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普段の中に正当性を求めて

私の考え出す基点を真っ当性の中に、出来るか否か 日本国の思いを馳せながら綴ってゆこうとの所存です。

アッチ系による他人の尊厳性

他人の資質構造などありえない。有るのは己の資質構造であり、優先して取り扱わねばならないと身勝手に判定しているのです。

己の構築する概念こそが真っ当であり、尊重しなければならないと思い込んでいるのです。

思い込むのはいいのですが、他人まで己と同じであると思っても困るのである。

これには他を尊重する意味合いが込められてなければならず、なければ単なる独り言の部類になってしまう。効力の無い物言いであるのです。

己が尊重されたければ、他人を重んじる精神を持ち合わせなければならないのです。

己の主義主張が真っ当であるとしたとて相手に伝える尊びの精神がなければ、無駄な事になり効力のある物言いにはなりません。

己の主張一辺倒では偏向性の物言いになり、社会に馴染むものではありません。

つまりは紛争を起こす火種となってゆきます。自由の観念性が得られないからです。一辺倒の世造りはこの世に存在しません。他を迫害構図にもたらすからです。このような事が紛争の火種になり、社会不安を呼び起こします。

では真っ当な社会造りとはどうするのでしょうか?主義主張の概念を取り揃え、人間の才覚で選択肢の概念を築き上げ、違いの形式さを才覚にかけてゆきます。

切磋琢磨の精神であります。日本国であれば日本人精神はどこにあるのか?探求してゆきます。日本人の誇る精神はこのようにして先祖から受け継いてきたと思える。

ほとんどよその観念像には存在しないものでしょう。だから信義構造が生きているのであります。しかしながら日本人の人の好い事を良い事に貶める輩が存在したことです。

いわゆる日本人気質を理解し得ない輩によって、日本国の財産を毟り取られているのです。

退治しないのならいつまでも財産を毟り取られる事となりましょう。これからは排除感覚が必要になってきます。無駄を省くと言う事です。

アッチ系は日本社会の崩壊を企んでいるのです。あわよくば乗っ取ろうとの算段であります。在日の鮮人気風と日本人気風の鬩ぎ合いであります。
いつまでも毟りとられることが能じゃなかろう!
  1. 2016/11/30(水) 11:42:29|
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ヘイトスピーチ法の解釈概念

何で憎悪の観念性が湧くのだろうか?己に不具合の状態を作りだすからであり、ならば不具合にならないようにすればいいのであり、本人の努力次第で防げるはずであります。

そうしたら言われないようになるものです。こっちの方の努力が貴重であります。

人間の持った憤りが高じて憎悪感情になり、悪いことではないにしろ、誰しも起こり得ることなれば一概に否定構図に置くことではありません。

憎悪は己自身の感情概念に委託されているのであり、本人の認識次第であります。法則概念にたずねる性質のものかと言う事であります。

何故人間の憎悪観念性が資質構造の枠内として法則概念で処理しなければならないのか?人間の資質構造枠内として捉えれば、ここには法則概念は届かないものであり、採用するところとはならない。
己の良識の判定にゆだねられているからです。

法則概念の枠内として増悪の観念性を捉えるならば、法則概念が直に人の感情概念を理解していると察せられることになる。もって人間の感情概念と同質の感情概念を法則概念が持っていることを意味します。

これでは法則が法則でないようになってしまう。仮に人間の感情概念を法則に委託したと致しましょう。法則が感情概念と同質であるなら、法則観念の感情を人間の資質構造の感情概念が衝突することを意味します。

感情と法則概念がぶつかる仕組みには成り得ないのです。それはそうでしょう、人間の思惑で作らしめた法則ですから、その法則が人間の資質構造を剥奪するはずがない。法則が資質感情を理解出来るはずがない。

それを法則が感情を理解しているがごとく、判定を下すはナンセンスであります。ではどうすれば正常な解釈ができるのでしょうか?人間の資質構造概念に委託されているのです。法則に委託するのは無用の事であります。

法則に委託できるわけがないのに、委託できるがごとく解釈していることがナンセンスであります。法則に感情概念を委託する性質のものではありません。

人間が作らしめた法則が、人間どもは控えおろう、法則概念様のお通りであると否定するような羽目に陥ってしまう。人間の感情概念を剥奪することもあると、法則概念が言うのであります。

法則が主体性の社会造りをしている事になる。人間が法則概念に跪くことになる。何のために法則概念に委託しているのか分からないようになる。

資質構造は良識の判定力に依存しているのであります。法則でとっちめようとするものではありません。人の世を築けない事になります。

資質構造無用と言う事になり、人の世の社会造りではなくなって来る。何故なら人間の資質向上心を目標にしているからです。

あくまで法則は人間の社会造りの補足的な要素であり、人間があらぬ方向へ行かぬための道具仕立てと言うものでしょう。感情概念を持たせる性質のものではありません。

人間の自由と責任の名において意思表示が優先する世であるのです。

人間が己自身の持っている気質観念性を賄いきれませんので、法則概念さんよろしくねえと言っている事になる。

人間の天性の資質構造を自ら制御出来ませんから法則概念に頼ろうとする姿になります。人間気質の廃業となります。果たして気質を破棄して、人間としての機能を果たせるのか疑問であります。

法則において人間の気質無用と解釈されること自体が不可解であります。
人間本来の資質構造が法則概念によって制圧することが可能か否かであります。

仮に制圧することが可能だとすれば、資質構造が否定される事になる。つまり法則において人間は資質構造を破棄しなさいと促されている事になる。これでは法則概念を逸脱した解釈になってしまう。あってはならない事です。

気質が制御不能な状態になってしまう。

ゆえにヘイト法は無効のものであります。人間に法則が制圧を加えるものではないと言う事です。

法則の効力とは何ぞや!人間を制圧してまで社会機能に寄与するものなのか?

法則は人の世の補足概念に位置するものであり、主体性の概念には成り得ない。法則の範囲はみなの意見を集約する事で権威が保たれている。

皆の集約する権威が人間の資質構造を脅かすものであってはならない。憎悪は人の持っている不変の原則である資質構造に委託されているのでありましょう。
  1. 2016/11/29(火) 21:30:24|
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進化性の概念と退化性の概念

人類は自ずと進化する過程を歩んできたのであります。ならば現状より進化せねばならず、その為にはどうするのか?

ここに人間の資質構造から導き出された、自由の概念が生きてくるのであります。
自由なくば進化性の概念を身に付けることはできないのです。

自然形態は進化する位置付けにある。人間も例外ではなく進化性の概念で今日まで存続させている。

この進化性の概念は生き物の必然的な暮らしぶりから得られた知恵と言うか、生き延びる為に長い歳月をかけて必然的に備わった能力でありましょう。

進化する能力を持ち合わせていないのなら、自由の概念を生かしきれないのなら、宝の持ち腐れでありもったいない限りであります。

ところがよその事情などお構いなし、己こそが進化するのであるとよその社会事情を剥奪するところがある。

よそもわが方の社会構造と同類項になるのが相応しいと、よその社会構造を否定しているのであります。

お互いに進化性概念の位置するところはどこにあるのか?双方に社会構造を認め合う所にあるのであり、他所を剥奪する構図には存在しません。

よそを剥奪する構図には進化性の概念は当てはまらないのです。では何に当てはまるのか?当然進化性の概念から外れ、停滞か、退化する概念構図であり、人間の資質構造を台無しにする仕草になります。

迫害構図を描くとはこのような事になります。進化する構図には位置せず、自ら退化する構図を呼び込んでいる事になるのです。

よその国の皆さん当方は退化する社会造りをしてますからよろしくねえとそれでも良ければお付き合いくださいませねえとなる。

誰が付き合うかとなりますが、強力な資金があり、武力が加われば人の世を逆走してしまう事になり、社会構造が崩れ去る事を意味します。

人間の社会構造でありますから、まやかしの社会構造を築いている事になり、ここにその比率がどっちへウエートを置いているかに国造りの方向性が決まってくる。
  1. 2016/11/28(月) 12:23:34|
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日本社会構造は破壊されやすい資質を持つ

http://ttensan.exblog.jp/d2016-11-27/

誰がどうのこうのではないけれど、なるほど日本人気質がうまく利用されやすい気質を持つのだなあと思える。日本人はあまりにも鷹揚すぎる。誤魔化されない為の仕組み構造を作り上げねばならない。

日本社会構造の不備な面であるわけで、日本人の為に機能していないようであります。

よそ者の為に尽力しているのですから、日本人無視も良いところであります。

日本人より外国人を保護する政党でありますとなる。人がいいのでしょうが、それは日本人にも十分に行き渡り、尚且つも余裕が出来てこそなせる業であり、日本人はほったらかしで、外国人こそ保護しなければならないとする根拠は何なのか?

日本社会造りとは何なのでしょうか?外国人にしたら本当によくしてくれる日本国でありますと泣いて喜ばれる姿であります。

日本人の人に申し訳ないなあこらえてつかわさいとの有難さは伝わってこない。ある面では当たり前と思っているのかもしれない。

国家が充実していることはこの事を言うのでしょう。日本国資質構造の誇る所であります。とりもなおさず先祖から続けられし幸徳概念であります。
自らの国もこの事に仕向けたらいいのでしょうが、、、。

一大臣でもこのように強権において仕向けられるのですから、あらぬ政党が政権取れば、日本国民の為でなくよそ者本位構造になる事は言うまでもないでしょう。

すみません日本人の皆様、アッチ系の国になりましたごめんなさいねえと後の祭りにならなければいいのですが、、、。このようにならない仕組みをと作り上げねばならない。よそ者観念像は無用の事であります。
  1. 2016/11/27(日) 14:15:19|
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ヘイトの概念構造

http://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/34485098.html

人間感情がある限り、誰にでも憎しみ嫌う事がある。感情概念の図られる構図であります。

誰しも起こりうることであるから否定する存念には至らない。

その感情概念を否定すれば人間と言う生き物にならないことを意味する。もって感情を抱くように人間の性質上叶っているのであります。何も不思議な事ではありません。至極自然な成り行きであります。

元に相手側否定構図であるけれど、自らも否定されることがあり、ここを反省しながら資質構造を仕上げていったのであります。

ここは人の世の習いであり否定構図の枠内であります。要するに感情と感情のぶつかり合いであり、ごく普通の事でありましょう。誰も感情を抑えることはできないはずです。感情概念の性質となっています。

誰も剥奪する構図には立ち得ないのです。第三者が現状を見たわけではなく、判定の下しようがなく、双方のやり取りの中で判定するのみであります。双方の感情概念に委託するわけです。人間の良識における感情裁きとなるのです。

双方に持ち得る感情概念は己の資質構造に磨きをかけて、社会に役立つ方へ持って行かねばならない務めであります。

仮にヘイトであるとするならば、一方的なヘイトは許されないのだから、起因とする因果関係を突き止めなければならず、第三者的見方を求めてゆくことになります。

真実構成の原則に従い、推し進める事になります。社会の出来事の事実関係が優先するのであります。偽り事の観念性は存在しません。

事実があるのならその関係を求めたらいいだけの事、何も社会に逆らうことではありません。事実を隠し通そうとする物言いこそ許されないことであり、こっちの方が重要である。

ヘイトとは別問題でありましょう。何故事実があるのなら報道されないかに疑問に思うのは当たり前のことであります。何故否定構文に置き、相手側を押さえ付ける必要があるのか、こっちの方が余程問題であります。
  1. 2016/11/27(日) 08:48:42|
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マスゴミの言う通りになる社会でなければならない

http://ttensan.exblog.jp/d2016-11-26/

社会はいろいろの出来事が起こる。逐一分析して必要ならば公に知らせる事を旨としている。

社会事情が起ころうが起こるまいが民衆の知ったことではない。マスコミがまず優先して仕入れているのであり、民衆の言う通りの社会より、マスゴミの言う通りになる社会でなければならないと設定しているのであります。

社会現象が逆を意味しているのであります。民衆が存在するより、マスゴミの存在を優先しなければならない。

民衆がいようがいまいが知った事ではありません。民衆が何のかんの言ってはならない。マスゴミの言う事を何でもハイハイと言っていればいいのです。

主体性はマスゴミにあるとでも言うように威張り腐っているのであります。

社会を構築するのはマスゴミの報道があるから民衆は助かっているのであり、マスゴミがなければとっくに民衆は消滅しているのであります。

マスゴミの観念性を常に優先し、民衆は逆らう位置には居ないと設定しているのであります。

逆らえばマスゴミ無用と言う事になり、社会構造が成り立たないようになってしまうと意味をはき違えているのであります。

社会に打ち勝つのはマスゴミであり、庶民はマスゴミの跡についてくればいいのであると威張り腐っているのであります。

庶民は生き延びる必要はありません、マスゴミが生き延びてこそ社会は保たれていると嘯いているのであります。

マスゴミは庶民抹殺機関であるのです。庶民はさして重要ではなく、マスゴミの言う事が重要であると独り合点しているのであります。

マスゴミが栄えてこそ庶民も潤うのであり国家も栄えるのであると逆思考を持ち合わせているのです。

マスゴミがしっかり機能していれば、国家は潰れる事はないと国家機能まで抹殺しようとしているのです。

日本人のことなど知ったことではない、よそ者が暮らしやすいような社会にしなければならないと逆思考をしているのです。

マスゴミはアッチ系の社会造りをした方が満足なのでありましょう。

わが国もアッチ系のマスゴミ何ぞに構っている暇などないはずですが、、、。

ならば日本人の為の放送局を作ったらいいのです。アッチ系の放送局が存在していることが不自然であります。
  1. 2016/11/26(土) 17:41:30|
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憲法守り

憲法を守ると言う事は、日本人種は食み出し者の種族ではないと言う事でしょう。

世界共通項の概念を会得してますよとの証明であります。

しかしながら我が国の憲法はよそから作らしめたものであり、守るにしてもよそ者観念像をおびき寄せてから、判定を食う事になり、自分の裁定力が他を経由してから依頼文となり、自力裁定の効力が出来ないようになっている。

現憲法によそからの会得心が込められており、日本国民でなしによそに対しての忠誠心となってしまう。

いずれにしても忠誠心は存在するものの、よそから似せた忠誠心だと言われても仕方のない事であります。

日本人の本義構造が描かれていないからです。
  1. 2016/11/26(土) 08:08:36|
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戦争概念構造

戦争は人間の資質構造を破棄して行われる。

ゆえに戦う事を優先して、相手抹殺行為を優先して、ゆえに資質構造の概念が存在しない事としている。

人間の資質構造概念を存在させての戦争なんてありえない事です。

それなら始めっから戦争しなければいいのにと思うのですが、どこからか人間資質構造を破棄させる作用によって執り行われるとなります。

何故人間の資質構造を破棄させる作用が働くのかについて、答えを導き出せばあるいは戦争を回避する手立てが生まれるのかもしれない。

その破棄させないような仕草とはどのような働きになるのか?

先祖から刻まれた歴史に一部ではありますが答えを導き出している。
それは人間資質構造の向上心であります。

世界が一斉にスタートに並んで資質構造をこしらえたわけではないから、各々まちまちの資質構造となっている。中には資質向上心をわきまえていない輩も存在して、紛争の種を蒔き散らかしているのであります。

民族基点の発する観念像の違いから、多種多様性を生み複雑な構成となっている。

人間の資質構造は単純なのに、そこまでに至る前の段階から私利私欲概念が絡み衝突しているのであります。

人間の資質観念像を如何にして得るのかに社会構築の概念を垣間見るのです。

国家意義の終局的な目標として置き、歳月概念はその為の国家造りであるとなってゆきます。
  1. 2016/11/26(土) 07:58:31|
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歴史感情概念

言うなれば歴史は世の流れに先祖肯定の上で成り立つ蓄積概念であり、人間の才覚において刻まれた財産と言える。

人間の織りなす功罪の意識を作らしめた妙なる財産として受け止めなければならない。

これらの時世の成り立ちが総称として歴史と言う名称として言う形であります。

その歴史ですが、いらぬ歴史を刻みやがった不逞奴であると、懲らしめなければならないと処罰する性質のものにはなりません。

歴史は正解、不正解の構図で描かれたものではありません。

人間資質構造は完成されたものではなく、不安定の中に存在している感情概念であり、安定した資質構造になるように仕向けられた、使命感を託された生き物と言うことが出来ましょう。

得てして人間の資質構造は手前に利する事を優先するようになった。悪い了見ではないにしろ、良識の観念性を維持せねばならず、人間自らが求める使命感として諭されている。

あと何千年か分かりませんが、存続する使命が歴史を刻み得る事を約束されているのでありましょう。

栄枯盛衰は世の習いとはいえ、社会が求める道は民衆が定めてゆきます。
ここに自由の概念が行き着くわけです。

人間の資質構造の妙なる願いとなっています。

歴史解釈概念構図は誰も持ち合わせていません。あるのは人間の良識範囲を設定しているだけであり、それ以上、それ以下のものでもない。

歴史を己自身に利するよう、如何に言い添えているかであります。その言い添えるところが教えとなっている現状でありましょう。

各々探求できればいいのでしょうけど、それには時間と労力を費やし、正か非かの論議までせねばならず、必ずしも正解を導き出すものではありません。

もって解釈する人が完全無欠な人間ではない限り、正解と言えるはずがないのです。己の解釈が一番真っ当であると解釈できるはずがないのです。

それを公に蔓延らすは策略以外の何物でもない。人間否定概念を呼び込むものであり、不逞奴だとなります。

歴史は不逞ものを作りだしたともいえ、良識において判定され裁かれる。良識の概念構図に委託されているのです。

歴史を利得概念で処理しようとしている不届き者となります。歴史操り人よろしくよそに難癖を付け、せびるなんぞは不埒者であり、効力概念の存在しない物言いをしているのであります。

歴史を己の利するように持ってくること自体が不自然であります。歴史を企み事に利用する不埒者であります。
  1. 2016/11/25(金) 13:38:59|
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統制権

社会は人間の資質構造から始まる 。社会構築する概念は人間の資質構造を優先するところであります。

権力を優先させてどうするのであろうか?権力志向の社会構図は成り立ちません。何故なら権力を行使すれば人間否定になるからです。

権力よりも人間の資質構造を優先しなければならない不変の原則だからであります。

権力が社会を作り上げるわけではあるまい。権力構造で社会を組み上げるものではありません。人間の才覚で社会構造は成り立っている。

権力とは力の強い者だけが持ち得る事ではなく、人間が統制力を抱く基点での効力概念であり、統制を得る為の社会構造に戻す為に叶えられる統制権であります。

権力思想に上がる資質のものではありません。

権力は庶民統制の一時しのぎの統率権であり、社会秩序の概念に依頼するものでなければなりません。

あくまで人間の平等感における資質構造の中に収めるべきであり、資質構造をはみ出す事であってはならない。

言論を統制すると言う構図は、人間の資質構造外において図られる人間否定構図を行くものであります。

よって言論統制は人間社会には不向きであり、馴染むものではないことが分かります。なまじ効力があるように見せかけるはまやかしの社会構造に他ならない。

権力構造は人間資質構造の枠外として用いることが許されている。人間資質構造の枠外ですから、特別措置の概念を抱くものであります。

人間へ効力があるように見せかけるは、人間以外の強力な力を持ち得る奴が存在することを意味します。

人間以外の強力な力を持ち得る奴が居て、始めて人間に権力を行使できると解釈されましょう。

つまりこの世に人間を統制できる人は存在しないと言う事です。
言論統制は人間の社会生活に馴染むものではないと言う事です。
人間の為の社会造りはしていませんのでよろしくねえと言っているのです。してどこの為の社会造りをしているのかと言えば支那共産党の為に社会造りをしているとなります。
  1. 2016/11/24(木) 23:46:45|
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