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普段の中に正当性を求めて

私の考え出す基点を真っ当性の中に、出来るか否か 日本国の思いを馳せながら綴ってゆこうとの所存です。

中国偉人

http://d.hatena.ne.jp/satoumamoru/20150925/1443168510
http://www.epochtimes.jp/jp/2007/10/html/d57438.html

国にはそれぞれに偉人が輩出する。いわゆる国家財産であります。国の誇りとする人物輩出像であります。

国家基準の中に最も崇高の概念を持たされているからです。ゆえに国家の高邁さを誇るものです。

国家持続性の概念として歩調されているのです。

国際社会からも国家に位置する最高の人物像として描かれるところです。

支那にはそんなに偉い人はいませんと拒否しているのであります。拒否するくらいならまだいいのですが、あろうことか支那共産党にはそんなに偉い人は出たら困るのである都合が悪いのであるとひっ捕まえて拷問するのであります。

支那共産党はこの程度で良いとしているのでしょう。進化性の概念が存在するところではありませんとしているのです。

支那には偉い人が住む所ではありません、従属物をこしらえるところでありますからそこんとこ間違えんようにねえと生まれてくださいねえとしている。

人の成長する概念を破棄しているのであります。えらくなる事に生まれてもらっては支那共産党に都合が悪いから困るのである。

人の成長を破棄する法則でもあるのでしょうか?支那共産党に楯突いたらひっ捕まえて拷問するぞと言うわけでしょう。

これ国家としての概念構造ではありません。人類社会構造にこのような構造は存在しません。尤も人類社会を築かないのであれば話は別ですが、、、。

国は偉人を必要とせねばならない。国家の役目であります。
国家の役目を放棄するのなら話は別である。
生まれたところが悪かったとしてはならないのである。

  1. 2015/09/26(土) 10:29:03|
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