵害になってしまう。日本国の管轄圏ではありません。

日本国に居るならば日本人の趣旨にあった教育をする事になります。よその国を基準に教育はいたしません。

日本国の構造上に益することあらば日本国民の前で証明して見せなければならない。

日本国家への奉仕する概念が成り立つとする。
  1. 2013/01/25(金) 16:23:15|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

マスゴミ異常

http://ameblo.jp/blogdetox/entry-11455490624.html#cbox

洗脳集団でもなかろうが、日本国には不似合いの報道集団である。

己が日本国民を手中に治め牛耳っているようなそぶりである。何のことはない、手前の都合の悪いことは伝えない、都合のいいことだけ伝える、捻じ曲げてでも手前の主張が真っ当であると誑かす、大陸気性そのものである。

とてもではないが日本人が物申しているとは思えないのであります。これは大陸でなら通用しようが、ここは日本国であります。

日本人の趣旨にあった放送を心掛けるべきであり、共感を呼ぶものでなければならない。

呼ぶどころか反感さえ呼び起こすのであります。

ゆえにマスゴミといわれているのですが、その反省をするどころか、かえってそっくり返って居丈高に構え、伝えてやらないぞと何処の放送局やら見間違えるほどであります。

こげな放送局は日本国には必要ありません。どこぞへ行ってくださいと言っても余程日本国は居心地がいいのでしょう、出て行きそうにもありません。

放送権を剥奪したいくらいであります。日本国には無用の放送局であります。
  1. 2013/01/25(金) 09:45:06|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
次のページ