私の考え出す基点を真っ当性の中に、出来るか否か
日本国の思いを馳せながら綴ってゆこうとの所存です。
http://yukokulog.blog129.fc2.com/blog-entry-1877.html#comment_list
ひとえに我が国民は相手様に逆らってはいけないのである。
我が国の主体性はそっちのけでひたすらご機嫌を伺い、相手様の気に触らないように振舞うのが我が国の道と心得ねばならないと言わしめるのであります。
相手様は凄いのです。嘘を本当のように言いくるめる技をお持ちであり、わが国はヘイヘイという事を聞かなければならないようになっている。左様心得ねばならないというのです。まるで逆らうことはいけないような口ぶりであります。
我が国のお人好し精神が招いた種であり、自業自得なのですが、いつまでも自分の首を絞めるわけには行かないだろう。
日本国を誇りある国にしなければならぬのであり、ぺこぺこ外交ではいつになったら自立できる事やら、いい加減目を覚まさなければならない。毟り取られてばかりの日本国であってはなりません。
機嫌取り外交無用のことであります。付き合う価値はほとんどなし、無駄であります!
- 2015/02/28(土) 16:28:58|
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http://yukokulog.blog129.fc2.com/blog-date-20150221.html
国家において守られし力は民衆においてであり、その民衆の力で国家は成り立っている。
国家否定の概念は何処にも存在しない。いわゆる民衆の暮らしを優先する構造においているからだ。
民衆の暮らしを後回しにするのが、もしくは否定するのが俗に言われる売国奴という御仁であります。
日本国民否定であります。日本国民の暮らしなど知った事ではない、よそ様の暮らしが優先するのであると何処の国の政治家か分からないさまであります。
で何処から選ばれたのかというと日本人から選ばれているのです。日本人は日本人の事などほったらかしでいいからよそ様の暮らしぶりを優先するようにしなければならないと日本国とよその国の掛け持ちの政治家が出現するに至っている。
してお金は何処から出ているのかといえば日本人が払っているのです。尤もよそから隠れた金をもらっている御仁がいるかもしれないが分からないでいる。
よそ様の待遇がよければよそに出向いてもよさそうなものですが、その気配はない。という事は日本側が居心地がいいのでしょう。悪ければよそに行っても構わないのですが、、、。日本国恩恵の上に成り立つ言動であることを忘れている。
- 2015/02/28(土) 13:17:08|
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http://lovely-aki.blogspot.com/2015/02/blog-post_26.html
食中毒になりたくなかったら自分で作ればよかろんもんというわけではなかろうが、中には忙しい人もいるから手軽に食える冷凍物をお金を出して間に合わせるのであります。ところが食ったはいいが病原菌に汚染されてしまった。
食べ物を選別して食べなければならないようになった世相であります。この病原菌は目に見えないから作っている方も食っている方も判らない。後になって症状がでるから始末が悪い。
その分厳重な管理が食品には要求されるのであります。如何にして冷凍製品の良し悪しを見分けるのかが勝負になってくる。商品であるから第一は売る方に全責任はあるのであり、消費者に責任を被せるわけには行かない。
つまり衛生管理がなっていなかった為に起こった不祥事であります。何故管理上の手落ちが発生したのか?追求されるところですが、、、。
わが国は事件が起こってからでないと物事の取締りが出来ていないのです。
普通に管理側との話し合いによりより厳しく設定されて、品種の程度にもよりましょうが、万に一つも起こってはならないものとして、極力衛生管理面での要望が国内では行き届いており、日本人の管理する工場において日本製と記する事にしている。
何も記してなければどこの製品か分からないようになり、その系統の食べ物は例え日本製であっても食べないようになってしまう。ここが同業者の怖いところであります。
いつかは被害が出るのでろうに!気付かない日本の業者ではなかろうに!敵側へ機嫌とってかしらないが輸入しているのであります。懲りずにいる我が国であります。
- 2015/02/28(土) 11:47:20|
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民族において自由の表現は相成らんとのお達しを出しているところがある。お偉いさん達が自分達の都合が悪くなるから民衆の口封じをしているのであります。
民衆が良い方にお偉いさん達を評価してくれるのであればいいが、得てして民衆も悪い方に解釈しがちであり、ああだこうだと取り留めのない事を言い触らしては統制が取れないようになってくる。
であるから止む無しに政策を推し進める為に一時的にせよ大衆の口封じを促すのでありましょう。
お偉いさん達が自分達を戒めてくれていると解釈すればいいのですが、得てして癪に障るものだから勢い黙っておれと統制するわけであります。
ここに民衆の活動力が停止してしまい、期待が持てない様になる。権力さえ持てば民衆の力を口封時可能となってしまう事です。
民衆の存念が権力より下に位置してしまうのです。これでは進展性の概念が見出せない。お偉いさん達の思惑とは裏腹に社会構造を凍結させる事になってしまう。
民衆の為の社会とは言えなくなり、国家構造の破綻であります。民衆の為の国家構造が権力者の為の国家構造に変身してしまうのです。
もやはこうなれば国家構造とは申せず、民衆は権力者の為に働く従属者とさせられるのであります。つまり従属性の社会構造となってしまう。
民衆は国家構造に位置する存在ではなく、権力者の為の従属者になってしまう。国家としての物言いが存在しなくなります。
自由な論争の中から生まれた言論ではなくなるのです。何処から生まれた自由への言論なのか?対抗する言論の自由と噛み合う要素ではなくなってくるのです。
異質構造の言論と真の言論の自由とは噛み合う要素ではなくなってくるのです。社会構造に向けての言論の自由でない事が分かります。
手前の都合のいいように導く権力志向性の概念構造となり、社会構造の概念から離れてゆく事になります。
人々は国家に生まれるのではなく、制約された社会構造の中に生まれてくる事になり、偏向性の社会造りを余儀なくさせられる。持って生まれた人間としての行為を自動的に剥奪している事になる。
つまり摂理現象さえも否定する仕草が国家においてなされている事に気付かねばならない。
- 2015/02/28(土) 08:26:53|
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http://news.biglobe.ne.jp/domestic/0226/san_150226_4449142639.html
http://d.hatena.ne.jp/satoumamoru/20150225/1424833135
日本国内にあるまじき事件であり、日本社会の恥じの概念構図に位置する。
これでは我が国もどこかの紛争国を攻められた義理ではなかろう。
国を治める事が日本国民の義務である。他国の見本とならなければならない日本がこうした事件が起こるようでは指して先進国でもないようになってしまう。
日本の恥をさらけ出すようであるが、その要因を洗い出し今後に生かす事が私達の務めであります。よりよい日本の社会造りをしているのだから当然の義務であります。
これとても他国が見習うように広く行き渡るような仕組みにしたらいいのですが、、、。
構築する人間の理念が何故失われたのか?日本国に交わる社会の負の面をほったらかしにしているせいはないのか?
日本国先祖からの功績を紡いではならぬもの、日本人種の義務として果たさねばならない。
人間の資質を上げてゆかねばならない社会造りであります。
人の心の教育という事ですが、合わせて公に対する理念が存在しないのではなかろうか?私に対する概念が異常性を帯びてゆく。相手剥奪構図であります。
相手側の理念は存在しないものとして、己の趣旨がいかなるものより優先する構図であります。
人的資質の構造から整えなければならず、これらは国家的資質を帯びて、民族資質の結び付きから来るものであり、途方も無い時間を要するである。
が果たして時間を費やしても把握できる体制に持ってゆかねばならず、そこを日本人種が見本を築くべく現状の社会構図を作り上げている最中であります。
- 2015/02/27(金) 14:47:29|
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http://ponko69.blog118.fc2.com/blog-entry-2978.html#commenttop
社会構造を切り崩す事になりはしないか?オスとメスの動物的視野の観念性から生命誕生の奇跡を促して生存社会を築いている。
人間の社会生活も同等にして私達の生活は成り立っている。いわゆる家族構成を主体制の世の中を築いているのであります。
男と女の尊厳性を生命誕生の元に組み上げた社会であるわけです。妙なる人間社会の存続を残さねばならない。宿命が待ち受けているのです。
破棄するは人間社会の崩壊する事を意味する。生命を維持する元に構成されている人の世の社会であります。これを否定するは許されません。
当方は人の世を築いているのではありませんとなってしまう。無論人間の尊厳性を破棄したものになってしまう。尊厳性の概念は二の次であると言うのであれば構わない事もないが、社会構図にひびが入る事にならなければいいのですが、、、。
人の世に一人一人の生活を営む事が目的であれば、それでも構わないのですが、果たして尊厳性を抜きにして人間の生活が出来ましょうや!
人を見たら泥棒と思えの例えもありますが、人を人と見ないでもよろしいと言う概念にぶち当たるのであります。
尊厳性の概念が存在しないとするならば、生命の尊厳性との位置づけはどのようにして得られるのでしょうか?誰彼がしつけたわけではないけれど、必然性の原理が何故誕生しているのだろうか?どのようにして求められるのでしょうか?
天からの定めとして下されしものなれば、否定する原理など何処にも存在しないのです。いわゆる天からの定めを破棄する行為となります。天からの定めを否定するのであります。
当方の暮らしは天からの定めによるものではないと否定する事になるのであります。天から生命が下されしものでないとするならば、何処からか己の生命は分捕ってきた事になる。人間の尊厳性の行為を破棄する事になる。
人の生活度を優位性に考えねばならないとなる。社会構造が人間の生命誕生の尊厳性が人の生活度優位性の概念に衣替えするのであります。
人間の考えは生命誕生の尊厳性さえも超越するものであるとの概念にたどり着くのであります。
人間の考えは神の創造物より超越する事になってしまう。人の考えはそんなに偉いものなのか?不可解である。
もはやこの先を考えることはほとんど不可能ではなかろうか?つまり人間の考える事ではないようになってしまう。
- 2015/02/26(木) 07:30:11|
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国民の主体性を破棄しているのであります。日本国民の知る権利を否定し、報道局こそが社会を取り仕切る要素があるのであると思い込んでいるのでしょう。
国民否定構図を優先しなければならない、報道局の姿勢こそ肯定しなければならないと民衆否定論を投げかけているのであります。
日本民族の趣旨活動を否定している事になる。日本の趣旨活動は放送局が優先して執り行うのであり、放送局が知っていればいいのであり、国民がいちいち知る必要はないと否定しているのであります。
放送局の判定を国民は従えていればいい事である。主体性を国民の方に持って行ってはおらず、放送局の都合でカットしているのであります。つまり国民のことなどほったらかしでもいいと解釈しているのです。
国民の事など捨て置けの放送局が誕生するに至ったのであります。
普通に日本人ならばこのようなことはしないのですが、在日よそ者が入り込めばこうした放送局に出来上がる見本でありましょう。
在日よそ者主体制の放送局など無用であります。ぶっ潰すなりよそへ売り飛ばした方が日本人本来の放送局を拵えた方が何ぼか日本国の為になるのであります。
何の事はない在日よそ者のために放送局を提供しているようなものであります。して何処がお金を出しているのかというと我が国であります。腑抜けの上塗りまですることもなかろうにと思うのですが我が国ではあるのである。自分で自分の首を絞めているのであります。
日本人はよほど手懐け甲斐があるのであろう。黙っていてもお金を運んでくれるから応えられないのであろう。 ここにも我が国の腑抜け振りが発揮されているのでございます。不遜な事であります。
早く日本人本来の放送局を作り上げたいものであります。
日本国の趣旨構造を破棄しているのであります。日本国の趣旨活動など知った事ではない。
放送局があるから国民は持っているのである、何のかんの言うようやったら日本国家を潰すぞ!後は知らないからなあと脅しているような!国家が潰れても放送局が生き残るのである、文句あっかと、以後放送してやらないからなあと威張り腐っているのであります。
つまり国家の概念構図に位置する放送局ではありませんのでそこんとこよろしくねえと国家国民を小馬鹿にしているのであります。
何で我が国にこのような放送局が誕生するようになったのか?その経緯を調べ上げる必要がある。
国民を誑かすような放送局はいらないのに、我が国に実在している事の不思議さ!国家国民を腑抜けにせんと企んでいるのに!よそ者指向の概念とはかくもなるのである事を検証しなければならぬ。
何で我が国によそ者指向の放送局が誕生するか?
放送局に放送する概念像が存在しないのである。日本人主体性を持ち合わせてはいないのである(在日よそ者では日本人主体制の放送できるわけがない)。
- 2015/02/25(水) 13:42:42|
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歴史判定人を必要とするならば、何故拵えきれないのか?
歴史は判定人を必要としない出来事になっていると仮定しなければならない。
歴史判定人が必要とするならば歴史は判定人によって造られると仮定しなければならなくなるからである。
よって人の世の歴史は判定不能であり、良い悪い概念は存在しないのである。
仮に歴史判定人が存在するとするならば、逐一その判定人に事の良し悪しを尋ねなければならず、その判定人の優位性構造になってしまう。
判定人の権限がどういうものか定かでない。果たして人間社会に通用するものかどうか?不明であります。
つまり歴史判定人とは手前の身勝手な解釈人に過ぎないのです。相手貶め構図の策略人であり、対等性の判定人には程遠い存在であるのです。
よって歴史判定人を語り、歴史をああでもないこうでもないと判定するは、まやかし者の類といって差し支えないだろう。
元に何人たりとも歴史を判定する能力は備わっていないのです。それを我こそは歴史判定人であるかのごとく振舞うは、世界をペテンにかけようとする者であり、社会構造の裏切り者と言えよう。嘘で持って取り繕うは論外である。
歴史を味方に付けたが如く扱うは手前勝手に解釈する策謀人という事ができよう。
何故なら己の仕草を隠して他へ責任を転嫁させようとの腹黒さと見て取れるのである。
つまり人間には非があり、己の仕草の至らなさを認め非を転じて功ならしめる姿勢こそ人間の概念構造に至るものであります。
己の非はほったらかしで相手側へ擦り付けるは人の概念像に位置する行為でない事が見て取れるでありましょう。
つまり人の概念像に位置する非が存在しないものとして扱われるのである。偏向性の概念像を行くものであり、人の持つ功罪が存在しないことを意味する。つまり偏向性の構造しか習得していない事であります。
人間資質の観念像が欠落しているのであります。人としての慣わしに位置するもので、国家の資質、民族としての概念が欠落している事を意味する。
誰が悪いどうのこうのでなしに、公儀的計らいごとが会得しえない特質となっていることであります。
人を導く構図の中に功を求める気質を育てるのであります。これらは国家資質とも絡み合い恥じの概念構造にとつながって行く。
わが国は日本人を育てるのが主であるのに、似せた日本人を作り出す場となってしまうのである。
- 2015/02/24(火) 13:45:22|
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http://d.hatena.ne.jp/satoumamoru/20150222/1424588010
現代人感覚の物見であり、当時の物見はまた違うものであります。
過去の見識を知るならば、時代を遡らなければ解釈不能であります。現代風に解釈したって答えが出るものでもなかろう。
当時の人の判定を現代人がさもしも我の判定こそが正常であるとし、疑うものであってはならないのです。
何となれば時代進行のまかない事であり、現代人の手の届く解釈では推し量れない、不能な位置づけであるのです。
時代進行の概念を遡っての判定力は人間は身に付けるほど高尚な次元は持ち合わせてはいないのです。
当時の人たちが現代まで生きて判別してくださるのなら話は別である。
当時の人たちの思想感情を無視した物言いになるからです。思想感情を否定した仕草になるからです。
私達は当時の人たちの思想感情を引き継いで現代に至っていますが、実際に当時の思想感情を理解することは不可能であります。
当時の人たちの思想感情と現代人の思想感情とでは違う概念であり、誰も一致する工程を導き出せないからです。つまり時間を遡って判定する事になり、およそ現代感覚では不可能な事であります。
現代人が過去の人の観念性を無視して過去の出来事を判定可能としている事です。人間の能力外の事を気質観念性において蘇らせる事ができるとしていることです。言うなれば歴史判定人可能としている事です。
人間にそのような能力があるはずがないのに、気質観念性の作為により判定可能としている事です。自らが省みる姿勢は破棄して相手側へは罪着せ可能としている事です。
これはどういう事かというと人間の能力が気質観念性の持ってゆき方で過去の 次元を引き出し判定能力が備わっていると身勝手解釈を取り入れているということです。相手側貶め構図に採用している事です。
人間の能力外の事を相手側に適用可能としている事です。歴史判定人ならば確かに可能でありましょう。
自らが省みる姿勢は破棄して相手側へは罪着せ可能としている事です。これ歴史判定人ではありません。
では己が歴史判定人であるならば証明する必要がある。如何にしてその証明を試みるのであろうか?神様でない限りは判定不能のものであるのに可能とする根拠は何なのか?察するまでもなく、手前の都合のいいように解釈しているに過ぎないのであります。
公的に通用せしめる能力は何処にも存在しないにもかかわらず、可能とする証明法は?
歴史を蘇らせる事は人間の能力では不可能であります。その不可能な事をああでもないこうでもないと批判しているのであります。批判する能力だけは身に付けているのであります。過去の人の執り行いを参考に生かす事が真の人間の能力でありましょう。
- 2015/02/23(月) 13:51:28|
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http://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/33314198.html
何のかんの言うようやったら出演させてあげないぞ!我が放送局の言う通りに唄えばいいのである。逆らう奴は歌わせないぞと言うのでありましょう。
「歌は世につれ世は歌につれ」、たくさんの歌と共に私達は時代を築き上げてきました。日本人の心の糧でもあったのです。
人それぞれに思い出の歌が心に残っているものであります。人生の応援歌とも言われております。若き日の歌はいつまでも覚えているものでございます。
心には太陽を唇には歌を持てと古い人は言いました。何故歌があるのでしょうか?普通の言葉とは違った趣があり、言葉に抑揚をつけて唄ったものが何故そんなに印象が残るのでしょうか?不思議感覚としか思えない!
妙なる人間の人間たる由縁といってしまえばそれまでですが、その歌を去るところが代えさせて唄わせないと拒否の趣を抱いているのであります。
当放送局の思い通りの歌でなければ唄わせないとしたのでしょう。気に障るような歌は歌うなとしたのでしょう。一部ではありますが歌の文句を否定したのであります。
当放送局にとって拙いから唄ってくれるなと否定したのであります。当放送局に適う歌を作ってくれなければ唄ってはいけないという事です。
当放送局が歌を管理するというのでしょう。歌は当放送局に馴染むものでなければ唄わせないとしている事です。
世情の流れで数々の歌が造られていった。その歌を当放送局は気に食わないから歌わんといてくれと一部ではありますが否定したのです。
言うなれば世情は当放送局の流れを組みしなければ唄ってはいけないと拒否したのであります。当放送局を中心に世情は回らなければならないと思い込んでいるのでしょう。
世情の観念性を否定しているのであります。社会構造そのものを破綻させているのです。当放送局は社会構造に位置するものではありません。
社会構造を肯定する立場にありながら、当放送局は社会の概念を持ち合わせてはいませんとそこんとこよろしくねえと、受信料はちゃんと払ってねえでないと社会構造の中で当放送局を維持できませんからねえと矛盾した事を言い訳しているのです。
これ放送局の概念姿勢ではありません。世情否定の社会構造を組むものであり、あってはならない事です。
わが国はこのような放送局を囲っているのです。自業自得というには泣くに泣けないようになってくる。
日本人ならこのような事はしないのですが、似せた日本人がいるのでしょう。似せた日本人に受信料を払っているようなものである。
- 2015/02/22(日) 16:58:07|
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