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普段の中に正当性を求めて

私の考え出す基点を真っ当性の中に、出来るか否か 日本国の思いを馳せながら綴ってゆこうとの所存です。

日本の行く道

http://blog.goo.ne.jp/wagasato/e/b5a063998fff792e77397dbf9296851b

日本国は日本人が築き上げるものですが、この頃の観念性はよそ者が偽日本国を建国できるようになってきている。

この頃の日本国、立て直すより、日本国潰される力の方が上回っているようだ。それと言うのも在日の功が奏しているからですが、日本人よいつまでも腑抜けでいろとあの手この手で紛らわし日本人を手懐けして、日本国を我がもんにせんと企んでいるのであります。

言わば日本人否定であります。在日の才覚と日本人の才覚の勝負であり、日本国貢献の筋道にあらず、如何に日本人を操るかに神経を費やしているのでありましょう。

日本人より優位性に立たなければ、言わば居所がないようになってしまうから懸命なのでありましょう。ある面では当然の仕草であり、惜しむなくば日本国建国に役立つ在日であったら良かったのですが、その逆の貶め優位性の輩であったとは無念であります。

在日が悪いのではなく、日本人の不甲斐なさを責めるのが先決でありましょう。世の中、掟どおりにするならばであります。

つまりは自らが撒いた種であるのです。ゆえに日本人基点に立っているわけではなく、よそ者基点に立っている事です。日本国の将来性を論じてはいないということです。また語るべき資質も持ち合わせてはいません。無用の概念構図であるからです。

よそ者に日本国の将来を任せる方がどうかしているのであって、ここにも日本国の腑抜けさが蔓延っている。



  1. 2014/05/31(土) 09:05:08|
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放送局気質

当局は日本人本義を問うところではありません。ではどこの国の本義を問うところでしょうか?いや途中で妙なものが入り込み、撹乱させられ、よそ者本義に問うところへ衣替えさせられたのです。

どうぞ国民の皆様そこんところをよろしく心得ていただければ幸いです。あしからず当局だけではどうしようもないのです。都合勝手な事を抜かす奴はどこぞと似てなくもないが、、、。

普通なら日本人を誑かしているのだからこのような放送局を蔓延らしてはならんのですが、よそ者が蔓延れば日本人気質が上がることはまずなかろう。挙句に貶めまで加えられりゃ世話ない。

それほどに日本国は暮らしやすいのであり自由が適えられているのであります。暮らし難かったら蔓延るはずはないのだから!

このような放送局の蔓延りまで許す必要はないのであります。何故かほったらかしにしているのであります。その分日本人の腑抜けさを呼び込んでいることになる。言うなれば自業自得であるのです。

何の事はない自ら腑抜けの種を撒いている事です。日本人気質を育てる気構えがない以上は潰さなければならない。世の道理であります。

ならば自らの指針に基づいて日本国本義を問えない局として自省を込めて解体したらいいのです。

少しは日本人の心意気が残っていたと褒めて上げよう。それなくば潔く解体せねばならない。条件は揃っているのである。

それとも国民へ放送の本義を問うのでしょうか?日本国民を腑抜けにするべくカストンピンの放送をあくまで手掛けるのでしょうか?日本国には無用であります。

政府はこのような放送局は解体すべきであります。長い目で見ればよほど日本人の為になる。即刻放送権を取り上げるべきです。

それは局内でよからぬ輩を蔓延らせたからであり、自らが退治しなければならない。退治できなければ解体以外にはなかろう。日本国には無用の存在となってしまう。知ってか知らずか日本国民を欺いている事になるのである。

日本人の才覚を懸命になって誑かそうとする不逞の輩であり、処分しなければならない。
  1. 2014/05/29(木) 07:39:14|
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判定人

http://d.hatena.ne.jp/satoumamoru/20140523/1400813759

裁判官は既成の概念構造を思い煩って下す事であり、人間がこの概念に寄り添うわけではなく、進展性の性格を帯びているのだからその判定力も人間の趣旨概念に沿ったものでなければならない。

であるとするならば憲法は規律性の文章とするならば既成概念構造であり、人間の趣旨概念とする成長期の観念性とは趣を異にする。

判定する工程にずれが生じて体系が合わない事になる。そのまま判定しないわけにはいかず、勢い判定において既成概念を呼び込むわけですが、ここに判定人の主力が生きてくるのであります。

要するに判定人の才覚が求められるのです。憲法の既定概念とは趣を異にするのであります。私たちの生活概念が未来派志向である限り、判定力においても人間の趣旨を重んじるならば、未来構図に則ったものであるはずです。

この裁判ではそれを裁判官が下していることは国家滅亡やむなしとしている事です。憲法がそのようになっているとしている。憲法法義を優先させていることです。

憲法社会を築くのならいざ知らず、人間社会を民衆否定構図に導いている事です。

人類社会に民衆否定構図は存在しません。ゆえに日本国民の生命財産を守る為には何が必要であるかと解け行けばいいのです。

憲法が国民の生命財産を守ってくれるわけではないのですから!人間主体性における国家本義のあり方を説けば自然と国守りの概念が浮かび上がります。

国家滅亡しても憲法を守らなければならないとする流儀にはならないはずです。

憲法は国家の存念を判定人と一緒に剥ぎ取っている事になる。国家否定へと結び付く事になる。国家は存在してならないとなってしまう。

人々の国家を樹立するべきではないと憲法が判定していることになってしまう。

国家を樹立すべきではないとするならば、必然的に憲法は無用になってしまう。それなのに憲法判定に趣を置いているは国家に矛盾した働きをしていることになるのである。

判定人の概念構図が矛盾している事である。
  1. 2014/05/29(木) 07:34:39|
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裁判官の趣旨構図

http://d.hatena.ne.jp/satoumamoru/20140523/1400813759#c

国家は国民の趣旨活動を優先する。民衆の生活が掛かっているからです。

社会公儀においても民衆の主体性を無視するわけにはいかない。正義の観念性をどこに位置しているのかを問う時に広くは民衆基点を考えるであろう。

社会正義がどこにあるのかを敷き詰めれば民衆基点の判定力こそが、唯一正当性へ導ける趣旨活動の原点として備わっていると見なければならない。

国土を守ることにおいても日本国人民の趣旨を尊重した計らいごとでなければなりません。

数多くの先祖たちの苦労があってこそ今日の日本国であるのですから、いたずらに妨げる事はできません。

国家本義は国民に由来し、その国民は国家建て直しを計る大事な財産であります。

裁判官の趣旨工程は法律施行であり、既成概念を優先しており、将来性の観念性には不向きであります。つまり人の将来性を適える事にはならないからです。

そもそもが法律設定には既成物の鑑定力に位置したものであり、これから人々が生活するであろう未来性の観念像には立っていない事であります。

それなのに未来性の判定を由来していること事態が不似合いの事であるのです。

裁判官は既成概念本意の位置付けであり、国民が将来に立つであろう生活概念は見切れないのであります。

くしくも判定力を得ようとする方が間違いであり、法律そのものが既成概念の位置付けであるから不誠実な対応となってしまう。

裁判官も判定せざるを得ないわけで勢い法に則った裁きとなってしまう。元に法の概念には無理が生じているのであります。

国家資質の何たるかを分からないままに不自然な判定する事になってしまう。ひとえに国守りの概念は裁定力の及ばない構造になっているのであります。

今までが憲法の裁定力に及ぶとしてた方が間違いであるのです。国守りの概念構図を憲法裁きに引き寄せる方が不釣合いであるのです。

憲法の法則通りには戦いごとは進展しません。自分の国は自分で守る構図が優先するはずであります。

憲法を改正するまで敵側が待ってくれるというのであれば話は別であります。

戦争が始まれば急遽裁判官を追い立てて、敵側が武力侵攻してきたことだし、我が方もじっとしてたら、国家滅びるから同等に武力使って撃退しなければならないと法則を作るつもりであろうか?

敵側には日本国の憲法もへったくれもないのであります。我が国の不戦条項を尊重してくれればいいのですが、果たしてそのような国があるのでしょうか?

裁判官は国滅ぼす為に判定するわけではあるまい。日本国存続してこその裁判官でありましょう。

我が国の憲法論議は不誠実であります。日本国民を守る事の意義が不可解であります。憲法本位を優先しても日本国土が守れるわけではあるまいに!
  1. 2014/05/26(月) 23:22:50|
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新聞趣旨活動の原点

先祖の意志を受け継いで今日の日本国が存在している。作為活動の原点は遥か昔に遡る事から出発し、長い時間をかけて今日に及んでいるのであります。私たちの時代だけで日本国を築き上げたわけではなく、幾多の災難にもめげず、日本人種が立ち向かってきたお陰で日本国土が維持されています。

尊い日本民族の妙なる息遣いの下に日本国があるのであります。この間に日本人気質が脈々と受け継がれてきた事であります。

物事の作為活動は日本人気質に由来し、日本国の本義に基づくものでなければならない。日本人趣向の考え方であります。社会義において公の新聞はこの原則を持ち合わせてなければならない。

不能の物であればもはや日本国の新聞ではありません。よその国へ出て行ってもらわなければなりません。日本国には無用のものです。

尚且つも居座り続けるようであれば、日本人を誑かすものとして処罰しなければならない。ここに日本国の鷹揚さが罰当たりな国造りをしていることになる。

即刻排除対応をしなければ、遅れれば遅れた分だけ、日本国の損失となるのであります。自由主義も考え物だという事です。日本人主体制の考え方が優先するのであります。日本国なのだから当然であります。

このような概念構造に立ち返ることが出来ないほど日本国が蝕まれている事になります。今日のマスゴミの様相を見れば一目瞭然でありましょう。

ほったらかしにしていると言うのは自分の首を自分で絞めているようなものだからです。自由民主主義の弊害となって我が国を覆い始めている。自由主義も良いが日本人気質を忘れては困るのである。

悪質の方へ機能が優先されて、正常性の日本国資質でないことだけは確かである。マスゴミなど公的機関からも、国家維持の原則活動が破壊されようとしている。
  1. 2014/05/26(月) 21:00:42|
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落書き

http://trackback.blogsys.jp/livedoor/the_radical_right/53046905

心の迷いごとにおける落書きなら観念性として分からんでもないが、等しく見る事が出来るものであるから気持ちの良いものではない。たとえ正当性の物言いでもそうなってしまう。

自らを肯定概念に置いている様だけれど、側から見れば否定され無視されている部類に属するのであります。それも自らが否定概念に寄り添っている事になる。社会通俗性として吐き出される者の運命を自ら作り出しているのであります。

自らが引き継ぐ感性を制御できないものであろうと思われる。己自身に一線を引いた才能が要求されるのですが、その敷居がなければただの悪戯書きとなり、気質観念性の無き者になってしまう。

他人の尊厳性を身勝手に剥奪して己の趣旨を張り巡らすは、社会構図を受け付けないはぐれものとなってしまう。国家造りはいうに及ばず、庶民の社会造りを破綻させるものであり、他人の観念性が描ききれないものとなり、一方通行の物思いとなってしまう。

して己の主張がまともであり、他の正常な構図を排除した行為であり、思考力の概念を逸脱している事であります。己の身勝手主義を施すものであり、他を蔑ろにする志向性を置いている事です。

敷き詰めれば国家恥の概念を行くものであり、民族資質の概念を喪失している事になる。

世にならず者の観念性が育つところではなく、人々の気質を育てるところである。世に建造する社会構造の何たるかを心得てなければならない。

人の気質観念性を自らが放棄していることになる。社会構築する人間ではありませんと宣言している事と一緒であります。この観念性さえも抱ききれないのであれば救いようがないようになってしまう。

言うなれば日本人種も韓国人種と同類項にならなければならないと押し付けているのであります。同類項になることを押し付けるのが得意なようだ。

告げ口外交もこの部類であり、東海表記の難癖も当方と同類にならなければならないと押し付けているのであり、他の意向など知った事ではないと排除し、社会貢献度があらぬ方向性を示している事です。

いらぬ迷惑で同類項にされたのではたまったものではない。気質観念性の違いを垣間見るのであります。ついには我が国が招き入れる気質構造を失っている事になってしまう。安易に招き入れた付けが来ているのであります。ほとんど溶け合う気質でないことが分かります。

竹島、慰安婦問題、仏像盗難事件などを見てれば分かりそうなものを、我が国もそれでも付き合おうというのだから腑抜けにされるはずであります。付き合う価値があるようには思えないのですが、、、。おまえんところは腑抜け外交もするのかと言われてしまうのである。我が国の腑抜けさも社会貢献度には不似合いのものである。

己の気性が優先して他は跪かねばならないとする一辺倒の優位性確保であり、相手側の気心が見えない気質となっている。趣旨観念性の持って行き方が欠落しているのであります。次なる観念性をどうするのか描ききれないでいる。

自国民が自国民の気質を疑わねばならなくなってしまう。この気質観念性の違いはどこから来るのか?ここから始めなければならんとは難儀な事である。果たしてこの違いを会得して国家として、個人として気質向上心に結び付ける事が出来るのか否かである。気の遠くなるような歳月を要するからである。

人の持っている良さは動物社会にはない気質観念性の反映できる所にあります。人類社会の探し求める向上心の一つとして例えられよう。
  1. 2014/05/26(月) 20:50:06|
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日本 民族の気質向上

日本民族としての資質を植え付けてゆきます。日本国土における民族の基礎固めであります。

日本人の行く道は日本人が決めねばなりません。よその人が決めてはくれません。

国民は国家に帰属して、国の何たるかを諭して行きます。国家資質の向上がその国の誇りとなるからです。

自分の国は自分で守る原則に立って国家は成り立つものだからです。

国家資質を汚す事は許されません。先祖否定に繋がるからです。

言うなれば国外追放であります。日本国に相応しくないと見込めるからです。国家反逆となるからです。国家の概念構造に歯向かっているからです。

ここでも先祖否定となってしまう。私は日本人ではありませんと言っている事と一緒であります。必定として日本国には無用の存在となってしまう。国家の恥とならぬようにしたいものであります。
国家は民族資質の向上で成り立つ。

  1. 2014/05/24(土) 08:03:56|
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国民意識改革

http://sankei.jp.msn.com/world/news/140524/kor14052407000001-n1.htm

他をなじる事ではなかろう。よしんば本物であろうがなかろうが、自らの国があのような事態を招いた事は先祖に詫びなければならない。

国家資質の向上にとてもではないが結び付くものではなかったことを恥なければならない。

どうしたら国民資質の向上に持って行けるのか総出をあげて取り組まなければならないのである。

何がどういけなかったのか原因追求から始まり、物理的な現象から人的資質に至るまで途方も無い時間が掛かるであろう。

しかしながらやり遂げねば永久に出来ないようになってしまう。後世からの見本とすべく現代人の使命は大きいといわねばならない。

民族に欠けていた物は何か?人的資質の向上に何が欠けていたのか、ここが出発点になるであろう。

人々は互いに助け合うものである、人的資質の精神がそうなっている。

民族的欠陥から生じたものか?元の独り善がりの精神からきたものか?おそらく両方であろうけれど、この二つの事柄をどのようにして解決するのか韓国人の資質が掛かっている。

パチンコ禁止した心意気で制すれば出来ない事もなかろう。やり遂げなければならないものだからです。世界の国々が見守っている。
  1. 2014/05/24(土) 08:02:58|
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飛行差し止め初判断

http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK2101Q_R20C14A5000000/
http://blog.goo.ne.jp/wagasato/e/b26691d8b7dae63265d7c1893016bd92#comment-list

国家には国民が存在する。国家は国民を保護しなければならない義務がある。

別に保護する必要がないなら、どこぞが成すがままであろうが、人々の生活基点が前提であり、人々の生存権が優先するが、これには敵側から守る事が前提であります。敵側が攻めて来ず平和的な生活が営めるとの条件がいるでしょう。

過去幾たびもの戦火を経験した人の世でありました。このような戦火を掻い潜って今日の日本国が存在しています。言うなれば先祖からの尊い犠牲の上に成り立っている日本国であります。どこの国も一緒のはずです。

ここに夜間飛行機差し止めというどこぞの判定が生まれた。

法は国守りの概念には相当せず、生活基点を考えるものであり、何で国家を守る事において法が規定するのであろうか?不思議というほかない。

尤も法が武器装備を施して国家国民を守ってくれるのなら話は別ですが、、、。何で憲法主体性に持って行って国土が守れるのであろうか?その法則を明らかにしなければならない。

国家の法は国守りの概念には別枠の事であり、等しく国民と分かち合わねばならない鉄則でありましょう。国家国土を存続するとはこのことを言います。

このような判定は武器装備がなかった時点の解釈であり、敵側は武器装備を施して攻め入ってくるのでしょう。素手で攻め入ってくれるのであれば対処の仕方は同等に戦う事もできましょうが、武器装備を駆使して攻め入るのであるから同等に備える事は当たり前の事であります。

でないとみすみす敵側に国土を奪われ国民が抹殺される破目になる。敵側には憲法は無効の物であります。敵側にも我が国の憲法が有効であり尊重してくれる事がが条件なはずです。しかしながらそのような気の効いた国など聞いた事がない。良質の国ばかりではないのであります。

腑抜けの見本として日本国が晒されるだけでしょう。解釈の仕方まで腑抜けである必要はないのに!

国家における概念構図を履き違えてはいませんか?国民など知った事ではないと言うのなら話は別である。国が滅びても司法の責任ではない。このような訴訟を起す国民が不適切なのだから国民に責任が及ぶ事になり、正常な機能を国家は保持すべきではない。国民が国守りより生活を優先しているのだから、国民が滅びても自業自得と解釈せねばならないと法は言っているのであります。

法は国民を守るべき位置に立っていないということであります。国民を守るべき位置に立っていない法を持っている国民にこそ責任があるのであり、法の知った事ではない。現に法則がそうなっているのだからとなってしまう。

何の為に国民が法則を抱いているのか分からないようになってしまう。国家が滅ぼされる為に法則を保持しているようなものである。国滅びても住民の生活を優先しなければならないと法は定めている事になる。
国敗れても憲法のせいにしなければならない。国民が悪いわけでもなく国民気質を解釈基点に入れなかったことである。
国民を腑抜けにするつもりであろう。このような解釈が正解とするならばであります。
裁判官の給与は敵側からも支払われるであろう。
  1. 2014/05/22(木) 15:15:41|
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憲法解釈基点

http://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/32714733.html

>集団的自衛権は、自国が攻撃されていないのに武力を行使する権利で、容認は海外の戦場に国民を向かわせることにつながる。解釈変更だけで行使を認めれば、憲法九条は骨抜きになり、憲法が権力を縛るという立憲主義の原則も否定される。戦後日本が守り続けてきた平和主義が揺らいでいる。(2014.5.16 東京新聞抜粋)< 引用

人間の生活を保護する為に憲法が作られている。悪い奴が都合のいいように活用しないように歯止めをかけて、人々の暮らし振りが優位なように取り計らうのが憲法の趣旨ではなかろうか?

しかしながら憲法が人々の趣旨を無視していいはずがない。その無視するも無視しないも人間の判断に任されているのであり、ならば住み人の優位性に導くのが筋でありましょう。

憲法がその道を妨害しているのであれば、元に憲法が違っていたという事になる。解釈の仕方が違っていたのか?憲法そのものの趣旨がなっていなかったのか?判定せねばならない。

憲法そのものが口利きするわけではないから人間の判定力で行使しなければならない。憲法が国家滅亡に導くはずもなく、国家存続の趣旨活動は国民に委託されている。憲法に委託されるわけではありません。

ゆえに「憲法が権力を縛る」という解釈は馴染まないのではなかろうか?何となれば憲法は国民生活の向上心を謳い上げるものであり、生活概念の構図であり、国守りの概念構図には憲法は馴染まないという事です。国家存亡の危機には不適合であります。

何故なら憲法が武器装備を駆使して敵側と戦うわけではないからです。憲法の概念構図を外れているのであります。国家存続に位置する構図ではない事が分かります。

国守りの構図は敵愾心の上に成り立つものでなければならないからです。

国家は国民と共に守らねばならない。憲法が守ってくれるわけではないからです。

憲法が武力を用いて敵側と戦ってくれると設定しても無意味であります。
人々が憲法に成り代わって敵側を撃退してくれるのであれば話は別でありますが、、、。
国守りは国民主体制の構図にて「憲法が権力を縛る」という構図は、憲法には人々の趣旨を剥奪する構図が設定されている事になる。憲法が国家本義に背いている事になってしまう。
憲法の趣旨を人間の趣旨より、重んじるとすれば人間を否定構図で捉えていることになる。

憲法の文章は既定構図であり、以後に起こる概念にはそぐわない事であります。70年間も何もしないでほったらかしにしていたというのは国家国民の怠慢でありましょう。

ということは憲法は未来趣向の概念には入らない。ならず者が湧き出てきたから急遽こしらえざるをえなくなったのであり、出て来なければそのままで押し通したのかも知れず、如何に憲法の不作為が拙かったのかを証明出来たのであります。どこぞに感謝しなければならないだろう。
  1. 2014/05/19(月) 23:32:35|
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