私の考え出す基点を真っ当性の中に、出来るか否か
日本国の思いを馳せながら綴ってゆこうとの所存です。
http://www.nikkei.com/article/DGXNASGM2601D_W4A220C1MM0000/
国家間の条約よりも個人の主張を優先しなければならないとなる。支那共産党が勝手に決めたこと当方の知ったことではない、生活が苦しいからよその国が保護してやらねばならないと国の主体性を乗り越えて要求しているのであります。
普通に国民の暮らしが成り立つように国家が守ってやらねばならないのに、そうはせずよその国へ保護を求めているのであります。
支那共産党の知ったことではない。個人がああ言っているのだから尊重しなければならない、よその国が支那の人々を保障しなければならないのであります。国と国の約束事を飛び越えてよその国の人々を保護しなければならないとなってしまう。国家の構図がなっていないことになります。
現代を生きている人が良かろうが悪かろうが、過去の人の償いをしなければならないと妙な条約になってしまう。
国そのものが条約を反故にしていることです。尤も国と見なしていないのなら保護したいのであれば話は分からんでもない。
民間の企みを優先したければ国としての概念が喪失することになってしまう。支那共産党は国家に位置する構造ではありませんとするなら話は分かる。支那共産党は国家に位置する構造ではありませんと自らを否定していることになってしまう。
個々においてバラバラの暮らしを立てている人々の集団であり、統一をしている国ではないと言うことになります。統制の取れていない国であると支那共産党自らが認めていることになる。
国民が勝手にやっていることであり、支那共産党は感知するところではないとなってしまう。条約も約束事もないのである、当方の言うことが真っ当であり、優先しなければならないと決め込んでいるのであります。
支那共産党はこの作為活動を許すとしていることが何とも解せないのであります。そのようなことをする奴は支那の国民ではないとすれば話は分かるのですが、、、。国民が勝手にやっていることであり、支那共産党の感知するところではないとなれば、支那共産党の施す地域には人々は存在しないことになってしまう。
また条約そのものを否定することは、国家そのものも否定することにつながる。当方に国家は存在していませんということになる。
当方と条約を結ぶ方が可笑しいのであって、結ぶべきものではなかったとなります。自国だけならまだしも他国をも否定する結果となってしまう。早い話が阿呆同士が条約を結んだということになってしまう。
支離滅裂な解釈の度合いが存在することになる。
普通にこのような事項は内々で処理するものですが、伝える方も伝える方である、支那共産党の資質を疑うものであり、国家の尊厳性にも関わることだからである。
尤も様子見で発信したのかもしれないが、、、。
- 2014/02/28(金) 07:15:59|
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http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140226-00000042-jij-cn
我が国がよその国に対して、何でもかんでもご無理ご尤もで通した結果がこれであります。怖くないから言うだけ言ってみようの腹積もりでありましょう。どこぞと一緒であります。
国々には格式高い人たちがわんさか居て国際情勢を分析して自国の利益にと結び付けて行きます。国家間においては尊厳性のある関係を維持して互いが共同歩調取るようにと国際関係を上等のものにしてゆきます。
社会構成は過去からのつながりから得られるものであり、国家形成の礎となっている。過去を否定するということは現代も否定しなければ辻褄が合わなくなる。過去を肯定してこそ現代人も肯定できるのであります。
国家間の約束事は条約が常であり、国際間の共通の計らいごとであります。
条約破棄は国家構築する約束事の概念が否定されてくるのであります。当方には国家の約束事の概念は持ち合わせてはおりません。と国家が消滅してしまっていることになります。
国家に位置する関連性の中に過去の状況をあれやこれやと穿り回して毟り取れるものなら毟り取れと己保身一辺倒であり、他の事なんぞ知ったことではない、当方の言うことがまともである。
現状のチベット、ウィグル族の虐殺などは棚に上げて当方は一切の悪いことはしないのである。悪いとすればよその所である。当方のやり方をよその所は見習う必要があるというのでありましょう。
その癖言論の自由を否定しているのだから、つまり人は自由に物言ってはならないとし、当方には自由に物言わぬ人間がいるのであって、その癖自己の利益になることは自由に物言えるようになっているので有りましょう。
過去のつながりの中を生きてはいないと言う事であります。過去の人の約束事なんか知ったことではない。過去の人たちの行為を反故にして現状の生きている人の考えを優先しなければならないとしているのです。現代人の言う事が真っ当であり、判定力を備えているのであり、現状の人の考えが優先するのであると踏んでいるのであります。
社会の中で人間否定構図を取るならば、現状を生きている人は未来から見れば過去の人であり、未来人から現状を生きている人は否定される立場になってしまう。
過去の人たちの行為は無効という事になる。将来に生きる人たちのつながりが現代人から遮断されることになる。
過去の人たちを否定構図においており、過去の人たちは無効な行為をしていたことになる。
現代人の行いが全て良好であり、将来も過去も無能な振る舞いをしてゆくことになると言うのであります。
私たち人間の行為において過去を否定構図に取ってゆくことになるのです。
物事真義において過去を否定する構図になってしまうのです。物事には原因と結果がついてくるのですが、原因と結果と言うのは過去の事物であり、過去の事物を否定するということは、原因と結果を無視することになってしまう。事物が存在しないことになってしまうのです。原因と結果を否定するということは物事事物が存在しないことになってしまう。
人間の約束事に中に感情概念が芽生えています。事物の概念を否定するということは、人間が指し示す行為が不明なものになってしまう。
国家構築の概念を外れた人と条約を結んだことになるのです。言うなれば意味不明な人とわが国は条約を締結したことになるのです。
締結するだけ無駄ということになってしまう。我が国も無駄な条約を結んでいることになります。国家の織り成す条約事の概念が破綻しているのであります。
支那共産党、自国の条約事の概念が破綻しているのに、日本国はまだ条約事の概念は生きているのだから、支那共産党の言うことを聞かなければならないと身勝に身解釈しているのであります。
何の為に過去の人たちが知恵を出し合い条約を締結したのか分からないようになっている。過去の人を否定構図に押し込んで、現代人の物言いが優先するという社会形成をしているのであります。
いつから現代人は過去を否定しながら生きて行けるようになったのか意味不明の解釈をしているのであります。
過去を否定し得るのであれば現代人が生きている社会も否定しなければ辻褄が合わない。何故なら過去は現代につながる時代形成をしているからである。
過去を剥奪することは現代人が宙に浮いてしまうことになる。過去の人たちの行為を尊重(肯定)しなければ現代へのつながりは発生しないのである。
過去の人々が知恵を出し合って国同士の条約を締結したのに反故にすることは許されないことです。
- 2014/02/28(金) 07:09:16|
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国家一番の義務として教育の育成があげられる。何せ人の世ですから人が優秀でなくっては国家は務まらない。無能な国家となってしまう。
まずは人とは何ぞや!カントは言う動物社会を引き離す生き物であると設定している。
つまり動物社会以外の人の世を作り出す事である。何げ無しに過ごす社会にしてはつまらない。確かに人の世であるとの観念性がなければならない。人々の概念が築き上がるのであります。
その中に国家としての教育課程が義務付けされている。国民の人材資産を預かりて国家の発展に活用するのであります。
日本国、国人を育成するのだから全ての責任は国家に帰属する。国家本義の規定を行くものであり、国民の資質を生み出すべく、人材育成を教育資産の宝庫とすべし。
教育の本義は公儀において賄う性質のものであり、国家において全ての責任で国民の人材育成の場を作りて執り行うものである。国人を作り出すのであるから、当たり前のことであります。何故なら国家は国人を生むべき道筋が布かれているからであります。
先祖伝来の国土を守るには国人を育成しなければならぬ義務があるからです。
一組織の団体が国を守れるはずがなかろう。日教組がどのようにして国人を生む必要があるのだろうか?そのような義務は国家以外には課せられていない。
一組織の団体として自腹で財政を賄っているのであれば話は別である。言うなれば国家を離れた一団体として教育を携わっているというのなら、話は別である。それでも教育の概念は国家の管轄範囲内であります。
一組織の団体として人を賄っているのであれば、国人育成の資産にはならない。
国民の人的資産を預かりて行うは、国家予算を剥奪するものであり、国家に歯向かう事になる。
子供の概念構図において、教育課程の構図を、人的資産を、剥奪するものであり、思想観念像に異質の構造をなさんと企む者である。
国家教育の資質は一組織の団体において人材を育成するのではありません。教育の概念像に鑑み、国家に役立つ人物像を、世の為人の為に役立つ人物像を育成する場であります。
教育は公的施設を使い公的予算を使い、道徳観念性とも絡み教育の本義とは何かを追及するところでありましょう。国民の人的資産を預かり、国家予算において国人を作り出すことを使命としている。
仮に教育の本文を生かす対等性の存念があるとするならば、国家の趣旨と日教組の趣旨とを照らし合わせて、国民に真意を問うのが、物事趣旨の観念像を生かす構造であり、日教組は国民の真意を問うたのであろうか?
一組織の団体が教育の本文に携わるのは不自然である。国民が日教組の教育概念を支持したのであれば話は別である。
国家予算の起因像に位置するならば、当然国家本位の意向でならなければならず、主題は国民資質の向上であり、国家繁栄に結びつけねばならない。一組織の団体の思想を教育の場に蔓延させる性質のものではなかろう。
国民の人的資産としての位置付けであり、一私的団体の資産にはなり得ないのであります。第一責任の所在が不明であります。如何ほどの責任が横たわっているのであろうか?
なのにお金は国家予算という、自腹で賄っているのなら分からんでもないが、責任体制も不明なままでは教育課程を任せられるはずがない。
なのに国家体制に対して物申しているは不自然である。何ゆえの物言いなのか?己を保身する為の物言いとしか思えないのですが、、、。
日本国、国家体制を維持するのが教育の本義であり、国家の務めであります。並びに責任でもあります。国家の資質を賄う時に一組織の拘束力で教育させられたのではたまったものではない。時あたかも国家本義と偽り、教育を行おうとするものであり、国家に謀反を抱くものであります。
日教組が国家の行く末を案じてくれるわけではあるまい。一組織の団体において計られる性格のものではないのである。案じるは日本国国家の概念において取り図られる規定でありましょう。
- 2014/02/25(火) 16:31:26|
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国民共有の教育課程であり、特定の団体の教育課程ではありません。
教育の位置する概念は国民の共有する民族財産を組み上げることにあり、国家の命運を掛けて人材を発掘することにある。人造りが何よりも優先するのである。
何で特定の人に罪があったように、災難が起こったように、擦り付けるのだ。人を個人を否定構図に追い込む性質のものではなかろう。
日本国を美しい国にすると謳っているのではなかったか?どこで己に都合よく神の国と言わしめたのであろうか?
日本国のために道徳精神に則り、役に立つ人間にならなければならないと教育するのである。
ないしは世の中の為に役立つ人間にならなければならないのである。少なくとも観念上はその思いを抱いておかなければならない。
国家は何の為に教育に力を入れているのか分かっているのであろうか?より良い日本国にするためである。皆が暮らしやすい国にするために、日夜その観念像を求めて励んでいるのであります。生涯の私たちの務めであります。
特定の団体が教育云々を非難する構造にはないのである。国家の意義を、主体性を、持たせるために個人個人の共有財産を生み出すべく、人としての精神がはぐれることのないように道徳観念性において教育するのであります。
正当性の教育概念はこのようにして生まれている。国家の概念構造を思うとき人造りは国造りと同等のものであり、未来構図を描いてゆくのが原則でありましょう。妙なる日本国建国に向かって、より良い人材を生み出してゆくのであります。
憲法が人造りを成すものではありません。あくまで人において人造りがなされるのです。そのために人材を養成するのであります。
教育は誰でも良好性を求めるのであれば語る資格はあるのです。表現の自由からも否定する概念は存在しません。
カントは「人は誰でも尊厳性を持っている」と設定している。人間の崇高な概念として動物社会を引き離す捉え方をしているのであります。動物を教えているのではありません。感情のある人間を教育しているのであります。人としての概念構築の為に国家の義務として人を教育しなけれならないのであります。国家公儀の大仕事であります。
- 2014/02/23(日) 22:22:06|
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国情の上に国民の主体性を維持するべく、国家を位置して人々の暮らしぶりを駈り立てて居ます。いわゆる国民の趣旨活動を生かす存在であるのです。
日本国本義に適うようにとあらゆる面に人としての考え方を広めてゆきます。国家の役目はこのような概念に沿って先祖の魂が息づく国土に築き上げるのであります。
物事作為活動には起因が存在する。日本が独りでに原因を作り、独りでに戦ったわけではない。
相手側に起因する存念がすっぽり抜けている。相手側の趣旨活動はどのような観念性であったのか解釈不明であります。
それなのに一方的に日本側の観念性が良くないことだとする言い張りはどこから引き出したのか?日本側が一方的に悪いとする観念性はどこから引き出したのか?不明であります。引き出せるはずがないのである。
一方的に日本の観念性は悪であり、よその観念性は善であると言う気風になっている。解釈基点の観念性を一方的に呼び込むものであり、不自然である。
我が国民の真義を否定するものであり、日本国否定に繋がって行く。国家国儀を促す観念像に否定構図は存在しない。
国儀において計らうならば国民の趣旨を優位性に押し計らわねばならない。よそ向きの観念性は無用のものである。
国家において推し量る観念性は先祖からの連なりの中を歩むものであります。
教育精神は道徳概念上に位置するものであり、趣旨は社会活動の概念と一致しなければならない。世の中に役立つように、社会の為になるようにと、国の為にも、家族の為にもと引き継がれて後々はどうするのか自分で考えてゆきます。その力を植え付けてゆきます。
国家役目の概念が広がりを持たせるのであります。物事の観念性は一長一短あり、上質の観念性へと持ってゆくのであります。
>「戦争する国」づくりに向けて教育を支配し、子どもたちを「マインドコントロール」していこうというものです。 <抜粋引用
つまり我が方だけ戦争は致しませんよとしたって、我が国だけ平和憲法で国守りをしていますと言ったって、相手側にも攻めて来ないでくださいという条件を取り付けなければならない。
言うこと聞いてくれる国であったら言いのですが、尖閣事件でも見るようにルールもへったくれもないような連中が世界にわんさかと居るのですよ!どういう風に対処するのでしょうか?答えが見つからない以上は備えあれば憂い無しというが如しで、国としての腹積もりは必要でしょう。
国家は国民を保護し、国土を守る義務がある。国家国儀の仕組みはこのようになっている。放棄することは許されません。
- 2014/02/23(日) 14:43:35|
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日本国建国に支障を来たす様であれば、排除するなり対応策を講じなければならない。
よその国造りは致しません。
何かよそ者の国造りをする事と勘違いしているのではなかろうか?それと言うのもよそから移民を受け入れようとするのだから、よその輩からしたら日本国建国は放棄したと受け取られても仕方ない事です。実際にやっていることはそのようですから、我が国も悪いのである。
わざわざ取り違いを起させるような企てをしているのだから自業自得といえばそのようであります。我が国にも罪はあるのである、解釈の度合いはよそ様の方が筋は通っているのだから、一概によそ様ばかりは攻められないのである。責めるとすれば我が国の姿勢でありましょう。
本来なら日本人を貶める事、恩義の解釈として出来ないはずですが、気質の持ってゆき方が違うのであろう。
よそ者によって日本国主軸の概念が歪められようとしている。つまり日本人基点の判定ではなく、よそ者基点の判定力が優先しているのです。日本国において日本人基点の判定力ではなくなってきている。
日本人不要の判定力になっている。我が国の国造りではなく、いつの間にか司法そのものがよそ者基点の構図へと摩り替りつつあるのです。
日本国建国に歯向かっている。これでは日本国司法の概念が外れて、よそ者姿勢へと組織が変貌していることになります。日本国司法の構図が破綻しているのであります。要するによそ者が入り込んで我が国の司法の概念構図をぶち壊す仕組みを持つようになってしまった。
日本国家の構図が司法において破棄されようとしている。つまり日本国の司法が日本国の崩壊構図を取っていることになります。日本国の司法でありながら、日本国の崩壊を支持する判定力を備えていることになります。
つまり日本国不要の判定力を司法が司っていることになる。果たして日本国の判定人が日本人不要と判定していることになってしまう。辻褄の合わない判定力を付けていることになるのです。尤も判定する人がよそ者であれば辻褄が合いはするが、、、。
日本国に居ながら日本人判定力は不能ということになって、してどこの判定力を備えているかといえばよそ者基点の判定力しか持ち合わせていないことになってしまった。
日本国に相応しい司法でないことが分かります。日本国は司法という一角が崩壊していることを意味する。国家機能が成立しない事態となってしまった。
日本国ではない疑似日本国の姿となってしまったのであります。日本人の為の判定力は持ち合わせていないことであります。
であればわざわざ司法にお金を貢ぐことは必要ないでしょう。無駄であります。司法の為に予算を組む必要はなくなってきます。日本国日本人の為の別棟の概念構図を立ち上げねばなりません。
国家の崩壊を導くような司法を持つ必要もないのである。司法を切り捨てなければならない。日本国に不利な裁定をするようではいくら司法が独立しているからといって無益であります。日本国が崩壊に導くような司法をわざわざ囲う必要もなかろう。
我が国は国会、内閣、国民、と優秀な粒ぞろいをして司法の一端を担うようにして、頃合を見て本義の司法を立ち上げ、日本国建国を目指すように修正しなければならん。日本人の魂はここから始まる。
それもこれも真っ当な日本人を育て切れなかった罰が来ているのです。自業自得であります。
何の為の日本国か分からないようになってしまった。日本国崩壊であります。日本国を支えなければならない司法が日本国崩壊を招いているのであります。
よそ者司法において日本国崩壊させられたのではたまったものではない。よそ者人選が甘かった為に招いた日本国崩壊であったのです。笑い話にもならないのですが、、、。このことからもよそ者観念性が日本人気質と違うということを読み取る事が出来ましょう。
よそ者から滅ぼされるために日本国は存在しているのではありません。即ちよそ者を入れるということは日本国の崩壊を招くということでありましょう。出自を明らかにするということは日本国日本人を保護することでもあるのです。
ここにも腑抜けの由縁が潜んでいたのであります。
国家として見失うことのない、体系作りの規定がなければなりません。日本人基点の考え方を優先し、国家の存続を考えるときに、不利益になることをわざわざ考えることもなかろう。
- 2014/02/22(土) 14:26:26|
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http://www.yomiuri.co.jp/olympic/2014/skate/20140221-OYT1T00553.htm?from=main1
どうして別嬪さんばかりなのだろうと不思議であります。してつるつるすべる氷の上で華麗なる舞を見せてくれるのであります。これを演技として採点しようというのであります。で点数の高かった方が優勝という。どこでどのように差が付くのか素人目にはわからず、どっちが美人なのか分からないから技術において差を測ろうではないかと誰かが企んだとしか思えない。見るほどに酔うほどに高度な技術の演技を見せてくれるフィギュアースケートの選手たちであります。
- 2014/02/22(土) 08:10:35|
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我が国の概念構図は日本人主体性に出来上がっており、他の国々の主体性を織り交ぜることは国家が弱体化することにもなりかねず、我が国に籍を置くからにはよその学校も日本国主体性に趣を置いてもらわねばならない。
日本国、国家構図の持ってゆき方が不明なものになってしまう。
我が国にはよその国主体性の学校もあるようですが、その観念性までも何で我が国が面倒見なければならないのだ。よその国の人はよその国が賄うのが建前でしょうに、普通によその国で教育を受けるのが原則でありましょう。
日本国に居座って何でよその国の教育を施さねばならないのだ。
日本人主体制の国家である。日本民族の先祖からなる連なりある日本の国家であります。よそ様の国家ではありません。
わざわざよその国の主体性のある学校を囲って、何で我が国へ貶めの教育をせねばならないのだ。感謝されても罰は当たらないであろう。尤も今まで感謝されたという話も聞かないが、何か我が国に貢献する仕草でもしたのであろうか?
拉致問題でも引っかかる学校とやに聞く。そのような学校を我が国に寄与するのならいざ知らず、反日教育を施している学校を何で我が国に囲う必要があるのだ。
しかも日本国内にあるのだろう。監視監督する義務があるのではなかろうか?日本国に貢献しているのなら話は別である。
日本人がわが学校を締め出そうとしている、して日本人からお金を損害慰謝料として取ろうというのであります。普通に日本国としたらお金を払ってもらいたいくらいであります。
何で日本国からお金をせびらなきゃならんのだ、今までに日本国に貢献しているのならこっちからお金を差し出してよりよい貢献をこれからもして下さいと願い出るはずである。
恩を仇で返すようなことはしないのである。日本とはそういう国であるのです。国家を維持する原則とはこの事を言う。そんなこと朝鮮学校の知ったことではない、お金さえもらえりゃいいのだ、という考えでは何か疚しい事しているのではないかと疑われても仕方ないであろう。
よその国の事はよその国で賄うのが原則であり、当たり前のことであります。何でよその国の世話になる必要があるのだ。
国家仕組みの概念構図に歯向かう仕草であり、日本人を侮辱するものである。日本国の趣旨を阻害してはならぬものであり、日本人気質を大事にしなければならない国土であるのです。日本人の概念構図を生み出す国土であるからです。
日本国に籍を置いているのであろう、感謝されてもいいくらいでありますが、挙句に公園を不法占拠して、今まで占拠し迷惑を掛けて申し訳なかったと日本人に詫びたのであろうか?
その気心も無しによく日本国に居られるものであります。この上は日本国に多大の迷惑を掛けた、その分日本人と共に日本国建国に協力しましょうと言うのなら分からんでもないが、、、。
気質観念性の違いとはほとんど交わることはないのではなかろうか?その交わる観念性がないのに何で囲う必要があるのか不自然である。
日本国国家存立に歯向かうのであれば当然排除する対象になるのである。手を打たねば滅ぼされてからでは後の祭りであります。貶めの裁量にかけては一枚も二枚も上手を行くものであり、日本人の手に負えるものではなかろう。
為に現状の日本国が貶めに陥っていることを日本人は反省しなければならない。自業自得の行為をわざわざ招き入れているのであります。まだ刈り取りが済んだわけではないのに、撒かんでいいような種をわざわざ撒いているのである。無益であるのです。腑抜けと言われる由縁であります。
またどこからか移民をしようというのだから、腑抜けさを通り越して哀れさが付きまとう。
しかしながらほっておけばますます我が国に蔓延ってしまい、いずれ日本国は駆逐されてゆくでしょう。早めに手を打たねば、国家国民の名において撃退するなり排除するなりして対応策を講じなければならない。よその国が解決してはくれません。
始めに日本人基点の物言いとして発しなければならず、日本人に不利益が生じれば、当然排除するなり、罰しなければならない。国家国民保護規制が優先するからである。よその国を保護してどうするのであろうか?日本人の気質の高さを優先するのが上策でありましょう。
わざわざよその国の品格が上回っているのならいざ知らず、我が国の基点を知らしめるのが、国家としての役目のはずです。この国儀に反している学校へわざわざお金をやろうとしているのだからおめでたい国であろうというのである。
- 2014/02/22(土) 08:07:06|
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http://www.linelabo.com/yasukuni.htm
我が国の総理大臣は真っ当な人間であるべきではない。と我が国の総理大臣を愚弄している事と一緒なのである。ないしは日本国民を否定することにつながってゆく。
世界物事の見地が異常性を帯びてゆく。
人間社会のお墓参りが基本の形であり、動物社会には見られない崇高な概念を持っている。人間の精神を形作るからである。
つまり靖国神社参拝非難は人間否定の構図を呼び込むものであり、国家としての概念を否定されることにつながってゆく。
つまりは日本人の精神は腑抜けのままが相応しい、日本国家はいつまでも主体制のない事が望ましいと言っていることと一緒であります。
我が国もよそのせいにしてはならぬものの主体性がなく腑抜けであるのはこのような事情から来たものかもしれない。国家国儀の概念が歪められているのもそのせいかも知れない。
第一は我が国の気心を削ごうと言う腹積もりであり、手懐けようとの下心であろう。何故かと言うと、よそから言われればすぐに従う性癖があり、機嫌取りを優先して取り計らってくれるからである。
国民の趣旨活動の概念は政府に依存する体系であり、その長たる総理大臣に国家の道筋を預けているからである。国家国民の趣旨に沿って総理大臣は日本国の道筋を付けてゆくのであります。
総理大臣の趣旨など当方の知ったことではない。当方の言うことが優先しなければならない。
総理大臣の趣旨を尊重しないと言うことは我が国の趣旨を蔑ろにする行為と一緒の事でありましょう。即ち我が国の主体性を踏み躙る事であるのです。
我が国の国家構造の概念構図を亡きものにしようと言う企み事であります。言うまでもなく怖くないからであり、妙にわが国は機嫌取りを勤しむように出来ており、和を持って尊しと成すは現況の世界では通用しないものであります。
本来ならこのようにならなければならないのですが、そうはならない世界にしているのはどこかを考えれば答えは出ている。
日本国民がお参りをしているのであれば、総理大臣もお参りしていいのである。日本人としての行為を果たしているのですから、国民は支持しているのである。支持しないのならわざわざ国民が靖国神社にお参りするはずもなかろう。国民主体制の国家であるのである。
- 2014/02/21(金) 12:46:09|
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http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140219-00000084-mai-pol
わが国はどうしてこうも同調癖が付いてしまったのだろう。戦争に負けたとはいえ日本人の主体性は失いたくないものであります。いつの間にか機嫌取り屋の国にされてしまいそうであります。
とは言ってもすでにその傾向でありますが、和を持って尊しと成すは日本人と同等の気質を持った人ならば通用しましょうが、腹黒い輩では見透かされて毟り取られるのが関の山、腑抜けにされるのが落ちであります。
本来なら無視すればいいのですが、策略構図の一種であり、今までがこのようにして来た為に幾許かのお金をせびられたのであります。機嫌取りをして蝕まれりゃ世話ない。
気質観念性の違いもさることながら、歴史における時代の経過が人々の気心に変化を与えたのでありましょう。
長い間の作為現象が人心に与えた影響は図り知ることは出来ない人の世になって行った。
人の道の傾向において探るは国家統制法であり、その過程を取り繕う人間があらぬ方向へと人々を導いて行った。
人心において目指す作為活動は広くは徳のある概念に結び付かねばならぬものを、国の指導者たちは国家統制に気心を費やし懐肥やしに勤しみて民衆基点の計らいごとを無視したのであります。人心の潤う所とはならず荒んで行ったと思える。
気質観念性の欠落を生み、互いが助け合わねば暮らしてゆけないのに、逆に他人のことなど知ったことではない、己が生きることのみが精一杯で省みる精神がないようになってしまった。とは特亜人の時代過程でありますが、、、。」
現状のわが国は特亜人に合わせるが如く、見下されて毟り取られて貶めに遭っているのであります。
気質観念性があまりにも違いすぎて、やり込められているのです。挙句に手懐けされりゃ世話ない。我が国の主体制の存在するところとはならず、特亜人の機嫌取り屋に成り下がっているのであります。
まだ早過ぎた我が国の時代気質観念性の心得であった。しかしながら特亜人に合わせるわけには行かず難儀しているのであります。
およそ対等性の物言いではないことが分かります。当方が位は上である、跪かねばならないと居丈高に構えているのであります。特亜人共通の物見感情であります。
毟り取られるための交渉しているようなものであり、無駄であるのです。何ら得るところがないのであります。無意味であるのです。
- 2014/02/21(金) 12:43:32|
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