私の考え出す基点を真っ当性の中に、出来るか否か
日本国の思いを馳せながら綴ってゆこうとの所存です。
今年も訪れてくださった皆様に感謝いたします。どうぞ良いお年をお迎えください!また来年もよろしく!たくさんのブログの皆さんを参考にして申し述べています。本当に助けて頂いて有難く感謝の念に堪えません!
- 2015/12/31(木) 21:30:47|
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https://samurai20.jp/2015/12/kolie-19/
悪い事正しい事の概念が先祖が残してくれた歴史にまで及んで裁きが可能と言う事です。
引っかかる方も引っかかる方ですが元は嘘騙しを国家ごとこしらえたところが悪いとしなければ騙された方が悪い社会を作り上げては先祖も浮かばれないであろう。
先祖否定構図において歴史が刻まれたと判定している事になる。がこれ私的感情概念として日本の行く末をこれで存続可能になったとするならば良しとせねばならないだろう。
あとは歴史構図をどのように見定めるかでありましょう。私たちの社会構図はまだ策略社会であると言ってしまえば身も蓋もありませんが、、、。
先祖が行った振る舞いを天秤にかける事が出来、現状の人が判定して常に現代人が判定する能力があるとしている事です。
先祖の人は何も文句を言ってはならないと口封じをしているのであります。現状の人は何と浅ましい人間になったのでしょう。でこれで先祖に顔向けできるのですから、、、。国家の仕組み概念が台無しになりました。
歴史に謝り構図は存在しません。何となれば過去の事物構造であり、蘇らせることは不可能であります。先祖の気心をうかがい知ることが出来ないからです。先祖は否定も肯定もできないからです。
先祖が否定も肯定もできないものが現代人が判定できるはずがない。現代人が嘘騙しよろしく身勝手に都合勝手に判定しているに過ぎないのです。
先祖を否定するようでは胡散臭さが漂うだけである。歴史は謝らせる構図とは違う性質のものであります。
何となれば私たちは次元構造物の中をさまよっているだけであり、歴史は次元構造物外に残された遺産であり、裁きの概念には存在しないものであります。
人間は過去の次元像を裁ける気質は持ち合わせてはいません。何故なら先祖は現実の人ではないからです。現実人でないのに裁きようがないではないか?歴史をよみがえらせて裁ける道筋を付ければ話は別ですが、、、。
ここで慰安婦問題が日本人気質の主体性を無視して、韓国気質の主体性を優先している事です。
事によれば100年先には回答を得るであろう。
日本国は安倍首相に任せているのであるから政治家魂はかくあるものかもしれないが、、、。
- 2015/12/31(木) 15:12:43|
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https://samurai20.jp/2015/12/kolie-20/
歴史を刻んだ当時の人が後世の人へ後の責任頼むと言ったのであれば賠償の責任はあるであろう。
歴史に反省謝罪の概念を押し込めれば、成り立つものが成り立たないようになるのです。
歴史に反省謝罪の概念を差し挟むものではありません。歴史に反省謝罪を盛り込む為に刻まれたものではないからです。
何故なら当時の人の生き様を移すもので人間性の工程でありましょう。反省謝罪はそのあとについてくるもので、私たちが行っているのは先祖が刻んだものは反省謝罪の概念が刻み込まれていると身勝手に判定しているに過ぎないのです。
先祖はよもや後世の人が我々に代わって謝罪してくれると思っていたわけではないでしょう。
歴史は後世の人へ謝罪することを目的として刻まれたものではないのです。
これらの歴史構図を嘘騙すことにおいてこしらえようとするところがある。さもしも己の所が真っ当な歴史を刻み得るがごとく判定人よろしく裁かんとするところが存在するのです。
引っかかればめっけもののごとくその為に種族事、国家ごと嘘騙しを駆使して捏造するところがある。恥も外聞もない連中において辱めを受けている日本国であります。
正しいこと悪いことの概念が先祖から刻まれた歴史において迫害を受ける構図になってしまうのです。先祖は悪いことをしたゆえに現状を生きる人が謝らなければならない仕組みになってしまった。
嘘であろうが真実であろうが相手側を屈することによって謝らせることが出来るのです。歴史に謝罪的要素が加わり後世の人が謝らなければならない構造が出来上がるのです。
悪いこと正しい事の概念が歴史構造にまで及び罰が下される事になるのです。嘘騙しを駆使してわが国も応戦しなければならないとなります。
つまり先祖が刻んだ歴史は現状に生きる生身の人間が築いたがごとく解釈可能であるとなる。先祖が刻んだ歴史を現状に呼び込んで裁かれる構図へ作り上げている事になる。
これはどういうことかと言うと現状の社会構図において先祖の行いが裁けることを意味します。先祖も現代人も減ったくれなしであり、時間をさかのぼって超次元的な社会を作り上げ、現代社会と同様に悪い奴へ裁きを言い渡すことが可能であると判定しているのです。
- 2015/12/31(木) 15:06:36|
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https://samurai20.jp/2015/12/kolie-21/
歴史は先祖が刻んでくれた血と汗の結晶であり、歪める事の出来ない遺産であります。
歴史に私的感情概念を絡ませての解釈概念が存在するのだろうか?何となれば私的事情により歴史展開は刻まれるとしなければならないからである。
これならば歴史は私的事情から展開されたからその損失が発生しないとも限らない。私的事情を絡ませた戦争であるから双方の合意により損失に見合うものを償わなければならない。その必要性も無きにしも非ず。
しかしながら戦火の事情と言うのはどっちかが消滅するまで戦う事を意味する。
日本国はかろうじて殲滅させられずに済んだが、日本国と言う名の尊厳は守られた。感謝しなければならない。
戦争と言うのは一方は生き残ってもう片方は殲滅させられても文句は言えないのである。
はからずも歴史は日本国と言う名を遺す事になったのであります。戦勝国が日本国の名称使う事相成らんと言われれば別名になっていたかもしれないのである。
敗戦国が新たに出発するにおいて旧日本国が抹消され新日本国になっていたかもしれない。要するに旧日本国は消滅した事になってしまうのである。
そこで今回の慰安婦問題であります。旧日本国に慰安婦問題が上がってきて賠償責任云々が問いただされ謝らなければならないと韓国はいう。これは旧日本軍がしたことであり新日本国には関わりは一切ないと反故にすることが出来るのだろうか?
戦争の歴史が以前日本国が起こした事を以降の人が謝らなければならないようになった。
戦争は歴史の一部ではないのか、戦争と歴史は別ものか?歴史は先祖の生き様の概念であります。
戦争は人間が食うか食われるかの生き様の概念であります。となれば戦争と歴史は分けて考えるわけにはゆかない。
戦争を否定することは歴史を否定することであり、戦争中の出来事は歴史概念条項より責任範囲は存在しないのではなかろうか?要するに否定概念構図には捉えきれないからであります。
- 2015/12/31(木) 15:01:26|
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歴史は当時の人の精いっぱいの生き様であります。後世の人に謝らせる性質のものではありません。
何となれば当時の人の時代形成を誰も否定できないからです。
歴史を刻んだ当時の人を否定すれば、己は現状に生きる人ではないようになってしまう。その現状に生きるような人間ではない奴が何で歴史を批判する価値が生じるのであろうか?不可思議である。
歴史を刻んだ当時の人を肯定せねば時代背景は作られないものであります。
社会構図の中の歴史概念であります。
当時の人たちの歴史は過ちであったと否定する歴史が成り立つのであろうか?
すなわち歴史概念に過ち構図を差し挟めば、当時の人たちの歴史構成は過ちであったと詫びを入れさせる段階にはもはや存在していないことであります。
何故なら歴史構成する当時の人たちが間違った歴史を刻んだと、現状から見れば否定する出来事かも知れないが、、、。歴史を刻んだ事を肯定せねば判定力の段階には至らないのである。
歴史感情の概念を後世の人へ罪着せて成り立つと誰によって決められるのであろうか?
先祖が刻み得た歴史が謝りであったと現代人が身勝手に判定しているに過ぎないのである。
歴史概念像は後世の人へ謝らせようとする構図であったとなってしまう。歴史を刻んだ人たちは後世の人へ謝らせる構造を築き上げている事になる。歴史とは不可解な概念を持つものであったのである。
つまり先祖が刻んだ歴史は不可解な性質を持つものであるとせねばならない。私たちの先祖は後世の人へ罪を擦り付ける輩であったとせねばならない。つまり先祖否定であります。歴史そのものを汚す事になるのであります。
後世の人がその罪を償えば先祖否定になってしまうのです。折角先祖が築き上げてくれた日本国が後世の人へ謝らせる歴史構図であったと否定するのであるから私たちはこの日本国に住んではならないことになってしまうのです。それはそうでしょう。
日本人は日本国を否定しながら住んでいる事になる(日本人はいつからそんなに面の皮が厚くなったのであろうか?)。あってはならないことです。
つまりは現況の先祖が築いたのは日本国ではなかったとせねば辻褄が合わない。
不可解な歴史解釈となってしまう。歴史に謝らせる構図云々は先祖は存在してはならなかったと解釈している事になる。罰当たりな日本人になってしまう。
如何にして相手を操れるのかがアッチ系の特質でありますから日本側の事なかれ主義がうまく引っかかったのでありましょう。無念であります。
日本国は韓国に手懐けされなければ交渉はできないのであろうか?
まことに不可解な日本国が出来上がるのであります。
- 2015/12/29(火) 13:47:00|
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やんぬるかなやられてしまった。低姿勢外交の身から出た錆である。して向こう側にしてみたら韓国に歯向かえばこのような仕打ちになるのだぞの見せしめであり、日本国は当分の間韓国の上に立つ交渉はできないものである。上手く手懐けたとほくそ笑んでいる事であろう。何のことはない日本国民が汚されたのである。向こうの方を汚さねばならんのに本末転倒である。誇りある日本人が汚されたことには変わりないのである。散々貶された挙句に10億円も取られて汚されりゃ世話ない。最後はどっちの国民性が信頼できるのか、どっちの国民感情が通用するのか、勝負であったのに先手を打たれてしまった。して日本国民は悪い奴であったと烙印を押されたのであります。日本のこれが低姿勢外交であると言ってしまえばそれまでですが、、、。不可解であります。そんなに日本国民は信用できないのであろうか?これでうんと言う輩であろうか?何でそんなにしてまで手懐けされなきゃならんのだ!
- 2015/12/28(月) 16:52:27|
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http://ttensan.exblog.jp/22701953/
自分がどこの国に住んでいるのか忘れているのではなかろうか?
先祖無しでポコッと自分が日本国に生まれた。その日本と言う国は目指すべき日本ではなかったから日本が嫌いになったと言うのなら話は分かる。
つまりここは繋がりを持つ日本国であります。そしてそのつながりを持つ日本国であってはならない、先祖無しにポコッと生まれてくる日本国にしなければならない。そうしたらこのような日本国に生まれてくるのではなかったとの解釈時点は成り立つ。
ならばつながりのない日本国にしようと思っているのでしょうか?しかしながらどこへ行っても国には先祖からの繋がりを持たねば国家は維持できないのです。
海の中にポコッと新しい島国が出来、ここにポコッと生まれたとすれば叶う構想であります。
ここから新たにその国の歴史をつづろうとするわけでしょう。日本国がいやというのですからこのように考えざるを得ないわけです。共産党だけの社会造りと言う事でしょう。
それでも長い間続けば他の国とのかかわりを持たねば潰されてしまいます。結局日本国に戻る事になります。己の所だけ持ち合わせていればいいが、相手側も我が方と同様であると思ってもらっては困るのである。
日本が嫌いであるのに住んでいると言う事は矛盾しているのです。長い間賭けて日本国を共産党向けに手懐けるのでしょうか?日本国に自らが住み続ける意義は何なのか、住む人の概念像を忘れてもらっては困るのである。
- 2015/12/27(日) 09:54:06|
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http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-6069.html
先祖は歴史を刻んできた。刻むと言うより生き方の概念を歴史と言う名でつづられてきたのでありましょう。
どこの国にも歴史を刻んだ航跡があるのであり、否定する概念像には刻まれていない。
どこの国も真っ当な歴史を刻んだと言う航跡はないのです(証明できないのです)。
ある所は己の所は真っ当な歴史を刻んだのだ。よその所は不誠実な歴史を刻みやがった、不届きな奴である、懲らしめてやらなばならない、謝らなければならない、とするところが存在する。
人間は不誠実な歴史を刻めば謝らなければならないとしている。人間の良心に尋ねているのでありましょう。
このような気質観念性の持ち方しかできない輩なのでありましょう。つまり資質構造において欠落的要素を帯びている事です。
何に対して欠落的か?人間観念像の中に何を要求せねばならないのか?人間に欠落概念像がなければいいのですが、それは不可能な事、資質の持ち方がかかわってくるのです。
あるいは人種的な面からくることもあるであろう。真っ当な歴史を刻んだとするところは今のところどこにも見えないのであります。要するに真っ当な歴史を刻み得ないものであるのです。
それを真っ当に歴史を刻み得なかったのは不届きであると言う裁きが存在すると言う。でどこがその裁きを持ち合わせているかと言うと韓国であるのです。
韓国ではすでに真っ当な歴史を刻む心得を布いていると言う事でしょう。素晴らしい韓国なのでありましょう。
でその真っ当に刻み得る歴史を世界に広めてもらいたいものであります。どこも真っ当な歴史を刻み得ないのに!よそに不誠実な歴史を刻んだと謝る性質のものではありません。
一途に謝らせて己が目上に立ちたい願望の部類であり、策謀の一種でありましょう。下手にそのように仕組んだのは日本の低姿勢外交が生んだ種でありましょう。歴史問題とは謝らせる性質のものではありませんとはねつければいいのです。
その前に己の所は真っ当に刻んだ歴史であると証明して見せなければなりませんが、、、。証明して見せる事は不可能でありましょうに。さもしも叶うように見せ付けること自体が眉唾物である。
ひたすら相手側より目上に立ちたい、低次元の毟り取りたい願望の部類でありましょう。
引き上げてくればかかわらずに済むのに!妙に関わりを持ちたいのでありましょうか・不可解であります。
- 2015/12/27(日) 09:11:35|
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憲法は万人の効力概念を生かす為にある。いわゆる正義への道であります。
個人の思想を守る為ではありません。すでに個人尊厳性のもと獲得されている事であり、憲法以前の人間資質において等しく誰でも持ち合わせているからであります。
憲法に訴えると言う事は己の主張を優先せよと言う事でしょう。社会的に通用させようとする腹積もりなのでしょうか?国家行儀の大事より己の思想、良心の自由を優先する事でしょうか?
自分で管理できないようであれば、無効の物となってしまう。思想、良心の自由は誰にでも等しく生かされているからです。
自由には責任が伴いますよと言う意味でしょう。国が個人思想の内情にまで管理管轄することは不可能であり、自らの思想、良心の自由は自分で管理、管轄することを要求されているのではなかろうか?
私的事情より国家行事を優先しなければ国事は成り立たないものです。社会共通項の習いであり、伝統と言う事でありましょう。
国家国事において慣習が優先する社会事情を築いているのであるから、伝統、及び習性のようなもので私情の思想を邪魔している事にはならないのではなかろうか?
社会事情に照らし合わせても皆の資質概念構造を優先する仕組みであります。公の行事過程に私的思想概念像を差し挟むことは不合理であります。
個人の思想、良心の自由において社会事情を破棄せんとする企み事にも見えるのである。
国家の一員として知ったことではないと済まされない面であります。国家機能が動いてこそ成り立つ自己主張の概念像であります。
- 2015/12/27(日) 08:04:05|
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http://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/33911419.html
思想、良心は個人の心の中に芽生える信念の概念であり、他人が侵害する事ではなかろう。個人の考えは自由であり、誰からも侵害される事はありません。
ただしいったん外へ出るとなれば交錯する問題が生じてきます。どのような問題かと言うと否定されたり肯定されたりと変化を帯びる事になるのです。何故変化が帯びるのでしょうか?
各々趣旨感情の持って行き方が違うからですが、趣旨感情の持ち合わせは誰でも自由にできるのであり、憲法の効力概念は人間の内情にまで及ぶものではありません。違憲、違法を持ち出すこと事態が不可解であります。
思想概念構造にまで憲法の及ぶ範囲ではないのです。訴える姿勢こそが眉唾物でありましょう。自己主張の範囲でありよからぬ企みと見て取れるのです。思想概念構図を公において押さえ付ける性質のものではないからです。
憲法に思想、良心の自由をゆだねようとする姿勢こそが眉唾物であります。別物の観念像を呼び込まんとする謀のように見えてくる。効力概念の意味するところをはき違えているのではなかろうか?
もともと思想、良心の自由とは憲法で片を付ける代物ではありません。憲法で思想概念を付け加えたり差し引いたりする性質のものではありません。
必然的に人間が持ち合わせる心情部分であり、外に出ない限りは自由の概念像であります。
ひとたび思想概念を外に出して他人に押し付けたり強要したりすれば迫害構図になり、洗脳領域にと誘い込む事になります。
しかしながらここで人間の生きる所とする国家を選ばなければならないとするならば国家保護の元に芽生える趣旨活動が要求されるのであり、必定として国家の役目を依頼するところなれば、憲法概念像に照らし合わせて共通項とするものが優先するでありましょう。
思想、良心の持ち方まで白黒つけるものではなかろう。己はこのような思想を持っているから起立する必要はないのだ。と外に向けて意思表示するものでもなかろう。
何故このような思想を持っていれば起立しなくてもいいのか説明が求められるだろう。
国家思想の押し付けだから起立する必要がないのだと言う。
しかしながら皆の式典による催し物だから尊儀は重んじなければならない。
公の式典であり、私的思想を式典において反映させるものではなかろう。私的思想と公の式典と天秤にかけられるものなのか?
己の私的事情の思想、良心の自由を優先させよと迫る性質のものではなかろう。
国旗国歌に敬意を払う必要はないのだと思想が違うのだからと否定しているのであります。一つの敬意を表す儀式であり、思想そのものを否定する儀式ではなかろう。
思想、良心の自由を公の式典において引き込み、起立する必要はないのだと社会に認めさせようとしているのでしょう。公の式典に思想を絡ませようとしているのでしょうか?
社会事情の中で私的事情を絡ませることは公の概念を放棄する事になる。
己の主義主体性を先に持って来ては社会性の概念が保てるはずがない。己の私的事情の概念を優先するならば、他の人の主義主体性はどうするのであろうか?
己の主体性がそんなに重要ならば起立しなくてもいい先生だけの式典を設ければいい。ただし選ぶのは生徒の自由意志である。果たしてその式典が成り立てばいいが、、、。他人の思想、良心の自由など知ったことではないでは済まされないだろう。
己の思想、良心の自由は国家国儀の儀式体系よりも優先する構図はどこにあるのか?己が身勝手に表現しようとしているだけではないのか、公の式典においてどこから否定する構想を浮かび上がらせたのか?己がわざわざ外に出して、お仕着せているだけであろう。
当方は社会的に通用するような人間ではありませんと宣言しているようなものである。このようなものが教師とは不自然でありましょう。
社会の概念像は持ち合わせていませんと言っているのです。当方は国家法義に逆らうものでありますからよろしくねえと否定しているのであります。
他に生かすべき道もあろうものを!教授の資質にしては不適切ではなかろうか?わざわざ教える側を受け持たんでもよさそうなものを、受ける方はたまったものではなかろう。
国家の概念像に逆らってまで教えようと言うのだから、不可解である。国家構造に生きるものではありません、国賊概念に生きるものですと言っている事になる。
- 2015/12/26(土) 07:52:15|
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