昨日の小沢冤罪裁判。最終弁論に対する指定弁護士のコメントは「的確な意見と評価できる部分もあれば、随分苦しそうな主張もあった。最終的には裁判所がどう判断するかだ。

 あんたらの主張には苦しいところしかないだろうという突っ込みはさておき、この最後の部分がどうしても気になってしまう。投げやりになっているというのではなく、「私たちは“役割”は果たしましたよ。あとはそちらでやって下さい」という逃げ腰の姿勢として受け取れる、ということである。仮に“逆転”無罪になれば裁判所が悪の大ボスです、仕方なく指定弁護士として職務を遂行しただけで私たちは悪くありませんと言い訳ができる余地を残しているような気がしてしまう。

 ゴミ売り3面にある 強制起訴の当否 初判断 という記事の中にはこうある。

 政府検討会の委員として強制起訴制度の導入に関わった四宮啓・國學院大教授(刑事司法制度)は、「起訴は無効とせず、判決で有罪、無罪を判断するのでは」とした上で、「検審に虚偽の報告書が提出されたことは検審制度の問題ではなく、検察の重大問題。検察自身による原因解明と再発防止策が必要だ」と述べた。
(一部抜粋、引用終了) 

 確かに今回の小沢冤罪裁判は小沢一郎が国のトップに立つことで権益を侵される側の人間や組織が(そしてそこにはもちろん検察も含まれている)検察をけしかけたことで起こってしまった必要のない無駄なものだったが、同時に、「システム、仕組みには問題はない、悪いのはあくまで虚偽の報告書を出した検察だ」という所詮は教授の立場らしい現実に即した意見ではないとも言える。
 検察が常に正義の味方であればそれも通るだろうが、現実はそうではない上に、検察が虚偽の報告書を出して検察審査会を行う可能性があることがそもそも想定されていない。ましてや、検察が虚偽の報告書を「たまたま」出してしまったというのではなく、明らかに小沢一郎を潰すつもりで無理に無理を重ねて小沢有罪ありきで強引に結論づけた報告書なのだから。図らずも、検察審査会の欠陥が小沢冤罪裁判の過程において明らかになったと言い換えてもいいかも知れない。陸山怪事件では検察審査に当たった人物の平均年齢が偶然ではあり得ないくらいに一致したとかボロが次々に明るみに出ている。

 虚偽の報告書が出されたことが明らかなら検察審査会による起訴そのものを無効とするのが筋ではないのか?わざわざ判決を待つ必要があるのか?

 証拠とした調書は捏造、自分の金を担保にして融資を受けたのだから犯行動機もない、その金も預貯金なのでいわゆる裏金でもない、期ズレと言われる手続も修正報告で済む程度のものであって隠蔽の意図はなく、重罪人扱いされる覚えはない。何もかもデタラメな裁判は結審したが、これで判決までデタラメとなるのだろうか?白を黒と言い含める、というより白を無理やり黒にしてしまうことが日本の司法制度となってしまったら日本は本当に黒い闇に包まれる。