島原の乱を江戸幕府はどうやって終息させたのか
前々回の記事で、オランダが「一揆勢」が籠城している原城に向かって艦砲射撃を行なって幕府に協力したことを書いたが、一揆鎮圧のために外国の援助を求めることについては熊本藩主・細川忠利らから批判があったようだ。
しかし、熊本藩の記録『綿考輯録』によると幕府軍の総大将松平信綱は、オランダ船を呼び寄せて砲撃させたのは、『南蛮国』の援軍を心待ちにしていたキリシタン達に対し、同じ『南蛮国』であるオランダから砲撃させて、籠城勢の希望を砕くためであったと答えたという。

確かに、幕府軍が攻め急ぐ理由はなかった。単純に戦力を比較すると「一揆勢」37千人に対し幕府方は125千人もいて、すでに原城を取り囲んでいたのである。
普通に勝負すれば幕府方の勝利は確実なのだが、拙速で相手を窮地に追い込んでしまうと、死を恐れない一揆勢が大量の武器・弾薬を用いて最後の戦いを挑んでくることになる。そうなると、幕府側も多大な犠牲を避けられなくなってしまう。
松平信綱は、正面作戦をとらずに相手の戦意を挫く戦略で臨んだようである。
前々回の記事で、松平信綱は「一揆勢」に対し、なぜ籠城して幕府軍に反抗するのかと「矢文」で問いただしたところ、幕府にも藩主にも遺恨はない、ただ「宗門」を認めて欲しいとの返事があったことを書いた。
この返事に対して松平信綱は、キリシタンだけは決して承認しなかったという。
寛永15年(1638)1月21日に「一揆勢」から、城中の大将分3名を成敗される代わりに残りの籠城者は助命して欲しいとの申し入れがあったのだが、松平信綱ら幕府上使はそれを拒否し、さらに男子はすべて成敗されても良いから妻子を助命して欲しいとの申し入れをも拒否したことが、『肥前国有馬高求郡一揆籠城之刻日々記』に記録されているそうだ。

さらに2月1日に松平信綱は、熊本藩に逮捕された天草四郎の親族に書かせた手紙を天草四郎の甥・小兵(こへい)に持たせて原城内に派遣し、一揆に対して申し入れを行わせている。
その手紙の内容が、神田千里氏の著書に要約されているので紹介したい。
「第一に去年・今年に原城内から逃げ出した『落人』は命を許され、金銀を与えられ、今年は在所で年貢を免除され、耕作に励んでいること。第二にキリシタン宗旨の者は全員処刑することに決められているが、以前『異教徒』であったのに無理強いにキリシタンにされた者は『上意』により助命するので、『異教徒』を城外に解放すべきこと、ただしキリシタンは殉教を選ぼうと関知しないこと、第三に一時改宗したものの、後悔して今は元の『異教徒』に戻りたいと思っている者もまた、助命すること、第四に天草四郎は、聞くところによればわずか十五、六歳の子供であり、人々を唆(そそのか)した張本人だとは思っていない、もし側近たちが擁立しているだけなら、四郎本人であろうと助命する、との四点である。」(『宗教で読む戦国時代』p.196)
原城に籠城している「一揆勢」には、「キリシタンになるなら仲間に入れてやるが、ならなければ皆殺しにすると迫り、住民たちは否応なくキリシタンになった(『御書奉書写言上扣』)」人々や、戦争の惨禍を逃れるために避難した一般住民も含まれていたようだ。松平信綱は、キリシタンと異教徒とを区別し、キリシタンは許さないが無理やりキリシタンにされて後悔している者は許すと明言して、「一揆勢」を分裂させようとしたのである。

このような心理戦が功を奏してかなりの者が幕府軍に投降したという。
たとえば『池田家・島原陣覚書』には、「正月晦日に水汲みにかこつけて幕府軍に投降した者もおり、この者は、城内には投降を希望する者も多いが、監視が厳しいので投降が出来ないでいると語った」と記されているという。
神田千里氏の同上書には「一揆勢」の投降の事例がいくつか紹介されており、投降者は合計で1万人を超えていたと推測しておられるのだが、正確な人数については記録が残っていないので分らないようだ。
また神田氏の著書に、「一揆勢」に敵対した住民数多くいて、当初から幕府方に味方したことが記されている。
「島原地方でみてみれば、島原城下町の住民は…町のリーダーたちを中心に藩側に味方し、島原城に籠城していた。また島原半島の北方、『北目』とよばれる地域の山田、森山、野井、愛津の4ヶ村は代官の桂田長兵衛、新甚左衛門に率いられて、一揆方の千々石村と戦っている。(『島原一乱家中前後日記覚』『別当杢左エ門覚書』)」(同上書 p.199)
天草地区でも同様に多くの住民が熊本藩に逃げてきたのだそうだが、このような住民間の対立があった史実を知ると、「島原の乱」は苛酷な年貢の取立てに起因するという通説がおかしいことに誰しも気づくことになるだろう。キリスト教徒の方は認めたくないこととは思うが、「島原の乱」は宗教一揆であったと理解すべきなのである。
ところで寛永15年(1638) 2月21日に、原城から夜襲をかけてきた城兵を幕府兵が討ち取り、松平信綱の命令により城兵の死骸の腹を検分させたところ、海藻を食べていることがわかったという。兵糧攻めの効果が出て、「一揆勢」の食糧が尽きかけていることが明らかになったことから、松平信綱は2月28日に総攻撃を決定したのだが、佐賀藩の鍋島勢が抜け駆けをして、予定の前日から総攻撃が開始され、諸大名も続々攻撃に参加した。
兵力的に圧倒的な討伐軍による総攻撃により原城は落城し、天草四郎は討ち取られて、乱は一気に鎮圧に向かった。
しかしながら、この「島原の乱」における幕府方の犠牲は小さくなかったようだ。

徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第14 徳川幕府上期 上巻 鎖国篇』の解説を引用する。
「…寛永14年(1637)12月20日の総攻撃には、(原城)城中の手負死人は17人であった。[山田右衛門作覚書*]これに反して、…(幕府方は)立花勢のみでも、主なる士28人討死、手負69人、雑兵手負あわせて380余人あった。2月21日、城中よりの夜襲に際しては、城中の手負死人430人、この内132人は城中に引き取った。[山田右衛門作覚書]而して征討軍の損傷は、比較的少なかった。
最後における、即ち2月27日、28日の総攻撃に於いては、諸方の討死1127人、手負7008人、合計8135人であった。[島原天草日記]而してこの役においては、牧野伝蔵、馬場三郎左衛門、榊原飛騨守、林丹波、石谷十蔵、松平甚三郎、井上筑後守ら、幕府から差遣したる目付その他の負傷者もあった。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/236
*山田右衛門作:島原の乱において原城に立て篭もり、「天草四郎陣中旗」を描いた人物とされる。途中で一揆軍に疑問を感じ幕府軍に内通した。

幕府方の死傷者については諸説あり、Wikipediaには「『島原記』によれば死者1,130人・負傷者6,960人、『有馬一件』によれば死者2,800人・負傷者7,700人、『オランダ商館長日記』では死者5,712人」と記されているという。
幕府方でも多くの犠牲が出たのは、「一揆勢」の鉄砲と弾薬がその原因なのだが、山田右衛門作覚書によると、
「城内に鉄砲の数五百三十挺あり、玉薬正月末よりきれ申候あいだ、打ち申さず候。しかしながら、少しは嗜み、27日に打ち申し候」とある。弾薬は1月末から節約して、最後の総攻撃となった2月27日に再び用いたということだろう。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/233
また米についても正月十日頃より乏しくなってきたとあり、「一揆勢」が敗北するのは時間の問題であったようだ。
原城を陥落させた総攻撃で、天草四郎を討ち取ったのは肥後熊本藩の細川忠利配下の陳佐左衛門であった。細川勢は27日に原城の詰の丸の東端を乗り破り、28日に天草四郎の居場所を突き止めている。徳富蘇峰の同上書に『細川系譜家伝録』が引用されているので紹介したい。
「28日遅明、忠利出でて焼跡を見る。賊魁(ぞくかい)四郎廬舎(ろしゃ)あり。すなわち使いを信綱、氏鐡*に遣わして曰く、本丸已(すで)に焦土となる。しかも四郎が廬舎石壁を構うるを以て、未だ焼き尽くさず。即ち今火箭を放たんと欲すと。吉田十右衛門をして、之を射らしめた。陳佐左衛門四郎の首を斬獲す。午刻に及び城悉く平らぐ。諸軍凱歌を唱える。(『細川系譜家伝録』)」
*信綱、氏鐡:松平信綱(幕府軍上使)、戸田氏鐡(幕府軍副使)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/230

さて、この天草四郎の首は、見せしめのために晒されたのだが、その場所が興味深い場所なのである。
九州大学大学院の服部英雄教授の『原城の戦いを考え直す――新視点からの新構図―――』という論考にこう記されている。
「…天草四郎の首はポルトガル商館前に晒された。『オランダ商館日記』1638年6月15日条では『もっとも主要な人々の首4つは、約4千の他の人々の首とともに長崎に運ばれ、そして(若干は)棒に刺して梟しものにされた』とある。
主要な首4つとは天草四郎とその姉、いとこ渡辺小左衛門、また有家監物である。(『長崎志』265頁他)その場所については出島橋または大波戸と書かれている。」(P.196)
http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/17117/p178-197.pdf
では、なぜ江戸幕府は天草四郎の首を、ポルトガル商館前に晒したのだろうか。前々回の記事で、江戸幕府は一揆の背後に外国勢力があると睨んでいて、原城に籠城した「一揆勢」は外国の援軍を待っていると考えていたことを書いた。
服部教授は、その外国勢力はポルトガルであったとし、こう解説しておられる。
「首謀者たちの腐敗した首が、長崎大波戸の出島橋、すなわちポルトガル商館の前に晒された。この橋を渡る人間はポルトガル商館出入りの者のみだ。くわえてここは西坂のような獄門場ではない。すさまじく、重苦しい示威だった。敵対国への強烈な見せしめだった。
そしていわゆる『鎖国』へ。ポルトガルは日本から放逐される。一方オランダは出島という場所に制限はされたが、通商が許された。もし『鎖国』(海禁)がキリスト教の布教を恐れての措置だけだったのなら、明らかにキリスト教国であるオランダとの貿易は許されるはずはない。
…もっとも重要視されたのはオランダの持つ、対ポルトガル・軍事同盟者としての役割だった。オランダは明らかにキリスト教国であるにも関わらず、ポルトガルを排除し得る武力として、通商が許された。」

今回の記事の冒頭で、オランダが「一揆勢」が籠城している原城に向かって艦砲射撃を行なって幕府に協力したことに触れた。この経緯は前々回の記事に書いたので繰り返さないが、この島原の乱を契機として江戸幕府はポルトガルと国交を断絶することとなり、寛永18年(1641)にキリスト教の布教を行なわないことを条件にしてオランダ商館やオランダ人を出島に強制的に移転させ、西欧諸国の中でオランダ一国に通商を許す時代が長らく続くことになるのである。
江戸幕府は、オランダがポルトガルやスペインと対抗関係にある事を利用して、ポルトガル、スペイン両国とキリスト教勢力を追い出したわけだが、もし江戸幕府が島原や天草の地をキリシタンの金城湯池のまま放置していたとしたら、この時代に九州がポルトガルかスペインの植民地になっていてもおかしくなかったし、中国大陸攻略の後はキリスト教国化した九州勢力とともにわが国本土が狙われていたことだろう。
オランダという新興国の「武力」を用い、微妙なバランスでわが国の独立を維持しようとした江戸時代の初期の外交政策は、もう少し評価されても良いのではないかと考える。
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