江戸幕府の対外政策とキリスト教対策が、急に厳しくなった背景を考える
家康は、晩年にはキリスト教に対し比較的厳しい態度をとったのだが、日本人信徒に対しては厳しくとも、外国人に対してはどちらかというと寛大であった。その理由は、家康自身が外国貿易のメリットを捨てきれなかったからであろう。
ところが、大坂夏の陣の翌年である元和2年(1616)の1月に、鷹狩りに出た先で徳川家康が倒れ、4月17日に駿府城において死亡してしまう。

家康の後を継いだ第二代将軍・徳川秀忠は、その後江戸幕府の対外政策を一変させている。
同年の8月には支那商船を除くすべての外国商船が寄港できる港は長崎と平戸だけとなり、いかなる大名もキリシタンを召し抱えたり、領内に置くことが禁じられ、宣教師およびその補助者または従僕と交際するものは生きながら焚かれるか、または財産が没収され、これを隠匿するものは、婦人・小児および5人組までも同罪とした。また江戸、京都、大坂、堺などには外人の滞留を禁じられ、イギリス人、オランダ人もこの地方からの撤退を命ぜられている。
レオン・パジェスの『日本切支丹宗門史』にはこう解説されている。
「この間に、特に江戸や京都の皇都、ならびに皇帝の直轄領である上方の諸州で、猛烈な迫害が始まった。奉行中の首席で、性質の温順な人物である板倉殿(板倉勝重)は、きっと新主の意に適うと信じて、無慈悲になった。彼の同僚もまた、彼に倣って、苛酷になった。諸侯も大体、政庁(幕府の意)の命令に従った。…
長崎もこの例に漏れなかった。全町悉くキリシタンなるこの町では、爾後禁令の条項に照らして司祭を留め、天主堂を置き、公然と礼拝することは厳禁された。」(岩波文庫『日本切支丹宗門史』中巻 p.7)
しかしながら長崎では、幕府の禁教令が出ていた環境下にもかかわらず、なお数十名の司祭らが留まっていて、山の中などで潜伏するなど人目を避けて活動していたという。
山本秀煌氏の『日本基督教史. 下巻』によると、修道会派によって対応が異なっていたようだ。
「日本内地に潜伏したる各派宣教師の意見は二途に分かれて一致せず、たがいに相反目していた。耶蘇組(イエズス会)の司祭らは時宜にしたがうを可なりとし、昼はなるべく潜伏して他出せず、夜半人定*てのち、出て宗務を行なった。しかるに、フランシスカン、ドミニカン、アウガスチン派の宣教師らは時勢に辟易して陰匿するのは怯懦であり、不義である。よろしく公然教務を行なうべしと唱え、白昼出て横行し、宗務を公行するに憚らなかったため、そのことが何時しか江戸に聞こえ、将軍の憤怒を招くに至った。」
*人定て:寝静まって
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943940/153
そして翌元和3年(1617)1月1日、参賀に来た肥前大村藩の藩主・大村純頼(すみより)をみて、将軍・徳川秀忠はこう詰問したという。
「聞く、長崎地方には今もって外国船教師の徘徊するものありと、卿よろしく速やかにこれを海外へ駆逐し、怠慢の罪を購うべし」
大村純頼は、幼少の頃よりキリスト教を奉じる環境で育ったことから宣教師を虐待するに忍びず、領内に潜伏していることを知りながら看過してきたのであるが、将軍秀忠の怒りを買った後の対応もまた甘かった。
「…純頼は、宣教師に諭して若干名をマカオに去らしめ、またその余は隣邑に散在せしめて長崎地方に一人の宣教師もあらざるとの証とし、かつ2人の宣教師を捕えて之を獄に投じた。これは1つは幕府に対し、たとえ一人にても宣教師を許き出して嫌疑を避け、かつその責を塞がんためでもあった。また1つは、かくのごとくにして、今なお潜伏している宣教師を恐怖せしめて、領内より遁走せしめんが為であった。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943940/153
大村純頼は、捕えた2人の宣教師を死罪にしたくなかったようなのだが、幕府より「直ちに死刑に処すべし」との命令を受けるに至り、涙を呑んで斬首刑に処したとある。しかしながらこの宣教師二人の処刑は、長崎では逆に多くのキリスト教徒の信仰を奮い立たせることになったようだ。
長崎付近で潜伏していたドミニコ会のアロンゾ・ナヴァレット司教とアウグスチノ会の聖ヨセフ司教は、二人の宣教師の殉教を聞いて立ち上がり、死を覚悟で公然と布教を再開し、伝え聞いて集まった三千人の教徒たちは、賛美歌を歌ってその声は天地に響いたという。
山本秀煌氏は同上書でこう解説している。
「殉教者の一挙一動は教徒に至大の感化を与えてこれを激励し、先に迫害の苛責を恐れて転宗を誓った者も再び悔改して憚るところなく、苛責は勿論死刑をもなお辞せざるの態度を示したので、奉行所の官吏も教民の熱狂に委縮して袖手傍観して敢て手を下さなかったが、江戸よりの催促に応じ、やむなく僅かに宣教師を隠匿する17~8名を捕え、窃にこれを殺戮してその責を塞いだ。また大村においても宣教師の殉教以来次第に転宗者の復帰する者の数を増し、新たに洗礼を受ける者もまた加わった。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943940/157
こんな具合で、宣教師を斬首しても、宣教師を匿った者を死罪にしても、信徒たちが棄教することには繋がらなかったのだが、江戸幕府はその後もキリスト教への弾圧の手を緩めることはなかった。
外国人宣教師で死罪となった者は少なくて、ほとんどは大村の獄中に繋がれたそうだが、日本人の信徒に対する弾圧については徹底していたという。
山本秀煌氏はこのように解説している。
「日本人の各地において苛責斬殺された者は数百人にのぼり、あるいは斬罪、烙刑、磔刑に処せられ、あるいは火責、水責、笞打、石抱、釣責の拷問にかかり、あるいは手指を截られ、足腿を断たれ、あるいは赤色の十字形を彫刻せられた…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943940/161
ところで、江戸幕府が急にキリスト教の取締りを強化した理由はどこにあるのだろうか。

徳富蘇峰は『近世日本国民史. 第14 徳川幕府上期 上巻 鎖国篇』で、こう解説している。
「当時の日本は、欧州の事情に精通したとは言わぬが、…若干の知識を有していた。その証拠は、幕閣から外人に対したるかけ引きを見てもわかる。しかしそれよりも適切なるは、眼前にマカオやルソンが、ポルトガル人やスペイン人のために、侵略・占領せられていることだ。かかる実物教訓を、鼻の先に突きつけられて、なお呑気に構えいるべき筈がない。
かつ欧州の一大厄難であった30年戦、すなわち2千万のドイツ人口を7百万に減少せしめたる戦争は、1618(元和4年)にはじまり、1648年(慶安元年)に終わった。
されば秀忠、家光の時代は欧州はその戦争最中であった。…
されど、それより重大なる理由は、外患ではなく、内憂であった。徳川幕府は言うまでもなく、幕府中心主義を以て立った。日本国の存亡よりも、幕府の存亡が彼らに取りては第一義であった。…
今かりに外国と勝手に交通するとせよ。いわゆる外様の大名は、外国の勢力と相結託する危険はなきか。…あるいは外国の勢力と結託して、内乱を起こすものが無いとも限らぬ。あるいは外国に根拠を設け、策源地を作り、そこから機会を見て、日本に事をおこし、もしくは起こさしむる者も無いとは限らぬ。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/142
蘇峰は、そのまま外国人の流入を放置していれば、当時の情勢からすればマカオやルソンがその「策源地」となり、わが国を再び戦乱に巻き込んで次第に外国人に侵略されていった可能性を示唆しているのだが、そのような戦略を考えている外国人が存在していてもおかしくない。以前このブログでも紹介したが、当時の宣教師が本国に向けて日本の武力征服する方法について記した書翰がいくつか存在するのである。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-376.html

国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで昭和5年に刊行された姉崎正治氏の『切支丹伝道の興廃』という書物を読むと、禁教令が出て幕府の取締りが厳しくなり、長崎で2名の外国人宣教師が斬首された後にも、マカオからはイエズス会、マニラからはフランシスコ会の宣教師らが次々とわが国への潜入に成功していることが記されている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1918428/291
また山本秀煌氏の『日本基督教史』では、これだけ厳しい取り締まりをしていたにもかかわらず宣教師が侵入して欠員を補充し、迫害があったにもかかわらず3千人を教化し得たことが書かれている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943940/167
将軍秀忠の時代の殉教者は300人程度とされているが、3千人もの信徒を獲得したというのなら、キリスト教信徒数は増えていたということになる。幕府にとってみれば、いくら弾圧しても減らないキリスト教信徒は、さぞ不気味な存在であったに違いない。

このブログで、ローマ教会が15世紀に、スペインやポルトガルに対し異教の国の全ての領土と富を奪い取り、その住民を終身奴隷にする権利を授与する教書を相次いで出していることを書いたが、その教書のおかげで、西欧諸国は何の罪の意識もなく、異教徒を虐殺したり奴隷にして売飛ばす手法でその領土と富を奪い取り、世界を植民地化してキリスト教世界に変えていったのである。そして1529年のサラゴサ条約で、スペインとポルトガルが征服するべき領土が分割され、その分割線は日本列島を真っ二つに分断していたことを知らなければ、この時代に西洋諸国から多くの宣教師や商人が渡来したことが理解できないだろう。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-376.html
キリスト教がわが国に伝来した後、宣教師らは商人と結託してキリスト教の布教を認めた地方大名に武器や火薬を売り込み、キリシタン大名がその武器や火薬を買うために大量の日本人が奴隷に売られて海外に連れ去られた。そして宣教師らの教唆によって神社仏閣が徹底的に破壊されていった。
彼らの最終目的は、わが国を植民地化し、キリスト教を奉ずる国に変えることにあったのだが、そのような宗教が広まることは、当時の大半の日本人にとっては甚だ迷惑なことであったはずだ。
確かに、無垢なキリスト教徒に対する江戸幕府の処刑は随分残酷なものがあったのだが、処刑された人数より2桁も3桁も多くの善良な人々が奴隷にされて外国に売られていた状況を放置し、キリシタン大名が強大化していくことを放置されていれば、いずれわが国は西洋の植民地にされ、わが国の伝統的文化的遺産の大半をこの時期に喪失していた可能性が小さくなかったと考えるのは、私ばかりではないだろう。
キリスト教もイスラム教も一神教であるが、一神教は異教徒や異文化の存在を容認しないところがある。過去の歴史の中で、自らが奉じる宗教や文化を広めるために、神の名においてテロ行為や他国の侵略や異教徒国家の転覆をはかる過激な局面が少なからずあったし、今もそれが世界の一部で続いているように思われる。この原理主義的な動きを封じることが難しいところは、テロ行為や国家転覆に繋がる行動を取りながら、自分のしていることを正しいと信じて疑わない信徒が存在する点にある。
キリスト教がこれ以上わが国に広まることの危険性を認識していた江戸幕府が、キリスト教の影響を排除するためにとった政策は確かに残酷なものではあったが、わが国が西欧諸国の植民地とならないためには、このような政策をとる以外にはなかったかもしれない。
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大航海時代にスペインやポルトガルがわが国に接近し、わが国をキリスト教化し植民地化とするための布石を着々と打っていったのですが、わが国はいかにしてその動きを止めたのかについて、戦後のわが国では封印されている事実を掘り起こしていきながら説き明かしていく内容です。最新の書評などについては次の記事をご参照ください。
https://shibayan1954.blog.fc2.com/blog-entry-626.html
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