私の考え出す基点を真っ当性の中に、出来るか否か
日本国の思いを馳せながら綴ってゆこうとの所存です。
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物事趣旨感情に帰結が存在する。言いっぱなしでは無責任になる。
何故言論の自由がなければならないのか?工程において行動行為が人間の趣旨だからですが、口が行動するわけではないから、言動が共通のものとして皆が受け取るからでありましょう。
当人の趣旨活動は自由であります。しかしながらそのあとの思惑も重要であり、ここにその物事の本質があります。
その本質は隠されたものかもしれず聞く人のそれぞれの自由な解釈を受け入れる分別になります。
言う人も自由であるが解釈するのも自由と言う事であります。受け入れる受け入れないは当人の自由と言う事でありましょう。
しかしながら自由な裁量なれどよそに果たして押し付ける性質のものであるのか否かは別問題ではなかろうか?あたかも押し付けるがごとく真っ当性のごとく物言いするは不可解であります。
責任観念性の物言いが存在しなければならない。と言う事は後がどうなろうと当方の知ったことではないでは困るのである。
せめて目鼻が立つようにしなければならない。でないと責任の範囲を逸脱してしまう。物言いの観念性が消失してしまう事になる。当方の物言いは口パク自由の事にて後のことは知ったことではありませんのでそのつもりで聞いてくださいねえとなる。
>【中日新聞】井筒監督「他国が攻めてきたら日本国民は無抵抗で降伏して、そこから政府が交渉すればいい」< 抜粋引用
交渉は互いを立ててからの物言いで成り立つ。敵側が攻め込んで来て、交渉するのかせんのか?すでにこの時には互いの立場は対等ではなくなり、敵側優位性の工程であり、話し合いも何もお互いを尊重した物言いにならないのではなかろうか?
ましてや日本人種と違い気質観念性が違っているのだから、お互いに譲り合いましょうと交渉にはほとんどならないでしょう?
まともに交渉事が成立したことが過去にも将来的にもあるようには思えないのですが、、、。
よその国に攻め入ると言う事は相手側抹殺を試みる事であり、優位性に立たんが為に攻め入るのでしょう?いわば相手側否定の悪者であります。世の秩序を乱す悪者であります。
悪者は世の道理に従い退治しなければなりません。退治しなければ人の世には成りません。悪者の世をこしらえるのであれば別ですが、、、。
- 2015/10/31(土) 09:13:46|
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日本人気質より在日気質が優れているのなら分からんでもないが、、、。
日本人気質を生かすのが日本国のやり方でありましょう。そうではなく在日気質が優先するのでしょうか?日本人気質がなってないと言うのなら諦めも付きましょうが、、、。元に当地は日本人気質より在日気質を優先するのなら仕方ないが、、、。
日本人より在日優位性に取り解けたとする根拠は何なのか?不自然であります。ましてや対馬と言えば仏像を盗まれたところでありましょう。盗んだ方は悪くなく、盗まれるようにしていたのが悪いと言うのでしょうか?
いや当人が盗んだのではなく、関係ないと言うのでしょうか?解せない面であります。
日本人無用とするならば日本人気質を破棄することであり、よその国にでもなるつもりでありましょうか?異な概念構造を築いているのであります。
日本国に反旗を翻すようなものである。腑抜けと言われる要因がここにも潜んでいるのであります。
役所においてもこんな感じだから、民間においては言うまでもないこと。
日本社会構造にプラスになった実績でもあるのであろう?
気質観念像の違いは遺憾ともしがたいものがある。
日本国は日本人の為の仕組みを作り上げるところであります。よそ者の為の仕組みを作り上げるところではありません。また作り上げたところで似せた国造りになりましょう。つまりは不要な国になってしまうのです。
- 2015/10/31(土) 08:06:46|
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支那共産党の解釈がまともであり、他の奴が考えるのは不当である。支那共産党の言う事を優先しなければならない。何のかんの言うようやったらあとでこっぴどい目に合わせるぞと脅すのであります。
人間の思慮とする観念像が逸脱しているのであります。
人間思慮の観念像が気質に届かない性質を帯びて蔓延ってしまうのが怖いのであります。
国家法義に基づく観念性をこしらえねばならぬのに、一私党の概念を優先するために国家の資質を蔑ろにされたんではたまったものではなかろう。
国家資質と民衆の気質とは同類項のものであり、引いては民族の概念を構成するものであり、人間気質の原点となるもので、私たちの生活に生きるものである。
つまり社会性の概念を把握できるものであるからです。人類構造の中に含まれる人々の流れを構築する歴史を刻める位置に立つことが許されているのであります。
国家本義は人類社会構造とは何ぞやを訪ねる旅であるのです。
その国家本義をわきまえなくって何で人々の生活概念を築けましょうか?
国家は人間の縮図を構築する概念構造から成り立つ。
支那共産党はその国家を樹立する概念にも立ってはおらず、民衆の気質を蔑ろにして、民族気質を蔑ろにして、国家の概念が存在するはずがない。
国家資質の概念構造が如何に大事かを垣間見るのであります。
- 2015/10/31(土) 08:03:43|
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支那共産党の気質は人間の持っている気質より高い位置にあるのだから、人間どもは支那共産党の言う事に逆らってはならないと設定しているのであります。
人間の気質を上回る支那共産党であるのです。つまり人間以外の生き物が支那共産党には生存するのであります。UFOでも取り込んだのであろうか?
この地球上には人間以外の生存物(別口人間像)はいないはずですが?人間と同等の形をしたものが支那共産党には生息している事を意味する。
してみると支那共産党は人間を下部の働き者として囲っているのでありましょう。人間の気質をわきまえない何者かが存在している事になる。
要するに人間気質を上回る何者かが支那共産党には生息している事になる。どのような生き物かはわからねど、さっするに人間の形をした生き物でありましょう。
しかしながら人間の気質を持ち合わせるのは人間以外には考えられず、果たして人間以外の生き物が生息していると言う事は聞いたことがない。
人間気質の上に成り立つ概念像が存在するはずがない。人の世だからです。仮に成り立つ概念像があるとするならば、どのようなものでどこから来たのか証明しなければならない。
支那共産党はこのような概念像を取ってつけたしている事になります。人間の社会構造以外からも構築可能としているのです。
つまり人間が人間を支配する概念像がこの世に存在すると踏んでいる事です。それが現況の支那であると喧伝しているのでありましょう。
人間が人間の社会を構築することであるのに、人間社会を支配するのもこれまた人間には可能としている事です。
要するに人間社会を人間が支配する別口の人間が存在すると言う事です。人間に支配する奴と支配される者が存在し人間社会を構成するとしている。
人類社会において人間が人間を支配してはならない法則であるのに、別口の社会が存在して、人間が人間を支配体系に置くことが可能としているのです。
現に支那がやっているではないかと言う事でしょう。その支配体系が人間の気質ではなしに、武器において制圧ならしめると回答しているのであります。
人間に気質より武器が上位に位置して人間制圧可能としているのであります。
しかしながら武器を操るのは人間であるから、別口の人間が人間を制圧可能としているのです。支那においては別口の人間によって武器による人間制圧の概念が可能としているのです。
人間の資質が武器において蔑ろにされているのであります。武器で操る社会構造が人間には相応しいと思い込んでいるのです。武器を操るは人間であるのに矛盾点に突き当たるのであります。人間区分けの道具が武器において施されているのであります。
支那共産党は別口の人間社会構造を模索しているのでありましょうか?分からんこともないが、見つけ出せる概念構造には立っていないことだけは確かである。
- 2015/10/29(木) 12:11:51|
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世界を淘汰するように促されているんかどうか知らないが、この世の裁きは支那共産党に任されているとでも言うように思い違いをしているようだ。
国家意思疎通の観念性を支那共産党が取り仕切るとでも言うように!
社会観念像において意思疎通の観念像は支那共産党において賄われるのであると設定しているような!
取り決めて構わんこともないが、それならば相応の証明が必要になるであろう。何気なしに取り決めを任せるわけにはいかないだろう。取り仕切る事を裏図ける相応の観念性が必要になるであろう。
世界の観念像は一国だけの思惑で取り決める事ではなかろう。
支那共産党の趣は人間気質を上回るものであり、いかなる人物も逆らってはならないと決め込んでいるのであります。まことに支那共産党に都合のいいような解釈を身に付けているのであります。
しかしながらよそが都合のいい解釈しようものなら烈火のごとく怒るのであります。よそが都合のいいように解釈することはまかりならんと決め付けているのであります。
支那共産党が都合勝手に解釈してもいいが、よそが身勝手に解釈することはまかりならんとしているのです。
社会観念性を築く上でそぐわない物言いをしているのです。支那共産党は社会観念像に生きるものではありません。
社会観念性にそぐわない物言いしかできませんのでそのつもりでお付き合いくださいませねえとしている。合わせて国家気質を養う所ではありませんからそれも含みおいて下さいねえとしているのです。
支那共産党とお付き合いする以上はなんでもヘイコラヘイコラと聞き入れなければならないと設定しているのです。
支那共産党だけでやっている分には構わないがよそにまで同類項になれと押し付けるものではなかろう。
よそにはよその仕組み工程があるのであり尊重しなければならない。
一方的独りよがりの輩と付き合うのが可笑しいのであって、腑抜けにさせられ、毟り取られるのが落ちであろう。
人間の気質は支那共産党の気質より上回ってはならないと設定しているのです。支那共産党は人間気質を上回る概念構造をこしらえている事になる。人間の気質構造を蔑ろにしているのであります。支那共産党の気質が世界制覇をするのには人間の気質よりもふさわしいとしていることです。
普通に人間には人間の気質を身に付けねばならない。
どうせなら支那共産党の気質を身に付けよと促しているのです。つまり人間気質の判定力ではなく、支那共産党の独りよがりの判定力が優先する構造であるのです。人間気質を破棄した、社会構造の原点を破棄した、弱肉強食を抱く動物仕立ての判定力を意味する。
人間の気質観念性を剥奪しているのであります。よそからの状況判定力は無用としているのであります。
国家法義の観念性が存在するはずもなく、人間気質を上回る裁定がこの世にあるはずがない。
人間の気質は民衆において蓄えられている。支那共産党の観念性に位置するものではないのである。
ゆえに民衆の為の国力概念が存在して優先するのである。国家威信の資質とはこのことを言う。国家国力民衆依存の法則であります。
社会の為の国造りでなしに、ならず者の国造りをすると言うのなら分かりやすいのですが、、、。
裁量才覚は人間の気質から生まれる。
- 2015/10/28(水) 12:01:03|
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支那共産党の解釈起点は現代世情では生じ得ない気質を持っている。
つまり他の趣旨感情は持ち合わせてはならないと剥奪しているのであります。
その癖支那共産党の趣旨感情が剥奪されれば烈火のごとく怒るのであります。支那共産党に怒る権益があるのであり、他の奴は怒ってはならないと封じ込めているのであります。
他の奴は支那共産党仕込にならなければならないと迫害しているのであります。支那共産党と同類項になるのは構わないが、よその気質と同類項になってはならないと迫害しているのであります。
支那共産党好みの世の中に仕上げねばならないと思い込んでいるのでありましょう。他の気質観念性は存在するはずがないと決め込んでいるのでありましょう。
つまり人間の生き方において支那共産党に逆らう事はまかりならんと設定しているのであります。
人間気質の上に支那共産党は君臨し言うこと聞かなければ、人間の気質を剥奪されるのです。
つまり支那共産党の統制が人間気質を上回る仕組みに持って行っている事です。
これはどういうことかと言うと人間の気質は支那共産党がこしらえるその行為行動において逆らってはいけないと人間どもに言い聞かせているのです。
人間は支那共産党に逆らってはならぬものであり、逆らえば人間ではないと勝手に決めつけている事です。人間の気質観念性を取り仕切る支那共産党であるのです。
権力の支配構造の中に人間支配の構想力は誰しも持ち得ない。然れども支那共産党はこの概念を行くものにあらず、人間支配を支那共産党は持ち得るのであると設定しているような!人間が人間を支配する工程が支那には存在すると言う事です。
如何様な世の中になるのか?
折角築き得た人間の気質が支那共産党によって区分け概念に成り果てているのです。
- 2015/10/27(火) 12:18:51|
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支那共産党一辺倒の概念が優先する構図を取っている。
支那共産党一辺倒の概念しか存在しないとしている事であります。
他の思考を排除する性格を持ち、並びに迫害する構図を持つ。
物事思考の観念性において、他の奴の思考が及ぶものではないとしている。他の奴の気質観念性は存在しないものとして扱っているのであります。
支那共産党の思考力を優先する世の構造でなければならないと、身勝手にこしらえているのであります。
支那共産党だけが思考力の概念を淘汰できるのであり、他の者は人間思慮の観念性を持つ必要はありませんと否定しているのであります。
つまり支那共産党だけが人間思慮の観念性を持つものであり、他の者は人間思慮の観念性を持つべきではないと迫害しているのであります。
この世の中は支那共産党の考えを優位性に扱わねばならないと定理付けしているのであります。何のかんの言う奴は許さないぞと脅しているのであります。
人間思慮の観念像を区分けしているのであります。人間において支那共産党は考える人物像と考えない人物像と区分けしているのであります。
人間の価値観が支那共産党において区分けされているのであります。支那共産党は人間価値観の区分け機能であるのです。
思想自由の概念に支那共産党は区分け可能としているのです。自由の観念性が持ち合わせる人間と、持ち合わせない人間に区分けされているのです。
人間の持っている価値観を支那共産党は区分けする機関であるわけです。
いかなる存念で人間を区分けする概念にたどり着いたのか興味がわくところですが、、、。そのような裁定が人間に備わっていたとは不可思議と言うほかない。
人間が構築する概念像には存在しないものであるのに!
人間が人間の価値観を区分けするなんぞは空恐ろしい気がする。
- 2015/10/26(月) 22:56:14|
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http://ttensan.exblog.jp/d2015-10-26/
社会構築する概念像に人権は必要だけど、同等の観念像を要求するのではなく、その国土に合った対応が必要であろう。
趣旨構造の概念に国民の信頼感を得なければならない。
国家繁栄の礎を崩されてはならぬものであり、自国民優位性の国造りを要求されるのであります。
移民に対して他国民の観念性を築かねばならないのですが、その前に自国人優位性の構造が成り立つ条件でなければ潰されてしまう事です。
人権はその当事国の仕組みがしっかりと保護しているから成り立つのであり、国家ごと蝕まれるようなら保護するどころではないのである。
人権を保護する機能が失われてしまう。何のことはない破壊されるために招き入れているような事になる。
国家喪失事項として蔓延ってしまう。今まで築き上げてきた国家機能がマヒしてしまうのです。また新たに人権構造を作り上げなければならないとは難儀なことになる。
為になると思っていたことが、自国民に余計な負担をさせてしまう事になる。治安維持の面からも混乱をきたしてしまう。
つまりは同等の観念性には結びつかないと言う事です。育つ気質観念性の違いとはいかんともしがたいものになっている。
世界は常に己優位性の構造であり、移民構造は国家構造においての資質が存在しないことです。それはそうでしょう一つの見解構造しか持ち合わせていないのだから他の観念性など知ったことではない思惑ですからそうなってしまう。
よそから来た人権構造とはまた違っているのではなかろうか?自国には自国に沿った人権構造の仕組みが横たわっており、自国民の誇りが存在するのである。先祖からの血と汗の結晶でもあるわけです。
他国から移民において入ってきた気質とは違った観念性でありましょう。人権と言う名称には変わりないけれど、同等に扱うには難があるのではなかろうか?
移民自らがこしらえた人権ではないからだ。移民先の当事国に敬意でも表せば幾分の違いはありましょうが、気質観念性は違う性質のものであります。不平等と言う観念性で片付けるにはなじまないのではなかろうか?育つ国の観念性を無視しては人権を保護しろと言ったって、かえって当事国に災いを招くことになってしまう。国々の安定力は急務なはずなのに、中東には不安定さを余計にこしらえている。
人権の作為構造の観念性はまずは自国民を優先する構図にすべきである。自国の観念性を崩してまで受け入れる必要性を持ってくるのかどうかですが、果たして良いのか悪いのか長い時間を要することになる。
- 2015/10/26(月) 13:47:02|
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法義は人の観念性において役立たねばならない。
法則概念が人間の気質より上にくることはない。何故なら法則を作り存在させたのは人間であり、その気質において定められているからです。
法則観念像が人間解釈を会得したがごとく勝手に振る舞う事はあり得ない。
人間解釈起点の同等の性質として賄っているだけの事であり、法則概念が人間気質を駆逐することではないのである。何故なら人の世だからです。法則概念の為に世作りをするのではありません。
国家法義は民衆基点の解析を要請しており、国民に優位性になるように構成している事です。でないと人々の生活が成り立たないようになる。
法を解析するのは人間にゆだねられているからです。法が勝手に解析、行使するわけではないから!法則概念像の設定はこのようになっているのではなかろうか?己の都合よく解釈起点を持って来てはならぬものです。
- 2015/10/26(月) 12:22:43|
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日本人が日本人を逞しくするのであります。在日朝鮮人が日本人を逞しくするのではありません。
よそ者が日本人を逞しくするはずがありません。つまりはよそ者によって日本社会が操られているのであります。
元はと言えば日本社会が蔓延らせたのは悪いのでしょうけど、あまりにも毒性が強すぎたのであります。
日本人感化の過程で溶け込んでいたらよかったのでしょうが、溶け込むどころか、逆に日本社会が食い千切られようとする羽目になろうとは思わなかったに違いない。
日本社会の鷹揚さに付け込まれたと言えばそれまでですが、日本国も等閑にしたことも否めない。
日本国内の出来事は日本人が責任を負わねばなりません。よそ者が責任取ってはくれません。
よそ者に操られては日本人が進化の過程を経る事はありません。日本人が日本人を進化させるのです。
鮮人気風が日本社会に馴染むはずがない。馴染むはずがないのに蔓延らせたと言うのは日本国の責任であり、日本人の責任にしなければならない。
その分日本社会気風が侵されて行ったのでありましょう。よそ者気質を日本社会に蔓延らせてどうするのであろうか?
尤も鮮人気風が日本人気風より優れていると言うのなら仕方ないが、、、。
ではどうするのか?日本人優位性の国造りをしたらいいだけの事。当たり前のことであります。
何でよそ者気風の国造りをしなければならないのだ!不可解であります。
- 2015/10/25(日) 23:02:05|
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