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普段の中に正当性を求めて

私の考え出す基点を真っ当性の中に、出来るか否か 日本国の思いを馳せながら綴ってゆこうとの所存です。

カルト  その3


人によってはあってもなくてもいいようなものですが、無いよりは理解したほうがいいようにも思われ、無くても別段生きてゆくうえで差し支えなければ無理してこしらえなくても構わないでありましょう。

趣旨とする概念像を宗教心の賄いごとに煩わされる事も無かろうと思えるのですが、それぞれの生き方があるのであり、己の心身に問う事になる。

この問う事の間に勧誘すると言う一方通行の概念が入り込んでくる。心身をこしらえる途中の間に入り込むものだから左右される度合いも大きく、若者がターゲットになりやすい。要するに未熟の精神を惑わせる事になるのであります。

一般の社会事情もさして分からぬものに安易に誘き寄せるは理不尽である。

本人の自由な選択肢の元で動くところとはならず、誘き寄せると言う作戦の趣であり、排除の対象を持ち得ないところがカルトといわれる所以で都合身勝手に相手の尊重心を剥ぎ取る作為を持つのであります。

自主判断の工程を与えないものとして侵害的要素を帯びるものであるからです。

相手の趣旨を理解するところとはならず一方的植え付けを図らんとするものである。ただ勧誘すればいいと言う物ではなかろう。

離脱も排除も自由な裁量の範囲で執り行わねばならない。

本来なら自ら進んで赴くのなら許されもしようが、現代社会の工程において馴染まないものとなっている。

すでに既存の宗教を差し置いてでもこの日本に広めるべき性質のものではなかろう。尤も日本人気質に合えば適う事である。

暖めやすい先祖からの伝来の元に溶け合っているものであります。精神作用の一種であり人々の心の糧として賄われるものであり、願望祈願・精神修行の性質であり、心身功徳の人生行路を助け出す拠り所に位置するものであろう。

商売を基点に成すものではなく、高徳を得るようなものではなかろう。

既存の宗教を否定的に捉えして、現状の社会に引き入れる崇拝は肯定的要素に導く謂れは何処に位置するのか?既存宗教の概念を否定的に省いてまでして受け入れる崇拝は学ぶ精神と言うには観念性の強いもので洗脳性の宗教と思えなくも無い。

日本国日本人に切なく受け入れる宗教は存在しないのではないか?

日本人の心意気に合う大和魂が伝統の上に横たわっており、これ以上の精神の鍛錬は存在しないもののように思われるのである。

すぐさま振って湧いたような宗教は現代社会を引き付ける要素にはならないのではなかろうか?

何故ならすでに多くの宗教的な儀式の上に社会に溶け込んでおり、否定的宗教にはなっていないからです。

人々を迫害する性質の宗教は存在しないからです。

日本人の心意気の中に既存の宗教を排除してまで信仰するなり根拠が発生するはずも無いのですが、自らの心身を磨く事が修業精神であり他の信仰まで現代社会に引き入れる性質のものではなかろう。

信仰的の気質もさることながら、日本人気質を謳い上げるのが先決であろう。
  1. 2012/07/30(月) 16:56:47|
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技の極意

技を磨く、人の特質を磨き上げて行くのですが、スーパーマンではないから所詮限度がある。

身体の持っている資質を極限まで上げてゆくのですが、心身ともに磨き上げたところに現代オリンピックがある。

互いが競う合うのですが、あまり度を越すと薄汚くなる。

技、人を蔑ますところではなく、自らの持っている力を試すところ、相手があることだから競い合い称える事である。

相手の良さを吸収し自らの持っている力と重ね合わせて抜きん出るかでないかの勝負でありましょう。

ある程度までは鍛え上げれば上達もしましょうが、それ以上は身体を痛めてしまうことにもなりかねず、棒に振る事もあるから注視しなければならない。ここら辺での見境が難しい。

人々の精進であり持っている完成度に向けての戦いでありましょう。
  1. 2012/07/29(日) 21:03:14|
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 狡く生きる

http://blog.goo.ne.jp/wagasato/e/dae63a910fbe47bcd36bc995e0cb55e7#comment-list

要領を使うなとよく言われたものです。要するに狡賢くなるなと言う事なのでしょうけど、どうも昨今はこの限りではなくなってきたのであります。

世は世知辛くなってきたのでしょう。通常は人の裁量加減で生きて行けたのですが、中には要領よく狡賢く生きている人が得をしているような世にと変身してゆくのでしょう。

これから対処せざるを得ないような資質を持っていなければ生きてゆけなくなった。悲しい事にこれが現実であります。

日本人、本来の気心が見失われつつある。何故なのでしょうか?

グローバル化においてたくさんの人達が日本を訪れ住みやすいものだからそのまま居着いて果ては不法入国者までも居着く破目になった。

これでは社会秩序を保てるはずがない。どこぞの輩は犯罪率を引き提げて我が国に居着いて貢献するどころか、日本人を貶めているのであります。

どこぞの学校は天下の勇士を預かりながら、あろうことか手前らの都合のいいようにと教育をせしめて手懐けようとの魂胆であり、虐めの教室へと変身させて日本国民の宝である若き志士たちをあらぬ方向へもって行っているのである。

教育の主体性を維持せねばならないのに手前らの保身が優先すると生徒を蔑ろにして国家衰退の構図を賄うところであったとは先祖に対しての恥も外聞も存在しない風土となって大津市の状況はなってしまった。

日本国土に汚点を残すところとなり、国家の指針が行き届かない地域が誕生するに至った事であります。

非常事態宣言でも出さなければ収拾つかないのではなかろうか?挙句に警察署までが加担していたとは国家崩壊につながらんとする事態であります。

もはや日本人の精神は何処へいってしまったのだろうか?日本国をあきらめてしまったのだろうか?在日国を造った方が早道なのであろうか?

大津市の状況を見れば日本国はそのようになる証でありましょう。

このことが進化すれば日本国全体が大津市化するのです。あまりにも不甲斐ない国になってしまうのです。

オリンピックもいいけれど国土の秩序が繋がらなければロンドンから帰ってきても虚しい日本国になってしまう。

  1. 2012/07/29(日) 20:58:53|
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世界に大儀は存在しない

日本国土には大儀が存在している。どのような大儀かと言うと国家国民の繁栄である。

それならば何処も一緒だと言うかもしれないが、大儀では分かっていても、気質において皆が大儀といかない。

気質が整いきれていないのです。言う所の世界の人々の、気質であります、大儀であります。ほとんど整える事は不可能でしょう。

日本はその大儀を整えきれる数少ない国であります。

然れども現状の国内事情を垣間見まするに、在日からいいように操られ四苦八苦している様であります。日本人が大人しいものだからこれに味を占めて貶めに入り、手懐けせんと試みているのであります。日本人の互譲の精神が裏目に出ているのですが、、、。

こんなんがよく世界の大儀云々と言えた義理ではないのですが、それだけに秀でたる民族ともいえましょう。

すぐには民族の気性がDNAに刻まれるわけではなく長い年月をかけて歴史が重なって生かされることになっているのでしょう。

民族の習性とはかように歴史の時間を要しています。国土から来る習性はいかんとも成しがたく世界共通項を難しくしています。

当たり前と言えば当たり前ですが、世界を見渡せばほとんど交わる資質ではない事が分かります。

このことを大国の責務において世界に紛争の起こらないような体系に持ってゆくことが役目なのですが、、あろうことか大国であることをいいことに小国を誑かし、資源を盗む様な事を仕出かしているのであります。

世界を撹乱させる原因を作り出しているのです。大国を上から押さえ付けるものがいないから横暴さを決め込んでいるのであります。

小国は身の切られるような思いで眺めているのであります。眺めるだけならいいのですがいつ何時大国から国土は毟り取られ命までも奪われる目にあわないとも限らない恐怖が湧くのであります。

どこぞの国は現在もやっているのです。21世紀とはいっても大陸気性は前世紀のまま進歩の概念が存在しないのである。

ここに良質の概念が豊富な日本が核を持ち21世紀の在り方を方向付けしようというのであります。

20世紀のままでは困るのである。現に21世紀から導いているのは見ての通りであります。これをどこぞの輩は日本より格が上に位置していると勘違いをし日本国を手懐けようと必死であります。

あくまで核を持たない日本の方が手懐けやすいし、誑かしていくらでもお金を貪り取れるからです。

日本が核を持ち小国を引っ張って行けば大国形無しとなるからである。現状は何の為の大国か分からない様であり、そんな大国いりませんとなる。

つまり日本の良さを引き出せない世界が展開されていると言う事です。日本が核装備をして世界の良識が適うように21世紀を導く事が日本国の使命であろう。小国も期待しているのである。

大国なんぞ期待するほうが無理と言うもの。今までもやり方からして大国にしたら小国が整いすぎたら困るのである。上手い事手懐けさせるのが一番好都合なわけです。搾取大国一番と思っていい。

これからは世界は選別志向にと事情の転換を図らねば大国無視でもいいのである。大国だから自前でもやっていけるのである。これが小国を毟り取りにくるから細る一方の国になってしまうのです。

何が大国の意義を成すのか、選択肢の時代にはいったと言える。本来なら20世紀の大国ならいらない。21世紀の大国は違う機能でなければならない。

切磋琢磨の精神が生きてくるのです。紛争一つも治めきれない大国であっては困るのである。

日本国の道があったことを覚えずにはおれない。国家の本文は捉え切れなかった事を恥なければならぬ。後世へ残す財宝にしてはあまりにも虚しい。

まことに世界の気質は一様ではない。騙す事を本能にしているから何処まで制御できるのか人類進化の過程はあまりにも長い。
  1. 2012/07/29(日) 15:25:42|
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大津市皇子山中学校の虐めの事件  その3


人を殺しておいて如何なる理由も正当化できない。

我が国の国民が教育上の裁量において、人っ子一人が何の謂れもなく理不尽に殺されているのである。成長期の途中で不本意に抹殺されたのである。

事の重大さをわきまえているのであろうか?どっちが被害者意識に当たるのかは明白であるのに当方こそ被害者とする根拠は何なのか意味不明であります。

加害者が被害者を一方的に抹殺できる権利は何処にも存在しない。被害者無視の行動であり加害者が被害者になることはない。

自らが被害者面をこしらえるとは、被害者を蔑ろにしている行為であり許されることではありません
被害者になるとしたら加害者が被害者から抹殺されたときである。

人を殺しておいて己を助けて欲しいもないもんだ。申し訳なかったの次元ではないのである。

一番の責任は虐めた本人でありそれを取り巻く大人たちの管理者、学校側、教育委員、警察署、地域の人々、などが順序として浮かび上がるであろう。

何より隠ぺい工作したというのは生命を蔑ろにした責任は重大であり許されるものではない。

警察が取り締まらなければ学校側の秩序は維持できないと言う証明であろう。つまりは生徒を保護する機能が破綻している事を意味する。

まだ誰も責任を取らないという事はどういうことか分かっているのであろうか?国家反逆罪として昔なら打ち首獄門である。

己の身を保身してどうするのであろうか?ほとぼりが冷めるまで雲隠れしているのであろうか?

生徒に申し訳なかったと詫びる事が先決であろう。己の身の保全をしている場合ではなかろうに!
国家社会のこれからを構成する若き志士たちを育成しているのである。

社会構成の中で正当性の社会作りが優先するのである。犯罪者の社会造りが優先するはずがない。

人類社会に向かって私たちは歩んでいるのであり犯罪者の社会造りをする為に歩んでいるのではない。

生徒を守る立場の人が守れないのなら能力無しと見られても仕方なかろう。生徒を守らなければならないのに己を保身してどうするのであろうか?

己の身を守って生徒を保護する観念性が発生するとは思えないのですが、、、。どうするのであろうか大津市の地域の人は?

責任の所在が何処に位置するのか分かっているのであろうか?

天下国家の志士たちを育てるところではない。
若き志士たちを育てる気がないことだけは確かである。はたから見ていればここにいく生徒たちが気の毒である。こんな日本の学校があろうとは、、、。
  1. 2012/07/28(土) 20:44:20|
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人権 その4


そもそも人権は擁護したり、付け足したり、する性格のものではありません。

何故なら必然的に誰にでも等しくもたらされているものであり、否定したり否定されたりする性格のものではありません。

人の生きてゆく権利、権利と言うより、生き物の尊厳として妙なる法則であります。わざわざ擁護する性質のものではありません。無用の事であります。

がこれには前提条件があり、人の人権を剥奪したりすれば当然己の人権は抹消されることになります。

何故なら相手の人権を否定している事になり、己の人権が肯定されることにはならないのです。

人の人権を抹殺しておいて己の人権があると思ってはならぬもの。

人の人権を抹殺するは非人間的行為であり許されることではありません。

尚且つも人権が存在するすれば正常な人権と犯罪者側の人権が同一と言うことになります。

これでは社会的に不都合が生じましょう。人権の否定、肯定が無意味なものになりましょう。社会秩序の維持が困難となります。

正常な人を基点に人権が保護されているのであります。
  1. 2012/07/27(金) 13:53:21|
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政権党の至らなさ


現状を導いた政権党に委ねている限りは、日本人の犠牲者は今後も増えてゆく事は論を待たない。

国民を保護する機能が失われてゆきます。何のことはない在日を保護する機能だけはしっかりと維持しているのであります。

在日から感謝されこそすれ、貶められる謂れは存在しないのですが、我が国には存在するのです、腑抜けと言われる所以であります。

日本人は何処の国にいるのか分からないさまであります。どうなっているのであろうか我が国の仕組みは?

大津市の社会のような形態が全国に広がってゆくのでしょうか?在日を保護するとはこのような状況になって行くことであります。

今までの政権党が日本人を保護する機能をほったらかしにして、在日優位性を維持した結果からこのような事になってしまうのです。

これ即ち日本人の責任であります。在日の責任ではありません。在日に責任を押し付けるはお門違いと言うもの、政権党、国民の責任である事は言うまでもありません。

日本国内で起こったのですから日本人が解決せねばならないのです。在日が解決してくれるはずがありません。当たり前の事であります。

日本人優位性に国造りをしていたらこのような事にはなかったのです。為に在日が蔓延ってしまったのです。日本人は隅のほうで小さくなって居なければならない、不自然でありましょう。

在日は日本人を貶めんとする不貞の輩であり、日本人皆で袋叩きにして追い出しても文句は言われないのです。何故なら排除されることを覚悟で日本人を貶めているのですから!

日本人が遠慮しているから現況のように、住みやすさも手伝って蔓延ってしまい、取り返しの付かないような状態になったのです。

並びに政権党の至らなさからも発生したものであり、日本国民皆の責任であります。

国家の本文を捉え切れなかった罰というにはあまりにも大きな付けであった。国民の犠牲、国家の財宝をいくら毟り取られた事か引いては国民の命までも奪われ、あまりにも高くついた日本人のお人好し、事なかれ主義であった。

このように世界はまだ謀略の真っ只中であり、我が国みたいに世界主義がどうのこうのではないのです。我が国が異常なのか世界が異常なのか、人類の腹の探り合いにしては単純思考なのですが、仲良くするところは限られてくるでしょう。

世界は新たな戦争を模索中であり、敗退すれば国家存続権を失う事を意味する。同盟国を作り出すにはまだ早すぎる嫌いがある。

世界の秩序維持も出来ないでいるのに、世界は一つと言う寝物語を言っているようでは敗退の道筋しか見えてこないのであります。
  1. 2012/07/27(金) 12:59:20|
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 戦争の責任とは?


戦争は元々が勝負のいくさであり、負けたら全責任を負わねばならない性質のものでしょうか?はなはだ疑問に思うのです。

即ち負けたら全滅を意味してその全滅した国にどうやって責任を負わすのでしょうか?不自然であります。

あるいは器用にも戦争をして半分は殺して半分は生かして、その生かした人達に戦争責任を負わすのでしょうか?戦争の責任は負けた生き延びた人にだけ存在するのでしょうか?

元々が戦争で負けたならば打ち首獄門さらし首、敗者の人々は息絶えているのであります。

国土が残るのみになって誰も存在していません。責任を負わせるにしては誰にどのようにして責任を負わせるのでしょうか?責任の負わせ方からして不自然であります。

普通動物ならば命が絶たれ勝った方の餌食としてなってしまいます。然れども食する概念構造の中に組み込まれて決して迫害して殺したわけではなく、闘争概念の中に組み込まれた摂理の慣わしがそうさせるのであり、動物の闘争ゆえに許されているのです。

戦争とは負ければ首根っこ引っこ抜かれても文句は言えないのです。動物の本能の摂理として適えられているのです。

全滅させられて元々で何故全滅させたのだとは文句は言えないのです。勝者の権限であり戦い事の目に見えないルールでありましょう。戦争とはそのような本能的性格を持っているのではないでしょうか?

何故全滅するまで戦争するのだ。相手が降伏するのなら別ですが、戦争の概念構造が一般社会の構造とは方向性が逆に存在している。
  1. 2012/07/27(金) 08:51:05|
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不買運動

気に食わないから買わない、何が気に食わないのか、日本民族をコケにした扱いをいている企業だから、日本の企業でありながらよその国の趣旨を重んじている風であり、自らも持ている趣旨に合わないからそこの企業の製品は癪に障るから買わないようにささやかな個人の抵抗であります。

世に逆らうを見る企業、人々などさまざまに変化をして捉える筋道が意に反した工程なれば拒否する事も可能であり、姿勢変化に期待をするのであります。

その期待を裏切るものならば、不買をして要りませんとの意思表示をするのです。

何ゆえ企業姿勢が変わったのか?何故日本人主体性を維持しないのか?日本人は無視しても構わないのか?

その答えを頂いたならばいくらかは納得もしようが、それでも今まで企業は日本国の中で育ってきたのではないか?

不買運動などしたければして見ろとでも言うのであろうか?

趣旨において日本人の心意気に合えばいいのである。企業かてやり方があっていいはずであります。反対はいたしません。

あるいは世界に日本の企業が打って出るとの意気込みでありましょうか?ここにはある程度の慎重さが必要になってまいりましょう。
  1. 2012/07/27(金) 08:43:09|
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政権党の不甲斐なさ


行き着くところは政権党の不手際から端を発しているとはいっても、選びえたは我が国民なれば、敷き詰めれば、最終的には国民の責任を負う。

しかしながら国民が責任を負うところとはならずその前に国乱れて収拾が付かないような体系に落ちいってしまう。

要するに内戦勃発であります。真に国家の指針を定めることが出来ないままに内戦に至るわけであり、どこぞからの侵略を待つのみとなりましょう。

こうなるともはや日本国という国名は不毛のものとなりどこぞの属国と言うイメージになり、再び日本国という名を見る事はないでありましょう。

どこぞの国は日本国名の復活を祈りて譲ってくれる所があれば別でしょうが、それでも同じようにして潰される事を思えばその国に迷惑が掛かるのであり、同様の元の日本国になるとは不可能でありましょう。

であるならば、現在の日本国を死守して戦い抜くのが日本国の道のあり方であり、滅びればそれはそれで致し方のないこと。

世界の人達は日本の心意気を見ているのであるから、分かる人にはわかるのである。
  1. 2012/07/27(金) 08:37:27|
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