つい先日、東京に出かける機会があった。
 田舎者故行き交う人の多さに打ちのめされ、半ばめまいを覚えながら降り立った新宿駅西口。

 そこでビッグ・イシューを売っている男性の姿があった。旅の思い出とかいうことではなく、こういう時でもなければ手に入れることは出来ないと思い声をかける。こちらが地方から出てきたというのを感じたのか差し出した千円札を細かくするために駅のコインロッカーに向かって走っていった。

 程なくして手に入れたビッグ・イシュー245号の記事の中にあったのが「人と意見を交わせば~」だった。これはチリの若手監督パブロ・クラインによるドキュメンタリータッチの映画「NO ノー」の主演であるガエル・ガルシア・ベルナルと監督のインタビューによるもの。少しだけ抜粋すると

 「人と意見を交わせば、そこには政治が生まれる。特に僕らが住むラテンアメリカでは、政治と無関係でいるのはとても難しい。たとえば米国では『政治に首を突っ込んだ後、元の生活に戻る』なんて言い方をするよね。でもラテンアメリカでは、日常生活のどんな行動においても、ある意味、政治を行っていることになるんだ。この映画でも、そうした一面が描かれていると思う」 

 ちなみに、この「NO ノー」という映画はピノチェトによる独裁・軍事政権を国民投票による不信任という形で無血のうちに終結させるまでの過程を描くもの。恥ずかしながらオイラ、ピノチェトが独裁を布いていたのは知っていたが、政権が倒れる過程は全く知らなかった。しかも、その舞台が1988年で日本がバブルに浮かれていた頃だった。

 「人と意見を交わせば~」という感覚を持っている日本人がはたしてどれだけいるだろうか?
 穏やかなれど、身につまされた。多くの日本人にとっては政治がお偉いセンセー方、ちょっとシニカルに見たとしても官僚がやってくれるもんだと思い込んでいるのではないか?

 映画公開後は数週間に渡って国民的議論が起こったそうである。日本には国民的議論をすべきことがいくつも横たわっている。震災からの復興、原発、集団的自衛権、オリンピック、つい最近では広島の大雨による土砂災害・・・。なのに、いつもと変わらない日々が流れているかのような気にさせられてしまう。オイラとしちゃ、震災からの復興と原発問題を一緒くたにしてしまうマスゴミの感覚が理解できないんだが。

 記事は主演のガエル・ガルシア・ベルナルが「全ての批評に目を通して思ったんだ。『いいことじゃないか、誰もが自分の意見を持つべきなんだから』って」とあった。監督のベルナルも「この映画は、ラテンアメリカに実現した自由の象徴だと言える。カメラさえあれば、すぐに映画を撮り始めることができると証明して見せた点でもね」と答えている。 

 振り返って今の日本はどうだろう?こうした感覚を持てる空気があるだろうか?
 ・・・東京の空がやけに陰鬱に見えたのは言うまでもない。