私の考え出す基点を真っ当性の中に、出来るか否か
日本国の思いを馳せながら綴ってゆこうとの所存です。
http://torakagenotes.blog91.fc2.com/blog-entry-2208.html
日本国家の施策が行われてはおらず、よそ者の主体性を行っていることになる。ここは日本人が怒らなければならないのですが、怒るところとはならず、流されてしまっている。
激動の人情とはならず、お人好し日本人の心情を発揮しているのですが、日本人が困窮しては様にならない。外国人も助けなければならないが、一様に頷けないところがある。
要は外国人も日本人と同様に日本国に如何に寄与してくれるのかであります。普通にただ貰いでは日本人に申し訳ないなあ、何らかの寄与しなければならないと思うでしょう。貰って当たり前ではありません、ここに差異が生じるのであります。
一々貰っている観念性の位置を確かめるわけにはいかず、日本人の寛容さを感謝してもらわねばならないのですが、日本人を否定することあらば、国外退去と処分となることを承知してもらわねばならない。
日本国を肯定して年金を貰っているわけでしょう。これに意に反して反日を施しているのでしょうか、分かりませんが、本来なら日本人に敬意を表し貰ってはならぬものであります。
民主党になってから増えたと言うのも不自然であります。我が国の作為活動なら仕方ありませんが、日本国に貢献し、日本人以上に寄与することを忘れてもらっては困るのである。
特亜人には特にこの観念性が気薄であり、挙句に日本国否定構図を描いており、そのくせ日本国に留まっているのだから、矛盾した社会造りを構成していることになってゆく。主体制の概念が存在しない事になるのである。
日本国の統制が崩され、蝕まれることになってゆく。何の事は無い自らが種を撒いているのである。収穫になる種ならいいのですが、不作になる種まで撒いているのだから、自業自得なのですが、日本国の主体性がないということはここにも如実に表れている。蝕まれるはずである。
とは言っても日本国がつぶれては元もこうもない。早く立て直すにはどうしなければならないのか?国家国民共々手を打たなければいよいよ持って日本国はよそ者の餌食になってしまう。
- 2013/09/30(月) 08:56:25|
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無論大国の権益を保護する為に都合の悪いことを拒否するのであります。つまり他所にとっては有益になる可能性もあるわけで、大国だけに物言えぬような状態で強いものには逆らえない図式を作っているとも言える。
拒否権においても有益の場合と無益になるものと分かれてくる。拒否権を発動し何もしないと言うことか?しばらくの様子見で次の手を考え出すと言うことか?大国の責務はこの点に掛かってくる。
拒否権を何がなしに否定するわけではないのでしょうけど、公益勘定の面影を小国の優位性を見計らうように世界を組み上げることではなかろうか?大国優位性の世ではあるまい。
大国と小国の比重の割合を決めると言うのなら分かるが、小国切捨てでは何の為の世造りか分からなくなる。世界の公益に向かって適えられなければならない法則であります。
金融市場における概念構造と、人々の社会生活の概要とでは違う気質のものであり、同等の仕組みをもたらすものではない。お金持ちの構想と、社会的な構想とでは観念性において違う気質のものだからです。
この違いの概念構造をまだ見出しえない状況であります。
大国に優位性の行動が働くものであっても、もう一つの役目である小国にも幾許かの有益性を導き出さねばならない。大国の思案の為所であります。
何ゆえ拒否権を齎されているのかその意味を理解しなければならない。一概に否定構図を用いてはならぬはずですが、何処から引き出したのか拒否権が大国においてのみ存在している。
何故拒否権が生まれたのか?手前に都合のいいように世界国家を動かしたいのであろうけれど、大国の拒否権においてこれが防がれている、防がれていると言うより、大国の尊意を兼ねての物言いを組み上げているのでありましょう。
大国同士喧嘩になったら手が付けられないからである。大国の謀は小国の謀とは違うものであり、拒否権を持っていることで曲がりなりにも世界の不安を取り除く仕組みに維持されていることになっている。
本来なら大国自身がいらないと言うのなら平和に近づいていると悟るのですが、遥か先の事、大国が怒らないように取り込む意味もあるのであろう。大国の敬う精神に期待するのである。
が現状はこの限りではなく、小国に威張り腐っているのであります。尊意のかけらも無いようであり、何処が大国なのか意味不明であります。
それでも世界は回らなければならない。人類の世をどう転がすのか大国の命運に掛かっている。
大国が不条理なことを行えばテロの発生する確率も高くなる。小国に失意を与えるものであってはならない。言うなれば大国には国家統率の意味合いが隠されている。
金銭搾取が及ばないように盾を作るのが大国の役目であろうが(我が国の消費税、TPPなど)、現状は逆に大国の利益優先で血眼になって国益をむさぼっているさまであります。
大国の観念性に異常を来たし引いては人類構図を否定してさえいるようでもある。小国の国家統一を手助けせねばならないのにそんなことお構いなし、大国の趣旨が優先すると懐肥やしに邁進しているのであります。
あまりに欲得の分野を力に任せて拡張させ、何処が大国なのか分からない様であります。小国が威張るのならまだしも大国までが威張り腐っているのであります。小国はたまったものではない。
当方は世界平和に寄与する所ではありませんというのでは困るのである。挙句に紛争を収めるどころか撹乱させ麻痺させて国益誘導へと導く始末であります。収める役目のはずが助長してしまっている。
大国の条件とは小国の紛争を解決するのに尽力することである。また最善の提案をすることである。世界平和に寄与している大国は何を意図しているのか不明であります。大国はもう一つの使命が残っていることを忘れては困るのである。
大国の使命を果たしていない所は当然格下げになってもおかしくは無いのですが、何故か大国のまま??ここに驕りが蔓延ってしまう。
- 2013/09/30(月) 08:20:26|
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http://banmakoto.air-nifty.com/blues/2013/09/post-1.html#comments
そんなにいいのなら人々から好かれるはずである。自ら進んで入るはずである。何ゆえ好かれないのか?その答えは判っているはずである。
先祖否定構図であり、一辺倒の凝り固まった思想だからである。他を排除する姿勢であり、従属物をこしらえんとの働きを優先して他を迫害するものであり、引いては他人の趣旨を否定することになって行く。
その癖己は肯定して見せているのである。これ異端体制を取り繕うものであり、思想構成を破綻させるものである。
先祖を否定しては現状の社会構成を持ちえるはずも無く、物事姿勢の構造にいたるのは不可能であります。思想上において存在するものではないことが分かります。
あってはならない構図であります。正常な思考力の概念を持たねばならないのに構成力には追い付かないものである。何時まで経っても構成力の進展性の無いものになってしまう。個人の主体性を剥ぎ取るものである。
- 2013/09/29(日) 15:27:29|
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http://blogs.yahoo.co.jp/x1konno/38189136.html
何としても手懐けたい意向むき出しであり、必死であります。滑稽でさえあるのですが、向こうにしたら正当なのであろう。目下勘定に据えたい目論見が目に見えるようであります。
自らの立つ位置を考え指針をきちっと持っておればどおって事無いはずなのに、気になるのであろう。
己が批判する分には構わないが、他所が非難するのは怪しからんと威かぶっているのであります。ともかく己の気に食わんことにはぶうぶう言い、他所が批判するのは気に食わないと言うのです。
ひとえに日本人本質の物言いであり、日本人の為の物言いであります。他所向きの物言いでないことだけは確かである。ここがいい。
日本人の首相であるから、当然の物言いであります。日本国の繁栄を願っているのである。日本国、国家は世界に寄与しているのである。
なんにかんの言うようやったら日本と同様の貢献を世界にしてからの物言いなら分からんでもないが、一途に批判だけなら独り言と一緒の部類であり何ら効力の無いものである。尤も特亜人気性には何を言っても癪に触るのであろう。物事資質の観念性が維持されていないのだから成す術が無い。
- 2013/09/29(日) 09:44:38|
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日本人の品格と言うものが剥奪されている。日本人はどうあらねばならないのか?の気質が抜けているのであります。
何せ日本人が手を加えていないのだから、日本人の心情を無視した憲法となっている。
社会性の共通項を求めているのは分かるが、肝心の日本人魂が取り去られており、日本人の誇りとする伝統文化の繋がりが否定されているのであります。
ただ真っ当な世にすることを願っているのは分かるが、これでは人の気心は通じない。日本人の品格剥奪憲法と言うことができましょう。
国守りからして日本国を守らんでよろしいと、守るべきは憲法を死守せよ判定を下しているのです。
世の意思疎通を図るのは人心であり、憲法に意思疎通を図ってどうするのであろうか?憲法が応える気心を持っているというのなら分からんでもないが、それでは憲法はどのような気心を持っているのか、応えてくれると言うのである。
仮に応えてくれるにしても憲法を死守せよでは国民の意思感情はどうするのであろうか?そんなこと一々憲法に聞くほうがどうかしていると言うであろう。
憲法に気心があれば国民が考えろと言うであろう。国民意識感情の計らいごとが憲法に依存していることである。
しからば人間感情の持ち方は一々憲法にお伺いを立てなければ意思行動に移せない事になり、窮屈な社会になってしまうのではなかろうか?
憲法は人間指針のお伺いを立てる手引書として用いるべきであり、人間の感情を委譲する働きには不似合いでありましょう。憲法は人間の感情論を委譲するものではなく、人間の不履行に対する拘束力を養うものでありましょう。
憲法が人間の感情論に入ってくる事が不自然である。それとも人間の感情憲法でも作ろうというのでありましょうか?
憲法に人間の感情論を委譲してどうするのでしょうか?人間を憲法が操るのでしょうか?憲法が人間を操っては本末転倒でありましょう。事の本質が逆をなす!
人間が憲法を操ってこそ事の本質が有効になる。
人間は憲法を守らねばならない約束事であります。が憲法が人間を守る事とはまた別の見識であります。と言いますのも、憲法の本質は国民の繁栄を願い約束事を記した手引書であり、国家において保障されている。
然れども憲法に国民を守る義務は存在しない。何故なら武器装備が存在しないからだ。憲法に武器装備を与えて国民を守ってくれると言うのなら話は別である。人間は死ななくて済むのだから!こんな卑怯な国民が日本国に存在することになってしまう。
- 2013/09/29(日) 08:41:35|
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http://fetia.blog34.fc2.com/blog-entry-1243.html#comment
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国民意思観念性の持ち方が違っているとしか思いようが無い。
あるいはあまりにも日本が物事見地が進み過ぎているのかもしれない。そう思わないと解釈基点を見出せない。何故こうも解釈地点の見方が違っているのだろうか?
国家の概念思想に従いどのような作為が施されているのか?反日とか言うものでもこうも解釈基点が違うものなのか?国家資質の違いを垣間見るのであります。
別次元の解釈基点を持っているのではなかろうかとさえ思えるのであります。
日本はまず対の物心であり、相手敬いの精神が敷き詰められている。が相手側はこの精神が無く、己本意に考えが敷き詰められていると解釈している。解釈基点がまるっきり違うと言うことです。
出発する元の解釈基点が違えば、到達する地点も当然違う事、ここからもすでに解釈の度合いが違って、交わる精神にないことが分かります。
相手側は上げ諂う精神しか持ち合わせてなく、日本側の相手敬いの精神を無視して、策謀に上手く騙されてしまったのでありましょう。
これで打ち止めで無しにまだまだこれからも騙され貶めが続くことを思えば、早く手を打たなければ、騙されの見本国となって潰されたのではたまったものではない。
国家は国民の意思活動を、国土の維持具合を、見定めなければならない。
国家意思観念性の持ち方が、民族気性の違いから、交じり合うことはほとんど不可能であるとさえ覚えるのであります。
要するに相手側は貶め種族、貶めて何ぼの世界に生きているのであり、対する日本側は尊意の姿勢、ほとんど次元の違う持ち合わせにてこれでは解釈基点が違うのも当然でしょう。社会構造において作為活動の仕方が違っているのである。
国家概念構図の資質から噛み合うはずがないものとなっている。DNAの構成から違うと片付けるには簡単ですが、、、。他を迫害するのみに長けており、 国家は何をなすべきかの上質の観念性を磨き上げる資質が備わっていないように思われる。
- 2013/09/28(土) 15:04:16|
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http://sankei.jp.msn.com/world/news/130927/chn13092721440007-n1.htm
己のやる分には構わないが、他の奴がするのは怪しからんと怒っているのであります。常に己が主役であり他の奴は跪かねばならないと踏ん反り返っているのであります。
日本は当方に跪くものでなければならないと自ら都合よく解釈しているのであります。日本は当方にもっと機嫌を取らなければならない。機嫌の取り方が足りないと嘆いているのであります。
あるいは民主党のようにもっと猫なで声を上げねばならないと嘆いているのであります。あまりにも民主党と違うと嘆いているのであります。
要するに手懐けたいのでありましょう。脅かし手懐けさせ跪かせ機嫌取りをせねばならないと目下勘定を要求するのであります。世界は当方に跪くものであると思い込んでいるようであります。
自らがもっと高等の主体制ある意思表示をすればいいものを、そうすれば何処も靡いて来る物を、脅し、手懐け手法、では通る物言いも通じないようになってしまう。
世界を欺いていることになるのである。
何で安倍政権は靡かないのだ、民主党政権は機嫌取りに忙しかったのに靡き方が足りないと嘆いているのであります。
当方が位は上である、他の奴は跪かねばならないと、日本はもっと靡かなければならないと嘆いているのであります。日本はもっと毟り取られなければならないと嘆いているのであります。どんどん靡かなければ毟り取られないではないかと嘆いているのであります。
日本はもっと当方に目を向けなければならないと嘆いているのであります。出来れば貢物を差し出せと要求してもいるようだ。これまた要求通りに応えている国もあるのだから、してどこの国であるかというと日本なのであります。
ここにも腑抜けと言われるゆえんが潜んでいるのであります。国守りの主体性を取りきれないところがここにも歪を生み出し、どこまで行っても毟り取られる運命になってしまうのです。
国守りの防備を確立しつつ、核装備を施し世界平和の為に他国から威嚇などを受けない体制作りにしなければならない。国家の使命を放棄しているのだからこのような目に遭うのは自業自得なのであります。
このように嘆くのも日本のせいだと言い出す始末になりそうであります。
- 2013/09/28(土) 07:20:18|
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http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-5209.html#comment
国歌は国の宝であります。否定されることは許されません。最もよその国の人でありましたというのなら判らんでもないが、、、。
日本国・国家国民は国土の繁栄を願って何が日本国にとって最善の方策か日夜国民は尽力しているのであります。
この宝物を放棄することは日本国民ではなくなってしまいます。それでもいいと言うのなら何処か気に入った他の所へ出て行かねばなりません。
それはそうでしょう日本国に住みたくありませんと言っているのと一緒なのです。尚且つも住み着きたいと言うのなら日本国民を侮辱していることになる。
言うなれば日本国民お前らあほだと言っているようなものです。当然日本人から袋叩きに遭うでしょう。当たり前のことであります。日本国に誇りを持っているのだから叩かれて当然でしょう。
ここは日本国の主体性で賄われていますから日本国の主体性を尊重してもらわねばなりません。
よその国で賄っているのであれば構わないのですが、そのよその国においても当事国の主体性を尊重するのが建前でしょう、国家としての誇りがありますから当然であります。
いや当方はクリスチャンですから当方の言う通りに当事国は従ってもらわねばなりませんと言うのだろうか?本末転倒の物言いであり通用するものではありません。
それはそうでしょう日本国の主体性を無視しているのですからどこかへ出て行ってくれといわれても返す言葉はないであろう。一人合点の解釈をしているのですから当然であります。
本来が日本国の繁栄を願って人材を送り出す一つの儀式ですから日本国主体制で執り行っているのですから、当たり前でありましょう。
国家を維持するとはこのことをいいます。それともそんな国家知ったことではないとするのでしょうか?
自らの思想を維持してくれているものは何か?個人の趣旨を尊重してくれているのは何か?このことを考える時に何を意識するのであろうか?主義主張を語るときに尊重してくれている社会とは、尊重してくれない社会もあるのである。
そのような社会で己の主張を声高に叫んでも通らない社会だって存在するのである。そんな時どうするのであろうか?社会が駄目だからと嘆くのか?
己の主張が正しいから通さなければならないと嘆くのか?
ひとえに日本国国家の繁栄は先祖からの繋がりの中で維持されている。国家を否定しては自らの立つ位置が存在しなくなる。つまり己の思想を維持してくれる場所が無いことになるのである。
それでも己の思想が国家を無視しても優先しなければならないとする道理は何なのか?その己の思想を保護してくれている国家を盾に、己の主張が国家より優先するのであると言う道理は矛盾していることになる。
それでは己の思想を生かす学校を作ればいい。それでも己の思想を生かしてくれているのは国家であることを忘れてはならない。
別に国家から保護してもらわなくてもいい、己の主張は己が維持すると言ったって、誰も受け答えしてくれなければ、単なる独り善がりの精神に他ならない。独り言と一緒であります。意味の無いものであります。
己の思想は国家より優先しなければならない、保護してくれている国家を己は否定しているのだから、国家を無視している事と一緒であり、国家から己の思想を無視されても文句は言えないのである。
国家は日本国の主体性を維持する為に、日本国の繁栄を願い、優れた人材を育て上げねばなりません。国家の宿命であります。
あるいは己の思想を優先させてこそ、国家の優秀な人材を作り出すと言うのなら話は別である。
- 2013/09/27(金) 21:50:13|
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間違いではないにしても、民はそれほどに統一的な力を発揮しては行けない。
力を発揮し得ない分だけ優秀な人を選び得て国家統一を託すわけであります。ないしは国家繁栄の道筋を拵えて行きます。
選定人が国思いの人であればいいのですが、己の懐肥やしにあっては民衆もたまったものではない。国家構図が破綻してしまいます。
民を主体性の趣が狂ってしまうのです。民を逞しくするつもりが選び得た人物が不作であったとは、何の為に選んだのか分からないようになる。
民が主体制で国家運営がなされるとは言っても、実際には権力は民衆に付くのではなく権力を委譲した形になるのです。
その権力を上手く使い切れればいいのですが、あろう事か民衆を手懐けるために、使うのは持ってのほか、権力を使えば民衆否定構図になってしまう。
つまり権力が民衆の上にある行動になる。民が主体制の行動が権力を民衆の上に持って来ては何の為の民主主義か分からなくなってしまう。
民が主体制の主義ではなく、権力主義の社会になってしまい、独裁主義、になってしまいます。いわゆる従属的な主義になってしまう。民衆は主体制の無い従属主義の立場に追いやられるのであります。
国家形成は民衆と共に存在せねばならないのに、民衆不要国家に従属性を帯びた構想になるのです。
してその国家とは誰が運営することになるのでしょうか?他ならぬ人間であります。人間が二役を演じる体系が出現するのです。即ち民衆は国家を担うのではなく、別口の体制を担うとなります。
その別口の体制とは何ぞや!民衆は別口の体制に従属性を帯びた仕組みに鞍替えさせられるのです。国家を担う必要はないと民衆は否定されているのであります。
つまり民衆は国家形成無用と否定されているのです。それでは国家は民衆と共に栄えるとなるのが、民衆不在とならば、国家は存在しないものとなり、ただ従属物として働かされる民衆が存在するのみであり、別口の指導体制が形成されて民主主義否定体系が出現するのであります。
別口の指導体制とは何か?選別主義を整えないのであれば、土俗的な奴隷制度主義にとなってしまうのです。
如何にして民衆の選別体系を整えるのかに民主主義の要として私たちに君臨するのかで国家体制のあり方が試されている現状であります。
民衆を生かすのか?あるいは民衆を否定構図に追いやるのかで、生活体系が大きな影響を生むことになります。
人間の社会にするのか?はたまた民衆否定の構図を優先するのか?国家主義の上で人間否定構図まで持ってゆくのか私たちの社会は不作な状態を繰り返している。
一人の人間が国家を治めきれるはずがなく、かと言って民衆全体が統一的に国家を治める体制には無理がある。
優秀な人たちによる少数精鋭の民衆の基点による主義体制が優先するのが国家の維持体制という事が出来上がりましょう。先祖からの知恵であります。
人間の進展性に固定観念性を布いたのか、はたまた流動性の民衆の知力を生かした体制にするのか?の勝負でありましょう。
どちらも一長一短の状態であり、最も人間の観念性に沿った主体性が維持されてこそ世界の人々の多数の繁栄を基点に主義主張体制に望みを賭けているのであります。
少数派の主義主張の体系は社会主義には不似合いのものであり、多数の人々の知力を優先する体系が現状の民主主義として適えられています。
元が人間の主体性であり、人類の為の世造りであり、最も相応しい体系を臨むところであり、国家体系は代えてやるのが自然の成り行きでありましょう。
しからば民衆基点の世造りにと必然的になってゆかねば、人類の社会体系を否定することになってしまう。
非人類社会となります。弱肉強食の社会となりましょう。
民衆の財産となる知力において形成されるのが最も相応しいとなります。何故人々の才覚を優先しなければならないのか?人類の世造りは人々の主体性で仕上がっており、優位性を保つ規定であります。民衆の為の世造りを優先させなければならない、私たちの世は人々の知力の概念構図に置かれているからであります。
最大多数の最大幸福を願う社会造りを目指していると申せましょう。ベンサム理論に繋がってゆきます。人類の公約とは何か?に向かって歩んでゆきます。
こうなれば民主主義に血を流した先祖たちの苦労を労えるような位置に立たねばならない。
- 2013/09/27(金) 09:19:15|
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日本人の本質を捉えきれないということは、無能の放送局になっている。放送する観念像において何を日本国で放送しなければならないのか?
手前の都合のいいように解釈して放送するは国民への裏切りである。言うなれば国民否定である。
国民を否定しておいて日本国で放送する義理ではなかろう。何故なら日本人無視の姿勢であり、国家国民を侮辱する国賊に喃喃とす。
こんな放送局に放送権を与えていることがそもそもの間違いである。間違いは正さねばならない。でないと日本国が潰されるからである。等閑にする事は許されません。
国家国民への挑発行為であります。国民への裏切り行為なるからであります。日本国衰退へと導こうとする企みだからです。
このような放送局は日本国民を守る為に抹殺しなければなりません。当たり前のことであります。国民を保護することが優先しているはずですから、日本人に対して有害であり、無駄であります。国家国民を欺いているのだから潰さねばならないのです。
報道しない自由もあると、のたまうは報道を歪めてしまおうとする謀であり、通用する物言いではありません。
正常な報道姿勢より国民を欺く姿勢を優先していることであります。国家国民への法則を無視していることである。
マスゴミと言われても何ら反省の概念を持ち合わせていない。このような放送局は無駄であり無益であります。
普通に正常な放送をするのは当たり前のことであります。当局は正常な放送は致しません、イヤなら見るなと選択権は国民にあるのだから見なけりゃいいと責任を国民に擦り付けているのであります。
当局はまともに放送する局ではありませんと言っているとも取れる。
真っ当に放送しているのであれば視聴者に共感を呼ぶはずである。
カストンピンの放送はいりません。
- 2013/09/27(金) 09:03:54|
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