政治にはカネがかかるのだ。
議員一人でやれることには限界がある。政策秘書は2人まで公費が支払われるが実際問題として政策を立案するためには2人では到底足りないので私的に秘書を雇うことは当然起こりえるし、資料を整理しようとすると6畳一間の部屋で済ませるなんてことも不可能。今は情報発信のためにネットの環境も整えなくてはならないから人的・物的共にお金をかけなきゃ議員活動がままならないのが実情。その意味で、地盤・カバン・看板を引き継ぐことができる世襲議員が減らないのは選挙戦で有利なことも相まって自然なことだとも言えるのだ。
小沢問題にしろ小林議員のことにしろ、どこからもらったかばかりにフォーカスを当てていて、政治家がカネをもらうこと自体が悪だということになってしまっている。政治家がカネをもらうことやカネを集めることは悪である、というのはどこか違和感を感じてしまうのだ。
一時期、事務諸費が月100万円では足りないと舛添がボヤいていたと思ったが実際足りないのだろう。自分でできないことを政治家に託す以上は政治家にカネを出すことはある意味では義務だとも思う。それが税金という形でなのか、政治資金としての寄付でなのかは人によるだろうが。
アメリカはそういうところは開けっ広げというか露骨というか、そういう団体や個人の存在がはっきり目に見える。ロビイストや労働団体なんかは圧力団体として無視できないわけだし。「カネ出すんだからおいしい思いをさせろ!」というのが当たり前になっていてそれを競うのが選挙だということなのだろう。
ただ、企業が献金を行うということは利益誘導に結びつく危険性があるのも事実。企業献金を禁止すべし、というのは賛成ではあるのだが、個人と企業の献金の境目をどうつけるかというのが難しい。小沢問題ではそこのところが曖昧なイメージがあるために小沢叩きが加速することとなったとみている。
会社として献金をするのはアウト。しかし、同じ会社に勤める個人個人が献金をするのは何ら問題がないはずだ。この人に頑張ってもらおう!と決めた人が1つの会社内に沢山いて、個々が政治家にお金を出すのではなく1カ所にまとめてそこから献金をする形にする。
ここに果たして違法性があるかどうか?これを100%クロと断じるのは無理があるように思うのだが。これをクロとするなら献金はすべて個人で行わなくてはならなくなり事務処理だけでもものすごく手間がかかるだろうし、政治家を支援する組織を作ってはいけないということになってしまい後援会はみんな違法ということにならないか?それではお金は集まらないし、特に落選してしまった政治家はまともな活動などできないだろう。現場を知ることもできなければ意見を伝えることもできないとなっては次世代を担う政治家など現れるはずがないし、育てようもない。
政治の力はある意味で資金力に比例する。そこを見ないでカネ集めはするな!というのは虫が良すぎる。政治家が問われるのは国のために、もしくは国民のために何をしたが問われるのであって、カネ集めがどうとか言うのは次元が違う話。
小沢はカネこそ力というのが強すぎてあまり好きではないのだが、小沢がビューロクラシーを打破しようとしているのは確かなことだと思う。ましてや、一連の土地取引には違法性はないと言ってもいい。なのに、「政治とカネの問題」として一緒くたに片づけようとするのは別の意図があるように思えてならない。
それに、政治とカネの問題と言うのならまともな税金の使い方をしなかった歴代自民党政権の罪の方が遥かに重い。それに堪忍袋の緒が切れた国民が一票一揆を起こして自民党は惨敗を喫したというのが全くわかっていない。審議拒否は身内である公明やみんなの党にまで裏切られる始末。だからこそ、そんな中での町村や大村の全く空気の読めないネチリズム丸出しの質問ぶりが腹立たしいのである。