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普段の中に正当性を求めて

私の考え出す基点を真っ当性の中に、出来るか否か 日本国の思いを馳せながら綴ってゆこうとの所存です。

亡命

http://d.hatena.ne.jp/satoumamoru/20130730/1375153600#c

己が亡命するより人民に尽くす方が先決であろう。故国に申し訳ないと思わないのだろうか?

身の危険を感じるというのなら分かるが、どうなっているのであろうか、支那の亡命は?しかも大金を持って亡命という。どういう気持ちでするのであろうか?

国家・国の指導者は人民の暮らしを繁栄させ、国家を豊かにして後世の人たちに譲り渡す義務がある。住民は待ち望んでいたはずである。

それが出来ぬのなら詫びる必要がある。国家の責任において反省して詫びる必要がある。国家の成り立ちからして繰り返された国造りであるのです。

国家国民の使命として天から下される宿命であります。人民が暮らす易くなり、国家が繁栄してゆきます。それをほったらかしにして外国に亡命とはどのような心情にてなるのか分からない。

暮らせないようになってしまったのだろうか?お金は持っているのに暮らせないようになったとは不可思議である。


  1. 2013/07/31(水) 20:09:23|
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歴史判定人

何故歴史裁定人は存在しないのか?誰か歴史を判定できる人が居ればいいのですが、どうすれば正確な歴史判定人をこしらえることが出来るのか議論しなければならない。

国別に優秀な人を出して歴史判定国家を作り出すのか?これさえも人間が織り成す回答しかえられず、その正確な解答はこうだったのだと指し示すことは出来るのであろうか?正確な解答にはならないだろう。

互いが疑心暗鬼に陥り諍いごとまで起すことになりかねない。結局裁定そのものが無駄なことになってしまう。

人間の裁定の仕様が出来ないこともあると言う事です。

仮に裁定できる人が居たならば、その人は人類の歴史上をずっと生きていなければならず、じっと人間のしている事を見つめ続けなければならないからだ。

そんなに人間が歴史の裁定を下したいのであれば、超人的な人をこしらえる以外に方法はない。
  1. 2013/07/31(水) 13:31:42|
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歴史構造と哲学

歴史は過ぎ去ったものであり、現状の私たちの裁量には届かないところに位置している。

歴史が散々議論されていますが、現代進行状態ではないところに難しい解釈が潜んでいる。この歴史が正義だったといえる代物ではないからです。

哲学は現状において最高の思考力を身に付けたものに例えることができ、これからの時代に向けて誘う妙なる手引きであるといえよう。判定の割り振りを可能にしてくれる。

これにもリスクがあり、現状の私たちにのみ生きる裁定であることである。未来にも過去にも判定できる要素ではありません。

日本国は二千年の歴史が刻み込まれている。時代時代の背景をたどることが出来ればいいのですが、過去のことだからきっちりした時代背景は築くことが出来ない。

哲学を当て嵌めたところできっちりした回答は望めるはずもなく、おぼろげな回答が浮かび上がるだけであろう。ほとんど無回答に近い状態であります。何の為に模索しているのか分からないようになってしまう。

歴史に正義が存在しないことも分かって来た。当時の人は正義と思って行動したかもしれないが、現状は双方共に正義として戦ったわけであるから、今日の判定は当時の人たちとは生きている環境が違うわけで判定のしようがないのであります。

現代人はそこまで賢くはありません。天下の法則がそうなっている。

歴史に刻み込まれた真意と言うのは今となれば誰にも分からないのであります。それを現代人の驕りがあり、さも分かったように判定するは誤魔化し以外の何物でもない。

歴史の裁定には誤魔化しが入っているということです。誤魔化しの裁定では通常に対処できるはずもなく、無駄であります。つまり歴史は裁定するものではなく過去の遺産として受け止める以外にないのであります。

歴史裁定する人など居るはずもなく、国家でさえ存在しません。歴史を裁定している国があるとすれば誤魔化しの国家を築いているに他ならない。無意味であります。歴史概念構図に判定する正義は存在しないということです。
  1. 2013/07/31(水) 13:29:22|
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自由の意識構造と自己認識

http://yukokulog.blog129.fc2.com/blog-entry-1297.html#comments

日本国民に歯向かっているのだろうか?あるいは手懐けたいと思っているのであろうか?

己の意向に気が沿わなければ、逆に反旗を翻すはどこぞの気性と似てなくもないが、、、日本人基点の見方とはとても思えないのですが、まさかよそ者が絡んでいるわけではなかろうなあ?

日本人ならこのような思想には結びつくはずはないのですが、何故なら国家破綻構図を描いてゆく事になるからです。いわゆる日本国に対する謀反であります。

つまり日本国には存在してはならぬものになってしまうのです。すぐさま荷物まとめて出てゆくというのなら少しは改心の仕方があったと褒めて上げよう。

用は改心の仕方であります。反省の概念が存在するのか否かであります。日本人なら改心の仕方を知っている。国家国民の位置付けをどこら辺に持ってゆくのかを知っている。

その国民を誑かすなどもってのほか、国賊者である。荷物まとめて出てゆくというのはこの意味を含んでいるのであります。国家国民を裏切るものではないという証であります。日本国に居続けてもらわねばならない人という意味であります。
  1. 2013/07/31(水) 12:57:13|
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学ぶ事の正義

日本には正義が存在する。国家国民の名の下に社会正義をこしらえることができるからです。

何故か?国家の資質と国民の気心が一致させることが出来るからです。国家国民の名の下に行動できることを意味する。国家国民の中に信頼関係を築いているからです。

よそ者気質には、人の良さを学ぶ習得する精神がないのではなかろうか?いずれも己が優位性に立たなければ自らの立つ位置を確保できないのではないか?

つまり策略の系図でしか自らの立つ位置を維持できないのではなかろうか?策略の構図を常に持ち続けていることであり、相手否定の構図だけが目の前にぶら下がっているのである。己が相手より如何に優位性に立てるかに趣を置いており、物事解釈の原理が存在しない。
  1. 2013/07/31(水) 09:28:07|
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偽者の概念構図

http://torakagenotes.blog91.fc2.com/blog-entry-2068.html

似せたものを作れば、その対応力が架空のものを勤しんでいることになり、虚しい物になる。結局元に戻って作り直すことになり、この間の負の遺産は莫大なものになる。取り返しの付かない事態となってしまうことであります。

偽者が出回るということは偽の社会構造を追及していることになり、実りのない物になってしまう。

正常の流通機能こそ人間の社会生活の繁栄を築けるものであり、偽者が蔓延れば社会が繁栄することは不可能となりましょう。社会機能が麻痺してしまい国家機能が崩されてしまいます。

動物にはこの偽者機能は存在せず、人間に偽者の観念性が沸くところに偽者の人間が出現することになり、姿、形は人間なれど中身は偽者だったでは人間の社会構造に異質の状態を差し挟むものであり、人々の生活を無にするものになってゆく。

  1. 2013/07/31(水) 09:17:37|
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国家の目指すべき道

http://dogma.at.webry.info/201307/article_14.html

普通に国家は国民の資質を高めるべく教育に力を注ぎます。

国家存亡の掛かっていることですから世迷いごとは許されません。

これには自らが現時点の置かれている立場を理解することから始まります。己の立場を理解するということはどういうことか考えを敷き詰めてゆきます。

国家と国民との信頼関係の下に構築する社会構造の原点であります。現状の社会構造をどうするのか?国家国民上げて互いの資質を上げること以外にはありません。

国民の資質が高まれば必然的に国家をどのようにしたら世界対等の立場に堅持できるようになるのか?しのぎを削ってゆきます。

言うなれば切磋琢磨の精神を構築するのです。教育と言うのは一朝一夕には成り立ちません。長い間の歳月を必要とします。それに耐えてこそ本物の国造りがなされる事です。

この状況で言えば韓国はまだ一段目の階段を踏み終えたところでまだ残り9段もあり、その間に幾多の災難が国に降りかかりましょう。その火の粉を振り払うべく数々の裁量をこなしてゆかなければなりません。

そのこなす人材こそが韓国の資産なのです。その人材に反日教育を仕掛けて何となりましょう。反感姿勢と言うのは戦争の時で充分、現実的社会には合いません。教育概念には存在しないのです。無駄であるのです。

今からでも遅くはないと言いたい所ですが、まずは韓国が気付いて実行に移すことでありましょう。

気付いた段階で一段目に足が掛かったと申せましょう。まずは国家の資質を上げることです。

並びに国民の資質も合わせてあげてゆきます。資質を上げるということはどういうことかというと、自らの精神構造を自覚心の元に国家に尽くすことです。国家はその問いに答えてやらねばなりません。

この積み重ねが国家を築き上げてゆくことになります。国家の概念構図に背いてはなりません。反日教育と言うのは国家の概念構造に存在するものではないからです。

今の状況ではほとんど気付く事は無理なようですが、自らの国は自らが造らねばならない。他国を貶めて造られるものではありません。国家は思想の自由と民衆に自由な発想の社会を導くことである。

国家趣旨の概念構造が間違ったところを進んでいる。教育する指針から間違っているのであります。後は気付く気付かないは韓国・国家国民の仕事であります。

まだまだ先は長い道のりであります。しっかり仕事をすれば気付くはずであります。何せパチンコを禁止した国でありますから気付くはずであります。気付かないのならまだ階段に足さえ付けていないことになり、残念なことに国家国民の葛藤は続くことになりましょう。
  1. 2013/07/31(水) 09:11:18|
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国家機能の放送  その2

今のマスゴミを潰さなければ、これからの日本の報道体系が駄目になる恐れがある。
現状のマスゴミが将来性ある報道体系を築けるとは思えない。

国家国民の不幸である。どのような放送体系が我が国に最も相応しいのか?
修正すること不能ならば、よそ者報道体系の乱れを解体し、新たなる報道体系を作り上げることである。

遅れればその分日本人が誑かされて日本国建国が遠のくことになる。

現状は日本国に歯向かっている構図であり、当然日本国には不必要とされる。

何で日本国に不必要なものを賄わねばならないのだ。国民の為にいらないものはいらないのです。

一方通行の思考力となって観念性においてこのような思考力は成り立たない。

当方はよそ者基点に放送しているわけではありません。視聴者の自主判断に任せております。そこら辺はご了解してくださいますように画面下にテロップの断り書きを流してもらわねばならない。

断り書きを流した上で視聴者を誑かしているのではありませんという証を立てなければならない。マスゴミと言われんでも済むのである。何故ならテレビにはレンズ操り人が存在するからである。

つまり誤りの精神構造が描かれていないことを指し示すのである。

  1. 2013/07/30(火) 21:52:28|
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宗教のこと  その2

古来の原則構造には教義は存在しなかったのではなかろうか?

人は習うことによって育ってゆく。身に付けるもの、身に付くもの各々時と場所は違えど必ずいつか思うことがあるであろう。

それぞれ違う気質のものであり、人間の生きている気質が促すものであり、何物にも替えがたい人々の心が溢れている。

他人の自由意志の行動を一方的に剥奪することである。洗脳領域をこしらえて人心を惑わせてしまうのである。後の生活する領域まで蔑ろにしてしまうことである。

宗教は己の心身を感情的にあらわしたもので、当人の尊重心の元に図られる、一種の心の支えであり、何人からも否定される観念性ではない。

これらを勧誘の名の下に洗脳、操り心を駆使して人心を誑かすのであり、人の持っている自由意志を蔑ろにしてゆくのである。人の持っている尊厳性を排除して、操り心を優先していることである。

洗脳性を植え付けていることに違和感を覚えるのは異質感情の操り心を満たしていることである。他を寄せ付けない凝り固まって精神となってゆく。

共同体としての計らいごとが国家構築の原点とはならず、カルト的思想として蔓延ることに社会観念像が成り立つはずがない。

国家は民衆の観念像で出来上がっている。つまり民衆は人々の生活を豊かにする観念像を持ち合わせているのである。

こと宗教に関しては心の糧として支えを施すに至る心身の境地を豊かに反映するものであり、人心を洗脳する分野に配置しない。操り洗脳器量で勧誘するものではなかろう。
他を排除する精神構造はこの人類社会には存在しない。
  1. 2013/07/30(火) 21:24:33|
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国家構造の原則

国家の位置する構造に武力で民衆を制圧するは国家の否定構図であり、人々の生活が成り立たなくなります。

民衆の暮らしそのものを否定する事であり、住民の概念構造を引っこ抜くものである。

自由を国家権力において民衆から剥奪するは、生活観念性を否定する事になってしまう。国家が自らの施策を棚に上げて、住民に否定構図を投げかけていることであります。

言うなれば国家が武力制圧するということは、国家の責任を民衆に押し付けていることになってしまう。自らの責任は棚に上げて民衆に責任を投げつけては国家が維持できるわけがなかろう。

まやかしの国家となってしまう。つまり秩序なき国家となってしまうのであります。国家そのものが秩序を破綻させている構造であります。

社会観念性において無法な状態を作り出すことになります。秩序の概念構図を国家自らが剥ぎ取ってしまい、住民に責任を擦り付けるは道理に合わない。

これでは国家の維持が出来るはずがない。自らが国家否定構図を投げかけていることになるからです。

国家が住民の自由を剥奪しているのだから責任が被さる事はないとはいうものの、それなら国家の責任になるかといえば、そうではなく責任なき社会になる事です。
  1. 2013/07/30(火) 21:16:56|
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