私の考え出す基点を真っ当性の中に、出来るか否か
日本国の思いを馳せながら綴ってゆこうとの所存です。
現状の民主党の面面に議員のような人が存在するとは日本国民の不幸である。
あるいは日本国学校議員訓練所みたいなものがあっても良いのではなかろうか?余りにも議員と呼べる代物でない人が多すぎる。国政にプロもアマもないのであるが、国家の代表として国際舞台に国内の大舞台に活躍してもらわねばならない人であり、なまじっかの人では勤まるはずがない。
日本国民の代表として携わるのであるから相応の人でなければ太刀打ち出来ないであろう。何せ世界は日本と同等の気質ではありはしない、特に隣国などは本能体制趣向であり太刀打ち出来る代物ではない。
国政的な正常の状態を逸脱した所に位置し他国を見下した物言いであり、油断のならないものであり、下手をすれば上手く料理されて潰されんとも限らないのである。
我が国の危機管理のなさがそうさせるのであろうけれどおまえんところが腑抜けであるから潰れされてしまうのだよ、当方の責任ではありませんと擦り付けてくるのである。
まことに国家体制の仕組みにあらず策謀国家の異名とでも言おうか、現状の国家には通用しない物言いであり異質社会形態を維持しているのである。
このような国際関係の最中、渡って行こうと言うのであるから我が国の気の良さではとても太刀打ち出来る相手ではなかろう。どのようにして対処するのか国家の宿題は大きいと言わねばならない。
いい加減な人物では国を立て直すどころか廃退への道をつなぐような事になって行く(現況がまさにそうであろう)。
日本国国家消滅してはならない、国際的にも人類においても約束事を履行できる唯一の国であり、世界の中の日本を確かなものにしなければならない。その為には潰されない様に自国の国守りをすることが国家存続の条件でありましょう。
- 2011/06/28(火) 16:19:23|
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http://banmakoto.air-nifty.com/blues/2011/06/post-6802.html
学校時代に何をどのように習ったのか殆ど覚えていない。教科書で何がどういう内容で載っていたのか分からない。只教室でなんだか知らないが学んだのでしょう。
教師がしっかり見入れて教えてくれたにしろ、忘れたのか、覚えていない。校庭に二宮金次郎の銅像があり、それも社会人になってからあれがそうだったのかと思う程度にて、算数の九九でも教室で唸ったのかもしれないが覚えていない。
なんしに学校に行っていたのか、皆が行くからいっていたのであろうけれど、行かなければならない習性みたいなものであった。道草の学校通いで小学校にしては1時間ぐらいかかったろうか?運動ぐらい、教科書で覚えて役に立ったことなどなかったであろう(無意識の内に働いていたのかもしれない)。
頭で覚えるにしても各々に覚える時期と言うのがあるのではなかろうか?
小学校時代は遊ぶ事に夢中であり、遊ぶ事が勉強になるのである。校舎も木造のもので今は残っていない、さして教科書の事など私にとっては殆ど覚えていないから幸か不幸か重要度をますと言う事にはならなかった。
しいて言えば先生そのものが教科書でもあったようだ。個性ある先生が今にして思えば揃っていた。
教師は生徒の模範であり人物そのものであった。教科書の内容云々より教える教師の資質にこそ重要性があるように思える。人が人を教えるのであるからいい加減な人物では、いい加減な人物しか育たない。
これでは国家国民の不幸であります。
日本人とは何ぞや!旧い体質から抜け出し日本人像を築いて行かねばならない。国家体系の約束事が守られて行きます。新人類は日本人の中から生まれる。
歴史は当時の人が懸命になってこしらえたのだから何ら非難したりする必要性のないものである。自ら解するものであればいい。
当時の人たちをどうして非難できようか?現代人の境地では推し測れない時代の流れの中で懸命に生きている人々であり、非難したりすれば己自身も否定する事になってしまう。何故なら否定するならば自身も生きていないのだから!過去の人が存在しないで現代人が存在するわけがない。自身は存在しないものとして語れるはずがない。
歴史は他国の人々にとって自国保護の策略としてもよく利用されられている。他国貶めの攻略法であるのだ。なぜか?自国利益誘導の為に確保する常套手段として過去多くの国々が利用したのであろう(罪着せが発生するのである)(現況でも特亜人はこのように貶めて利用するものと思い込んでいる所が存在する)。
我が国はこのような卑劣さを持つような国ではないから卑屈な態度はしない。よほど策略的に下等な様相の国でなければ用いないものだ。
わが国は気質において違う精神を維持している。何故ってこの事が日本人なのでありますから!あまりに日本人の気質が優れている為に対抗する面において適わぬものであり、逆に愚劣の策として貶めの作用を施すようになっていったのでありましょう。
己の品のなさを隠す為に日本より優位性に立つ為に日本を学ぶより貶めた方が手っ取り早かったのである。あるいは誤魔化してお金を毟り取った方が楽であったのである。策謀の世ですれば当然の事であった。日本はそうは思っていなかっただけの事である。策略に出遅れたといえばそのようである。
日本人気質に馴染むものではなかった。我が国も気が良いものだから、今にして思えば上手く外国人からお人好しにされただけであった。腑抜けと言えば腑抜けであろうけれど社会の開けた状態でなかった事が我が国にとって不幸であった。
世界の潮流はまだそこまで到達してはいなかったのである。この為に策略考えた工作員、スパイなどが続々到来して我が国を蝕んで行った。
我が国を潰さんがための教科書問題もその一つであろう。日本国の教科書問題まで口に出すと言う事はよほどしゃくにさわるのであろう。困ったもんであります。
我が国を取り潰す事に躍起になっている様子が見て取れるであろう。我が国を習う精神は持ち合わせてはいなかったのである。我が国も甘いと言えばそうなのでしょうけど!我が国に歯向かう奴は排除しなければなりません、特亜人から潰される事は間違いないのだから!
我が国も相手側を躍起になって取り潰していると言うのなら、これでもって互いに工作しているもの同士、対等の条件で五分五分と言うのですが、我が国だけ一方的に工作活動で遣り込められ潰されようとしているのだから引き合った話しではない。
その分だけわが国は腑抜けと言う事であります。国を守る気概が牙を抜かれては相手側の思うままであります。相手国の言いなりになる為に存在しているわけではないのに!
- 2011/06/26(日) 17:23:49|
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耳の心に恥が存在する。どのようなことなのだろうか?日本人は恥と言う概念を最も卑しく蔑ました。
家名の恥じ、国家の恥じ、自身としての恥じもあるであろう。生きているのだから生き恥を晒さぬ程度に務めるものだ。生き抜くと言う事はこのような事でありましょう。
この概念を忘れてしまっている御仁が存在した。言うまでもなく日本国の栄えある総理大臣菅直人その人である。境地になればなるほど恥と言う概念が無くなってくるのであろう。
そんなにしてまでしがみ付いてもらわんでもよさそうなものを当人は聴こえない振りして何のその一日でも長くしがみ付いたいようすであります。
本人はそれでいいかもしれないが国家の大事が次から次に起ころうかと言う時であり、何を考えているのであろうか菅総理は?
日本の総理大臣と言うのはそんなに魅力あるポストなのか、一国一城首相であるから当然でしょうけど、魅力ある人物が納まってこそ様になろうと言うもの。
しかしながらやられている国民側にしたらたまったものではない。国際的にも国内的にも著しく国益が損なわれ合わせて信頼性もガタ落ちになり、うてあわれないような日本国になってしまう。
当人も一応は意識しているらしく、会期を延長させてその分居座る腹積もりでいるらしい。ことは国民が優秀だから持っているだけの事、ほかのところならとっくに潰されているだろう。
国民に感謝せねばならないのに恥じ入る様子もない。国民を蔑ろにしているのであります。誰から選ばれたのか忘れているらしい。
かってこのような首相があったでしょうか?日本人ならこのような事はしない、と言う事は日本人ではなかったのである。
この日本国において日本人で無い人が総理になった事が脅威であり、日本人が腑抜けでもある証拠である。
尤も今に始まった事ではありませんが何ゆえこのような事態に陥ったのか検証して見る必要がある。国家命題であります。
そんなにちやほやされたいのであろうか?このような状態で舵を取ってもらっては国民への侮辱である。
この非常時にこと賭けて日本国の政情はあきれる民主党の面面であります。少しでも長く政治家でいたい面面が勢ぞろいしていることであります。
しかも責任を取りたくない連中と来ている。日本人であるのか日本人でないのか調べねばなるまい。売国奴であっては困るのである。
日本人は何処にお客さんがいるのか知っている。ところが菅首相のみが己こそがお客さんと思い込み、己こそが大将であると、後は従うものだと思い込んでいる(どこぞと似てなくも無い)。
何とまあ自己保身力の旺盛なこと己一人の舞台と思い込んでいる。日本国を治める資質は備わっていなかった。日本国を治めるのは如何に難しいものかを体験しているのであろうか?
国会を汚す概念も持ち合わせてはいないのであろう、己の才覚が地に落ちる事も気付かないのであろう。何なのだろうか日本の国会は?誰のために政治をしているのであろうか?
- 2011/06/23(木) 21:16:38|
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社会の資質を上げると言う事は人々の生活が向上する事となります。果たしてこの人権侵害救済法案が日本国の社会資質の向上に役立つであろうか?人間に法の網をかぶせて社会の資質が向上するなんて有り得ない。
本来なら社会全体の資質を上げるように努力なり教育の仕方を充実させるなりして、法で持って、人間の才覚を疑うべきではないのであります。
国力の欠陥を促がすものであり、国家の衰退となって行く。法は人間の欠陥を補うものではなく社会秩序の為に已む無く設けられる掟であります。
人間の生活の権利を法で持って分け隔てを作ると言うのは法規の意図するところとはならず社会資質の向上になるようには思えない。日本国・日本人の社会事情に鑑み日本民族の気質が問われているのです。
正常性の状態であるとは思えないのであります。人間の生活する権利に法の権力で持って分け隔てを作る事は人的資質に馴染むものではない。権力で人の口を塞ぎ込もうとするは精神の中を封じ込めようとするものであり動物になれといっているに等しい。
人間の生き方そのものを法において否定する事になる。人間本来の主旨が台無しになってしまう。人間が人間でなくなってしまうのです。何の為の法か分からなくなってしまう。
この法案の作成者は国家反逆罪に等しい。何故我が国にこのような法案を通す気になったのか国会で証人喚問をすべきであろう。
日本国社会は欠落の社会ではありません。先祖からの由緒ある社会造りをしているのです。この社会を撹乱されることは許されません。日本の国家社会を何と思っているのだろうか?
5年間の猶予期間と言うのも不自然である。5年間したら社会生活が向上するのであろうか?向上したら撤退するのであろうか?強化するのであろうか?不明である。
その間に社会の教育システムはどうするのであろうか、謳っていない。日本社会を、国民を舐めた法案と言う事が出来よう。
これだけでもう胡散臭い人権侵害救済法案と感じ取る事が出来よう。
社会生活の向上は人的資質の価値観を謳い上げます。
- 2011/06/22(水) 15:49:55|
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総則「編集」の後に 1、不当な差別的取り扱い と即出ていて公務員、事業主云々と出ている。
何ですぐに仕事の面が出てくるのか?仕事は誰でも出来、不出来があり公平さのものにはならない。公の仕事は日本人でなければならない。
日本国の仕事をするのであり、それとも公務員の仕事をよこせと言っているのであろうか?仕事において差別するなの意味か?
本来が日本国の仕事は日本人が裁かねばならないよその国の人にやらせるわけには行かないでしょう。日本国民を保護しなければならないからです。ましてや公の仕事をよその人に任せられないのは言うまでもない。でないと乗っ取られる可能性もあるわけです。そんな人に公の仕事を任せられまっか!
日本国はいりませんといっているようなものです。我々は日本国を出て行かねばならなくなります。只でさえ特亜人が日本国の貢献することは有り得ないのですから、どっちかと言えば貶めが得意とする方であるからです。
日本国の根底が歪められてしまいます。何の為に日本人がいるのか分からなくなってしまう。日本人は日本国を建国する義務を負います。不思議なことではありません。日本人の義務であります。よその人が日本国を作り上げることはありません。日本国の社会を築いているのです。よその国造りをしているのではありません。
仮によその人が日本国を作り上げたらもはやそれは日本国ではありません。よその国になってしまいます。もっとも日本人の腑抜けた様相がこのようにしてしまう可能性もないわけではない。あってはならないことです。
よその国にしたら日本人は腑抜けた方が都合のいいでしょうけどいつまでもお人好しではいられないのです。法は日本国が基点でなければなりません。日本国家の主旨は日本人に由来します。過去からの引継ぎであります、反することは許されません。
人を法の中で縛り上げようとする魂胆が見えており一方的に訴えた方の概念を優先させる法案のようだ。法の下に平等と言う主旨が生きていないのである。明らかに誤魔化しの法案と言う事ができよう。日本人の為の法案ではないのであります。
- 2011/06/22(水) 15:48:46|
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「人権の侵害により発生し、または発生する恐れのある被害の適正且つ迅速な救済またはその実効的な予防ならびに人権尊重の理念を普及させ、及びそれに関する理解を深める為の啓発に関する措置を講ずる事により、人権の擁護に関する施策を総合的に推進し、持って、人権が尊重される社会の実現に寄与すること」とされている。(法案1条) 引用
また、「国は、基本的人権の享有と法の下の平等を保証する日本国憲法の理念に則り、人権の擁護に関する施策を総合的に推進する責務を有する。」として国の責務を定めた。(法案4条) 引用
人権侵害しない様な社会造りをまず作り上げる事が先決であろう。法案を施すと言う事はそれほどに現実に人権を蔑ろにした社会造りをしていたと言うのを諌めなければならない。何故社会造りを目差すのに人権が侵害されるような事態が発生するのかである。
>人権の侵害により発生し< 始めっから罪にする事を先行しており、疑惑有りの観念性を生じさせ罰する事にのみ赴きを置いている。発生しない状況を造り出すのが本来の社会生活の有り方である。罰する事を概念に捉えており考える方向性が逆である。
訴えた方を優位性に持って行く考えで構成されており片手落ちの法案と言う事が出来る。法案の役目は果たしていないのであります。策略の部類である。
人権を侵害したらいけないよと言う一方的な思い込み先行の、口封じの為の法案と言えなくもない。
一途に訴えられた被害者の面は保護されてはおらず、また取り繕われてもおらず、また尊重心も蔑ろにされて、訴えた本人の照準に合わせて造られており、訴えられた被害者の救済はそっちのけであります。訴えられた方が悪いのさあとなっている。
普通に訴えると言う構図は自らの保身を優先しており、被害者の尊重心はほったらかしであり、ただ訴えればいいと言うものでもなかろう。法に則って訴えるものであれば裁判所に行ってしかるべき手続きをすれば充分に適うものであります。
ここでも当然の対等の立場と言うものが存在して裁判が始まるのです。何ら不思議なことではなく、何ゆえわざわざ国籍条項まで削除した人権救済侵害法案を我が日本国において成り立たせなければならないのか疑問に思うものであります。
我が国の人権はそんなに荒んだ国造りをしているはずはないのですが、我が国の国益になるようには思えないのであります。
>発生する恐れのある被害<、云々とあるが予言的な発想であり、如何様にも絡められる言い草とならんとも限らない。変容性を生むものであり人的資質の分野にはあらず、主体性の趣にはならず。
>人権尊重の理念を普及させ、及びそれに関する理解を深める為の啓発に関する措置<
主体制を普及させるには国民意識の向上ですが日本国民の信頼性に頼るしかないのではなかろうか?啓発する事が普及につながると考えているならば本末転倒であり、一途に不心得者を啓発する事に赴きをおいており、日本社会に馴染むものではない。
そんなに日本国人に信頼性がないのであろうか?なら祖国に帰ればいいのに!このような人権侵害救済法案が祖国で用意されているからさぞかし安心なのでしょう。
ここは日本国であります。日本国のやり方が存在します。日本国を建国せねばならないのです、よその国造りはしていません。日本のやり方が馴染めないのなら祖国に帰って目一杯の人権を成し遂げてください。
あなたは私の生き方を侵害している、いや侵害していない、等の判定を第三者に仰いで下されるのです。法で持って白黒付けましょうと言う意味です。
つまり人の生き方の類であり共通にして集団生活の中で互いの意見を尊重し合ってゆきましょうと促しているのです。法において人の生き方を左右させるものにはなりません。人の生き方は自由であります。
>人権が尊重される社会の実現に寄与<
法が成立したからとて人権が尊重されるようになるだろうでは次元が違うのです。法において賄われる代物ではないのです。お互いが対等の立場になって考える事を指すのであります。人権が尊重される社会は当たり前のことであります、わざわざ法で取り繕うことなどありません。
普通に人権と言うものは法において拘束するものではなく、立場を尊重しての物言いでなければならず、一方的な物言いは存在しません。双方の言い分を聞き入れて第三者に判断してもらうのが筋道であります。人の精神の中にまで法の拘束力は及ばないものであり、人心の拘束は不可能であります。
人権により危害を加えられた、よって罰(罰金)を与える。では人の生き方が成り立ちません。
法はあくまで社会生活の秩序の維持であり、人に罰則(罰金)を与える制度のものであっては困るのです。罰則(罰金)を与える事はその人を否定することを意味する。
- 2011/06/22(水) 15:46:33|
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平和主義 人類の行き着くであろう架空の想定、照準を合わせて、民族気性に歴史の変化に由来してゆきます。
気質で違い、生活の環境でも違い、国家体制にもよる。民衆の纏まりの中で如何にして平和を築き得るのか?
世界同等に平和主義の連続性が適えられればいいのですが、ここに至る道筋が平坦でなかったことだけは確かであります。困難を要した平和主義であった。
国家概念の中に生きる平和であって地域においての限定的な平和はすぐ崩れてしまう。国において総合した立体的な組み立てが出来て適えられる平和であるのです。
平和主義唱える国あらば他国としては脅威ではなくなる。策略を抱いている国にとってはとっつき易い国として料理し易い国となってしまう。
と言う事は一国だけ平和主義を唱えても腑抜けの国として扱われるだけで何ら尊重心も湧かない国になってしまう。骨折り損のくたびれもうけであります。現状の日本がその通りであります。
何故このような腑抜けの国になってしまったのでしょうか?余りに戦時が長引き国民の窮する所を互いの励ましとしてきたにもかかわらず、焼け野が原からの出発は二度と戦争を起してはならないと言うアレルギーを埋め込まされ人々の間に浸透して行った。
果ては教育の段階までも自虚史観なるものが幅を利かして国民の中に洗脳までして麻痺させてしまったのであります。正常な国民感情に結び付ける事が出来なかった。
戦争に負けると言うことは国民の心情にまで及ぶ事となるのであります。総体として同時に生まれるものでなければ平和主義にはならないのであります。
それまではどうするのかと言うと平和主義への下定めをするべく、平和状態以外の策略を練って行く。交互に施し得る平和主義となって部分的なものになって行くであろう。
全体を平和主義に持って行くのは現状では至難の技となる。まだまだ争い事の解消する時代ではないと言う事であります。
- 2011/06/21(火) 16:23:29|
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国家の指針を任せる所。政権を任せたのだから最終的な責任は国民にある。
責任は国民にあるのに、総理は国民に任せるところとはならず、現状は政権党の胸三寸に委託されている。委託したのに政権担当の能力を欠いていると判断を国民は総選挙によって下されなかったのである。
つまり置いてきぼりを喰ったのであります。総理は国民不要と判断したのでありましょう。自己保身の延命策へ舵を切り替えたのであります。国民そっちのけと促したのであります。
国家国民の生命財産を優先させなければならないのにまさに謀反の状況を作り出した。国民に対する反逆であります。
国家国民に寄与せねばならないのに国家国民を窮地に落し入れているのであります。挙句に民主党首相退陣の花道までセットしている。どっちを向いて政策を練っているのか分かりはしない。
誰から選ばれたのか忘れているのではなかろうか?かってこのような党があったでありましょうか?これだけでも日本の政党とは思えないのであります。日本国民の為の政党ではなかったのであります。
日本人も反省しなければなりません。世界の信頼性を著しく欠いてしまうのです。余りに自国に対して無関心であっては誑かされるだけであります。特亜人は虎視眈々と日本国の破壊を狙っているのですから潰される前に対処しなければ取り返しが付きません。
自国の管理意識が乏しければ乏しいほど墓穴が深くなって行く。お人好しも卒業しなければならない。日本人でさえ向うになびこうとするのだから!似せ日本人でさえ現状のような有様であります。
今後はこのような事がないように日本の為の政党造りをせねばこんな党が増え出したのでは日本国はひとたまりも無いであろう、只でさえお人好しで利用させられる日本人でありますから!
日本人は日本国の国守りの為に尽くす義務がある。日本の国を守る為に当たり前の事をすべきであります。
こと特亜人は日本と同等同質ではありません。日本国に貢献する気心は持ち合わせてはいません。貶める方に力を注いでいる有様であり日本国に対して謀反を働いている事になります。本人の出処などを義務付けする。
排除しなければ潰されてしまいます、潰されてから排除していたのでは後の祭りです。我が国では自由に振舞う事が許されています。何で自由に振舞う事が許されているのか、日本国民の有形無形の財産として先祖からの遺産を受け継いで成される業であります。
特亜人がこしらえたわけではありません。日本人基点の国造りをせねばならないのは当り前であります。よその国造りをしているのではありません。特亜人が日本国を造る事はありません。
何の為に日本国の首相になってもらっているのか分かりはしない!
- 2011/06/21(火) 10:14:17|
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主体制は支那共産党に寄って賄われており、国のはかりごとが党において依存されているのであります。
住民を従える国家体制ではなく、党を支える国家体制とでも言うのでしょうか?党が国家を従える党依存型となっている。
住民の意図するところとならず、住民無視と言うわけです。党においては住民のはかりごとが存在しません。主体性の構図は党が描くとなります。
住民から主体制を身勝手に取り上げて政策の責任はありませんでは済まされないのであります。
つまり党が主体性の政策であるからその政策が行き詰れば党に責任が及ぶものとなります。
自らが自浄能力を備えていなければならないのです。でないと政策が行き詰った時に責任の持って行きようがない。如何に上質の政策を施す事が出来るのかが勝負であります。
住民側に責任はないのに何で抑え付けられなければないのだろうか?武力が本末転倒側に作用している。
本来なら住民側に武力があるならば党側を抑え付けても何ら不思議なことではない。
住民の存在は何なのでしょうか?住民の意思、尊重が蔑ろにされているのであります。
党の施策を反省しなければならない責任が発生しているのです。暴動になる政策を施しておいて抗議することは罷りならんもないものだ。まずは党の施策の至らなさを反省する方が先決でありましょう。
抗議しないような政策を施していたならば暴動になる必要性もないわけだったのである。これでは住民はたまったものではない。不条理であります。
党において国策を促がし、党において政策を施すとしている。党の都合の言いように成されると言う事であります。党の保身を持って政策が成されるのであります。自己保身党・共産党の筋書きであります。
党が作り出す概念に反抗することは罷りならん、住民が盾突くことは罷りならんと言う。党の赴くままに住民は従うものだ。党は自由に振舞ってもいいが、住民は自由に振舞ってはならない、党のすることが全てにおいて優先する間違いはないとしているのであります。
制御の効かない政策をやっている.
- 2011/06/20(月) 23:10:39|
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http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-4282.html#comment
その一ケタ台の人に見せねばならないのだから、意義あるものにしなければならない義務がある。
中にはこれはと言う番組もないではないが、ほとんどが腑抜けの番組が多いようだ。
もっとも日本の政権も腑抜けが多いようだからそれに合わせているのであろうか?見ていても何の為に見ているのか当人が分からなくなってしまう。
腑抜けた人物を見ているわけではないがどうでもいいような内容ではある。
毎日毎日番組作りに追われるのだから手も抜くこともあるだろう、それでも日本人の為の報道なら分かるが、意味不明の番組が多すぎる。せめて中継ぐらいがまともで後は見なくても構わないようなもの。
つまり見る価値がないからでしょう。テレビまで腑抜けにするつもりであろうか?
- 2011/06/19(日) 17:02:24|
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