仕事は苦しくなくてはいけないという固定観念がブラック化を生む
市職員、勤務中にゲームや昼寝 京都・向日市 (京都新聞)
これだから公務員は、みたいなことを言う人もいるが、これは別に公務員だけに限られたことではないだろう。例えば自分が以前勤めていた食品工場では、監視役の上司が実際に働くのは製品の出来の確認やトラブルなどに対処する時だけだった(まあ他にも会議などはあるだろうが)。実際裏でゲームをしていたこともあった。でもその方がよかったりする。後ろでじっと監視されていたらやりにくくて仕方がないので。
なんにせよ、これが大勢の者から叩かれているところを見て、日本の職場がブラック体質から抜けられないのは政治家や経営者だけのせいではないのだな、と改めて思った。
そもそも、直ぐに出動できる態勢さえ整っていれば、待機時間中に何をしていても仕事に支障なんてないはずだ。
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それとも消防士が待機中に「テレビを見たり、卓球をしたり」「仮眠をとる」のも批判するのだろうか。逆にごみ収集の人達のそれを批判して消防士のそれを批判しないとすれば、それは一体何故?
というか、待機中にも賃金支払い義務が生じるのはどこの民間企業でも同じはずだ。そしてもし待機中には賃金を払わなくても良いというルールが出来たら、ブラック企業は大喜びでそれを悪用するだろう。
この勤務の在り方を非効率だとして見直すにしても、ゴミ収集を午前中だけのパートにすると、小遣い稼ぎでゴミ収集をする酔狂な男性は滅多にいないだろうから、長期的に安定した人員を確保できなくなる可能性が出てくる。仮に他で仕事にありつけない人が仕方なくそこで働いたりしたら、ワーキングプアの出来上がりだ。そういうやり方は経済にとってもマイナスになる。
またそういうやり方で仮に午前の人員を確保できたとしても、午後の勤務で待機時間が生まれることには変わりはない。その時彼らがずっと「洗車」でもしていれば満足なのだろうか。
もちろん、仕事に支障が出ているのならそれは問題視されてしかるべきだろう。しかしそうでもないのにこれをことさら批判するということは、批判者は彼らに仕事の内容を求めているのではなく、単に苦しむことそのものを要求していることになる。
そもそも、ごみ収集だってゆっくりやれば午後にまで持ち越すことは可能なはずだ。よく、入力にマクロを使ったら上司に怠けていると叱責された、というような話を聞くが、これはそれと同じ類の問題と言えるだろう。正に今、大勢の人間がその上司になって彼らを叱責しているのだ。
この、仕事は苦しいものだ、いや苦しむべきものだ、という妙な固定観念は、労働環境を必要以上に悪化させる一つの大きな原因になっているのではないか。
このような批判がなぜ起こるかと言えば、あいつらだけズルい、というような気持ちがあるからだろう。
しかしもし自分の労働条件や環境に不満があるなら、もっと条件のよい仕事を探したり、自分が勤めている会社を批判したり、それと交渉したり、或いは法律の改定やその運用の仕方の改善を求めたりするべきだろう。
そしてそれは大抵利害の衝突を含む内容を持っているので、当然双方での綱の引っ張り合いになる。それが民主主義であり(其々が自己の利益を最大化しようとすることが社会に活力を与えると考える)資本主義というものだろう。
しかしこの場合、彼らを余分に苦しめたところで批判者達の労働条件・環境が良くなるわけでもなんでもない。利害が衝突しているわけでもなければ、彼らに富が集中しているわけでもない。それどころか待機中は賃金を支払わなくても良い、ということになれば、自分達にも不利益をもたらすことになる。つまり資本主義的な発想からはまず生まれ得ない批判と言える。
何故か日本では「公務員批判=社会主義・共産主義批判(即ち資本主義的)」であるかのようになっているが、むしろこの批判は、底辺に合わせることで平等化を図ろうとする共産主義的な発想の下でしか生まれてこないものなのだ(――なりたい職業ランキングにごみ収集が上がることは先ず考えられないし、実際彼らの労働条件や環境が批判者らのそれよりも恵まれているのかどうか自体疑わしいが)。
日本では表面上「共産主義=悪」ということになっている。つまりブランドとしてはそれは大変不人気なわけだ。しかしこのような批判を行う者が大勢いるということは、表面上はそれを毛嫌いしているように見えても、実は内容的にはそれに近しい思想を持っている人達が大勢いる、ということを示している。
しかもこの、内容的に共産主義的なものが「資本主義」という人気のブランドに包まれることで許容されるという、実に奇妙な現象が起こっている。このことが元々欠陥だらけの資本主義のパフォーマンスをことさら低下させているように思えてならない。
京都府向日市のごみ収集を担当する清掃職員の大半が、所定勤務時間中にもかかわらず、市庁舎横の職場でテレビ鑑賞やゲーム、昼寝などをしていることが19日、京都新聞の取材で分かった。背景に、業務内容が勤務時間に比べて少ない実態もあり、それを市は把握しながら是正に積極的に取り組んでこなかった。市は「徐々に仕事を増やしてきたつもりだが、踏み込めていなかった」としている。――マジかよ京都新聞最低だな。
清掃職員の所定勤務時間は午前8時半~午後5時15分で、現在、アルバイトと嘱託を含めて17人いる。市や関係者によると通常、ごみ収集は午前中には終了し、それ以降の勤務時間については大型ごみ収集などを行う当番以外、犬や猫の死骸収集といった急な出動に備えて待機することになっている。
しかし、急な出動はまれで午後は仕事がない状態が少なくとも十数年、恒常化しているという。関係者の話や取材では、正午前から多くの職員が職場にこもり、携帯電話のゲームや音楽鑑賞、読書のほか、仮眠をとる状態が続いているという。
市は「今後は外部委託や事務事業の見直しを含め改善したい」としている。
これだから公務員は、みたいなことを言う人もいるが、これは別に公務員だけに限られたことではないだろう。例えば自分が以前勤めていた食品工場では、監視役の上司が実際に働くのは製品の出来の確認やトラブルなどに対処する時だけだった(まあ他にも会議などはあるだろうが)。実際裏でゲームをしていたこともあった。でもその方がよかったりする。後ろでじっと監視されていたらやりにくくて仕方がないので。
なんにせよ、これが大勢の者から叩かれているところを見て、日本の職場がブラック体質から抜けられないのは政治家や経営者だけのせいではないのだな、と改めて思った。
そもそも、直ぐに出動できる態勢さえ整っていれば、待機時間中に何をしていても仕事に支障なんてないはずだ。
消防士さんの「待機中」が知りたい! - ウォッチ | 教えて!goo
それとも消防士が待機中に「テレビを見たり、卓球をしたり」「仮眠をとる」のも批判するのだろうか。逆にごみ収集の人達のそれを批判して消防士のそれを批判しないとすれば、それは一体何故?
というか、待機中にも賃金支払い義務が生じるのはどこの民間企業でも同じはずだ。そしてもし待機中には賃金を払わなくても良いというルールが出来たら、ブラック企業は大喜びでそれを悪用するだろう。
この勤務の在り方を非効率だとして見直すにしても、ゴミ収集を午前中だけのパートにすると、小遣い稼ぎでゴミ収集をする酔狂な男性は滅多にいないだろうから、長期的に安定した人員を確保できなくなる可能性が出てくる。仮に他で仕事にありつけない人が仕方なくそこで働いたりしたら、ワーキングプアの出来上がりだ。そういうやり方は経済にとってもマイナスになる。
またそういうやり方で仮に午前の人員を確保できたとしても、午後の勤務で待機時間が生まれることには変わりはない。その時彼らがずっと「洗車」でもしていれば満足なのだろうか。
もちろん、仕事に支障が出ているのならそれは問題視されてしかるべきだろう。しかしそうでもないのにこれをことさら批判するということは、批判者は彼らに仕事の内容を求めているのではなく、単に苦しむことそのものを要求していることになる。
そもそも、ごみ収集だってゆっくりやれば午後にまで持ち越すことは可能なはずだ。よく、入力にマクロを使ったら上司に怠けていると叱責された、というような話を聞くが、これはそれと同じ類の問題と言えるだろう。正に今、大勢の人間がその上司になって彼らを叱責しているのだ。
この、仕事は苦しいものだ、いや苦しむべきものだ、という妙な固定観念は、労働環境を必要以上に悪化させる一つの大きな原因になっているのではないか。
▼ブランドとしては不人気だが、内容としてはまだまだ人気のある共産主義思想
このような批判がなぜ起こるかと言えば、あいつらだけズルい、というような気持ちがあるからだろう。
しかしもし自分の労働条件や環境に不満があるなら、もっと条件のよい仕事を探したり、自分が勤めている会社を批判したり、それと交渉したり、或いは法律の改定やその運用の仕方の改善を求めたりするべきだろう。
そしてそれは大抵利害の衝突を含む内容を持っているので、当然双方での綱の引っ張り合いになる。それが民主主義であり(其々が自己の利益を最大化しようとすることが社会に活力を与えると考える)資本主義というものだろう。
しかしこの場合、彼らを余分に苦しめたところで批判者達の労働条件・環境が良くなるわけでもなんでもない。利害が衝突しているわけでもなければ、彼らに富が集中しているわけでもない。それどころか待機中は賃金を支払わなくても良い、ということになれば、自分達にも不利益をもたらすことになる。つまり資本主義的な発想からはまず生まれ得ない批判と言える。
何故か日本では「公務員批判=社会主義・共産主義批判(即ち資本主義的)」であるかのようになっているが、むしろこの批判は、底辺に合わせることで平等化を図ろうとする共産主義的な発想の下でしか生まれてこないものなのだ(――なりたい職業ランキングにごみ収集が上がることは先ず考えられないし、実際彼らの労働条件や環境が批判者らのそれよりも恵まれているのかどうか自体疑わしいが)。
日本では表面上「共産主義=悪」ということになっている。つまりブランドとしてはそれは大変不人気なわけだ。しかしこのような批判を行う者が大勢いるということは、表面上はそれを毛嫌いしているように見えても、実は内容的にはそれに近しい思想を持っている人達が大勢いる、ということを示している。
しかもこの、内容的に共産主義的なものが「資本主義」という人気のブランドに包まれることで許容されるという、実に奇妙な現象が起こっている。このことが元々欠陥だらけの資本主義のパフォーマンスをことさら低下させているように思えてならない。
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