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普段の中に正当性を求めて

私の考え出す基点を真っ当性の中に、出来るか否か 日本国の思いを馳せながら綴ってゆこうとの所存です。

降伏

http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-5079.html#comment

黒澤明監督「7人の侍」から 村人たちの台詞から
>長いものには巻かれよだよ 野伏せりが来たらおとなしく迎えるだよ 麦も黙って渡すだ そしておら達が何とか生きていかれるだけ 残していってもらうだ それだけ何としても地べた額こすりつけても頼むだよ それでうんと言う野伏せりかよ 忘れたのか 今俺達の食べている米はどんなことをして、、、―――
談合するにも相手によるぞ 狼に足をくれてやりゃその次は手をくれと言うだ 今度来て味をしめりゃまたこの秋来るに決まってるだ 負けたらどうする もし負けたら 負けてもともとだ< 抜粋引用

日本国民は先祖から栄えある民族として世界から称えられ、世界に残す民族と仮定すれば日本民族に残ってもらいたいと言われたほどの栄光ある種族である。

その誇りある民族が詫びて詫びて詫び倒して属国になるという。何で野蛮的な種族に我が民族が下手に出なきゃならないのだ。

ちょっと判りづらい表現ですが、戦いたくないと思っているのでしょう。

人類に必要な世界はどのようなものかを捜し求めている。
国家信義に鑑み正義としての道があり、人の世であり本能主義の社会にしてはならぬもの、世の中は逆に進んではならない。
  1. 2013/05/31(金) 08:30:23|
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日本国

趣旨は日本国を造り出す事にある。先祖からの流れの中で片時も離れてはならない原則であります。

国家国民の名の下に勇国日本国を作り出すことが義務付けされている。日本人の心意気を生かした国造りが要求されます。

何処の国もそうでしょうが、よその国造りをするわけではありませんし、よその国の概念が生かされることはありません。なまじ作ろうとしても偽の日本国が出来上がるだけです。

国家の概念構図からはこのようにして国造りをする事が許されているのであります。世界各国共通の国家原則であります。国造りをする原型が人道主義に導かれてこそ成しえる人類社会の原則である国造りとなっているのです。

本能姿勢の国造りは現代社会には通用するものではありません。国家の趣旨を重んじた国造りにおいて世界条理の観念性を連帯的にこなし切れる体制が私たちの課題であります。

よその国の概念構図を崩すことがあってはならぬものです。この法規さえも判り切れない所が存在している事です。世界条理の統制が出来ていない証拠であります。

ひとえに大国の責任であり、その責任を如何にこなすかの仕組みが要求されましょう。

人としての概念構図が描き切れていないのである。人においての国家指針はどうあるべきかという概念構図が描ききれないのである。

国家指針において人心の指導が至らぬ方向性を示し人類志向の思惑とは外れたものである。国家指導の観念像が逸脱したところに移行して洗脳性を帯びた教育過程を結び付けているところがあり、人類の生かすべき志向には成り得ていないのであります。

大国自身が人類志向に対する概念像が描ききれていない。行き当たりばったりの概念像では他の国を指導する観念像は持ち合わせてはいないのであります。

指導するどころか侵害侵略した挙句に貶めて領土を獲得しようとの思惑であり、大国と言えた代物ではない。また世界が大国としていることの社会の矛盾として今世界に蔓延っている事が問題なのであります。
人類志向の構図を描く義務があるのにそれゆえの大国であるのに、そんなことはお構いなしに小国を侵害侵略と迫害を企てるは大国の資格はないのですが、、、。

大国の概念構図が人的資質構造になっていないのが、味噌である。これでは何時まで経っても人の資質概念構造に届くはずもなく、策謀策略にゆれる人類の本能闘争を疑義なくさせている。何時まで経っても大国の覇権主義に優先することになってしまい、小国は泣かねばならない羽目になる。

人類志向の本望はまだ先なれど大国の概念構造を改める必要性がある。何故なら大国だけの世ではないからである。

その中間的な日本国において人類の国造りを目指すべく、国家の指針は何処にあるか探究心を持って切り開こうというのである。

国家指針の概念構図において日本国の持つべき人的資質の割合を高めてゆこうとの趣旨であり、人の世に形成する学ぶと言う構図を如何に捉えるのか、国家教育の観念性に鑑み、我が国の進んだ学習要領に、人の持ち行く気質概念を潤すことに尽力せねばならない。

このことが人的資質の向上につながり、人類への構図が私たちを豊かにしてくれるであろう。
  1. 2013/05/31(金) 07:23:35|
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国家恥じの概念

http://blog.goo.ne.jp/fukudaikichi/e/de3f234b173cb9db8fec0b4aef510d02#comment-list

恥にもいろいろあり、身近なところでは自分自身の恥じであり、これは自らが至らなかったから生じたものであり、自業自得なのですが、国の恥というものがどういうことを指すのか判らない人がいる。

国家に誇りを持って社会生活をしている人に国家の恥じになることはしない。言うなれば国家に誇りを持ってない人が意識するでなしに仕出かした行為が他の人から見れば国家の恥となるのである。

であるから袋叩きに遭うのであるが、これからが問題である。自らが意識したならば国家の恥じになるからしてはならぬものと自覚するのである。

がしかし自覚できない人も居てきつくお仕置きをしなければ判らない人も居る。果たしてきつくお仕置きをして判ればいいがわからなければ手のうちようがない。

牢屋にぶち込んで諭すしかないのである。国家の恥じは晒すべきではない観念性であり、よそからも自国からも袋叩きにされても文句は言えないでしょう。

自らが真っ当に意識せねば誰からも付き合うことが出来なくなるでしょう。
国家の概念構図に恥という観念性は持ち込んではならぬものです。民族の習性として持ち続けてゆかなければならない。

近隣諸国から日本社会を撹乱させる為に招き入れているようなもの、いくら毟り取られたら気が済むのであろうか?それでもお付き合いをいたしましょうというのだから腑抜けの見本となってしまう。

恥という概念構図に気質というものを保ち得ない性格ではなかろうか?気質を維持してこそ人の概念構造に至れり、成長期を意識できるのではなかろうか?欠落しているということは人の概念構図をはみ出した、本能姿勢を維持しているといえる。
  1. 2013/05/30(木) 16:57:47|
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国賊

http://blog.goo.ne.jp/wagasato/e/5c148d81f406e4c38334dad429342afc#comment-list

国にはいろいろな人の意見がある。それが国の繁栄を促すものでなければならず、国を貶めてどうするのであろうか?

日本国民でないというのなら話はわかるが、国家国民の義務として日本国に住んでいる限りは国家の為に働くことを義務付けされている。

国民の義務としてひとえに国家繁栄を願うものであるのです。いや繁栄して貰っては困るというのであれば、日本国を出て行かなければならない。

どこかが拾ってくれればいいのですが、その観念性から察するに拾ってくれることはないのではなかろうか?

住んでいるのに住み心地が悪いのかどうかはしらないが、気力において国家に尽力する要素が欠けているように見える。そんな人を受け入れたって邪魔になるだけだろう。

我が国は国賊まで賄っていることになる。賄っているだけならまだしも国益を損ねているのだから考えようによっては自業自得ということである。

自ら撒いた種は自らが刈らねばならないのは当然であります。ほっておいたらますます国賊が蔓延るだけでありましょう。何の事はない毟り取られるために賄っているようなもの、自国民が犠牲になる為に賄っているようなもの。

そこまで腑抜けにならなくてもよさそうなものですが、お人好しも程度ものだということです。よそものに対する免疫性を鍛えているつもりであろうが、とても我が国の心情では太刀打ちできない。

やわな心情の持ち主ではないのです、あわよくば貶めてやろうとの腹積もりであり、貢献してやろうなどの面持ちはありません。

スパイ防止法がないのならそう考えざるを得ない。腑抜け国民と言われるゆえんであります。我が国民が犠牲になっているのです。

何処の国の犯罪が多いかを見比べれば一目瞭然でありましょう。それほどに国を守る概念が備わっていない証拠であります。

国民も悪いが指導者はもっと悪い。悪い悪いと言ってりゃ世話ないが、取り締まるものは取り締まなければ日本国民が抹殺されてしまうのです。

この危機感さえも湧かないようであれば日本国消滅であります。国守りをおろそかにしていた付けが来ているのであります。その付けに堪えうることが出来るのか否か日本人の試されるところです。

これだけ毟り取られ、揺さぶられているのに、手を打たないというのは国守りを放棄しているのに等しい、罰当たりな国民になってしまう。そんな国は滅びてしまうのです。近隣諸国は手捏ね引いて待っている。

普通に賊は退治せねばならぬのですが、我が国では何の因果か保護されているのであります。自由に振舞うのは構わないが日本国に居る限りは日本人の為になることをしてもらわねばならない。

よその国の為に尽くしてどうするのであろうか?せめて罰当たりな国民にはなりたくないものです。

日本人の生かすべき資質を整えてやるのが先決でありましょう。よそ者オンリーを取り入れて、日本人を保護しないのは生かすべき道筋に立っていないからである。

気質の持ちようは歴然であり、我が国の社会に害を与える仕草であり、見てれば判るでありましょう。社会の成り立ちが国家国民本意には整えていない証であります。

よそ者に国土を荒らされて国賊と言われはすれど退治できないとは何事であろうか?

国賊が存在するということは自国の不甲斐なさの裏返しでもあります。本来ならこのような国賊は輩出してはならぬものですが、工作員、スパイなどが誑かす事により発生したりするものなのである。

通常の日本人なら申し訳なさを感じるのであるが、そうはならずに根っからの売国奴かも知れず、我が国には無用のものであります。その無用のものをわざわざ囲っているというのは腑抜け以外の何ものでもない。

どこかで断ち切らなければますます蔓延ってしまう。我が国は表現の自由を謳っているから蝕まれ、たかられる材料を提供しているようなものである。日本国の為にならないのなら排除するなり手のうちようがあるはずであり、日本国民の犠牲がその分少なくなるのです。

国家に歯向かう反逆者であるから退治せねば日本国が消滅してしまうのです。

なまじ敵側においでおいでと手をこまねいているようでは貶めてくださいと招いているようなもの、ここにも腑抜けの様相が満たされているのであり、不要なものは不要とけじめを付けなければなりません。

要は日本国の国造りをするところです。よその国造りはいたしません。国家の概念構図を立ち上げなければなりません。

  1. 2013/05/29(水) 21:18:22|
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歴史は謝る性質のものか?

http://ponko.iza.ne.jp/blog/entry/3087577/#cmt

歴史は先祖の尊い航跡であり、航跡が誤りであったとはならない。何故なら誤りの構図とは私たち現状の社会において反省概念を身に付けているから釈明が可能なのであります。

法的に適うとすれば被害者、加害者、対等の立場を維持してこそ叶えられる判定であり、歴史概念というのは判定する位置付けには存在していません。過去の事物であり、判定不可能であります。さもしも判定できるがごとく振舞うはまやかし以外の何者でもない。

すなわち誤りを正すは現代人の思考力を基準として判定したものであります。現代人が刻むことの出来るのは先祖からの参考になる歴史を手本とすることであり、同じ過ちを繰り返さないことの意味でありましょう。これが現代人の義務のはずです。

歴史概念は先祖においてこしらえられたものであり、その歴史概念が間違いであった、このような歴史概念を先祖は刻むべきではなかった。これは歴史裁定人がこの世に存在して判定を成し得た場合のことで、ここに先祖の行為が誤りであったが為に後世の人が謝らなければならないとするならば、何を根拠に謝りの構図を発生するのか不可思議である。現代人が亡き人の身代わりになれるわけではなく、当人が存在しないのに謝らせる行為が発生するものではなかろう。

謝罪とは罪を詫びることであり、その罪を作り出した根拠までたどらねばならない。その罪を作り出した根拠は歴史概念であり、詫びる行為を現代社会においてこしらえなければならないのかこれまた不可思議である。

つまり先祖に義務を課して真っ当な歴史を刻まなければならないとなってしまう。

歴史の概念構造に詫びる義務は存在しないのであります。詫びる義務を課せれば先祖へ詫びの無い歴史を刻んでくれと言わなければならない。いや先祖は詫びを入れる歴史を展開ているとは言わないでしょう。

現代人は謝罪のない歴史を刻むべきであったと先祖に要求しなければならなくなる。先祖は詫びの無い歴史を刻むべきであった。

つまり先祖は現代人の言う通りに歴史を刻むべきであった。これを怠ったために現代人が謝罪しなければならない羽目になったのであると先祖に罪を擦り付けなければならなくなる。

が謝罪を前提に考えれば、現代人はこのように結論付けたのであります。詫びの無い歴史を望むとすれば現代人は謝罪せずに済むからです。このように判断を下してしまうことになる。

現代人は先祖に謝罪することの無い歴史を刻む義務があると身勝手に決め付けることになる。先祖が至らない歴史を刻んだために現代人はえらい迷惑をこうむったとなります。罰当たりな先祖としなければならなくなる。

これにより現代人は謝罪しないで済むようになり安心して社会生活を営むことが出来ると先祖に言い聞かしているのであります。

すべてこれからの歴史は真っ当な歴史が綴られてゆくことになったのです。

日本国にはそのような不心得の先祖は日本人の先祖ではありません関係ありませんと拒否すればいいのですが、日本人気質においてそうもいかないのであろう。

なまじ受け応えるから罪を被らなければならなくなる、あんた所と一緒で、日本も真っ当な歴史を刻んでいますと言えばいいのです。どうせ真っ当な歴史を刻んでいる国などないのだから!
これは歴史概念に託けて我が国を貶めんとする策略でありましょう。

歴史は謝り構図にはなっていません。先祖は歴史を謝り構図にはこしらえていないはずです。

仮に先祖が歴史を謝り構図に仕上げていたのならば歴史そのものが浮き足立った存在になり、歴史の意味がない様になってしまう。要するに歴史を刻んだ先祖を蔑ろにしていることになるのです。国家の構図が描ききれないようになり、国家が破綻であります。

言うなれば先祖は謝罪する歴史は刻むべきではなかったと否定した見方になり、歴史を肯定する見方が出来ないようになってしまう。

誰が真っ当な歴史と判定するのか判らないままに、先祖に現代人が真っ当な歴史が刻んであると出来るのであります。以後私たちの歴史は真っ当に刻まれることになって行ったのです。これでは異次元世界の出来事となってしまい、人類社会を超越してしまう。

現代人は後世の人たちに謝罪のいらない真っ当な歴史を刻んでいると宣言しているのであります。
つまり現代社会生活においてすべて謝罪のいらない真っ当な社会になってしまったのです。これこそが人類社会に誤りのない社会が実現することになったのです。要するに神様の世界になってしまったのです。

現代人が真っ当な歴史を刻みきれなければ後世の人から処罰を受けなければならないでしょう。
現代人は後世の人に歴史は修正する必要はありませんと、だって真っ当な歴史を刻んでいますよと宣言しているのですから?それでも後世の人から誤りの歴史であったと言われればどうするのでしょうか?

歴史概念において如何なる存念で判定力を身に付けたのか説明を要するであろう。

歴史は世界の観念性の中での動きであり一国だけの動きでは有り得ない。
  1. 2013/05/28(火) 13:50:30|
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化学繊維

http://www.watch2chan.com/archives/28417104.html

鋼鉄より強い夢の繊維とは人工により作り出された。そのドレスが展示され衣類として効用が生かされるところとなった。

衣類だけでなしに相当に広域の範囲で利用価値がありそうであります。日本の技術というかその着想といいますが、見事なものであります。

そういえば小学校の時夏休みなどで蝉を取っていた。今みたいに器用な蝉を取る網などはなく、細長い竹にわっぱを作り、山などに金こぶ(蜘蛛の一種)が作った蜘蛛の巣があり、竹作りのわっぱのところに蜘蛛の作った巣を巻き込むのである。かなり巻き取ったところで木に止まっている蝉をわっぱで押さえ込むのである。わっぱには一杯蜘蛛の糸が何重にも巻き取っているから、蝉がくっ付くのであります。幼い頃の思い出であります。

この思い出が人間の頭に意識の変革をもたらし、今回のような発見になったのでしょう。ちょっとしたヒントが幼い頃の遊びの中に潜んでいたのです。

知力の凄いところであります。植物の、動物の持っている可能性はまだまだあるのかもしれない。
  1. 2013/05/27(月) 16:20:48|
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靖国神社

ひとえに日本国を飼い馴らす為に仕組む事が目的であるから、事物は何でも適当でよかったのである。

靖国神社の件は、案の定、騙されて上手く引っかかったのだということでしょう。

靖国神社の趣旨は戦没者の意義深い魂に対して、国民の敬意として必定にして奉っているものであり、日本国民の総意の元に先祖の魂を抱いているところの神社であります。

国民も指導者も何ら不祥事が償うことなくお参りできる靖国神社であります。指導者否定の構造でもなく、国民否定の構造でもなく、靖国神社、護国神社とも日本国民ならばお参りをせねばならぬものです。

人の気心を安らぎ鎮めて漂わせる場所であります。日本人特有の気質に依存している場所であるのです。何もよそからとやかく言われる筋合いのものではありません。

我が国に戦犯はありません。よそが我が国を貶めんがためにこしらえた策謀であります。つまり我が国を目下勘定で押え付けんが為の謀な訳です。

ここのところを我が国は見間違いしたのであります。その後の経過を見たら判るでありましょう。我が国にとって何ら良いことはなかったはずです。あまりにも従順すぎたのであります。

よそ者は我が国と同等の資質ではありません。国家の概念構造はよそ者に邪魔されてはなりません。

  1. 2013/05/27(月) 16:18:52|
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歴史認識 その5

http://www.asahi.com/politics/update/0510/TKY201305100478.html

>5月15日「侵略も植民地支配も私は否定したことはない」
    「とりわけアジア諸国に対して多大の損害と苦痛を与えたその認識は安倍内閣も同じで、、これまでの歴代内閣の立場を引き継ぐものだ」< 抜粋引用

侵略は歴史において刻まれたものであり、当時の人たちの観念性において綴られたものである。

いわゆる歴史当時の観念性を用いて繰り広げられた国と国との諍いごとの一環であり、歴史構成の意味合いではなく、当時の人々の概念構想を施した成り行き行程を歩むものであり、否定概念、肯定概念を意識したものではなかったろう。

侵略された側、侵略した側これらの観念性により、歴史上に組み上げられた一環の様相であり、正常の道ではないにしても、列強の脅かす存在としての流れであったろう。

現状の歴史認識に鑑み私たちが侵略と見繕っているだけであり、当時において確証たる概念において執り行われたのではなかろう。

侵略すなわち否とする確証ではなかったのでしょう。列強国の覇権主義であった当時の成り行きに現況では判定できましょうが、社会状況も鑑み当時の歴史では判定は下されていないのではなかろうか?

誰が侵略と判定したかといえば現代人が歴史判定材料において客観的に感じるだけであろう。当時の人に伺ったわけではなかろう。

あの時、侵略したから否があり、賠償金払えというわけではなかろう。

侵略とは後世の人が歴史的事情に鑑み判定力を学び取ったにすぎない。

今となればされた方は侵略と悟るのであり、する方は生活の為、暮らしの為、総意を組んだ拡張主義の欲望範囲として捉えたのかもしれない。

いずれにしろ侵略された方は被害にあっているわけでただではおかないぞとの気持ちになろうというもの。

当時においてお互いに侵略と認識していれば賠償のしようもあろうが、事前協定で侵略は相成らんと取り決めていたのならいざ知らず、一連の流れの出来事であり、歴史観念性の中に賠償云々は発生するものではなかろう。

何故なら先祖の人たちに侵略してはならないとすれば、先祖は後世の人たちに歴史判定を仰ぎながら、歴史を刻まなければならなくなる
歴史の流れが逆さ解釈になってしまう。

総体に歴史の流れというものは反省の概念こそ生まれはしようが、観念性において賠償を促すものではない。その反省の概念も世界の歴史否定概念を構築するものではなく、歴史肯定の上で成り立つ構造でなければならない。
  1. 2013/05/27(月) 16:17:32|
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国家構造基点の脅威 その2

http://www.epochtimes.jp/jp/2013/05/html/d39530.html
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1336.html

国家には予算がある。予算は国民生活を守る為のものであり党のものではない。一私党のものではない。あるのは国土に対する発展性の規模でなければならない。国家予算はこのようにして下々のものに配分される。人民の活力を生み出してゆくのです。国が発展するとはこのことを言います。その国内において

>【大紀元日本5月24日】人殺しを続ける政府からの血塗られた金など要らない-。中国共産党から技術購入の打診を受けた米国の技術開発者は、こう言って6千万ドル(約60億円)もの契約を断った。 なぜなら、中国当局の絡む非人道的な臓器奪取問題「臓器狩り」を知ったからだ。<抜粋引用

党造りにおいて「臓器狩り」が行われ忌まわしいお金が蔓延っているという。

忌まわしいお金で国造りされたのでは国民はたまったものではない。たとえ党造りであっても真っ当な党になるはずがない。

何処をどう見て国造りをしようとしているのであろうか?あるいは党造りをしているのであろうか?

忌まわしいお金で国造りをしようというのが間違いである。あるいは党造りをしようというのが間違いである。
  1. 2013/05/27(月) 07:21:51|
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国家構造基点の脅威

http://www.epochtimes.jp/jp/2013/05/html/d39530.html
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1336.html

普通にお金はほしい、ましてや億の付くものならば泣いて喜ぶものである。

がここのご主人は違っていたのである。びっくりしたのはお金を提示した側だろう。

何とお金は要らないという、国家名声にもなろうというものをいらないと拒否したのである。

そのお金の持つ気性が見えているから拒否したのであります。かかる事態を誰が予期したでありましょうか?無論神様を置いて他はあるまい。

アメリカにこのような人が居ることが脅威なのであります。ビル・ゲイツ然り!

何の為に開発しているのか、多くは人々の幸福のためでありましょう。がしかし多くの人たちの血と汗の結晶でもあり決して自らの力だけではないはずです。

数多くのかかわりの元に開発されたものであり、人々の魂の作品でもあるのです。

その作品がお金があれば簡単に作れるものかもしれないが、その過程が大事なのです。

お金に目印が付いているでもなく彼はこれは忌まわしいお金と見分けて拒否したのであります。

お金に良質の賂がかかっていなければならなかったのです。この観念性が滞りなく生かされていることに脅威を覚えるのであります。

かかる人の存念を私たちは推し量る術を知らない。あるのは人としての気概を知るのであります。

  1. 2013/05/26(日) 20:04:05|
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