非国民通信

ノーモア・コイズミ

金を動かせ、金は疲れない

2012-11-30 22:59:05 | 雇用・経済

 参院選で自民党は大敗したものの、安倍晋三首相に近いとされる候補者は健闘が目立った。側近の中山恭子、世耕弘成両首相補佐官に加え、首相が自ら出馬要請した元アナウンサーの丸川珠代氏らが逆風をはね返して当選。首相周辺からは「落選したのは参院の抵抗勢力ばかり」と、敗因は支持組織の意向を尊重してきた参院執行部の候補者選びとの「恨み節」も漏れる。

(中略)

 このことは「決して(改革を進める)安倍路線自体が否定されたわけではない」とする首相周辺の見方につながっている。別の側近は「負けたのは高齢候補や、首相の邪魔をしていると見られていた人だ」と強がってみせた。

 

 以上は、2007年の参院選で自民党が大敗を喫したときの報道(時事通信)の一節です。総じて自民党内部の保守本流に属するようなベテランの落選が目立った一方、極右や構造改革/ポピュリズム路線に乗った謂わば「新しい自民党」の政治家は逆風の中でも強みを見せていたと言えます。自民党全体としてみれば大きく議席を減らすことになったのですが、当時の首相であった安倍晋三からすれば、党の総裁に口を出してくるような煩型が減った分だけむしろ身軽になった、党内で我意を通しやすくなったのではないかと推測したものです。党そのものは弱体化したけれど、党首は逆に権勢を振るいやすくなったのではと。

 野田総理は、この辺を見習っているのかも知れません。民主党内で政策的に対立が目立つ議員の離党が相次ぐ、むしろ野田が積極的に締め出しを計っているように見えるフシがありますけれど、やはり野田の理想は自民党にある、自民党のようになりたいと考えているのではないでしょうか。党の力をそぐことになろうとも、党の中で自分の意見を通しやすくできるように、自分の抗う勢力を排することがまず大事、反対派閥を形成しうる有力者を退けることが先決、そんな姿勢が野田には窺われます。

 昔年の自民党はハト派も強かった、保守と言ったら原則ハト派の保守本流だったわけです。それが滅びて真正保守もしくは真性保守と称する新たな「保守」が台頭した、そしてこの新しい「保守」の人々に政治力が欠けているが故に、一度は醜態をさらした安倍晋三の復活もあり得たと言えそうです。本当に有望な人材が溢れているのなら、自民党にも新しい顔が作られていたことでしょう。でも、今となっては安倍晋三でも十分に大物と言えるのが自民党なのです。首相の首に鈴を付けられるだけの実力を持った政治家がいなくなったことが何より心配ですね。

 

自民・石破氏、安倍総裁の金融緩和策に疑問呈す(読売新聞)

 自民党の石破幹事長は28日、東京都内での講演で、同党の安倍総裁がデフレ・円高対策として大胆な金融緩和策を掲げたことについて「極端な円安は決して日本経済に良いことではない」と述べ、疑問を呈した。

 石破氏は「我が国は内需の割合が極めて高く、輸出で稼いでいるのは15%くらいだ。円安にどれだけのメリットがあるか、きちんと論じなければいけない」と語った。

 

 自民に人なし、と感じるのはこういう場面でもあります。まぁ、石破は世間一般の感覚と遠いことを言っているわけではありませんが、これまでの失政への反省があるのかな、と。むしろ石破の主張に沿うなら今の民主党のやり方で良いんじゃないかと思えてきます。でも、従来の腰の引けた金融緩和策では二進も三進もいかなくなっている、別のやり方を模索しなければならない時期に来ているわけです。しかし石破は従来の枠から踏み出すことができていない、これなら安倍晋三の方がまだマシと……

 「極端な円安は決して日本経済に良いことではない」とのことですが、それはそうでしょう。しかし「極端な円安」とは何なのか。今は「極端な円高」状態にあるわけです。これをどうやったら「極端な円安」にできるというのか、私には全く想像が付きません。例えるなら身長170cm体重40kgの男性を、体重150kgに変えるようなものです。絶対に不可能ではないとしても、相当な無茶と長い時間が必要なことは言うまでもないでしょう。何より40kgが一夜にして150kgになれるものではない、50kg、60kgと段階を踏むことになる、そして「適正」な値に到達してもなお無理を続ける気なのかと問いたいところです。

 円安/円高もさることながら、同じく金融緩和策と密接に関わるデフレ/インフレもまた石破のそれと同様の誤謬が世間に蔓延していると言えるでしょうか。とかくデフレを是正しようとする動きには「ハイパーインフレになるぞ~」との脅しがつきまとうものですし、それを真に受ける人も少なかったりします。しかし、デフレから抜け出せずに四苦八苦しているのにどうやってハイパーインフレにできるのか、これまでの生ぬるい金融緩和では焼け石に水のような状態、そこに水を増やしたところで爆発が起きたりするはずがないことくらい、わかってほしいのですが。

 多くの人にとってインフレとは、ダイエットに励む女性にとっての体重と同じようなものなのでしょう。とにかくインフレになる/体重が増えることを絶対悪と捉えて常に警戒を怠らず、自分が今どのような状態にあるのかを考えたがらないわけです。世界に類を見ないデフレ状態が継続している/もともと不健康に痩せているのに、それでもインフレを恐れ続ける/体重が増えることを厭い続けるような、そんな馬鹿馬鹿しさが日本中を覆い尽くしているのではないでしょうか。ちょっとでも体重が増えたら激太りだと言っては減量に励む痩せ型の女性を、世間の男性は小馬鹿にするかも知れません。しかし、たかだかインフレ目標が語られた程度で「極端な円高」「ハイパーインフレ」などと煽り出す我が国の世論(を構成している人々)は、そうした女性を馬鹿にすることはできないように思います。

 ちなみに石破は「輸出で稼いでいるのは15%くらい」とも語ります。しかし、この15%くらいの好不調で日本国内の経済/雇用情勢がどれほど大きく揺らいできたかは、僅かなりとも政治に関心を持っている人なら理解してもらいたいものです。確かに今までは極端な内需軽視、日本国内で働く人の所得を減らすことにばかり熱心で国内市場の購買力を、ほとんど意図的と言っていいレベルで低下させてきました。これを反省して国内経済の循環を意識するのは間違っていません。しかし現代において国際的な取引なくして成り立つような社会などありえない、それを著しく阻害する極端な円高を放置するのは自らの首を絞めることでもあります。

 日本のメディアから「鬼軍曹」の異名を頂戴するフェリックス・マガトというサッカー監督(元選手)がいます。毀誉褒貶の激しい人で、昨今は解任されたばかりなのでボロクソに言われることも多いのですが、それなりに成功した実績もあって名門クラブで絶大な権限を与えられることも珍しくない、キャリア全体で見れば名監督と呼ばれる部類でしょうか。このマガトは長谷部誠、大久保嘉人、内田篤人と日本人選手を好んで獲得することでも知られており、曰く日本人には「規律」があるとのこと。

 そんなマガトの掲げたスローガンに「高いクオリティーは苦しみから得られる」なんてのがあります。日本人の経済観は、マガトのサッカー観に近いのかな、と思います。日本人(政治家)の金融嫌い、金融政策への躊躇いがちな姿勢は、人ではなく金を動かすという行為に「苦しみ」が欠けていると感じているからなのかも知れません。「苦しみ」なくして経済的な成功を収めてしまう、「苦しみ」抜きで景気を上向かせてしまう、そこに「やましさ」を覚える人が政治家にも財界筋にも普通の有権者にも多いのではないでしょうか。

 むしろ「痛みを伴う構造改革」や度重なる人員削減や給与カットなどの「苦しみ」を通して成功することに「正しさ」を見出している人が多いがゆえに、この10年来の結果を伴わない経済政策は継続されてきたと言えます。マガトもまた、自身のやり方――選手を肉体的に徹底して鍛え上げること――に拘り、例え結果が出ずとも方針を変えることはありませんでした。翻って日本の政治はどうなのでしょう。自らの理想に殉じることに美学を感じている人も多そうですが、そろそろ結果のでないものは諦めて方針を改める、もっと「楽な」方法を模索する動きがあっても良さそうなところです。

 

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目指せ、構造回復

2012-11-28 23:00:42 | 政治・国際

業界団体票、自民回帰の動き…民主が強い警戒感(読売新聞)

 2009年の政権交代を機に民主党支持に回った業界団体で、衆院選(12月16日投開票)を前に自民党支持に回帰する動きが出てきた。

 自民、公明両党の政権復帰が現実味を帯びているとみているからだ。民主党に配慮して「自主投票」とする団体が多いものの、自民党は「多くの票を見込める」と期待を高めている。

 日本歯科医師会の政治団体・日本歯科医師連盟(日歯連)では、地方組織の多くが自民党支持に回るとの見方が広がっている。日歯連は今回の衆院選の対応を地方組織の判断にゆだねているが、日歯連が10月31日、東京都内で開いた臨時評議員会で、来年の参院選の組織内候補として石井みどり自民党参院議員の推薦を決めたからだ。

 日歯連は政権交代後の10年参院選で、いったん決めた自民党支持を撤回し、民主党の西村正美参院議員を支援した経緯がある。

(中略)

 これに対し、民主党は警戒感を強めている。細野政調会長は24日、兵庫県宝塚市での街頭演説で、「自民党の政権公約には、業界団体の要望が丁寧に全部書いてある。建設業界、農協、医師会など、一つ一つの業界向けの政策を税金で行う自民党政治の本質が出ている」と批判した。

 

 業界団体の支持もまた自民党へと傾いているそうです。まぁ民主か自民か、果てまた「第三極」かと限定された中から選ぶのであれば、自民を取る人が多いのは致し方ないところでしょう。民主党の議員達には、一度は自民から奪った支持がなぜ今になって離れていこうとしているのか、よくよく考えて欲しいところです。しかるに引用した最後の行はどうでしょうか。自民党政治の本質云々と細野氏は述べているわけですが、どうにも私には民主党政治への反省が根本的に欠けているように思われてなりません。いずれまた自民党の失政によって有権者が他の政党を探し出す日も来るでしょうけれど、民主に代わりが務まる日が来るとはとても……

 もし細野の語る通りであるのなら、概ね業界団体の動きは健全だと言えます。どちらの党の方が自分たちを取り巻く環境を改善してくれるか、それを基準に支持を決めようというのですから。これでもし反対に自分たちを窮地に陥れるであろう党の方を支援しようとしているのであれば、頭がどうかしていますよね。自分たちの要望に具体的に応えてくれる、そういう党を選ぼうとしている業界団体は健全です。

 しかし、健全とは言えない組織もあるわけです。例えば、今なお民主党支持を堅持する連合など。どうにも民主党政権が連合所属の組合員にとってプラスになるとは考えられないですし、むしろ枝野などは労組からの組織的な支持を恥部であるかのごとく隠そうとしてきた辺り、蔑ろにされてきたと言った方が適切でしょう。ならば民主党「以外」の党に鞍替えすると揺さぶりをかけても良さそうなもの、単なる脅しと侮られないためにも実際に他の党を支援してみるくらいしなければダメです。しかし、周りに諭されてもなぜかDV夫から離れられない人みたいな振る舞いを続けています。

 中小の労組でもネット上での活動に熱心なところは組合員の便宜よりも脱原発が第一、本来の存在理由を捨ててプチ政治団体と勘違いしている類も散見されます。確かに政治へのコミットが「手段」として必要になる場面もあるでしょうけれど、それで組合員を守れるのやら。まぁ自分たちの「利」を守ろうとする行為がネガティヴに受け止められる風潮は変わっていません。ならば自分たちの利益のために活動するのではなく、己を省みず世のため人のために働いているのだと、そう振る舞うことで世間の理解も得られるとでも考えているのでしょうか。人権感覚が問われるのは誰からも共感される人の人権ではなく世間を敵に回した人(犯罪者など)の人権が脅かされているときです。そして電力会社社員の労働者としての権利が著しく蔑ろにされている今こそ、労働者の権利への意識が問われるところなのですが。

 小泉純一郎以降、日本の政治は「利」から「罰」に大きくシフトしたように思います。何か「悪い奴」を名指して、その打倒を訴えることで有権者の支持を集めるのが常套手段になりました。抵抗勢力、古い自民党、既得権益、官僚(公務員)、原発(電力会社)、中高年正社員、社会保障受給者等々、それが本当に「悪」がどうかはさておき、「悪」に見立ててはそれを「やっつける」姿勢を披露することで正義のヒーローを演じようと努めてきた、それが日本におけるモダンな政治家像だったはずです。

 今後も引き続き勧善懲悪型の政治を続けることしか頭にない政治家にとって、「業界団体の要望」に丁寧に応じる姿勢を見せるなんてのは悪徳でしかなさそうです。そうではなく、自らに「利」を引き寄せようとする人々を不当な受益者と見なして攻撃する、これが「政治家として当然あるべき姿勢」だと思われがちなのではないでしょうか。少なくとも、細野はそういうタイプだと推測されますし、その細野を要職に置く民主党執行部も大差ないと考えられます。

 しかるに、そうやって自分の隣人を「悪」として手当たり次第に叩いてきた結果として日本の惨状があるわけです。追い求められるべきは「罰」ではなく、やはり「利」ではなかったかと。人々の声にもしっかりと耳を傾けては「利」を提示する、そんな政治を取り戻さなければならない時代に来ているように思います。この十数年来の退行を続けたいのであれば、細野の自民党批判は正しいかも知れません。しかし、もう一度前に進みたいのであれば、誤ったものを元に戻すことが必要です。

 

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要はお金が「回る」ようにできるかなのですが

2012-11-26 23:04:48 | 雇用・経済

 金融で栄えても所詮はゼロサムゲームなのだ、みたいな意見も一時は頻繁に目にしたものですが、この頃はどれほどのものでしょうね。リーマンショックに端を発した世界金融不安の結果として、より大きな停滞に見舞われたのは金融依存と日本が嘲っていた国ではなく、製造業立国と称したい日本であったわけです。他国の好景気の「おこぼれ」に与る形で戦後最長(ただし極度に緩やかな!)の景気回復局面を続けこそしたものの、その他国の景気が悪化すれば壊滅的な状況に陥る、自国経済の基礎体力は着実に衰えていたと言えます。

 金融業がゼロサムゲームなら、金融不安で損をした人の分だけ誰かが儲けていそうなものですが、どうにも圧倒的多数の人が「損」をしているかに見える、これはどうしてでしょうか。極論すれば、毎月20万円の給料をもらって20万円を使う、あるいは毎月50万円の給料をもらって50万円を使う、これもまた「ゼロサム」です。そもそも何か商品を買って代金を支払っても、貨幣の所有者が変わるだけで世の中に存在する金の量が増えたりはしません。でも、これはちゃんと意味のある変化だとは誰でも分かりますよね?

 逆にゼロサムゲーム論を適用することも考えて欲しいのは、貿易黒字/赤字の問題でしょうか。昨今、日本は燃料費の輸出を急拡大させたことによって貿易黒字を「解消」してしまいましたが、それまでは圧倒的な貿易黒字国でした。しかし、どこかの国が貿易黒字を積み重ねれば、その分だけ他の国が貿易赤字を抱えることになるわけです。何となく貿易黒字が良いものであるかのように思われがちですが、一方で他所の国に貿易赤字を押しつける形にもなることは意識されるべきかと。ある国の黒字が別の国の赤字に繋がっているのなら、輸出ばかりの促進こそゼロサムゲームと非難されてもおかしくはありません。

 そして日本の黒字の裏で喘いでいた代表格は膨大な赤字を抱えるアメリカでした。TPP問題では被害者意識を持ちたがる人も多いようですが、特定産業に限らず国家レベルで見れば、むしろ日本の方が「攻め」に立っていたのであり、貿易赤字国のアメリカが黒字の日本に反抗を試みたとしても、それは当然の言い分に思われます。そして日本と肩を並べる貿易黒字国としてはドイツなどが挙げられますが、為替メカニズムの働かないEU圏内で他の加盟国に大きな赤字を負わせてもいる、EUの病人からEUの優等生と呼ばれるようになったドイツですが、どうにも私にはEUを蝕む存在にしか見えません。自国労働者の賃金を抑え込んでは輸出に励む、そういう儲け方は先進国にはあるまじきこと、むしろ非難されるべきはギリシャなんかより……

 

経済論争、「勝負あった」=日銀は緩和競争に敗北―安倍自民総裁【12衆院選】(時事通信)

 「この論争はもう終わった。勝負あったと思っている」―。自民党の安倍晋三総裁は23日、岐阜市内で講演し、持論の「大胆な金融緩和」を唱えることで円安・株高を演出したことに強い自信を示した。

 安倍氏は「私たちの政策は正しい。政策を発表した段階で円高は是正され株価が上がっている」と強調。自らの発言だけで「(民主党政権の)彼らが3年かかってできなかった」市場の反応を引き出したことを自賛した。

 さらに世界的な金融緩和・通貨安競争に言及し、「戦いの中で日本は負けている。テールエンド(最下位)だ」と、この日も日銀批判を展開。デフレ脱却に向け、公共投資の積極活用も訴えた。 

 

 現代の日本では極右路線への傾倒が争点になりにくいようです。極右層へのアピールに積極的でも選挙で惨敗する大政党もあれば、世界が眉を顰めるような言動や振る舞いにも関わらず支持を失う気配すらない人もいます。おそらく大半の日本人にとって極右とは「黙認」の対象なのでしょう。むしろ金銭や女性問題などのスキャンダル、単なる一過性のブームが過ぎ去ることなどの方が、有権者の動静に影響を与えてきたと言えます。そんなわけで本来なら問題視されてしかるべきものが取り立てて問題視されることもなく、まとまりを欠く民主党や自称第三極軍団を相手に優位に立っているのが自民党です。

 安倍晋三の世間からあまり「気にされていない」極右傾向についてはさておき、経済面では概ね肯定的に受け止められているでしょうか。以前に総理だったときはどうなんだよ、と思わないでもありませんが、基本的に安倍晋三は経済に関しては「色がない」タイプと言えます。小泉純一郎のように積極的に日本経済を破壊しようという熱意はない、周りの人間次第でどうとでも変わるタイプです。そして誰が入れ知恵しているのかは知りませんけれど、今の段階で掲げている政策は悪くない、その結果として市場の期待感を駆り立て、一過性ながらも円安と株高に繋がったようです。

 どうにも昨今の経済政策は「裸の王様」タイプが主流だったように思います。つまり、傍目にはとんでもない過ちを犯しているようにしか見えないけれど、それが「理解できている」風を装わないといけない、こじつけに頷いては経済を分かっているフリをするのが権威筋の間で常態化してきたと。言い方を変えれば「バカには分からない経済理論」ですね。でも、その結果として導かれた日本経済を思うに、たぶん本当に王様は裸であったのでしょう。そして安倍晋三の唱える(それが本当に持論であるなら前の総理であったときに動いて欲しかったのですが)大胆な金融緩和は久々に一般常識のレベルでも理解できる経済政策に思えますが、総選挙後には裸の王様学派の反撃で新たな首相は考えを変えるかも知れません。

 

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どっちに転んでも叩く人は叩くけれど

2012-11-24 23:08:53 | 社会

 一時期、お役所の「不正経理」が世間の話題に上ったことがありました。「不正」と言っても私的流用に相当するものは皆無に近く、単に正規の手段を100%遵守することなしに公金を支出していただけのことなのですが、まぁ公務員を叩く材料に飢えていた政治家や国民にとっては、そういった事情などはどうでも良かったようです。ではこの「不正」を是正するためには何が必要だったのでしょうか。

 当時の私の勤務先では官公庁とも取引がありまして、「融通の利かない」役所とのやりとりには悩まされたものです。「保守契約料」を請求しているのに「契約に対する支払いはできない、業務委託費に書き直してくれ」だの、「修理代」を請求したら「修繕費用としては支払えない、部品代として請求してくれ」とか、「先月分への支払いはできない、修理対応日を今月に書き直してくれ」云々と、色々ありました。とかく「融通が利かない」イメージの強い「お役所」らしいエピソードに見えるかも知れません。でも正規のルートから外れないように手続きを進めるためには、それが必要だったのでしょう。ここで役所側が融通を利かせて、細かいところは無視して支払いを奨めてしまえば、それは公の規定から外れた「不正」になってしまうのですから。ルールを守れば「融通が利かない」と責められ、柔軟に振る舞えば「不正」として糾弾される、これではどうしようもないですね。

参考、だから役所は難しい

 ……で、昨今の職務上は通信設備工事に関わることが多いのですけれど、似たような問題を意識せざるを得ないところがあります。つまり、ルールを徹底して守るのか、「柔軟に」違反するのか。どちらが正しくどちらが間違っているというものではないのですが、しかるに公務員の世界よろしく世間の敵意に晒された場合、「どっちに転んでも非難される」という不条理に見舞われるであろうことが想像されるわけです。幸いにして私の関わる業界は特にバッシングの対象として好まれてはいないとはいえ、決して他人事とも思えないなと。

 例えば安全管理のため、現場代理人(監督責任者)は自ら作業に当たってはいけない、危険を伴う作業は必ず現場代理人の監視の下で行うこと、みたいな規定があるわけです。そして施工会社にも2パターンあって、概ね小さいところほどルールは気にしない、現場代理人も率先して作業に手を付ける、現場代理人がいなくとも作業員は自らの判断で次々と作業を進めていく、おかげで作業が早くて助かっているところも多いのですが、ウチの会社の上司はご立腹です。そのうち絶対に問題になるから、規則を守らない施工会社は切れ、と。

参考、現場が求めたことでないのは確かだ

 一方で、大きいところはちゃんとしてます。例えば関電工とかですね。全員が全員とは言いませんけれど、大手の工事会社はルールを厳守する、現場代理人は監督に専念し、自らは作業しないわけです。形式上は、それで正しい、何も間違ったことはしていません。しかるに別の角度から見ると、大手の元請け工事会社の人間(現場代理人)は、下請けの人間が危険な作業に当たっている間も遠くから眺めているだけ、指示を出すだけという形になります。これも安全管理のために必要と判断された結果ではあるのですが。

 ある程度まで現場に関わったことがある人間なら、このような構図を特に恨みに思うようなことはないでしょう。じゃぁ管理監督者が自らの持ち場を離れて作業を始めれば良いのか、それはやはり事故のリスクを高めるだろうと、これぐらいは理解されているものです。しかし、部外者の手によって「色」を付けられて伝えられるとなるとどうでしょう? 自らの政治的な思惑を抱えた自称ジャーナリストの類が、現場作業員にインタビューをしてみた結果がどのようなものになるのか、通信設備工事の世界とそれほどの違いがあるとは思えない原発作業を巡る報道には、今なお考えさせられるものが少なくありません。

 ルールを無視して作業が進められれば、それはしばしばスキャンダルとして広められます。現場代理人が自ら作業に手を染める、現場代理人の監視がない状況で作業が進められる等々、これも安全軽視の表れの一つとして糾弾されるには十分なものですし、実際にそう伝えられることもありました。では逆に現場代理人が「監視しているだけ」「指示を出すだけ」であればどうかというと、「元請けの人間は見ているだけで、実際に危険な仕事をやらされるのは下請けばかり……」みたいな報道が相次いできたことは今さら繰り返すまでもないでしょう。

 ルールを遵守するのと柔軟に運用するのとでは、一概にどちらが正しいと言えるものではありません。むしろ、どちらも正しくない。ただどちらを選んでも100点満点ではない中で、その完璧でない部分を探してはバッシングのネタにしようとする、そういう根性は実に卑しいと思います。役所でも分野に限らず現場作業の世界でも、是正されるべき問題がないとは言いませんけれど、槍玉に挙げられているものの背景ぐらいは伝えて欲しいし、受け手の側でも考えて欲しいところです。しかし敢えて背景を語らず、読者(視聴者)をミスリードしたがるメディアは目立つ、それをマスゴミ云々と罵倒しながら毎回のように乗せられている「お客様」も多いわけです。分別がないな、と。

 

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子供のそばにいる人は大変だな

2012-11-22 23:14:39 | 社会

再生JALの心意気(Voice)

 私は夏の羽田空港で、JALの空港スタッフ相手にひと騒ぎ起こしていた。主人と出かけた愛媛県松山からの帰りの飛行機、JAL1466便のなかで、赤ちゃんが泣き叫び通しだったのにブチ切れてしまったのだ。だって、客室乗務員さんが母親と一緒にあやしても泣きやむ気配はないし、逃げ込む場所もないんだもん。
 
 その赤ちゃんは、たぶん1歳くらい。どうしてそんな体力が、と思うくらいに離陸から泣き叫び通しだった。
 
 「引きつけでも起こしたらどうするの?」と心配になるレベルだし、お母さんもどうにもできなくてホトホト困っているのがわかる。ほかのお客さんも「言い聞かせてなんとかなる年齢ではないし、仕方ない」と思っているみたい。でも、私は耐えられなかった。
 
 「もうやだ、降りる、飛び降りる!」

(中略)

 との回答。いやあ、そんなのみたことないし。それであの現実なわけじゃないですか。お母さんだけでなく、みんなで話さないと。だいたい私は、病気治療のための搬送とか、引っ越しとか、のっぴきならない事情でもないのに、乳飲み子を飛行機に乗せるのってどうかと思うわけよ。冊子をみると「生後8日目から乗れる」と書いてあるけど、気圧の変化とか、大人でもつらいのに大丈夫なの? あの泣き叫んでいた赤ちゃんは、つらくて怖かったんだと思うよ。泣きやまない場合もあるんだし、マナー的に、まず親が「2歳くらいまでは乗せないほうがいいかもね」くらいのコトを考えたらいいと思う。そういうと、
 
 「公共交通機関である私どもから、乳幼児のご搭乗を規制することはできません」
 
 とのご回答。周りに迷惑をかける可能性があることは乗客のほうで考えて、遠慮するべきだよね。あと、医者である私の亭主いわく、親のほうが、たとえば子供の健康に害のない抗アレルギー剤など、その子に合った眠気を誘う薬を用いるなどの工夫はできるかも、とのこと。でも、そういう議論も情報もないから、こんなことになるんじゃない? 昔、子供が遠足で観光バスに乗るとき、ビニール袋と酔い止めの薬をもたせるのは常識だったはず。飛行機自体が乗り物として歴史が浅いんだもの。その搭乗マナーや機体の工夫について、議論すべき余地はまだまだあるはず。

 

 さて、日頃はちょっとアレな発言から一部で有名な人が飛行機内でぶち切れたとかで色々と語っています。まぁ、子供はうるさいですよね。家の近所でも図書館とか病院とかパン屋とか、どこも子供の鳴き声が響き渡る動物園状態、他人の子供を叱れる大人はどこに行ったんだろうと首を傾げるところですが、当の私自身が何も言えない小心者、他人を非難する資格はないと頭を垂れるほかありません。結局、みんな我慢しているのです。でもたまに我慢できない人がいる、そして我慢できなくなった結果として傍目には暴走としか見えない行動に出てしまう人もいるわけです。その頻度は子供との距離に比例するでしょうか、最も多いのは子供を虐待してしまう親とかですね。

 引用前半部の「ブチキレ」はさておくとして、後半部はどうでしょう。健康な大人でも飛行機にの乗れば耳がキーンとする、酔いを感じることもある、閉鎖空間の中で状況を理解できない乳幼児がパニックに陥るには十分と言えそうです(野生動物は空輸中のストレスで普通に死んだりします、何が起こっているのか理解できれば違うのかも知れませんが!)。そうでなくとも乗り物に弱い人だとフライトは割とキツイですよね。結果として乗客側が「遠慮」する必要があるかは留保するにしても、幼児を飛行機に乗せるのはどうなのかと考えてみるぐらいはしても間違いではなさそうです。そして投薬というと一気にデンジャラスな雰囲気が漂ってきますけれど、まぁ「工夫」ぐらいは検討されても良いのではないでしょうか。一気に飛躍して強制的な措置をと叫ぶなら暴論ですけれど、だからといって何もしなくても構わないというものでもないように思います。

 

「子供は泣くさ」 物議醸した“搭乗マナー”問題、つんくや乙武さんの発言に共感の声多数(RBB TODAY)

 この記事を受け、ネット上では自身の見解を示す著名人らの声が各方面から上がっている。脳科学者の茂木健一郎氏による「1歳の赤ちゃんのふるまいを、コントロールできると思っている大人がいることが信じられない」とのコメントや、弁護士の落合洋司氏が「気持ちはわかるが赤ちゃんが泣くのは仕方ないのでは。昔から、泣く子と地頭には勝てぬ、いうくらいで」などとTwitterを通じて発言したことは前記事ですでにお伝えした。

 

いたずらもみじ(乙武洋匡オフィシャルサイト)

でも、まだ「ウー」とか「アー」しか口にしない一歳前後の赤ん坊。
 「まわりの迷惑になるから」と言い聞かせたって、わかるはずがない。
 
結局、大人が我慢するか、子どもに我慢させるのか、という話だと
 思うんです。それが、日本の社会では(ほかの国ではどうなんだろう?)
 子どもに我慢をさせてきた。
 大人が快適にすごすために、赤ん坊に過度なストレスを強いてきた。
 
正直なことを言えば、いままで電車やレストランで赤ん坊が騒げば、
 「うるさいなあ」と思ったこともありました。でも、子どもたちにしてみれば
 「そんなこと言われたって……」ですよねえ。
 これからは、我慢、我慢。
 我慢というか、その光景をほほえましいと思える大人になりたいな。
 たとえ寝不足だとしても(笑)。

 

 ところが、そうは考えない人たちが圧倒的に多いようです。国旗や国歌、あるいは仕事にやりがいを感じることなど、否定することが許されない、それを否定することで社会的地位を奪われてしまう恐れのあるものが少なからず我々の社会にはあります。そしてこの頂点に君臨するのはやはり「子供」なのでしょう。子供の鳴き声を「ほほえましい」と思えない大人は我々の社会では異邦人であり、死刑を宣告されたりはしませんが囂々たる非難を浴びるものなのだと、今回の事例は証明しているようです。もうちょっと問題になりそうな発言には事欠かない人のはずですが、我々の社会にとって最も許されないもの、強い反発を買うものとは「子供」を歓迎しないことなのだとわかります。

参考、私は神を愛さない

 まず茂木健一郎氏は問題をすり替えています。一足飛びに子供をコントロールすることが可能であり、そうすべきだと言われているのではなく、もう少し他にやれること、考えられることはないかと問われているのです。しかるに、茂木氏にとって子供とは神聖不可侵、何があっても周りは黙って受け入れるべきものであって、その振る舞いを議論の俎上に載せることなど初めから考えられないことなのかも知れません。落合洋司氏も同様、子供が泣くのは仕方がない、それは誰でも分かっていることで、じゃぁ泣かせておけば良いのか、他に何かできないかと提起されているのですが――落合氏にとっても子供とは受け入れられて当然のものと、そこで完全に思考が止まっているようです。

 そして乙武洋匡も同様、どうにもペドフィリア達が「子供様に傅かない奴がいる、許せん!」と拳を振り上げている印象を免れません。幼児に泣くなと言っても無理なことは誰もが承知している、ただその先はないかと頭を巡らせる人もいれば、その行為に「我慢しろ」「耳栓でもしてろ」と、いかにも良識家ぶっては上から目線で説教を垂れる人が後を立たないわけです。どうにも子供のことは、考える行為自体が許されないかのようです。子供はただ受け入れるしかない、崇め奉るしかない、そこに疑問を呈するなどどうかしている――ある種の人々が国旗や国歌に忠誠を占めることは自明の真理であって是非が問われるなどあり得ないと考えているようなものです。

 しかし、乙武氏の語る「大人が快適にすごすために、赤ん坊に過度なストレスを強いてきた」を具体的に考えると、「移動時間を惜しむ大人の都合で幼児を飛行機に乗せる」ことも該当するように思えてなりません。でも、大人の都合で幼児を飛行機へ乗せる行為に乙武氏が何の疑問も感じていないことは明らかです。なぜでしょうね。本当に子供を思うなら、それくらいは気にかけても良さそうなところです。子供を優先する「道理を弁えた」「寛容な」自分に酔いしれるためならいざ知らず……

 よく乙武氏は「障害者を特別扱いしないで欲しい」的なことを言います。それは一理あるかも知れませんが、当然ながら反対意見もあるわけです。乙武氏のように精神的にタフで周囲の支えにも恵まれ地位と名誉もある人ならともかくとして、障害を抱えた人の多くはそこまで強くない、やはり何らかの形で支援を必要とする、幸運にして障害が「ない」人と同列扱いすることは社会的な排除にも繋がることでしょう。しかし、乙武氏のように何らかのハンデキャップを抱えていてもがあっても「強い」人は、往々にして自分に可能なことは他人にも可能だと思い込みがちのようです。確かに、その辺の健常者より乙武氏は高い社会的ステータスを勝ち得ていますけれど、誰でも自分のようになれると考えているとしたら、それは誤りです。

 乙武氏としては、誰でも我自分と同じように「我慢」できる、「ほほえましいと思える」ものとして、そこに微塵も疑いを持っていないのでしょう。しかし、世の中にはペドフィリアになれない人もいるのです。阪神が好きになれない人がいる、キノコが好きになれない人がいる、労働が好きになれない人がいる、そして子供の鳴き声が好きになれない人がいる、当たり前のことですが、しかるに内心の自由に丸っきり無頓着な人がいて、そういう人が「好きであるのが当たり前」という感覚を振り回していると言えます。子供の鳴き声をどう「感じる」か、そこに自由はありません。あなたがそれを不快に思うとしたら、あなたはこの国の良心に照らして異常者です。

 先に言及した国旗とか国歌とか、あるいは自衛隊であったり時には煙草の煙であったり、それを「不快に思っている人がいること自体が許せない」とばかりの態度を取っている人が我々の社会を闊歩しています。そして最も幅広く共有されている偶像が「子供」なのです。やれやれ、子供と接する機会が多い人は大変だな、と思います。それは快いことなのだ、と自らに言い聞かせることに長けている人も多いことでしょう。でも、たまには限界が来ることもあるはずです。仕事に悦びを見出している風に見えたはずの社畜が、ある日を境に心を病んでしまう、これと似たようなことは「子供」との関係でもあり得るのではないでしょうか。

 乙武氏は「我慢、我慢」「ほほえましいと思え」と語りますし、好意的に紹介されている人の多くは似たような趣旨で発言していると思われます。「大人が我慢」すれば良いと、当たり前のように考えられているわけです。まぁ、たまに子供に遭遇してしまうだけなら、それでも良いのでしょう。でも、四六時中子供と付き合わなければならない人はどうなのでしょうね。24時間365日、子供から離れられない人の中には、子供のために自分が我慢することに限界が来て、子供の虐待に走ったりする人もいるはずです。それでも我々の社会は、大人が我慢せよ、と何の疑問もなしに連呼します。

 子供のために大人は我慢、子供のことは知りませんが、子供の周りにいる大人は大変です。子供の鳴き声に快感を覚えられるよう自らを調教しない限り、子供を排他的に尊ぶ我々の社会と折り合いを付けることはできません。それに失敗したら、良識を欠く人間として社会から糾弾され、イレギュラーな存在として「普通」から排除されるわけです。でも本当にイレギュラーなのかな、と私は疑問に思います。不満を表に出すまいと努めているだけで、子供の振る舞いに不快感を覚える人もいる、特にいつでも子供と一緒にいる人の中には我慢の限界に達する人もいる、それは普通のことと考えられるべきではないでしょうかね。しかし、我々の社会は「我慢」ができなくなってしまった人に欠格者の烙印を押すだけで、それが誰にでも起こりうることだと認めようとはしません。

 結局のところ、子供の鳴き声に関しては「我慢しろ/させろ」「耳栓でもしておけ」の大合唱で何の対策もないのが実情です。苦痛を訴えても、その原因が子供であれば我々の社会は取り合おうとしません。そうして孤立無援に陥った人が思いあまって暴挙に出たとしても、もう自業自得と言うほかありません。しかるに、例えば世田谷なんぞでは子供の声に不平を訴える人を区長がtwitterで日々クレーマー呼ばわり、レッテルを貼ることに余念がなかったりと酷いものです。子供が騒ぐのは「仕方がない」としても、それで終わって良いのか、もう少し何かできないか考える余地はありそうなもの、でも件の区長みたいな類には、何か対策を取ること自体が「負け」みたいな感覚があるようで、どうにも対策を「取らされた」とばかりに被害者意識を爆発させたりしているわけです。子供は野放しに、周りの大人が我慢すれば良いのだと、そう考えている人が多いのですけれど、子供の近くにいる人(例えば一緒に暮らしている人など)は本当に大変だと思います。もうちょっと、子供の周りにいる人が楽をできるように知恵を絞っても良さそうなものですが、それを考えること自体を冒涜のように扱う気運に充ち満ちているのですから。

 

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政権だけではなく政策も交代してくれまいか

2012-11-20 22:53:48 | 政治・国際

生活保護「就労意欲そがぬ水準に」減額 事業仕分け結論(朝日新聞)

 政府の行政刷新会議(議長・野田佳彦首相)の事業仕分けは2日目の17日、受給者数が戦後最多を更新し続ける生活保護を議論した。生活費にあたる「生活扶助」の支給額について、「就労意欲をそがない水準とすべきだ」として引き下げを求めた。

 生活保護の受給者数は7月に212万人を突破。今年度予算の生活保護費は総額約3.7兆円にのぼる。

 生活扶助基準について仕分け人からは、「経済状況を考えると高すぎる」「受給せず頑張っている人が受給した方がいいと思いかねない」などの発言が続いた。岡田克也副総理も「もっと下げることは可能ではないか」と減額を求めた。

 

 民主党が政権交代前に掲げてきた公約や政策の類の多くは反故にされる形となったわけですが、まぁその辺は民主党を信じていた方がバカだと言うことで今さら憤るようなことではないでしょう。政権交代前から、疑わしいものは十分に疑わしかったのですから。民主党が政権を取れば○○してくれる、そう期待していた方がどうかしているのです。この辺は、ほぼ確実に次の与党になるであろう自民党も同じで、「やる」と宣言していることと政権獲得後に実行する/できることの間には差があります。まぁ、どちらかと言えば口約束だけで終わってくれた方がありがたい、何もできずに椅子に座っているだけの方がまだマシと言えるのが近年の政治かも知れませんが。

 ともあれ民主党は自民党との約束を守って解散に踏み切った一方、有権者との約束(公約)を守らないことにはあまり躊躇がないようです。もっとも民主党が政権交代前夜に掲げてきた公約や政策の類がどこまで支持されていたかは微妙なところ、内容が具体的になればなるほど支持は薄い、むしろ反対意見も目立つケースが多かったように記憶しています。民主が公約を守ろうとしなかったのは、結果的に見れば民意に従う形になっていたのではないでしょうかね。そんな民主党でも「例外的に」広範な賛同を集めていたのが官僚叩きであり、今回も取り上げられている「事業仕分け」でした。何か「悪者」を指してバッシングの対象とする、こういうやり方は一部の自民党議員(河野太郎など)からも羨まれていたものです。

 その事業仕分けで「就労意欲をそがない水準とすべきだ」などと称して生活保護費の切り下げを求めていることが伝えられています。生活保護受給者を不当な受益者と見なして締め上げようとするのは大いに世間の歓心を得るところ、人気取りには手軽なパフォーマンスと言えますが、国民の生活に責任を負うべき立場としてはどうなのでしょう。今や当選することこそ議員の仕事、有権者の支持を得られるならば国民の生活など省みない、そういう人も多いようです。政府が切り捨てようとしている国民と有権者は重なるはずなのですが、人気取りの生け贄にされる人々を自分たちの一員とは考えない、むしろ自分たちとは違う、向こう岸にいる邪悪な人々とでも勘違いしている、そんな有権者が選んだ議員ですから。

 何はともあれ生活保護によって就労意欲がそがれていると、そう野田や岡田などは信じたがっているようです。たしかに、働いて収入を得るとその分だけ生活保護費は減額されるという制度、そして働いたところで生活保護水準を超える収入を得ることが難しいという現状では、働くことへのモチベーションも低くなりがちです。もっとも生活保護受給者が働いていないかと言えば、そもそも受給者の大半は働いていないことが普通の年金受給世代であったり、あるいは障害や疾病を抱えて民間企業が採用したがらない人であったりするわけですが。

 とかく強調されがちな生活保護の不正受給にしたところで、ほとんどは「働いて得た収入を隠していた/過少に申告していた」ケースです。働ける人は、意外に働いているものなのでしょう。そこで生活保護費を減額すれば就労意欲が高まるのか、たとえば日本のシングルマザーの就労率の高さは世界のトップレベルにあるなど、支援が得られないことで就労に駆り立てられるという側面は否定できません。しかし、就労率が高いからといって豊かな生活を謳歌できているかと言えばさにあらず、薄給で労働に駆り立てられて身心を磨り減らしているだけ、社会全体で見れば少子化と貧困の拡大を招いているだけです。少なくとも私は、このような国を誇らしくは思いませんね。

 「経済状況を考えると高すぎる」「受給せず頑張っている人が受給した方がいいと思いかねない」なんてのも本当に酷い発言です。この経済状況を招いた責任を感じないのか、そもそも生活保護の水準は何に基づくべきなのか、健康で文化的な生活を送るために最低限必要なものを問うのではなく経済状況を持ち出してしまえるのは、国としての責任放棄としか言い様がないでしょう。国内経済の悪化は自然現象のごとくに他人事扱い、そして国内の景気が悪化すれば我が国は国民の生活を保障しないと明言しているようなものなのですから。

 挙げ句の果てに「受給せず頑張っている人~」とは! 生活保護水準以下の収入しか得られないのは国の経済政策の失敗の結果であり、そして生活保護水準以下であるにも関わらず受給できていない人が存在するのは行政の無作為の結果なのです。受給「していない」人は頑張っているのではなく、行政が放置している人なのだと、そう考えられなければなりません。生活保護水準以下の収入しか得られないのに、生活保護を受けられずにいる、そういう人を「頑張っている」などと呼んでは行政が引き受けるべき責任を放棄している、このことに全く無自覚な民主党政府の厚顔無恥ぶりが如実に表れています。

 働いても満足に暮らせるとは限らない、そんな社会を放置したまま社会保障受給者の切り捨てを計る、これを以て「行政刷新」などと称するセンスには恐れ入るほかありません。生活保護水準以下にしかならない低賃金で人を働かせることでしか経営が成り立たないような事業者のために最低賃金は据え置いておく、その一方で生活扶助は減額を計ろうというわけでしょうか。国政選挙では争う風を装いつつ、民主党は自民党の後を継ぎました。その後も国会で主導権争いは繰り広げられてきましたが、もっと政策的な面で対立してくれないかな、と思います。自民が民主の逆張りに徹してくれるなら、ちょっとはマシになるのですけれどねぇ。

 

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自民との約束は守った野田

2012-11-18 11:09:16 | 政治・国際

民主大揺れ…離党者続出「バカ正直解散」「大変な政治空白」(産経新聞)

 野田佳彦内閣は16日午前、閣僚全員が関係書類に署名し衆院解散方針を閣議決定した。閣僚からは政権の成果を強調する声があがったが、突然決まった解散に疑問の声が出た。一方、足元の民主党内では解散当日も、離党者の動きが相次いだ。

(中略)

 民主党内では“激震”が続いており、初鹿明博衆院議員(東京16区)が党執行部へ離党届を提出。福田衣里子(長崎2区)、橋本勉(比例東海)両衆院議員が離党の意向を固めた。首相が14日に衆院解散を明言して以降、民主党の離党者は表明した議員を含め9人になった。

 

 さて、思いの外あっさりと野田内閣は白旗を掲げ解散と相成ったわけですが、まぁ自民党にとっては最高のタイミングでしょうか。元より民主党内をまとめるよりも自民党に秋波を送ることに熱心だった野田内閣です。政策的な距離の近さもさることながら、根本的に野田は自民党が好きだったのではないかと思われます。野田は民主党よりも自民党に認めてもらいたかった、小沢など民主党に所属していた議員を躊躇なく切り捨てる一方で、ほとんど執拗なまでに自民党に擦り寄ってきたわけです。そして自民党に塩を送るような解散宣言、国民に嘘は吐いても自民党に嘘は吐きたくなかったのでしょう、何とも涙ぐましい話です。

 引用元でも伝えられているように、自民党と違って民主党にとっては相当に不都合な時期です。今後の展望が開けているわけではないとはいえ、ここで解散されても民主党には一切の勝算がない、せめて自民党が何か「やらかす」のを待つぐらいは普通に考えられたことでしょう。しかし、野田は民主党の利益をあまり気にしていないようです。まぁ、野田を代表に選んでしまった民主党議員の自己責任ですかね。ともあれ、元より支持率が急落、かつ離党者も続出するなど明るい兆しが見えない民主党、このタイミングでの解散に頭を抱えている人が少なくないであろうことは容易に想像できます。

 強いて言えば、自称「第三極」グループが一本化されることを恐れて解散を急がなければならなかったのかも知れません。多分にご祝儀相場的なものとは言え、瞬間的には自民党よりも世間の期待を集めた橋下一派など、状況次第では民主党を上回って自民に次ぐ2番手まで這い上がってくる可能性はあります。自民も民主もダメ、そして群小政党は目に入らない、そういう真の多数派の票を一手にかき集められれば今の民主などではとうてい太刀打ちできないことでしょう。だから、自称「第三極」グループが分立したままで支持が定着していない内に選挙をしなければならない、自民党に次ぐ第二政党の座を維持するためには今しかないと、そういう判断も働いたのではと推測されます。

参考、ポピュリズムの勝利と敗北

 近年、成功を収めたポピュリズム政党としては「みんなの党」が代表格になるでしょうか。一時は飛ぶ鳥を落とす勢いで、識者を装う人からも「ポピュリズムと馬鹿にするな」的な声が目立ったものです。しかるに、その「みんなの党」が名古屋市議選で同じポピュリズム政党である「減税日本」の前に全滅(当選者0)の憂き目に遭ったことは記憶に止められるべきと言えます。結局、ポピュリズムは勝者総取りの世界、ポピュリズムの№1である限り圧倒的な支持を集める一方で、二番手以下に落ちればたちまちの内に有権者から忘れ去られてしまうものなのです。

 これまでの選挙で民主も自民も橋下には敵わなかった、みんなの党が候補者を擁立してきた選挙区では自民も民主も敗北が相次いでいたわけです。それだけにポピュリストの一本化が進まない今の間に選挙を済ませてしまいたいとの思惑は少なからずあったのではないでしょうか。実際、焦りが見えるのは民主党内部だけではなく、ポピュリズム陣営の旗手である橋下にもまた苦戦の後は窺われるところ、石原一派との連携を発表したばかりですが、これで石原支持層を取り込めるかと言えば逆に石原を嫌う層の反感を集める可能性も高まる、石原グループにしても橋下を嫌う層の反発を買う恐れがあるだけに、次の選挙では思いのほか伸び悩むことにもなりそうです。

 まぁ、この悪夢のような民主党政権がもうすぐ終わると思えばありがたいような気がしないでもありませんが、自民党が民主党よりマシかと言えば微妙なところです。主導権争いこそ熾烈だったものの、一方で政策の骨子は野田内閣とあまり変わらなかったのではないか、麻生内閣の頃に輪をかけてマトモな議員が減って、過去の自民党時代よりもなおさら政権担当能力が落ちてはいまいかと、色々と危惧されることは多いです。ただ、このまま民主党政権が承認されてしまうよりは、まだしもダメ出しされて別の政党に看板だけでもすげ替えられた方が良いのかな、とは思います。最悪の政権を単に黙認するよりは、非建設的なNOでも声が上がった方が多少なりとも政治っぽいです。

 

JA、各党にTPP「踏み絵」 代表招き賛否表明追及へ(朝日新聞)

 JAグループの全国農業協同組合中央会(全中)の冨士重夫専務理事は12日、朝日新聞の取材に対し、15日に各政党代表者を招き、環太平洋経済連携協定(TPP)に賛成か反対かを表明してもらう方針を明らかにした。賛成の党は次の国政選挙では推さない。事実上の「踏み絵」になる。

 

「自民政権に戻さぬ」連合会長、民主支援を強調(産経新聞)

 連合の古賀伸明会長は15日の記者会見で、衆院選の対応について「自民党政権に歴史を逆戻りさせても何も生み出さない。民主党支援に全力を挙げたい」と強調した。

 

 JAはTPP絡みで「踏み絵」を迫るそうです。TPPが農業という産業にプラスかマイナスかはさておき、既存の農協にとっては間違いなく逆風になるだろうなと思われるだけに、まぁ反対論が強いのは致し方ないところでしょう。そこでJAは各政党にTPPに賛成か反対かを問う、これを朝日報道は「踏み絵」などと呼んでいるわけですが、踏み絵というネガティブな単語で名指すのが適切なのかどうか、私には疑問に思われます。農協にとっては死活問題なのですから、自分たちを守るのか放り出そうとするのか、それを基準に支持と不支持を決めようとするのは当然の権利のはずです。これが「踏み絵」と呼ばれて否定的に見られるようでは、いったいどうやって身を守れば良いのでしょうかね。

 逆に自分たちを守る姿勢が見られないのが連合で、相変わらず民主党にしがみつく様子です。民主党に媚を売って、それで労働者の利益になるとでも思っているとしたら果てしなく愚かなこと、連合の幹部には別の思惑でもあるのかと邪推したくなるところです。まぁ、労働者のことより脱原発が第一な労組も珍しくないだけに(むしろ脱原発の煽りを受けてシフト勤務に回されたりする労働者も多そうなのですが)、自分の組織の政治的な勝利こそ重要と考える労組があっても不思議ではありません。その代表が連合であり、所属組合員の利益よりも自分が惚れ込んだDV夫への愛を貫くことの方が大事なのでしょう。自分たちの利益を守ろうとする農協と違って連合は己(の組合員)を省みない、その献身的な姿勢には涙が出てきます。

 

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中小でも優良なら採用に積極的になる必要はありませんよね

2012-11-15 23:44:41 | 雇用・経済

 「学生の根強い大企業志向~」とか、「学生と中小企業のミスマッチを解消するためには~」といった類は、昨今の困難極まる雇用情勢の原因を就活生に転嫁するための定番として幅広く使い回されているわけです。学生に限らず近年ある程度マトモに就職活動をした人であれば、「大企業志向云々」みたいな決まり文句が筋違いであることは何となく分かっていると思いますが、一方で幸いにして就職活動の必要性から遠ざかっている人の中には「学生が中小企業に目を向けないのが問題だ、ミスマッチの解消が必要だ!」などと勘違いを続けている人もいるのかも知れません。

 よく「中小でも優良な企業はある」「中小企業は採用意欲が高い」などと言われています。確かに、中小企業にも優良企業と呼べるものはあるでしょう。そして求人倍率など統計を見る限り、採用に積極的な中小企業が少なくないとも言えそうです(ただし求人開拓業務によって創り出されたカラ求人が存在することも考慮される必要があります)。ただし「中小でも優良な企業はある」「中小企業は採用意欲が高い」の両方のお題目が真であるとしても、「優良な中小企業が積極的に採用を行っている」ことにはなりません。両者は別個に独立して存在するものであり、むしろ重なり合わないことが多いことは直視されるべきです。

 中小でも優良な企業と言われますと、例えば岩波書店などそうでしょうか。岩波書店と言えば「岩波書店(から出版した)著者の紹介状あるいは社員の紹介があること」と、真面目に勉強して大学教授との付き合いがあれば甚だ容易な応募条件を掲げたところ変に話題を攫ったりもしたわけですが、応募のハードルは低くとも採用人数は極小、狭き門であることに変わりはありません。岩波書店は中小企業ですが、採用に積極的ではなさそうです。少なくともコンサルの類が奨めるように中小企業に目を向ければ就職先が広がるかと言えば、実際に学生が直面するのは荒れ果てた大地なのだと考えた方が良さそうに思います。

 そもそも「優良な」企業とは何なのか。働く人にとって「優良」と呼べるかどうかを計る物差しとして、よく離職率を見ると良いと言われます。しかし離職率を遺漏なく公表している中小企業というのも想像しにくいところ、では代わりに何を目安とすべきでしょう。面接時に職場を見学して、中高年が多かったら、その会社は「あなたが中高年になっても働ける職場」であることを示唆します。逆に若者ばかりであったなら「あなたが中高年になった頃には追い出される職場」である可能性が高いです。総じてブラックと呼ばれる企業は、社員の若さを売りにしていますね。中高年を追い出して若者の雇用機会を創出する、それがブラック企業というものです。

 あるいは、事業規模と採用人数を比べてみることです。事業規模に見合わぬ大量の採用を予定している場合、その企業は世間の話題を攫わずにはいられないほどの急速な規模で業績を拡大しているのか、もしくは離職者が相次いで絶えず人員補充の必要に迫られているかのどちらかと考えられます。知名度の低い中小企業であるにも関わらず大企業並みの人員を採用しているとしたら、その分だけ代わりに辞めた/辞めさせられた人がいると推測されるべきでしょう。つまり、採用に積極的な中小企業は危険、可能な限り応募は避けるべきということですね。

 反対に言えば、採用に消極的であれば中小でも優良企業と呼べる可能性が高いと考えられます。新たに人を採用する必要に迫られていない、すなわち離職者が少ない職場ですから。中小企業にも優良企業はある、かつ離職率が高い分だけ代わりの人員を採用する意欲に溢れている中小企業ですが、中小でも優良であることと採用に積極的であることは必ずしも両立しないばかりか、むしろ背反する可能性が極めて高い概念と考えられるわけです。ゆえに大企業への就職が難しいからと「優良な中小」に目を向けさせたところで問題は解決しない、可能なのは「中小でブラック」に落とし込むことだけと言えます。

 割とニッチな業界で働いているせいか、ホームページなんかは存在しない企業、グーグルごときでは検索してもヒットしないような製品を扱う会社との付き合いもありまして、まだまだ世間に知られていない会社も多い、もしかしたら穴場なのだろうかと思わないこともありません。もっとも業者同士だからこそ知り得ているわけで、無関係の業界の人、それ以上に新卒予定の学生が、こうした超マイナーな世界との接点が持てるとはとうてい考えられないところでもあります。何の因果か求人を目にして応募する機会に恵まれたとしても、まぁ「御社は何をしている会社なのですか?」と聞くところから始めなければならない、そういうレベルでしょう。

 世間一般には存在を知られていない、どういうことをやっているのかも業者間での繋がりがなければ知ることができない、そんな孤高の中小企業も存在しますけれど、これまた採用に積極的かどうかは大いに疑わしいですし(大々的に求人を出していない分だけ競争率は低いかも知れませんが、部外者には狭き門でもあります)、知名度が低い業種であるほど新規就業希望者にとっては博打のようなものともなりかねません。賢い人間は博打を他人に打たせようとしますが、博打を打たされる人間の大半はただただ毟り取られるだけです。この辺は起業にも共通することですけれど、コンサルの妄言に載せられて博打に走らないようにと、そう学生さんにはアドバイスしたいです。

 だいたい私のように中途で転職しようなどという身ともなると、元から中小企業しか対象にしていないわけです。名の知れた大企業に入る機会があるのは新卒の時だけ、失業したり非正規雇用から抜け出そうとしたりで新たな就業先を探す必要に迫られれば、自然とハードルの低い中小企業に目を向けざるを得ないのですが、だからといって再就職は容易ではありません。「学生の大企業志向が~」と白面で語る連中は、さも中小企業に目を向ければ就職活動が円滑に進むかのような錯覚を振りまくものですけれど、中途で就職活動をしたことがある人なら、これがいかに馬鹿げた現実に沿わない代物であるか容易に理解できることでしょう。まぁ就職強者である新卒者だけを見るなら、大企業に応募して新卒同士で競い合うより、中小ブラック企業で既卒者を駆逐することの方が簡単とは言えます。しかし、これで就職難が解決するかのごとく思い込んでいる人がいるとしたら、そいつは救いようのない無知か、あるいは意図してあなたを騙そうとしているかのどちらかです。

 

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「ビジネス学部」なら間違いではないかも知れない

2012-11-13 22:57:50 | 社会

【青森】八戸大の「マイナスイオン実習」が中止(朝日新聞)

 「体によい」などと紹介される一方、その根拠があいまいとの批判も多いマイナスイオンについて、八戸大学は今月、3年間続けてきた測定の実習を中止した。大学は「商業用語と科学を混同していた。反省を教育に生かしたい」としている。

 マイナスイオンは、一般に空気中の電気を帯びた物質を指すとされ、インターネットには「自然治癒力を上昇させる」とか、「血液サラサラに」などの説明が多い。2000年前後には、効果をうたう家電製品も多く販売された。

 一方、科学理解を養う科学リテラシーの講義を持つ山形大の天羽優子准教授によると、マイナスイオンという言葉は科学用語に存在せず、健康効果を示す科学論文もほとんど無い。立証されない効果をうたう商品・商法には批判も多く、公正取引委員会から効果をうたうことを禁じる排除命令をうけた商品もある。

 八戸大は三つの高校とともに10年から十和田市の奥入瀬渓流で、市販の測定器を使ったマイナスイオン測定を開始。結果を健康効果の説明と併せ、ネットやパンフレットで紹介してきた。これまで5回、測定会を開き、のべ36人の高校・大学生が参加した。

 

 この頃は「放射能に効く」みたいな触れ込みでEM菌なる効能のほどが検証されていない、そして安全性が確認されているとも言いがたい単なる生ゴミを税金を投じて散布する自治体すらあるわけです。鰯の頭も信心から、実効性や危険性の度合いを計った結果よりも、「これは良い」「これは危ない」と信じることがまず先にあると言うべきでしょうか。EM菌やマイナスイオンのように科学的な裏付けのない、いかがわしい代物が持ち上げられる一方で、放射線や食品添加物など、その程度で健康への影響を危惧するのはデメリットしかないだろうと思えるものが過剰に忌避されたりと、我々の社会の良識が疑われる事態は続くばかりです。

 さて伝えられているように青森の八戸大学では「マイナスイオン実習」を開催していたそうです。でも5回の測定会で参加者は延べ36人とのこと、何とも寂しい数値ですね。延べ人数ですから重複もあるのでしょう。きっと、主催した教授に近しい学生が毎回のように駆り出されることもあったのではないかと推測されます。それだけに影響のほどは微妙ですが、ただ大学ですから科学的根拠の検証すらもなしに、ただ「健康に良い」と信じるだけでは足りないと言われるのが当然です。理系の分野なら「マイナスイオンとは何か」「本当に健康への影響があるのか」、文系なら「なぜこうも世間に広まったのか」辺りが題材にできると思いますが、八戸大がやっているのは完全にエセ科学の世界ですから。

 大学内部でダメ出しする人はいなかったのかと首を傾げるところ、しかるに八戸大に設置されているのは「ビジネス学部」「人間健康学部」だそうで、まぁマイナスイオンみたいな類とは相性が良いのかな、と思わないでもありません。だいたい日本で「マイナスイオン」という定義すらも曖昧な代物が流行したのは、まさにビジネスの世界の迎合があったからです。客から海外メーカーと勘違いされるような無名の三流メーカーではなく、とにもかくにも名前の知れ渡った一流の家電メーカーが、挙って「マイナスイオン」を掲げた商品を販売してきたわけです。日本でビジネスを語るなら、むしろエセ科学には迎合した方が良いのかも知れません。

 マイナスイオン過敏症とか言い出す人はいないのかな、とも思います。得体の知れない成分が垂れ流しにされているのですから、そのせいで健康被害を受けたと訴える人がいてもおかしくなさそうなところ、何とも不思議なものですね。「これは健康に良い」と吹き込まれれば世間は無批判になり、「これは健康に悪い」と吹き込まれれば世間は徹底した排除を要求する、いい加減な話です。しかし、この「検証抜きに信じる」「疑いを持たない」ことこそ我々の社会における「常識」として罷り通っているものなのではないでしょうか。それを実践して見せた八戸大は、良くも悪くも「社会人」を作る上では間違っていないと言えます。

 家電量販店で働いていた頃もあるのですが、当たり前のようにマイナスイオン商品を売っていました。「こんなのでたらめ、単なるハッタリですよ」とお客さんに説明したりはせず、メーカーの宣伝にあわせて適当に売り込んでいたものです。科学リテラシーなんて放棄しなきゃ、社会人は務まりません。マイナスイオン商法に励む日本の一流家電メーカー自体がそうですし、家電メーカーに限らず企業が研修と称して新人に擦り込もうとする類にだってエセ科学は満載です。一時、話題に上った「水からの伝言」だって本当に深く入り込んだのは学校教育ではなく、むしろ社会人の研修現場ではないでしょうか。そうでなくともEQだのメラビアンの法則だのは研修屋の定番です。馬鹿な奴らだ、と一蹴するのは簡単でも、それに付き合わないと社会人は務まらないのです。科学という観点からすれば八戸大の実習は愚かしく見えるかも知れませんが、ビジネスという観点ではどうなのか。エセ科学を検証抜きに受け入れる態度を養うのは、我々の社会における「ビジネス」の実習として通用するものとも考えられます。

 

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 ちなみに、以下のような話もありますね。血液型性格診断も代表的なエセ科学であり、人種論入門としての機能も果たしている気がしますが、単なるこじつけに過ぎないからといって取り合わないようでは日本人として失格です。八戸大のマイナスイオン実習に倣って、流行り物には迎合する、科学的根拠は問わない姿勢を身につけた方がコミュニケーション能力強者になれる、社会人としては立派になれることでしょう。

「血液型」性格診断嫌いはモテない(R25)

「B型って自分勝手な人、多くない?」「A型の上司とはどうも相性が悪くて」…こんな話を耳にすること、よくありますよね? なんといっても日本人は「血液型 性格診断」が大好きな国民。特に女性の場合、「血液型×職場の人間関係」「血液型×恋バナ」は、おしゃべりの肴としてテッパンです。

(中略)

「血液型性格診断を本気で信じているわけじゃないけど、話のネタとして盛り上がっているときに、水を差すようなオトコは心が狭くて嫌」(24歳・会社員)
「お互いの性格を知るきっかけになるから、そこは乗っとけ!って思う。そこで乗れないオトコとはたぶん付き合わない」(27歳・公務員)

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好きな作家を問われると

2012-11-11 22:59:30 | 文芸欄

学校読書調査:中高生の好きな作家、「山田悠介」圧倒的1位 文豪は不人気(毎日新聞)

 毎日新聞が全国学校図書館協議会(全国SLA)と合同で実施した「第58回学校読書調査」の結果が26日まとまった。中学生と高校生に一番好きな作家を聞いたところ、1位はともにホラー作家の山田悠介で、他を圧倒した。

 全国の公立学校に通う小中高校生を対象に6月に実施、1万1313人の回答を得た。

 あらかじめ選んだ30人から一番好きな作家を答えてもらうと、中学生は18%、高校生は22%が山田悠介を挙げた。2位は中学生があさのあつこ(8%)、高校生が東野圭吾(12%)だった。

(中略)

 一方、中学生の27%、高校生の19%は好きな作家を答えず、夏目漱石、芥川龍之介ら「文豪」は全員3%以下にとどまった。

 

 中高生の好きな作家を調べてみたところ、山田悠介が圧倒的なんだそうです。まぁ、粗探ししてケチを付けるのは割と簡単な作家とも言えますが、私はわりと好きな方です。隙のない整った文章=文学として優れた文章ではありませんから。ちなみに引用元では「文豪」の代表として夏目漱石と芥川龍之介が挙げられており、これは概ね最大公約数的な評価と思われますけれど、海外では三島由紀夫が圧倒的になることが多いようですね。オゥ! ジャパニーズ、ハラキーリ! 外国人が「日本」に求めるものを最も満たしてくれる作家は三島由紀夫なのでしょう。

 中高生ならぬ、中学や高校の教師が好きな作家とか調べてみたらおもしろい気もします。塾業界とか、入試対策をかねて調べてみてはどうでしょう。私が受験生であった頃、国語/現代文のテストに最も頻繁に顔を出していたのは山田詠美と厳密には作家ではないかも知れませんが外山滋比古でした。学校(国語)の先生が好きな作家の2トップだったようですね。また滋比古かよ!と辟易しつつも問題文である以上は真剣に読むしかない、それも今となっては懐かしい思い出ですけれど、時代は多少変わったでしょうか。私が受験生だった頃と学校の先生の好みが変わっていないとしたら、それはそれで不安になります。

 なお中学生の27%、高校生の19%は好きな作家を答えなかったとのこと。私も、ちょっと答えに困りますね。漫画家とかゲーム制作者とか、あるいはロックバンドに作曲家、それからサッカー選手や野球選手でも、好きな一人を挙げるのは割と簡単ですが、好きな作家と問われると難しいです。一応、私の専門は文学であって就職に役立つようなスキルを放棄した分だけ文学には精通していると自負しておりますが、それだけに判断に迷うところがあります。一応、論文を書いた作家もいますけれど、そうでない作家も良い作家ですから。

 

 そう言えば『幼年期の終わり』という小説を読んでいたとき、「幼年期」に当たるのは作中の「オーバーロード」達だと感じたものです。前半部のあらすじを説明しますと、宇宙から「オーバーロード」と呼ばれる種族が飛来してくる、そのオーバーロード達の能力を持って地球上の諸問題が次々と解消されていく、ところが――みたいな感じでしょうか。オーバーロードによって指導される地球人が「幼年期」なのだと、そう見せつつ実は別の意味で「幼年期」であったことが終末に至って明らかにされるのですが、どうにも私にはオーバーロードこそ幼年期に見えていたわけです。

 というのも、作中では人類の抱える問題を瞬く間に解決していくオーバーロード達ですが、どうにもそのやり方は稚拙で説得力を欠き、率直に言えば「自分も中学校くらいの頃までは、そういうやり方で世の中の問題が片付くと思っていたなぁ」と、黒歴史が甦ってくるような印象を拭えなかったのです。中学生や、思慮分別のほどは同程度の大人が説く「こうすれば上手く行く」レベルの解決法を実践するのがオーバーロードであり、それで上手く行ってしまうのが作中世界だった、と。小説の眼目はその辺のリアリティとはかけ離れたところにあるにせよ、政治や社会問題の複雑さへの洞察が見えないオーバーロードにこそ私は「幼年期」を感じたものです。

 これとは逆の意味で印象深かったのが『ゲームブック 君ならどうする・食糧問題』という本でした。一時は流行ったゲームブックですが、その中で「食糧問題」というまるで場違いに見える題材を扱った本もひっそり出版されていたもので、まぁゲームブックとしても食糧問題の参考書としても一流ではなかったかも知れませんけれど、この本と出会ったおかげで私は一足早く「幼年期」を終えることができたとも言えます。でなければ、もう少し長いことオーバーロード的な問題解決手段を信奉し続けていたことでしょうから。

 上記ゲームブックの読者は食糧問題担当大臣として、様々な問題を前に決断を下すことを迫られます。そして表れる選択肢の大半は、どれも一見すると正しいように作られているのです。そして選択肢Aを選べば、一部の問題が解決する反面で今度は別の問題を発生させてしまう、では誤った選択であったのかと逆に選択肢Bを選べばと言うと、やはり一部の問題が解決される一方でまた異なる問題に直面することになります。普通のゲームブックでは、概ね「正解」の選択肢があるのですが、この「君ならどうする」では「正解」と呼べる選択肢がない、一応のゴールこそ用意されているものの、大半の選択では前述のように解決できるのは一部だけ、逆に新たな問題が……という繰り返しなのです。

 『幼年期の終わり』では「正解」が存在し、その正解を次々とオーバーロードが示しては実行していきます。しかし、『ゲームブック 君ならどうする・食糧問題』においては大半の場面で正解はない、明らかに間違っていると判断できる、特定の思想に駆られた人しか選ばないであろう悪意ある選択は初めから除外されており、概ね誠意あると思えるはずの選択肢が並べられている、しかしどれも正しくはない、そうした現実の難しさを「君ならどうする」は教えてくれました。良心的な選択だけではどうにもならない、それを理解した上で前に進まなければならない、そのことを早い段階で気づかせてくれた名著であったな、と(少し記憶の中で美化されているかも知れませんが)思います。悲しいことに、今や邦訳版の出版元は倒産してしまいましたが。

 

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