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普段の中に正当性を求めて

私の考え出す基点を真っ当性の中に、出来るか否か 日本国の思いを馳せながら綴ってゆこうとの所存です。

権力

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150926-00000096-mai-int

何よりも人権が権力によって否定されていることだ。人の権利は生まれた時から付いてくる。

国家国儀のやり方は国それぞれに違うのであろう。しかしながら国情の違いはあるにしろ、人である事の権益が否定されることはありません。何故なら生存権と一対のものであり、生まれてきなさんなと言うわけにはいかないのである。生存権否定であります。並びに人の権益も等しくそれぞれに有しているのであります。

ここに権力において人権を否定するところがある。支那共産党は支那の人と他の人の人権は違うと言っているのです。

歴史問題、国としての捉え方が異なると言うのです。支那で言う共産党に楯突く人間は人権を剥奪され拷問されると言う。

党に都合の悪い人間は人権がありませんとしている。党が人権を左右するとしているのであります。反共産党では人権は認めないと言う事でしょう。

人権を有するのは共産党員だけで、非人権者と肯定的な人権者が存在するとする。

何で区分けされているのかと言うと思想面で区分けされているのであります。考え方そのものを区分けし排除しているのであります。

党の考えがまともである、他の奴はまともでないと、人権を持つ人と持たない人とに区分けしている事になる。等しく誰にでも存在するとはしていないことです。

国において持っている人と持たない人と区分けしているのであります。人権を持たない人も左右されて生まれてくるのです。

その過程で人権を持たない人と、持てる人に区分けされ洗脳してゆくのでしょう。

民族を従属物思考に蔓延らせて何の人権ぞ!有能な人物が従属物にさせられるはずであります。支那では人権は洗脳力で区分けされている事になる。並びに権力においても人権は区分けされている。

しかも従属物社会をそのままにして民衆は生まれてくる。人を区分け概念に押し込めておいて、人権は国情の違いであると言わしめているのであります。

国家として成り立っていないのなら人権にも違いが生じましょうが、、、。

国家国儀の前提は人権を保護することにある。人権を破棄することは国家として存在していないことを意味する。

支那共産党は権力において人権の判別が可能としている事であります。つまり支那共産党の権力において人権を否定することも可能と言う事です。

つまり支那共産党の権力が人間否定の人権の上に存在している事です。人の持っている人権よりも支那共産党の権力が絶大であると言い含めている事です。

人権よりも党の権力が上にくる社会構造になっていますからそこんとこ間違えんようにねえと言う事です。

と言う事は人の世ではないことになります。権力構造が肯定されて人権が否定されて何の人の世ぞ!

人権を考慮するより権力構造社会を優先しているのですから、民衆はたまったものではなかろう。

よその国では人権が尊重されても、支那共産党は人権よりも権力が上にくる社会造りをしていますからそこんとこ分かってくださいねえと念を押しているのです。支那共産党では人権よりも権力が優先する構造でありますからあしからずと決め込んでいるのでしょう。

その権力は人と人との諍いごとを収めるためのものでなければならない。つまり権力の矛先が人権否定に結びついている事です。

  1. 2015/09/27(日) 18:16:05|
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