徳川家光がフィリピンのマニラの征伐を検討した背景を考える
家光は将軍に着任したその年から、スペインとポルトガルの船の入港時機を制限し、邦人のキリスト教信徒の海外往来を禁じ、翌寛永元年(1624)には在留しているスペイン人を国外に退去させ、あわせてスペイン人およびフィリピンとの通商を禁止している。かくしてわが国に在留する外国人は長崎(ポルトガル人)と平戸(オランダ人)に限られることとなった。
では家光は、日本人のキリスト教に対してはどのような施策をとったのか。
家光が将軍の位についた年の12月4日に、江戸の札の辻(東京都港区)で多くのキリスト教信徒の処刑が行われている。
その処刑の中心人物は原主水(はらもんど)という武士で、以前は徳川家康に仕えていたのだが、慶長17年(1612)に江戸・京都・駿府をはじめとする直轄地に対してキリスト教の禁教令が出され、キリスト教徒であった原主水は10名の旗本とともに殿中を追われることになった。しかしその後も布教を続けたために慶長19年(1614)に捕えられ、その時も棄教を拒んだために手足の指が切られた上に額に十字の烙印を押される身となったのだが、その後は教会に出入りして神父らを助けて、非合法活動であったキリスト教の布教に従事していた。
ところが密告者があり、原主水、外国人宣教師をはじめ約50名が捕えられ、処刑の日には3つの組に分けられて江戸の町を引き回された後、火刑に処せられることとなった。
処刑される前に原主水は「キリストの為に死する時きたり、天国に行くことを喜び、進んで刑場に着す。これ我が勝利を得たる者にて、こよなき幸福なり」と述べたそうだが、他のキリシタンもほとんどが同様な態度で死んでいったという。(ヴイリヨン 著『日本聖人鮮血遺書』)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1019243/206
キリスト信徒の世界では、あらゆる迫害を耐えて信仰を守り、キリストの為に命を捧げることを「殉教」と呼ぶのだが、家光の時代には数多くのキリシタン殉教者が出ている。
彼らの多くが処刑に抵抗せず従容として死に就いていった理由は、「殉教者」が聖なるものとして信徒から非常に尊崇されていたからである。だから処刑の後に多くのキリスト教信徒が、殉教者の遺骸や遺品を持ち去ろうとするので、またまた信徒が捕えられて処刑されることになる。
江戸では12月29日にはさらに37人が火炙りなどで処刑された記録があるが、この様にしてキリスト教信徒が各地で処刑されたようだ。この年には一説では天領だけで4~500人が殉教したというが、詳しい記録が残っているわけではなさそうだ。
学生時代に鎖国に至る歴史を学んだ際に、江戸幕府がキリスト教を禁教にした理由も、また鎖国に踏み切った理由も、いま一つ納得できなかった。
教科書などを読んで分かりにくい主な原因は、戦後の書物は西洋諸国の暗部を記述しない点にあると思うのだが、その理由は、その点を詳述してしまうと戦後に戦勝国が広めようとした歴史観と矛盾することになり、それでは困る勢力が今も内外に強い影響力を保持しているからではないかと考えている。
では、戦前の書物ではどう解説されているのか。
やや長文だが、徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第14 徳川幕府上期 上巻 鎖国篇』(昭和10年刊)の解説を引用したい。
「…当時の耶蘇(キリスト)教徒が、ややもすれば日本主権者の命令を無視して、独自勝手の運動をしたのは、当局者の目に余る事実であった。いわば当時の宣教師そのものが、この点について、甚だ不謹慎であった。されば耶蘇教徒の災難は、半ば自ら招きたるものであるというのが、むしろ公平の見解であろう。
[耶蘇教禁圧の主な理由]
(第一)耶蘇教は、日本の国法を無視すること。
(第二)耶蘇教は、日本の神仏を侮蔑、攻撃し、平地に波乱を起こさしむること。
(第三)耶蘇教は、社会の落伍者を収拾し、自然に不平党の巣窟となること。
(第四)耶蘇教は、スペインの手先となりて、日本侵略の間諜となること。
(第五)外国の勢力を利用せんとする、内地の野心者の手引きとなるのおそれあること。
以上はおそらくは幕閣が耶蘇教禁圧のやむべからざるを認めた理由であろう。これは幕閣としては杞憂であったか、真憂であったか。いまにわかに断言すべきではないが、しかもこれを一掃的に杞憂であると抹去すべきではない。
[宣教師らの反抗運動]
特に幕閣をして、禁教の手を厳重ならしめたのは、宣教師らの反抗運動であった。彼らは退去を命じられればたちまち逃走した、隠匿した。しからざれば一たび退去し、更に商人の服装をして渡来した。しかして彼らを厳刑に処すれば、信者は踴躍(ようやく)してこれに赴き、しかして就刑者の或る者は、直ちに天子に等しき待遇を受け、しからざるも、殉教者として尊崇せられた。信徒らはその流したる一滴の血さえも、これを手巾(ハンカチ)に潤し、神聖視した。
[不得止一切無差別渡航禁止]
かかる状態に際しては、幕閣たるものは、根本的にこれを杜絶(とぜつ)するの策を考えねばならぬ。いやしくも船舶が交通するにおいては、如何に宣教師渡航禁止の法律を励行するも、これを潜る者あるは、事実の証明するところで、今さら致し方がない。商売は商売、宗教は宗教との区別は、秀吉以来、家康以来、既にしばしば経験したところだ。しかもそれがことごとく水泡に帰した。こちらでは区別をするが、あちらでは区別をせぬ。さればその上は、一切無差別に、通航を禁止するしか他はないのだ。
[余儀なき鎖国]
必ずしも徳川幕府の為に、耶蘇教禁止の政策を弁護するのではない。しかも彼等の立場として、まことに余儀なき次第と言わねばならない。しかしてさらに、より以上の必要は、幕府自身の自衛だ。幕府の憂いは、内には不平党の召集だ。ほかには外国の干渉、および侵襲だ。しかしてこの両者の導火線は、いずれも耶蘇教と睨(にら)んだからには、これを禁止するは、幕府の自衛策として必須である。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/138
戦後の歴史書が分りにくい理由は、わが国を植民地化することを執拗に狙っていた国のことがほとんど紹介されていない点にあるからだと考えているが、江戸幕府が自衛のために、また、外国の干渉を排除するためにキリスト教の禁教が不可欠であったことは、この点を理解しないと見えてこないのである。
この当時わが国と接触があった西洋諸国は、ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスの4か国であるが、この中で最大の恐怖は、メキシコやフィリピンを植民地化したスペインであろう。
スペインがわが国に対してどの程度の野心があったかについてはスペインの公文書で明記されている訳ではなさそうだが、その敵国であるオランダやイギリスから、スペインに野心があることをわが国に警告していた記録がある。
また、スペインも、わが国の沿岸を勝手に測量したり、わが国の禁令を破って宣教師を潜入させるなど、スペイン人の野心を疑わせる行為を繰り返していたので、江戸幕府が警戒したことはむしろ当然の事であった。
徳富蘇峰はこうも述べている。
「禁教と鎖国は至近至切の関係がある。鎖国せねば禁教が徹底的に行われず、禁教するには鎖国が第一要件だ。しかし鎖国は禁教のためと思うべきではない。世間に発表したる理由は、耶蘇教禁圧のためというが、その実は決してそれのみではない。徳川幕府は、日本の大名もしくは個人が、外来の勢力と接触するを甚だ危険に思った。そはその勢力をもって、幕府に当たらんことを懼(おそ)れたからだ。これは幕閣としては杞憂であったか、否か。当時の大名には、それほどの気力あるものもなかったようだが、しかも幕閣の立場としては、相当の遠慮というべきであろう。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/144
家康の時代に、幕府は鉱山採掘や、航海、造船の技術をスペインから得ようとしたことがあったが、彼らは宣教師ばかりを送り込んできた。江戸幕府から禁教令が出されても、スペイン人はフィリピンのルソンから宣教師を送り続けたという。
そこで、フィリピンからの宣教師の潜入をストップさせるために、江戸幕府がフィリピンの征伐を検討していたことが2度ばかりあったようだ。
再び徳富蘇峰の文章を引用する。文中の「彼」というのは、関ヶ原の戦いや大坂の陣で功があり、肥前島原領主となった松倉重政のことである。
「彼は寛永7年(1630)、自力にてルソンを征服せんと幕府に請うた。彼は耶蘇教の根本療治は、ルソンを退治するにある。もし某(それがし)に十万石の朱印を賜い、ルソンを領することを許されなば、独力にてこれに当たらんと申し出でた。かくて彼は吉岡九左衛門、木村権之丞に20人の足軽をつけ、絲屋随右衛門の船に乗せて、偵察に赴かしめた。彼らは11月11日に出帆し、木村は途中に死し、吉岡はマニラに入り、翌年6月に帰朝したが、松倉は前年吉岡らの出帆後いくばくもなく、11月16日に逝き、壮図は空しく彼とともに葬り去られた。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/145
松倉重政は、吉岡九左衛門らを乗せた船が出帆してわずか5日後に亡くなったために、この計画は消滅してしまったのだが、この7年後に江戸幕府は再びフィリピン征伐を計画している。
「寛永14年(1637)に、幕府はルソン征伐を企てた。これは宣教師の根拠地を覆すと同時に、彼らが琉球を経て、密貿易を行なうを杜絶するためであった。而して幕府は、寛永15年(1638)」の冬、遠征軍を出す計画を立て、末次平蔵をして、兵士輸送の為に、蘭(オランダ)人から船舶を借るべく交渉せしめた。蘭人もその相談に乗りかかり、さらに戦艦をも供給すべく準備したが、島原の一揆の為に、中絶した。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/146
では、もし江戸幕府がフィリピン征伐に動いていたとしたら、江戸幕府が勝利した可能性はどの程度あったのだろうか。
当時スペインやポルトガルが多くの国々の領土を簡単に侵略できたのは、弓矢しか武器を持たない国が大半であったからなのであって、わが国だけは鉄砲伝来の翌年に鉄砲の大量生産に成功し、16世紀の末期には世界最大の鉄砲保有国になっていたし、フィリピンの国防は日本人の傭兵部隊に頼り、武器も日本から輸入していたことを知る必要がある。
もし日本から傭兵と武器を調達できなければ、スペイン人はそう長くは戦えなかっただろうし、徳川幕府軍が日本人傭兵やフィリピンの原住民と繋がれば、スペイン人を追い出すことは、それほど難しくはなかったと考えられるのだ。
なぜなら、当時のスペインは地中海全域で戦火を交え、国内ではオランダやポルトガルが独立のために反乱を起こしており、フィリピンを守るためにわざわざ本国から軍隊を派遣するような余裕は考えにくく、もし長期戦になった場合に武器の補充は容易ではなかったからである。
以前このブログで書いたが、フィリピンでは1603年にスペイン人数名が日本人傭兵400人を引き連れて、支那人1500人以上の暴動の鎮圧に成功した記録がある。しかし、その3年後の1606年には、スペイン人は強すぎて多すぎる日本人を警戒するようになり、フィリピンから日本人を放逐しようとする動きが起こっている。
シャム国では1621年に山田長政率いる日本人を中心とする部隊が、スペイン艦隊の二度にわたるアユタヤ侵攻をいずれも退けている。
また同じ1621年には、オランダとイギリスの艦隊が日本行のポルトガル船とそれに乗っていたスペイン人宣教師を江戸幕府に突きだし、マニラ(スペインの拠点)・マカオ(ポルトガルの拠点)を滅ぼすために、2千~3千人の日本兵を派遣することを幕府に求めている。
この時2代将軍秀忠は、このオランダ・イギリスの申し出を拒否したばかりではなく、逆に『異国へ人身売買ならびに武具類いっさい差し渡すまじ』との禁令を発し、オランダ・イギリス両国に大きな衝撃を与えることになったのである。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-371.html
この様な史実を知ると、「日の沈むことのない帝国」と言われたスペインも、またオランダもイギリスも、それほどの強国であったとは思えなくなる。
菊池寛の『海外に雄飛した人々』(昭和16年刊)という書物に、英国人のバラード中将が、次のような発言をしていることが紹介されている。
「ヨーロッパ諸国民の立場から言えば、徳川幕府が300年間日本人の海外発展を禁じてしまったのは、もつけの幸いであるというべきである。もし、日本が、秀吉の征韓後の経験にかんがみ、盛んに大艦や巨船を建造し、ヨーロッパ諸国と交通接触していたならば、スペイン・ポルトガル・オランダなどの植民地は、あげて皆日本のものとなっていたであろう。否、インドをイギリスが支配することも出来なかったかもしれない。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1276921/72
現在はともかくとして、少なくとも当時の日本人は非常に勇敢であり、江戸幕府がその気になればこの時期に東南アジアから白人勢力を排除できたということを、英国の軍人が述べていることは驚きだ。
江戸幕府がキリスト教を禁じ鎖国に至る流れについての歴史叙述については、戦前に出版された書物の方が、当時の世界の動きを良く伝えていてはるかにわかりやすい。
戦後の書物では世界の動きをほとんど触れずに、キリスト教徒を激しく迫害したことや江戸幕府の偏狭さを記して禁教から鎖国が論じられることが多いのだが、これではなぜ江戸幕府がキリスト教を禁じ、鎖国するに至ったのかがスッキリ理解できるはずがないと思う。
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大航海時代にスペインやポルトガルがわが国に接近し、わが国をキリスト教化し植民地化とするための布石を着々と打っていったのですが、わが国はいかにしてその動きを止めたのかについて、戦後のわが国では封印されている事実を掘り起こしていきながら説き明かしていく内容です。最新の書評などについては次の記事をご参照ください。
https://shibayan1954.blog.fc2.com/blog-entry-626.html
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