「1977.9.27―2015.9.27 横浜米軍機墜落事件年表-人々が残したもの」を読んで
日記
<横浜米軍機墜落事件とは>
この事件は1977年9月27日午後に起きました。
米海軍厚木基地から発進して、千葉県房総沖の空母ミッドウエーに向かう戦闘機が、離陸直後にエンジン火災を起こしました。
乗員2人はパラシュートで脱出、無人の機体が横浜市緑区(現・青葉区)荏田町に墜落し、付近の民家を巻き込んで火の海になりました。
米軍から通報を受けた自衛隊の救援ヘリコプターは、無傷の米軍パイロット2人を救助しただけで、被災者を救助せず、厚木基地に帰りました。
9人の重軽傷者が、付近の工事現場の作業員や住民によって救助され、病院に搬送されました。
このうち全身にやけどを負った3才の裕一郎くんと1才の康弘ちゃんの幼い兄弟が、翌日に息を引き取りました。
当時26才の母親・和枝さんは、重症であったため子の死を知らされず、生きていると信じることで苦しい治療に耐え抜きます。
そして、やけどの治療が落ち着いた、事故から1年4カ月後に、2人の子の死が知らされました。
和枝さんの受けた衝撃は大きく「2人の子どもを今一度だけ抱きしめたかった」とつぶやき、泣き続けました。
和枝さんは、2人の分まで生き抜こうと闘病を続けますが、精神的に不安定となり、半ば強制的に移された精神病院で、転院から41日後の1982年1月26日、31才で亡くなりました。
死因は「心因性呼吸困難」、事件から4年4カ月でした。
<命と愛と平和>
私がこの事件を最初に知ったのは1985年頃、中学校でパネル展示を見たときでした。
当時は硝酸銀で消毒するやけどの治療の痛々しさを感じた記憶がありますが、米軍機や、子供と母の死についてはよく理解できませんでした。
大人になってから再びこの事件を知ったときには、涙が出て止まりませんでした。
そしてまたこの年表にめぐりあい、事件の全容について理解を進めることができました。
母の父、子の祖父にあたる勇さんは、和枝さんの「元気になったら福祉の仕事をしたい」という遺志を継ぎ、社会福祉法人を立ち上げます。
横浜市中区の港の見える丘公園には、和枝さんが裕一郎くんと康弘ちゃんをやさしく抱く「愛の母子像」がたたずんでいます。
怒り・苦しみの中から絞り出された愛を受けとめるのは私たち、そういう思いを新たにしました。
私が戦争を憎み、平和を続けるために現在活動しているのは、この事件を知ったことの影響が大きいと思います。
ふたたびこんな悲しいことを起こさせないためにも、戦争を起こさせないためにも、横浜米軍機墜落事件を、私も語り継いでいきたいと思います。
(2016-2-21 by 森ひでお)
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(管理人より:当記事は、横浜の森ひでおさんよりご投稿いただきました。文中の資料「1977.9.27―2015.9.27 横浜米軍機墜落事件年表-人々が残したもの」については、東京新聞が以下のように伝えています。
母子3人犠牲の1977年横浜・米軍機墜落 語り継ぎ…最後の冊子
この事件は1977年9月27日午後に起きました。
米海軍厚木基地から発進して、千葉県房総沖の空母ミッドウエーに向かう戦闘機が、離陸直後にエンジン火災を起こしました。
乗員2人はパラシュートで脱出、無人の機体が横浜市緑区(現・青葉区)荏田町に墜落し、付近の民家を巻き込んで火の海になりました。
米軍から通報を受けた自衛隊の救援ヘリコプターは、無傷の米軍パイロット2人を救助しただけで、被災者を救助せず、厚木基地に帰りました。
9人の重軽傷者が、付近の工事現場の作業員や住民によって救助され、病院に搬送されました。
このうち全身にやけどを負った3才の裕一郎くんと1才の康弘ちゃんの幼い兄弟が、翌日に息を引き取りました。
当時26才の母親・和枝さんは、重症であったため子の死を知らされず、生きていると信じることで苦しい治療に耐え抜きます。
そして、やけどの治療が落ち着いた、事故から1年4カ月後に、2人の子の死が知らされました。
和枝さんの受けた衝撃は大きく「2人の子どもを今一度だけ抱きしめたかった」とつぶやき、泣き続けました。
和枝さんは、2人の分まで生き抜こうと闘病を続けますが、精神的に不安定となり、半ば強制的に移された精神病院で、転院から41日後の1982年1月26日、31才で亡くなりました。
死因は「心因性呼吸困難」、事件から4年4カ月でした。
<命と愛と平和>
私がこの事件を最初に知ったのは1985年頃、中学校でパネル展示を見たときでした。
当時は硝酸銀で消毒するやけどの治療の痛々しさを感じた記憶がありますが、米軍機や、子供と母の死についてはよく理解できませんでした。
大人になってから再びこの事件を知ったときには、涙が出て止まりませんでした。
そしてまたこの年表にめぐりあい、事件の全容について理解を進めることができました。
母の父、子の祖父にあたる勇さんは、和枝さんの「元気になったら福祉の仕事をしたい」という遺志を継ぎ、社会福祉法人を立ち上げます。
横浜市中区の港の見える丘公園には、和枝さんが裕一郎くんと康弘ちゃんをやさしく抱く「愛の母子像」がたたずんでいます。
怒り・苦しみの中から絞り出された愛を受けとめるのは私たち、そういう思いを新たにしました。
私が戦争を憎み、平和を続けるために現在活動しているのは、この事件を知ったことの影響が大きいと思います。
ふたたびこんな悲しいことを起こさせないためにも、戦争を起こさせないためにも、横浜米軍機墜落事件を、私も語り継いでいきたいと思います。
(2016-2-21 by 森ひでお)
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(管理人より:当記事は、横浜の森ひでおさんよりご投稿いただきました。文中の資料「1977.9.27―2015.9.27 横浜米軍機墜落事件年表-人々が残したもの」については、東京新聞が以下のように伝えています。
母子3人犠牲の1977年横浜・米軍機墜落 語り継ぎ…最後の冊子