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普段の中に正当性を求めて

私の考え出す基点を真っ当性の中に、出来るか否か 日本国の思いを馳せながら綴ってゆこうとの所存です。

靖国神社参拝

http://blog.goo.ne.jp/toki_1/e/aeed0ba3ffd03d5c9910bcf5f072b846

国家には指導者がいる。指導者ばかりが国家に居るのではない。

国家の大半は民衆であるところの国民であります。その日本国民が靖国神社につつましくお参りしているのは何の為か?日本人の魂を司っているところであるからである。

国家は日本人主体性で成り立っている。その日本人主体性である国民の意思で靖国神社に、日本国栄えあれと、先祖への供養とともにお参りしているのであります。

言うなれば日本人の心意気であります。国民はお参りしても良いが、国の指導者はお参りしたらいけないよとする根拠は何なのか?

人間の身体を、精神を分離する仕組みを、持たなければならないと宣言しなければ日本人ではないのだろうか?

そんな器用なことを日本人はできるはずがない。言うなれば国民には日本人としての気心を満喫しても構わないが、指導者になれば日本人の気心を持ったらいけない、外国人としての気心を持つようにしなければならない、外国人にご機嫌伺いの指導者でなければならないとするのである。

つまり日本人の気心を持たずに、日本国の政治をしろといっていることになる。自らのそのようにしたのであろう。これは何を意味するのだろうか?

日本国民に二つの気心が宿ってしまうことになる。つまり信用性のない人種になってしまう事です。尤もすでにその毛の人もいますが、、、。

極に言えば日本人はこの世に不適格な性格を持っている人種という事になってしまう。早く言えば目障りな人種ということでしょうか?

日本国は主体性を持っては困る、日本人は手懐けされる運命にあると設定されようとしているのであります。
  1. 2014/01/31(金) 13:33:17|
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人権の作動性

人の持っている人権を迫害することは出来ない。等しく誰でも持ち合わせているものであり、否定してはならない。

人権団体というものがある。果たして団体が徒党を組んで人権を管理する性質のものかどうかであります。

人権の本義は生きる権益であり、必然的に誰でも備わっている性質のものであります。

徒党を組んで否定した相手側に押え付ける性質のものであろうかと言うことであります。何故なら相手側にも尊厳性の意向はあるのであり、当然人権は存在して、その権利を誰も否定できない。ましてや圧力をかけて否定、肯定に導き出すものではなかろう。

人権は否定も肯定も手心を加えて引き寄せるものではなく、誰にでもある普遍的な尊厳性であります。

人権を否定構図に据えるは許されることではなく、自らも人権を喪失する事になる。言わば相手否定構図は自らの人権も否定されても文句は言えないのである。何故なら一方的に相手側の理論を否定しているからであり、己の理論を肯定するは相手側の尊厳性を一方的に無視した構図であり、して己には尊厳性を持ち合わせているでは通る話ではなかろう。

相手を否定しておいて己は肯定しなければならないでは物事の辻褄が合わないのである。つまり双方ともに否定するか、肯定するかの理論しか生み出せないのであります。

対等性の理論とはこのことを言う。人権の観念性を人権団体優位性で取り計らう概念は存在しません。その行為は罷りならんと否定して、人権団体が言うことがまともであると一方的に押し込んでいることであります。

人権は誰からでも否定されたり肯定されたりする代物ではありません。人権を人の心に浮ついた別物に摩り替えようとする謀反となりましょう。

人権は誰でも等しく普遍的に持っているものであり、人権団体の行使力で補ったり、削り取ったるする代物ではありません。人権団体の行使力で賄われる性質のものではないのです。

一人一人の権益として人権は保護されているのであります。ひとつには国から保護される仕組みを構成している事になります。国の管轄領域に入ってくるのであります。

団体が徒党を組んで抗議する工程は人権を否定する構図には馴染まないということです。威圧感を添える人権剥奪構図になってしまうことです。

そもそも団体で人権に圧力を加えること事態が不自然であります。人権は国家資質の概念構造から割り出される工程であります。尤も国家が省いておればこのかぎりではありませんが、、、。
  1. 2014/01/31(金) 11:53:11|
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圧倒的に田母神氏に勝ってもらわねばならぬ

http://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/32421447.html

日本人の真義であります。日本人の真義が生きている。ネットは辿られている真義を意識できるからです。国家の前進を期待できる人である。何故か?信義が通っているからであります。私たちの暮らしは国家の存念に支配されている。が、国家も国民の存念に委託されている。委託する観念性からすれば日本人の真義を持っていなければならない。持っている気質において日本人の為に揺らぐものではなかろう。国家の基点がぶれないことであります。ほとんど稀な人物と申せましょう。これからは真っ当な日本国の姿を目指すことです。
  1. 2014/01/31(金) 07:32:06|
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手前に誘き寄せて人物を否定した事

http://ttensan.exblog.jp/d2014-01-30/

人間には尊厳性が横たわっている。他人の尊厳性を剥奪したならば、自らは動物の観念性で賄っていると自覚せねばならないだろう。

言うなれば相手側を否定構図において、人間ではなく動物根性に見立てて手前は人間であると物言いをしている事です。

始めのインタビュ-では相手側を人間として扱っていて、手前の都合の良いように誘き寄せて、籾井会長が「じゃあ取り消します 」といっているのに、己自身は身勝手に取り消せませんと言っている事です。籾井会長の言い分を無視しているのであります。

言葉の質疑応答の中に相手側尊意の姿勢を剥奪しているのであります。取り消せないと籾井会長を否定概念に押しやっているのであります。その上で肯定的な言葉を引き出そうと言うのだから矛盾した質疑応答になっている。

籾井会長を否定観念性で捉えれば出てくる言葉も否定されたものしか返ってこない。

それをあえて肯定した言葉に挿げ替える方が可笑しいのであって、あくまで双方ともに肯定的な物言いの概念を維持した段階でなければ、言葉の辻褄が合わないものになってしまいましょう。

日本国家の正当性の国造りをすることが目的であるのに、何か企み事を差し挟んだインタビューをしていることは国造りの概念から反することになる。尤も日本人否定のよそ者の国造りをすると言うのなら話は別である。
  1. 2014/01/30(木) 13:25:18|
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憲法第9条の事

武力行使を放棄する。我が国の憲法にはこのように謳っています。

これは相手側も同様の憲法を持っているときに有効にもなりましょうが、我が国みたいな国は世界中見ても稀な気質であり、かたくなに憲法を守っているのです。

当然守らなければならないのですが、果たして真に守るべき性質のものかどうかであります。

といいますのも憲法は国民の生命財産を守りる為に、どのような決まりを維持しなければならないのか条文において確認されている。して敵側との武力行使をわが国は放棄すると謳い、戦いませんとなっている。

敵側が頼むから武力行使でお互い堂々と戦いましょうといって来たらどうするのだろうか?

当方は武力行使できませんのでどうぞ来ないでくださいと頼まねばならない。憲法が相手側の趣旨を尋ねよというのであります。

憲法は人間の不行き届きを賄う為のもの、正常な社会を、より正常なものにするための手引書のようなものである。

人間の生命と憲法の精神とどっちを優位性の世にするのか?憲法も大事であるが、人間の資質をもっと大事にしなければならない。

世の中は人間を基点に回転しているのだから、人間の趣旨が通らなければ何にもならない。

憲法は人間の存念を正しくなるように添えているものであり、主題は人間であります。
戦わずして平和を得られるはずがない。

戦わずして平和平和と唱えるは相手側へ依存しての平和主義ということになります。自らが平和に対する尽力を省いているのであります。ひたすら相手への呼びかけが平和平和なわけで、相手側への効力は相手次第の未知数であり、言うことを聞いてくれて始めて適えられる他人依存症の効力となります。

して自らはどのようにして平和を得られるのか尽力したのでありましょうか?口先だけの平和主義には効果があるようには思えないのですが、唱えていれば平和がひとりでに飛び込んでくるのでしょうか?疑問に思わざるを得ない。

誰でも平和を望むもの、ここに人間として欲得が絡めば、平和でなくなってくるのであります。

お互いが欲得を抑えればなんて事ないのですが、言うなれば人間の効力を無くせと言う事でもあり、ほとんど不可能に近いのであります。

となればその欲得のあった場合にも防ぐだけの備えをしていれば事なきを得る状態となり、争いごとを防ぐことにもなり、備え有れば憂い無しと防御の構えはどこも許されているのです。

世界はまだ人間としての欲得の分野を抑えきれる状態ではないということです。

お互いが尊厳性のある付き合いを最低限身に付けていなければならない掟であります。掟を省いたら平和はやってこないということです。相手側も掟を守ることが条件になってきます。

片や生身の人間の精神、片や人間がこしらえた法規の精神、持ってゆく観念性に違う性質のものであり、どちらを優先事項として思いやるのかは人間が決めなければならない。

憲法自身が促すわけではありません。決めるにしても憲法の裁定人が必要であり、双方ともに公正に付ければ良いが、本来なら別次元の裁定人が決めてみて成り立つ。

公正さを保つ裁定にはなりません。裁定にお伺いを立てることが馴染まないのであります。
言うなればよその国の機嫌取り憲法を持ってどうするのであろうか?憲法にもいろいろあらなあと言うのであろう。世界には謀略国家はありませんと補償してくれれば良いが、大国自らが謀略をしているのだから保証された限りではなかろう。自らの国は自らが守る鉄則であります。
  1. 2014/01/30(木) 07:22:17|
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日本国国家を潰す輩

わが国は日本国国家を潰す輩を囲っていることになる。

そんな輩をわざわざ囲う必要などないはずですが、囲っている日本国が悪いのである。わざわざ潰される為に囲っているようなもの、腑抜けと言われる由縁がここにも潜んでいる。

国家機能そのものを必要なもの、不必要なもの、解体すべきもの、そうでないものを選択肢の中に厳選して、よそ者が安易に入るような機能にしてはならない。

日本人機能を優先して働かせねばならない。あまりにもほったらかしにしていた日本国も悪いのであります。一概に在日だけを責める訳には行かない。

マスゴミを見てれば一目瞭然でありましょう。このような策略方で日本国を弱体化し始め、手懐けさせて貶める方法が可能だったわけで、分かった時点で手を打たなければならないのは日本国であったのです。

手を打たなければ、日本国を放棄したものと見なされ、在日優位性が功を奏したわけです。何で今まで日本人が対応策を講じなかったのかと、在日にしたら言えるわけです。

何も手を打っていないのだから、日本国建国をする気が感じられなかったという事です。ゆえに日本国の主体性を放棄したと見なされ、日本国建国を放棄したのだなあと見なされても仕方ないでありましょう。

全て日本国民の責任にあります。在日の責任ではありません。日本国内の出来事ですから在日に責任を擦り付けるわけには行かないでしょう。

惜しむなくば、日本国に貢献する輩であったらどんなにか良かったであろう。世界に有数の日本国の存在を知らしめ、平和に邁進したであろうことは論を待たない。無念極まりない事態になってしまったのであります。

それもこれも日本国日本人の全責任であります。免れることはできません。その証拠に如何様に取り繕っても先祖に報告する材料が事無しとするわけにはゆかないからです。

日本国国家国民の大いなる怠慢であったわけです。戦争に負けたとはいえ日本人の魂を絶やしては滅亡させられても文句は言えないのです。
  1. 2014/01/29(水) 07:24:30|
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国家の資質を剥ぎ取る輩

日本という国を形作るのであります。よその国を形作るのではありません。

日本人の観念性の中にこそ生きる日本国造りであります。先祖が抱いてきた国造りを引き継がねばなりません。放棄することは日本人でなくなってくる。国土放棄であります。

国家の資質を生かすべく何が必要か国民は知らなければならない。日本国の伝統文化を守り、先祖の言い付けを生かさなければならない。私たちの存念で通用するものではありません。

日本国は今まであまりにも野放図であった。採るに足りないものと思っていた。ここに見込み違いがあったのです。墓穴を掘ってしまったのであります。自業自得であります。
日本国の資質を剥奪する輩が存在して如何にして日本国をかく乱させるのかに死力を尽くしているのです。日本国に謀反を働く輩が存在しているのであります。
脅かすものあらば抹殺しなければならない。国家が潰されてから排除していたのでは間に合いません。

今までの特亜人の気性を見たら分かりそうなものを、在日は策略に物言わす気性であり、日本みたいに和を持って尊しと成すような種族ではありません。

国家の資質をそぎ落とそうとしているのであります。見抜けなかった日本人が腑抜けであったのです。国家観念性の持ち方が異質であるのです。

国家の資質とも絡み合い我が国に馴染む性質のものではありませんでした。外国人参政権などその際たるもので、日本人に対して尊厳性を抱くような輩でない事が分かります。あわよくば日本国を我が物にせんと企む輩であります。

尊厳性が湧くものならば、よその国の参政権をよこせとは言わないはずです。また言ってはならぬ事です。日本国否定構図につながってゆきます。毟り取られるだけ国家国民の損失となってゆく。今までこのようにして毟り取られて行ったのです。

腑抜けの分だけ毟り取られたことになる。その上に国家を潰されたのでは引き合った話ではない。

これだけ毟り取られればもう気付かねばなりません。我が国の至らなさから出た身から出たさびであります。在日は毟り取ることを本能にしていますから、大人しいわが国は太刀打ちできるはずもなく、今後は毟り取られたら倍返しで毟り取らねば引き合った話ではない。

賢くならねば日本国は先が見えないようになってしまう。自業自縛するような輩を囲っているのですから潰されてもおかしくはない。いずれほっとけば蝕まれる運命になって行きます。

その兆候はすでに始まっている。マスゴミ見れば一目瞭然でありましょう。パチンコ、カルト、工作員、など我が国を貶める輩が国外国内から目白押しであります。よくこれで持っているものだと感心ばかりもしておれない状況に至っているのであります。

我が国を蝕むスピードが早くなってきています。

古来日本国のやり方を優先しなければならない。これだけで良いのですがあまりにも障害が多すぎる。一つ一つ排除対象を広げて対処してゆく以外に道はなかろう。

日本国を守る為に先祖からの日本を引き継ぐために、国家の筋道に歯向かうものあらば排除するなり対応策を立ててゆきます。国家の繁栄する道筋を立てなければならない国民の使命であります。

日本国の道筋によそ者は国家の資質を剥奪して、国家の存念に歯向かう構図であり、我が国に尊厳性のかけらもないという事になり、排除されても文句はいえないだろう。

我が国に謀反を起していることになる。そんな輩を囲っているのですから潰される為に囲っているようなもの、腑抜けと言われる由縁がここにも潜んでいる。

我が国のあまりにも寛容な仕草に託けて、返って潰される羽目に陥ろうとはそれもこれも我が国が招いた種であります。日本人自らが始末をつけなければなりません。自業自得といわれる由縁でありましょう。今からでも対応策を講じても何もしないよりはましでしょう。潰されてからでは後の祭りであります。腑抜けも程度ものであったのです。
  1. 2014/01/28(火) 12:40:43|
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国家の本質を操るもの

http://ttensan.exblog.jp/d2014-01-27/

私たちは国家を見据えての生活体系で進んでいる。国家の趣旨概念を優先しなければならない。

国家の中枢機能を日本国民の妙ある発展機能として称えねばならない。

が放送局は手前の懐が国家を操る機能だと思い込んでいるようであります。つまり当放送局が日本社会を取り仕切るのだ。民衆は放送局の言う通りにしなければならない、でないと報道しないぞと半ば脅し気味にしているのであります。

国家の報道姿勢を逆手に取り、手前の都合の良いように仕込んでいるのであります。これ電波のかく乱であり、己の裁量が優先しなければならないと身勝手に思い込んでいるのであります。

人間であるから誰にでも思い込みが発生するのは仕方のないこと、しかしながら今日マスゴミといわれて相当の月日も経っている。なのに国民の間にマスコミの本領が発揮されているとは思えない。

悪くなるこそすれ状態が良くなったようには思えない。つまりマスゴミの価値がどこにあるのか分からないようになってしまっている。

自省するでもなく、誑かし優先を蔓延らせて日本国民は腑抜けのままで良いと、己の都合の良いことだけ、さもしも得意げに放送するなんざぁよそ者放送局ならまだしも日本国民の気心を逆撫でする様な放送して開き直っているようで、とてもではないが日本人が放送しているようには思えないのですが、、。

つまり日本には無用ということであります。くだらん放送局に成り下がっては無用のものであります。

世界を遥かに凌ぐ日本国民を誑かそうと思うのが間違いであり、日本人はとっくにお見通しであります。

在日放送局には無用のことであります。もはや潰す以外には道がなかろう。それとも新しい放送局を作るかの選択肢が待ち受けている。既存の放送局は解体であります。

我が国にいつまでも誑かす放送局を置く訳にはいかないのです。下らん放送局に付き合っている暇なんぞないのであります。

今後は日本人の為の放送局を作るべく、日本人向きに放送するにはどうするのか検証をしてよそ者の入り込む余地をなくさなければならない。

こうまでも日本人を誑かすとは思っても見なかったであろう。日本人が迂闊であったのです。自ら撒いた種は自らが刈らねばならない。自業自得であります。

より世界の報道局として日本国民の為の放送局として充実をはかり、より良い日本国を作り上げることが目標であります。あまりに在日に開放した為に無駄な放送局になってしまったのであります。それもこれも日本人が悪いのです。

本来の日本国民の為に役立つ放送局でなければならない。その逆の誑かす放送局になってくれとは頼んだ覚えがない。
  1. 2014/01/27(月) 12:55:01|
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平和運動

http://sankei.jp.msn.com/world/news/140126/chn14012617250005-n1.htm

平和運動?そんな世迷い事言うな!民衆の分際で何をほざいてる。あるはずがないではないかと威圧しているのであります。

当方の言う通りに暮らしておれば良いのだ。何のかんの言うな牢屋にぶち込むぞと脅しているのであります。つまり民衆にであります。

民衆の暮らしより支那共産党の暮らしが優先するのだ。民衆は黙って当方の言う通りに暮らせば良いのだ。

民衆の基本的人権はどうなったのであろうか?人は生まれながらにして生きる権利を有している。等しく誰にでも備わっている基本的人権であります。

何人たりとも剥奪することは許されません。人類法規による掟であります。

戦争中であろうが、なかろうが、正常な社会であろうがなかろうが、人間の最も崇高な基本的人権において私たちの暮らしは成り立っています。

動物社会と切り離す人間社会の誇りとする基本的人権であります。つまりその人権を剥奪する権利は誰にも有していません。

あるいは神様ならあるかもしれないが、人間が人間の基本的人権を剥奪するようなことはあってはならないことです。何故なら人の持っている基本の生き様を否定することになるからです。

支那共産党自らは基本的人権を保有する権益があるのであり、民衆には基本的人権などあるはずがないと人間否定構図であります。

自らは生きても構わないが、他人は生きてはならぬものですと否定しているのであります。つまり生まれてくるべきではなかったとなります。

自らが生きる分には差し支えないと肯定して、他人には否定構図に差し替えているのであります。己だけ生きる権益があるのであり、民衆には生きる権益などないと否定しているのです。

基本的人権は指導者も民衆も分け隔てはないのですが、誰でも一個人の人間として崇高な精神に宿っているのであり、剥奪する権利はありません。

支那共産党だけ生きる権益を携えているのであり、民衆にはその権益はありませんと否定している事です。どうしても基本的人権を有して生きたければ、基本的人権を要求しないのなら、生きても構わないとしている。つまり民衆に向かって動物見立ての物言いをしている事になる。

何の為にこの広い国土に生まれてきたのか分からないようになる。当方は人間であるが民衆は動物とみなされているようなものである。これでは民衆はたまったものではなかろう。

人間として生まれるのではなく、この国に生まれたければ動物として生まれなさいと言われているようなものである。人類社会にあってはならないことです。

動物社会を築いているのではなく、妙ある人類社会を築く義務があるのです。
指導者として国家構築の概念を問うのが先決でありましょう。

  1. 2014/01/26(日) 19:48:21|
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国そのものが偽造を文化にしている?

http://ttensan.exblog.jp/d2014-01-24/

わざわざ偽ものを蔓延らせる必要もないのでしょうけど、その偽ものがなくては立ち行かぬらしい。

国家そのものが偽ものになってはおしまいですが、その一歩手前の偽物作りが果敢に横行してどっちが本物なのか苦慮する事態になっている。

正常性の世の中を形成しなければならないのに、つまり誤魔化しの世の中もありうると仮定しているのであります。

必ずしも世の中、正常には機能しなくても構わないと判定しているのであります。これで上手く世の中が機能すれば良いのですが、人間社会は正当性の機能しか身に付けられない性質になっている。
何故なら誤魔化し裁量の法規が存在しないからである。

仮に人間が誤魔化し裁量の法規を制定し得たとしたらどうなるでしょう。正当性の法規がどこかへ葬り去られ、誤魔化す事に長けた裁量人がいかにして誤魔化すのかに神経をすり減らして正常性の世を誑かすのであろう。

誤魔化しを優先するならば、国儀に置いて正常な機能を放棄しなければならない。見境のない機能を整えようがないようになり、暮らしの概念が成り立たないようになってゆくでしょう。

自国に優位性をもたらす為に、世界を誑かす為に、いろいろの手を打って事を運ぶわけです。

世造りの観念性がなってないということですが、国家諸共誤魔化す裁量を良しとしているのだから、手の打ちようがないのであります。国家資質の概念から立て直さなければならず、遥かに凌ぐ年月を刻まねばなりません。それも今から直ちに行使しての話です。
  1. 2014/01/25(土) 17:17:01|
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