非国民通信

ノーモア・コイズミ

Need for Redemption

2012-04-30 22:58:13 | 雇用・経済

日本も格差拡大、構造改革を…OECD事務総長(読売新聞)

 経済協力開発機構(OECD)のアンヘル・グリア事務総長は25日、東京・内幸町の帝国ホテルで開かれた読売国際経済懇話会(YIES)で講演した。

 日本が取り組むべき課題として、労働市場の二極化や男女格差の解消、財政再建などを挙げ、「格差の原因となっている構造の改革が必要だ」と訴えた。

 グリア氏は、日本でも他のOECD諸国と同様に、1980年代半ばから所得格差が拡大していると指摘。最大の要因は賃金の格差にあり、非正規労働者の社会保障の適用範囲の拡大や職場訓練の充実などが必要との見方を示した。

 

 「格差の原因となっている構造の改革が必要だ」とOECDの事務総長が訴えたそうで、その省略形として見出しには「構造改革を…」となっているのでしょうか。しかるに日本で「構造改革」と言ったら、問題となっている格差の原因の最たるもの、格差を拡大させた要因でもあるわけです。そりゃ一口に「構造改革」と言っても内容は千差万別たり得るのでしょうけれど、そうであるからには用法にも注意が求められます。OECDの「構造改革を…」という提言を受けて、この十数年来の構造改革路線のアクセルを踏み込む、それでさらなる格差拡大に拍車がかかるなんて事態になったら目も当てられませんから。そこに精神的満足感を覚える人はいるにしても、いい加減に経済合理性など「実利」の部分を考えねばならない段階に来ているはずです。日本的な改革の理想を追いかけて経済と社会を破綻させるような未来は御免です。

 小泉一派とその支持層は、格差拡大の原因を専ら高齢化のせいだと主張しました。確かに世代が上になるほど所得/資産の格差は大きくなる、必然的に高齢化の進行は格差の拡大の一員となるのですが、それだけを格差拡大の原因として挙げるのは乱暴に過ぎるでしょう。それ以前に彼らの自家撞着ぶりを示すのは、格差拡大を高齢化のせいと言い繕う人ほど高齢者向けの福祉には冷淡で、あろうことか削減の対象と見なしがちだということです。自分が格差拡大の原因だと説明したものに手を施そうとしないどころか、逆に事態を悪化させようというのですから笑えます。まぁ、笑って済まされるものではないですけれど。たぶん彼らにとって格差拡大は批判的に見るべきことではなく、むしろ歓迎すべきことなのでしょう。いわゆる「好転反応」って奴ですね。格差拡大は意図して推し進められてきた、それは時に経済成長を蔑ろにしてでも実現させるべき改革の理想だったのかも知れません。

 なおOECDのグリア氏によると「最大の要因は賃金の格差にあり、非正規労働者の社会保障の適用範囲の拡大や職場訓練の充実などが必要」なのだそうです。確かに賃金の格差は大きいですし、この低賃金が容認されたままでは社会保障の適用範囲が拡大されても、日本の逆進的な社会保障制度の元では加入することによる負担もまた決して小さいものではありません。そうした面からしても賃金格差の是正は求められますが、単に格差是正というと正社員の賃金を下げれば良いのだと素面で口にする改革論者がこれまた幅を利かせているのですから日本は恐ろしい世界です。まぁ、正社員を含めた日本で働く人をことごとく貧困化させて日本経済を破綻させたところで、正規雇用と非正規雇用の賃金格差は解消されることはないでしょう。正社員の賃金が下げられる一方で、非正社員の賃金がそのまま維持されるなどと夢想するのは、あまりにもナイーブに過ぎるというものです。

 日本のように非正規雇用が実質的に完全自由化されている社会では、どうあっても非正規雇用=使い捨ての労働者になってしまいがちです。ほぼ「何にでも」非正規雇用が使える以上、必然的に雇用側の都合のいいようにしか使われなくなるのは当然でしょう。あくまで周辺的立場の労働者として、仕事が減ったり、他の人に入れ替えたくなったりしたときに切り捨てるために非正規で雇う、そういうことを可能にする規制緩和が行われてしまった以上、非正規雇用が正規雇用の「安価な代替品」として扱われることからは免れられません。それを避けるためには、派遣などの特殊な雇用形態はあくまで「特別な」職業に限定して、余人を持って代えがたいポジションのみを非正規として認めるよう規制していく必要があります。つまり、構造改革が破壊したものを修復することが求められるわけです。それが嫌なら、最低賃金を2000円程度まで引き上げるなど「新たな」改革が必要になりますけれど、マトモな賃金を払ったら経営が成り立たなくなるような採算性の低い企業の延命を重視する構造改革論者にとって、それは受け入れられないことでしょうね。現行の構造改革路線を続ける限り格差拡大は止めることができない、そこで格差は悪いことではないと彼らなりの道徳論を持ち出す、愚かな政治ですが、それもまた国民の支持を得た政治家の決めたことです。

 

 ←応援よろしくお願いします

コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西日本の方がヤバイってどういうことだよ

2012-04-28 23:12:13 | 社会

節電新税、橋下市長が提案 企業向け奨励金の財源に(朝日新聞)

 2府5県と大阪、堺両市が参加する関西広域連合は26日、電力不足が懸念される夏に向け、プロジェクトチーム(PT)で具体的な節電策を検討していく方針を決めた。橋下徹大阪市長は、大口需要家の企業などに奨励金(インセンティブ)を出して節電を促す一方、財源として新税の創設を提案した。

 大阪市内で開かれた会合には7府県知事と2市長らが出席。関西電力の香川次朗副社長が参考人として招かれ、2010年並みの猛暑となった場合、8月で16.3%の電力不足が起きるとの試算を説明した。

 これに対し、嘉田由紀子滋賀県知事は「駄々っ子のように電力供給ができない理由ばかりを言っている」と批判。連合長の井戸敏三兵庫県知事も、他社からの融通電力や揚水発電の活用などを挙げて「まだ余力はあるのでは」と疑問を示した。広域連合は専門家チームを関電に派遣し、詳細な説明を求めると決定。政府にも客観的な需給見通しを示すよう申し入れる。

 

 関西電力の発電量に占める原発の比率の高さを考えれば、原発抜きでは電力が不足することなんて誰の目にも明らかであるように思えるのですが、滋賀や兵庫の知事も橋下とあまり大差ないレベルに見えますね。以前にも触れたように、政治家は電気が足りなくなっても困ることはない職業なのでしょう。実際のリスクとは無関係に、人気を追っていれば済むのですから楽なものです。こういう人を相手にしながらも電力の安定供給に務める電力業界には頭が下がりますが、だからといって発電設備が止まったままではどうしようもありません。そんなアホな知事を選んだ人が悪いと関西地域を見捨てたくもなりますが、私の住む関東だって決して油断できる状態ではないのですから、今から目眩がしてきます。

 しかしまぁ、あの震災直後に心配されたのは東日本の電力不足であって、西日本からの電力融通で凌ぐとか、西日本への製造業のシフトで乗り切るとか色々と言われていたものです。全国各地の選挙でも原発推進派と都市部の新聞からレッテルを貼られた候補の当選が相次ぎ、女川原発の再稼働に向けても地元の首長から前向きな発言が続くなど、むしろ今現在よりも政治は冷静だったのではないかと思えてきます。それがどうしてこうなったのか、やはり浜岡の強引な停止がターニングポイントとなったのではないか、あれで日本の政治の理性が決壊してしまったのではないかという気がしますね。結局、原発を動かせなくなったのは浜岡にとどまらず、あろうことか東日本に電力を融通して復興を支えるべき立場であった西日本の方が危機的状況というのですから無残なものです。福島第一原発の冷温停止には成功しても、沸騰する世論の冷却には失敗してしまったと言うべきでしょうか。それに政治が媚びなければ済む話ではあるのですが。

 いかに「電力は足りている」と念仏を唱えたところで、今年の夏は震災の記憶も覚めやらぬ昨年の夏よりさらに厳しい状況が待ち受けているわけです。実効性は何もない「節電ごっこ」で自己満足に耽っていた人ならいざ知らず、実際に大規模な節電に協力した製造業界やそこで働く人にとっては厳しい未来が予測されます。総じて製造業が大好きな日本人ですが、あまり製造業には優しくないのだなぁ、などと皮肉を言っている場合ではなさそうです。まぁ、いざ深刻な電力不足で何が起ころうとも、それは全て電力会社が悪いのであって原発の再稼働を阻んだこととの因果関係には決して目を向けようとしない人も多いのかも知れません。広域連合は「政府にも客観的な需給見通しを示すよう申し入れる」とのことですけれど、それで何か楽観的な需給見通しを用意してもらって電力会社を咎める足がかりにしようとでも言うのでしょうか。原発なしで関西地域の電力が賄えるような想定なんて、それこそ津波対策も地震対策もしなくて、かつ非常用電源も一つだけ用意しておけば万が一の場合も原発は大丈夫と、そう想定するぐらいの大甘な見通しなんですが。

 まぁ、公務員を叩けば財源が無尽蔵に出てくると信じるような人にとって、電力もまた同様に電力会社を叩けば出てくるものに思えているのかも知れないですね。それに比べれば節電を促そうという橋下の方がマシなところがないでもありませんけれど、この人の場合はどうなのでしょう、むしろ節電の必要性にかこつけて、住民に忍従を強いる、必要不要とを問わず住民を押さえつける好機と考えているんじゃないかと思えないでもありません。「今回の大震災と大津波、それに伴う原発事故は、低エネルギー社会への転換を促す天からの啓示」と言い放った下衆野郎もいたものですが、こういう状況を利して自分の理想を他人に強要しようと、そういう思惑を持っている人も多いですから。

 そもそも節電奨励策の類は震災「前」、原発事故「前」から程度の差はあれ行われてきたもので、これは必ずしも「人間」に優しいものではありませんでした。それはピーク時の電力需要を抑え、発電設備をこれ以上増やさずとも済ますためには必要なことではあったとしても、優しいのは地球に対してであって、人に対してではなかったはずです。つまり、電力需要の集中する昼間の電力使用を抑えて、電気の余る夜間の使用を促す動きが震災前からもあって、そのために夜間の電力料金が割安に設定されたりもしてきたわけです。そこで、では深夜に余る電力を有効活用しようと工場の操業を専ら夜間を中心にシフトさせるともなればどうでしょうか? むしろ電力需要が昼間に集中することになろうとも、夜間の割引は止めて大口需要者即ち工場などの操業時間が夜間にシフトする要因を一つでも減らす、そうすると発電所をもっと増やさなければならなくなりますけれど、「人」には優しくなります。

 しかるに電力需給が逼迫する中、必然的に不足する電力を「分け合う」必要が出てきた、ある人が昼間に電気を使う一方で、工場で働く人は夜、あるいは土日に電気を使う、こうした不平等な「分かち合い」もまたあったはずです。そうした「分かち合い」の結果として昨年の夏はかろうじて乗り切られたわけですけれど、そうした負担の存在を意に介さず「電気は足りている」と強弁する人もいて、まぁ人の痛みが分からない輩はどうしようもないな、と思います。そして震災とも原発事故とも無関係であったはずの関西地域では、昨年とは比べものにならない危機的な状況が着々と迫っています。将来的な脱原発云々はさておき、まずは目先の問題を片付ける必要があるのですが……

 

労働局、内部告発9件放置 担当官「忙しかった」 静岡(朝日新聞)

 国の雇用調整助成金をめぐり、「自分の会社が助成金を不正受給している」などとした内部告発に対し、静岡労働局の担当官が速やかに検査をしていなかったことが朝日新聞の調べでわかった。

 各地で同助成金をめぐる不正受給が相次いだことを受け、厚生労働省は2010年度に検査強化を全国の労働局に指示したが、担当官は10年度以降で9件の告発を事実上放置。告発後1年以上たってから検査していた。

 担当官は朝日新聞の取材に「会計検査院への対応や刑事告訴が必要な別の不正受給事案が重なり、手が回らなかった」と説明。そのうえで「検査はしており、放置したわけではない」と説明している。

 

 さて、生活保護など社会保障費の不正受給ばかりがことさらに大きく誇張して取り上げられる一方で、企業による助成金の不正受給もまた探せばいくらでも出てくるものです。労働局担当官の手が回らなくなるほど多数の不正受給案件が重なっている辺り、必要な人員が不足しているであろうことを鑑みても、決して例外的な事例ではないものと推測されます。そうでなくとも、全国各地で莫大な補助金と優遇措置を受けながら早期に撤退する工場なんてのは相次いでいるわけで、企業が国や自治体に「たかる」ケースも少なくないことを国民はもうちょっと意識する必要があるでしょう。

 そして冒頭で橋下が掲げた節電を促す奨励金です。この財源として新税の創設が考案されているとのこと、何に使われるかは分かったものではありませんが、脱原発とか節電のためと唄えば非道も美談化されるものです。何かをいじくり回さずにはいられない橋下らしい発想でしょうか。ともあれ、この奨励金が実現されればどうなるのか、当然のことながら不正に受給する企業も出てくることが予測されます。そうでなくとも奨励金目当てに従業員へさらなる無理を強いる、それを正当化する経営者も出てくるはずです。それもこれも節電のためだと称してオフィスの空調を切る、あるいは昼間の操業を止めて専ら深夜に働かせる、あるいは土日に働かせる会社も輪をかけて増えることと予測されます。働く人にとっては大変ですが、経営側は奨励金が懐に入る上に、節電に協力的な企業として社会的にも賞賛されるとあらば、まぁ酷いことになりそうです。労組なんかでも原発再稼働反対とか趣味に走っているところも目立ちますけれど、もうちょっと己の本文としてやるべきことがありそうな気がします。

 

 ←応援よろしくお願いします

コメント (11)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本的教育

2012-04-26 23:26:22 | 社会

日本とアメリカの小学校の違い10個 / 「留年がある」 「先生への謝礼は常識」(ロケットニュース24)

さて、自分たちの常識は世界の常識でも慣習でもありませんよね。日本で当たり前と思っているシステムも海外では全く違ったものに。それは学校のシステムも同じです。ということで、今回は12年アメリカに住むOさんに、日米の小学校の違いについて話を聞きました。

1. 入学式がない
満開の桜の下、校門をくぐり、上級生の歌や校長先生のお話をどきどき、わくわくしながら聞く入学式。アメリカにはそんなものはありません。クラス分けを見て、そのクラス番号のついた教室に親が送っていく。初日からその程度。感動も何も感じることはありません。

(中略)

4. ノートもなければ、えんぴつも必要ない?
教科書もノートも持って行かないことに驚いていてはいけません。それだけではなく、えんぴつも消しゴムも、すべて学校にあるので自分で持って行く必要はありません。日本でよくあるお道具箱と似たものは用意しますが、その後の補充は学校がしてくれるところがほとんどです。

5. 体育があっても音楽がない?
州がまるで国のように機能しているアメリカでは、州や市の財政によって学校のクオリティに大きな違いがでます。たとえば破綻寸前のカリフォルニア州では多くの小学校が、財政難により体育や音楽などの科目がカットされており、音楽があっても体育はなし、体育があっても音楽ない。なんていうことが起きています。

6. 体育館がない
日本では普通にある体育館もアメリカの公立小学校にはないことも多いのです。私立に見学に行くと、「我が校にはこんな立派な体育館があるのですよ!」と胸をはって自慢されることも。

 

 まぁ、何度も書いてきたことではありますが、日本の学校と他の国の学校では、力点の置かれている場所が色々と異なるわけです。ここではアメリカの場合が挙げられていますけれど、向いている方向が根底から異なっているのが分かるのではないでしょうか。日本で当たり前と思っているシステムも海外では全く違ったものに~と引用元で語られているように、しばしば日本の常識は世界の非常識だったりします。それはどちらが正しいというものではないにせよ、世界の常識を知ることは日本のポピュリズム政治が陥りがちな独善性から免れるための一助となることでしょう。

 この辺は当ブログにて繰り返し述べてきたことになってしまいますけれど、学校を「勉強するところ」と位置づけるのか、そうでないのかというのが大本の違いと言えます。総じて日本は勉強軽視、むしろ勉強漬けでは良くないと道徳的な非難も少なくない、にも関わらず昨今の大学生は勉強しないとか、ゆとり世代が云々とかの断罪もまた横行する、さりとて就職しようという際に問われるのは学校の成績ではなくコミュニケーション能力みたいな煮ても焼いても食えない代物だったりするわけです。ネームバリューのある大学を留年することなくストレートに卒業することを求められこそすれ、何を学んできたかは問われないどころか学生気分は忘れろと言われ、研修のため自衛隊に体験入隊させられたりする、こうした世間の矛盾した要求の中で日本の学校もまた、その役割が実は不鮮明極まりないものになってはないでしょうか。

 アメリカだけではなくヨーロッパの学校でも、しばしば体育や音楽などの授業は存在しなかったりします。武道が必修化され、道徳教育の重視が声高に叫ばれる日本とは全くの別世界ですね。学力テストの結果に一喜一憂しているにも関わらず、その学力テストの対象になる類の「勉強」に時間を割かないのが日本の教育の特徴の一つと言えます。学校は勉強をするところと位置づけられているのなら、「勉強」以外の余計なものは当然ながら控えめになる、勉強の妨げになるものを敢えて増やそうとは思わないものでしょう。子供が勉強に専念できる環境を整えてやるのも大切です。しかるに日本は学校行事ばかりが重視され、学校行事のために勉強の時間が潰されることも珍しくありません。教員だって本当は勉強を教えるのが仕事のはずなのに、昨今では国歌を起立して斉唱することの方が大切なようでもありますし。

 もしかしたら日本で言う「塾」の方が、ここで挙げられたアメリカの学校に近いのではないでしょうか。極論すれば、学校なんて全廃して全児童が塾に通えるようにインフラを整備するくらいした方がマシなのではないかとすら思えてきます。もっとも中東では「規律を学べる」として日本式教育への評価が高いそうです(参考)。中東諸国の権力者と同じような意識で国民を見ている人々からすれば、日本の公教育もそう悪いものではないのかも知れません。国民の教育水準を高めるよりも、インテリは一握りで十分、国民の大多数が身につけるべきは規律と考えるなら、客観的に見て日本の教育システムは上出来のようですから。

 

7. 親のボランティアと寄付活動が盛ん
アメリカでは、親のボランティアなしでは授業が成り立たないと言っても過言ではありません。生徒のファイルにプリントを入れたり、宿題の添削をボランティアの親がやることも少なくありません。遠足ではボランティアの親達の車に分乗、ということもよくあります。

 

 ……そして「親」の役割も挙げられています。どうなんでしょうか、日本では小中学生の「母親」にとってPTA活動は並々ならぬ負担と聞くだけに、母親だけでも活動が盛んという点ではアメリカと変わらない点もあるのかも知れません。しかしPTAって、いったい何をやっているのでしょう? ネット上では自分が小学校だった頃の教師が日教組で云々と、本人の言を信じるなら小学生にして自分の担任教師が所属する教職員組合を把握していたことになる恐ろしく早熟な子供も多いようですが、自分はそんな利発な子ではありませんでしたので、小中学校時代に身の回りのPTAが何をしていたのか、さっぱり思い出せません。そして現在、子供がいませんので当然ながらPTA活動とは無縁です。むしろ関わろうとしたら「児童に男が声をかける事案が発生」と警察情報に載せられてしまいますし。

 例によってネット上で調べる限りですと、これまたPTA活動がよく分からない、どうにも一部の教職員と会議したり、あるいはPTA内部で会議したり、PTA活動の会誌を発行したり、後はおぼろげに私の記憶にも残っているのですが学校行事とは別にPTAが独自に行事を主催したりみたいな「活動」が散見される辺りです。アメリカの「親」のボランティアと日本の「母親」のPTA活動、どの程度まで異なっているのでしょうかね。ただ日本の教育に関わるものが往々にしてそうであるように、PTA活動もまたアメリカのボランティア活動に比べると曖昧と言いますか、狙いがはっきりしないところがあるような気がします。社員研修と言いつつ具体的な仕事のノウハウを教えるよりもまず精神論を叩き込んだり、学校では勉強を教えるよりもまず国歌を起立して歌うことが問われたりするように、PTA活動もまた「そもそもなんのためなのか」が忘れ去られ、PTA活動のためのPTA活動になっていたりするんじゃないかと。

 何かにつれ日本人は曖昧だなどとは事実誤認も甚だしいとは思いますけれど、ただ狙いが不明瞭なまま、ただ「やる」「やらせる」ことにのみ満足してしまう傾向は少なくないのではないでしょうか。その辺は規制緩和だとか国内競争の促進だとかも同じで、総じて「とにかくやるべきもの」「やらなければならないもの」と位置づけられる一方で、その必要性や効果のほどは検証されない、むしろそこに加わらない人を糾弾するための枠組みとして存在するとすら言えます。社員を自衛隊に体験入隊させるとか、国歌斉唱を徹底させるとか、PTA活動への参加を要求するといった類は、具体的な必要性があって行われているのではなく、とにかくこの枠組みの中に入ることが求められる、それ自体が目的化しているところも目立つように思います。

 

 ←応援よろしくお願いします

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

理想の上司w

2012-04-24 22:49:17 | 社会

理想の上司に橋下市長 本人「同じ組織にいないから…」(朝日新聞)

 この春の新入社員の理想の男性上司として、橋下徹・大阪市長が初めて1位に選ばれた。産業能率大学(東京都)が調査した。橋下市長本人は19日、「市の職員に聞いたら、絶対にそんな順位にならない。同じ組織にいないから無責任に言えるんじゃないですか」と語った。

 調査では新入社員550人に聞き、466人が回答。橋下市長は32票を集め、男性部門で前年の29位から急上昇。理由は「リーダーシップがありそう」が7割を占めた。産能大の担当者は「政治不信の中で、自ら引っ張る行動力に期待が集まった」とみるが、橋下市長は「自分の組織にリーダーシップのある上司が来たら嫌でしょ」。

 ただ、女性社員の票は2票だけ。産能大は「女性社員は男性上司に優しさやアドバイスを求める傾向があるが、橋下さんにそのイメージがなかったのでは」と分析する。

 

 さて、毎年のように同様の調査が繰り返されているわけですが、変わり映えがしません。橋下が1位に選ばれたのは初めてとは言っても、要するにタダの人気投票にしかなっていない、果たして調査としての意味があるのか疑わしいという点では変わらないわけです。元より、リーダーシップ云々と人気投票上位者に期待されるものも変わらない、選ばれるタイプはいつも似たような連中ばっかりでもあります。むしろ橋下本人による「市の職員に聞いたら、絶対にそんな順位にならない。同じ組織にいないから無責任に言えるんじゃないですか」とのコメントが的を射ているのが皮肉です。意外や橋下も自分自身は客観的に見ることができるようです。あなたとは違うんですといったところでしょうか。

 こんな投げっぱなしの調査では娯楽以上の意味合いはありません。エンタメ業界がやるならともかく、一応は大学を称する組織が行うからには、もうちょっとアンケート結果を意味のあるものにする工夫も求められるところです。読売の報道によると「(産業能率大学が)委託された社員研修を受けた新入社員150社550人を対象に」行った調査とのことで、ならば社員研修を受ける「前」と「後」の両方で調査を行い、その変化を検証するというのはどうでしょう。とかく「受けさせる」ことにばかり重点が置かれがちで内容が問われているとは言いがたいのが社員研修の世界です。せっかく一定規模の研修を行って、そこで調査をする機会が得られたのですから研修「前」と「後」の違いに焦点を当ててみるなどすれば研修の効果も計れる、学問としての意味も多少は出てくるのですが……

 なお男性票は橋下がトップであったものの、女性社員の票は2票だけだったそうです。調査対象となる550人の内、女性が何名であったのかという基礎的なデータすら伝えられていませんので微妙ですが、とりあえず橋下は男性に人気で、女性からはそれほどでもないという結果になったのでしょうか。この結果から産能大担当者は「女性社員は男性上司に優しさやアドバイスを求める傾向があるが、橋下さんにそのイメージがなかったのでは」と「分析」しているそうです。この「担当者」、大丈夫でしょうかね。個人ブログで感想を述べるならその程度でも許されるのでしょうけれど、一応は大学の教員なのですから。こんな女性のステレオタイプを口にして満足しているようでは、職務に必要な能力を著しく欠いているとして解雇もやむなしと判断されても不思議ではない水準に思われます。

 

秘書に聞いた理想の上司、4人に1人が「小泉元首相」と回答 - ぐるなび(マイナビニュース)

株式会社ぐるなびが、現役秘書304人を対象に「理想の上司」に関する調査を実施した。調査の結果、政治家・経営者総合部門では、小泉純一郎元首相が4分の1以上の秘書の支持を得て、第1位になった。タレント・文化人では池上彰さんが1位という結果になった。

調査は2012年3月29日~4月9日に、秘書業務に従事している男女304人(女性270、男性34)を対象に実施。秘書につきたい政治家は、1位「小泉純一郎」、2位「橋下徹」、3位「東国原英夫」という結果に。現首相の野田佳彦氏は6位という結果だった。経営者部門では、「孫正義(ソフトバンク社長)」が第1位。以下「柳井正(ファーストリテイリング会長兼社長)」、3位「カルロス・ゴーン(日産自動車社長)」と続く。

 

 こちらもまた同類の人気投票ですけれど、女性270人、男性34人を対象にしたぐるなび調査では1位「小泉純一郎」に続いて2位「橋下徹」との結果が出ています。産能大に言わせれば「女性社員は男性上司に優しさやアドバイスを求める傾向があるが、橋下さんにそのイメージがなかった」そうですが、母集団の9割を女性が占めているこちらの調査では橋下が小泉純一郎に続く人気を得ているわけです。この点からも産能大担当者の「分析」には疑問符が付きます。果たして、産能大の調査に参加した女性が特異であったのでしょうか、それともぐるなび調査の対象となった「秘書業務に従事している男女」が特異であったのでしょうか。この場合も母集団の違い(年齢、職業、勤務年数、収入等々)に伴う支持傾向の違いに焦点を当てるなどすれば、多少は意味のある分析にも繋がると思うのですが、例によって人気投票だけで終わってしまうのが常なのですね。

 それにしても、当の本人が口にするように橋下みたいなタイプが来たら普通は嫌なものではないでしょうか。思い込みで職場を振り回すだけのパワハラ上司なんて、それこそ組織の足を引っ張るだけの存在でしかないのですが、各調査に回答した人の考え方は異なっているようです。まぁ、自己評価が高く、能力もあって努力している自分が相応に報われることがないのは無能な年長者が居座っているせいだみたいな被害妄想的な世界観の持ち主であれば、小泉なり橋下なりの他罰的なリーダーを支持する傾向が強いのかも知れません。秘書という職業に従事する人々にどういうタイプが多いのか、直に接する機会がないので判断に迷いますが、何十倍、時には何百倍もの競争率を勝ち抜いて入社してきた新入社員とあらば、自己評価も当面は高いものと推測されます。配属前とあらば実際の職場への「無理解」を橋下と共有しているところもあるでしょう。そういう人が、自分たちの頭一つ「上」にいる中高年社員を厳しくシバキ上げてくれるであろう小泉・橋下タイプに幻想を抱くのは不思議なことではないですから。

 

 ←応援よろしくお願いします

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「お約束」からは遠い現実

2012-04-22 11:19:52 | 雇用・経済

不況で雇い止めは合理的…元期間工らの請求棄却(読売新聞)

 2008年のリーマンショックに伴う不況による減産の影響で、いすゞ自動車を雇い止めされた元期間従業員ら12人が、雇い止めの無効と慰謝料などを同社に求めた訴訟で、東京地裁(渡辺弘裁判長)は16日、請求を棄却する判決を言い渡した。
 
 ただ、元期間従業員4人に不当な賃金カットがあったとして、1人当たり約58万~63万円を支払うよう同社に命じた。
 
 訴えていたのは、元期間従業員4人と元派遣社員8人。同社の栃木工場と藤沢工場(神奈川県)で勤務していたが、09年4月までに雇い止めされたり派遣契約を解約されたりした。
 
 判決は雇い止めについて、「世界同時不況がいつまで続くか予測困難な状況があり、合理的な理由があった」とした上で、労働組合に予告するなど、その過程も問題ないとした。

 

 別に今更どうと言うこともないニュースではあります。強いて言えば(期間従業員4人に限って)不当な賃金カットがあったことまでは認められたことに希少性が見られることくらいでしょうか。とはいえ、雇い止めという名の実質的な解雇から2~3年という決して短くはない時間を経た結果がご覧の有様です。これほどの長い時間を裁判で争ってもなお、この程度というのが日本における労働者保護の実態と言えます。なにはともあれ、期間従業員であったり派遣社員であったり、果てまた契約社員であったりアルバイトであったり、いずれにせよ非正規雇用である限りいずれは必ず会社から追い出される日が来るのです。

 まぁ正規雇用であれば安泰であるなどと思えるほどナイーブにはなれませんが、そうは言っても非正規雇用は元より「切り捨てる」ことを念頭に置いているからこそ非正規であるわけです。正社員の雇用だって結局は経営側の良心次第、遵法意識次第であって吹けば飛ぶようなものでしかないのが現代の日本、非正規雇用ともなればその扱いは考えるまでもありません。ところが昨今では、雇用に規制が存在することによって非正規の雇用の脅かされる云々、逆に言えば規制を無くせば非正規雇用は永遠に(非正規のまま!)働き続けることができるのに……と非正規で働く人の立場を慮る風を装いつつ暗に主張する、呆れるばかりの誤謬に満ちた言説が急増しています。

 たぶんそれは、ある種の「お約束」からは外れていないのでしょう。経済誌の中では、それは正しい。あくまで経済誌の中では。時代劇や歴史小説における時代考証とはいい加減な代物で、これまた専ら「お約束」で成り立っていると感じることが少なくありません。「お約束」に添っていなければ時代考証が無茶苦茶だと論難されたりする一方で、実は史実に添ったものでも「お約束」から外れていれば娯楽性を損ねる野暮なものとして、これまた否定的に扱われるような傾向はないでしょうか。現代日本の経済/雇用に関わる言説もまた然り、実態よりも「お約束」に基づいた語りが幅を利かせているように思います。

 派遣法に関しては、従来通りに野放し状態を堅持する形で法律が「改正」されることになりましたが、一応のポーズとして中途の段階では派遣規制を、もうちょっと日本経済が栄えていた時代に戻す方向で検討もされていたわけです。それが民主党の本気だと思い込んだ人は病院に行って頭を見てもらうべきなのでしょうけれど、ともあれ規制を強化する(本当は無法状態になってしまったのを元に戻すだけ……)との噂はまことしやかに流れてもいました。それに対して規制を強化すると派遣など非正規は職を失うぞと、風が吹けば桶屋が儲かる的な論理展開の作文を連発する人もまた少なくありませんでした。しかし、お約束で守られた経済言論の世界と現実の温度差は広がるばかりです。現実の日本では、派遣規制など存在しないも同様であるにも関わらず、当たり前のように実質的な解雇が相次いでいる、そうした一例として冒頭で挙げたようなケースもあるのではないでしょうか。規制がなくても、非正規でいる限り遠からず解雇される、それが現実なのです。

 派遣契約に関しては建前上の期間制限があって、3年以上の長期にわたって契約を更新するなら直接雇用に切り替えなさいとのガイドラインも形骸化が著しいながら存在しています。しかるに、雇用に規制を設けるのは悪、全ては雇用主の御心のままにとの信仰を抱く人々にとっては、こうしたガイドラインを主への冒涜と感じているようです。故に、その筋の人はこの期間制限のために多くの派遣社員が職を失っていると主張します。これは、そう語る人が著しく無知であるか、あるいは他人の無知につけ込んで世間を欺こうとしているかのどちらかとしか言い様がありません。そもそも3年という期間制限に引っかかるほど長く派遣契約が続くこと事態がレアなのですから。

 加えてホワイトカラーの場合であれば、過半は派遣契約期間に制限のない「政令26業務」です。私自身、この期間に定めのない「政令26業務」しかやったことがありません。ですから雇用規制の存在によって契約が左右されることはないのですが、普通に3年も保たずに会社から追い出されていますし、知り合いも同様です。まぁ、非正規雇用とはそういうものなのです(もっとも私の場合は正社員として働いていた職場でも退職を迫られましたけれど)。雇用規制が紙切れの上で存在するからではなく、もっと別の理由で職を追われている、それが非正規雇用の現実だということを直視した上で、物事は考えられなければならないでしょう。私のように勤労意欲に乏しい人間が雇用側から快く思われないのはさておくにしても……

 「雇い止め」という言葉が主だって使われていますが、むしろ「雇い替え」と呼んだ方が適切に思えるケースも目立ちます。冒頭の事例は減産に伴う人件費削減の一環ということでまだしも納得できる範囲です。一方で景気に変動がなくとも、ある派遣社員を雇い止めにして別の派遣社員に入れ替える、みたいなパターンもまた頻繁に目にするわけです。元の派遣社員より若い人を雇うためだったり、別の派遣会社とより安い単価で契約するためであったり等々、職場において人員が必要とされているにも関わらず、単純な入れ替えのために職を奪われるような場合もまた多いのです。派遣社員個人の契約単位ではなく、職場単位で契約を見ていくことを徹底させる必要もあるのではないでしょうか。

 

 ←応援よろしくお願いします

コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

削っても良さそうなもの

2012-04-19 23:42:04 | 雇用・経済

普通の企業は、社員研修にいくら使っているか?/川口 雅裕(INSIGHT NOW!)

経費削減と言えば、交際費や広告費がその対象となるのはよく知られているが、さて研修費は実際にどうようになっているのだろうか。

研修会社をやっていて、非常によく聞かれる質問の一つに「これだけ景気が悪いと、研修をする企業も減っているんですか?」というものがある。収益が上がらない中で、企業が経費削減に走ると、研修費もその対象になりますよね、という趣旨の質問だ。経費削減と言えば、交際費や広告費がその対象となるのはよく知られているが、さて研修費は実際にどうようになっているのだろうか。

産労総合研究所が、毎年発表している「教育研修費用の実態調査」によると、企業が従業員一人当たりにかける教育研修費用は、2008年から2010年まで、43,524円→34,633円→40,354円と推移している。

景気が良かったときはどうだったかというと、同じ調査で最も研修費が多かった1991年(バブルの最終年)が43,217円。増減はあるものの、1987年に初めて3万円を超えてからは、2010年まで3万円台の半ば~4万円台の前半で推移している。

意外に思う方も多いかもしれないが、研修費は景気によってそう大きく増減しない、経費削減の対象には入りにくい費用と言えそうだ。私もリーマンショックの際は、さすがに研修の仕事が相当落ち込むのでは・・・と内心ヒヤヒヤしていたが、そうでもなかったのが現実。

ほとんどの研修は、今期の業績のためにやるのではなく、人材育成や組織の活性化といった先々の成長のために実施するもので、“削減可能な費用”というよりは“欠いてはいけない投資”という見方が多いのかもしれない。

 

 日本が世界経済の成長から取り残されること久しく、人件費を筆頭に経費削減も相次ぐ時代ですが、企業が従業員一人当たりにかける教育研修費用は増減こそあるものの長いスパンで見れば取り立てて減ってもいないことが伝えられています。もっとも、ここで上げられているデータは「従業員一人当たり」です。一人当たりの研修費用はバブル期と同等でも、研修を受ける人の人数はどう推移しているのでしょうか? 超・買い手市場に拍車がかかるばかりの近年、従来は専ら中途採用が主であった中小ブラック企業が新卒採用へのシフトを進める傾向も見られます。研修なしで現場に配属されるのが一般的な中途採用者が減って、まず研修ありきの新卒一括採用に重心が移るとなると、むしろ不況の時代こそ研修需要は高まるものとも考えられるところです。

 王将の新人研修はテレビで報道されたこともあってつとに有名ですが、他にも研修参加の内定者に入社辞退を強要するくら寿司とか、「穴掘り」で有名なイー・クラシスなんて会社もあります。そうでなくとも、自衛隊に体験入隊なんてのが新人研修の定番中の定番だったりするわけです。「研修」というものが企業にってどういう位置づけなのか、それはしばしば人材育成や組織の活性化と言った先々の成長のために実施するものではなく、あくまで会社が従業員を支配するため、服従させるために行われていることが分かると思います。雇用側が圧倒的に強くなる不況時こそ、むしろ従業員を押さえつけようとする気運は高まるもの、そのための手段としての研修の需要は高まるものなのかも知れません。

 そもそも、日本の大学進学率だって上昇しているのはむしろバブル崩壊後です。高卒でも仕事に困らなかった時代、高卒でも入社した後は給料が順調に上がっていった時代、日本の大学進学率は先進国としては随分と見劣りのするものだったはずです。それが景気悪化で雇用情勢が劣悪化するようになると、より幅広い雇用機会を求めてか、あるいは状況が変わるまでのモラトリアム期間を延ばすためか、ともあれ日本の進学率は急上昇してきました。専ら中高年を狙い撃ちにしたリストラの嵐が吹き荒れ、首が繋がったとしても将来的な収入の増加が見込めないという状況にも関わらず、子供の教育費は削られるよりもむしろ積み増されてきたようです。それを思えば、まだしも会社は渋っている方でしょう。

 元より日本の企業は、教育に何も期待していないように思います。大卒であることこそ求められても、大学で何を学んだかなんて、よほど特異な専門職でもない限り問われません。むしろ血液型の方が頻繁に訊かれるくらいですから。求められるのは「コミュニケーション能力」なる得体の知れない代物ばかり、こうした企業側の要求に大学側が答えようとした結果、専ら履歴書の書き方や面接の受け方等々、「コミュニケーション能力」の育成に重点を置くところも少なくありません。高等教育を受ける機会が増えたのに、真面目に勉強していては就職戦線に乗り遅れるような社会では宝の持ち腐れです。企業側は教育の目的をもっと具体的に示すべきではないかと思うのですが、専ら具体的なことは研修ではなく隣の先輩社員から教わっているのが、ほとんどの職場に共通することではないでしょうか。

 果たして社員研修の「費用対効果」は検証されているのか、その辺が問われるべきです。ことによると研修を「受けさせる」側の自己満足に陥ってはいまいか、そうした疑いだってあります。しばしば研修参加者にはレポート提出が求められたりしますけれど(ワタミとか非常に研修熱心だそうですね)、そこに書き連ねられるのは概ね「おべっか」の類ではないでしょうか。研修を受けて考え方が変わったとか仕事に前向きになれたとか云々、何かしら研修の成果を上に報告する、それが仕事の一環に組み込まれている職場もまた珍しくないはずです。もし正直に「時間の無駄だった、ただでさえ忙しいのだから研修と称して仕事を邪魔をするのは止めていただきたい」などと報告しようものなら、再研修が待っていることでしょう。結果として研修参加者は「表面上は」成果があったかのように振る舞うものですが、その実態はどうなのか。子供に習い事を強いて自己満足に耽る支配欲の強い親のように、従業員を研修に駆り立てては社員教育に熱心な自分に酔いしれる、何か将来に投資しているかのように勘違いしていて、それが意味のあることなのかどうかを検証しようともしない(そもそも研修の目的が曖昧な精神論に終始していて具体性がなく検証のしようがない)、そういう雇用主も多いように思います。

 

 ←応援よろしくお願いします

コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

電気が足りなくなっても政治家は困らないから

2012-04-17 23:21:15 | 社会

 さて、先日の報道によれば大飯原発の再稼働は妥当との判断が下されたようですが、この先はどうなるのでしょうか。言うことなすことが二転三転するのは民主党の常で、そうした点では自民党以上に信用できないところがありますし、枝野に至っては虚言癖が疑われるレベルです。今後の風向きでは「やっぱりダメ」と言い出して現場を大いに混乱させるような展開も決して考えられないことではありません。原発停止で電力不足、それがどんな事態を招こうとも政治家としては電力会社に責任を押しつければ済む話と、軽く考えられているんじゃないかと思えるフシもありますし……

 

橋下市長「政権を倒すべきだ」 再稼働妥当の判断に激怒(朝日新聞) 

 大阪市の橋下徹市長は13日夜、野田政権が大飯原発の再稼働は妥当と判断したことについて、「本当におかしい。こんな民主党政権に統治は任せられない。政権を代わってもらわないと。このプロセスで(再稼働を)許したら、日本は本当に怖いことになる」などと述べ、痛烈に批判した。

 橋下氏が率いる大阪維新の会として政権をめざすかとの問いには、「維新の会としては機関決定が必要。一有権者として民主党政権にノーだ」としつつも、「次の選挙では絶対(再稼働)反対でいきたい」と、次期総選挙で争点化する考えを示唆した。

 橋下氏は今月、大阪府の松井一郎知事とともに、電力会社に対し原発100キロ圏内の府県と立地自治体並みの安全協定を結ぶことなどを求め、再稼働の8条件を公表。同時に、関西電力の筆頭株主として、脱原発に向けた株主提案もまとめていた。

 

 で、無責任な政治家の象徴とも言える人物がこのように宣うわけです。私にしてみれば、あんなプロセスで(浜岡原発停止を)許した結果が今の惨状に繋がっているのではないかと言いたくもなるところですが、ともあれ橋下は威勢良く反原発を掲げています。まぁ「脱原発が第一」な人にとっては橋下がベストな選択なのかも知れませんね。多少なりとも責任感のある政治家なら、原発停止が招く「結果」だって無視はできないはずですけれど、橋下ならばそんなことは全く気にしないでしょうから。冒頭で述べたように、今の世論なら何が起ころうとも電力会社のせいにすることは簡単です。そして何が起こっても「それもこれも電力会社が悪い」という方向に話を進めることさえできれば政治家の地位は安泰です。むしろ原発再稼働を認めて有権者の反発を買う方が政治家にはリスキーでしょう。だからこそ、社会に責任を負うよりも自らの名誉を守ることを優先する橋下みたいなタイプは最も脱原発に近いと言えます。

 原発稼働のリスクがことさらに強調される一方で、原発を停止したまま夏を迎えることのリスクは十分に検討されているとは言いがたいのが実情です。元より脱原発に伴うコストを負担する気がない国民のことを思えば(参考)、脱原発も何もあったものではないと言いたくもなります。原発稼働に関しては最悪のシナリオを想定せよと叫びながら、電力需給に関しては呆れ返るばかりの楽観論に基づいて「電気は足りている」と豪語する、こうした世間の風潮に政治が流されるとなると、大規模停電などの危険は相応に高まってもくることでしょう。そうでなくとも、昨年の夏を乗り切るためにどれだけの「無理」が重ねられたことかを我々は直視すべきです。

 東京電力管内の場合ですが、昨年の夏、大口利用者の電力需要(ピーク時)は29%、小口は19%それぞれ減ったものの、家庭は6%減にとどまったそうです。「節電すれば大丈夫」と豪語しつつも、実際は節電ごっこに励むだけの家庭レベルでは何もできていなかった一方で、大口利用者が相当な無理をしたであろうことが窺われます。もっとも、その気になれば30%近くの節電が可能であったにも関わらず、電気を節約するよりも人減らしの方に励む企業が今まで目立ったことは無視できませんね。専ら企業にとって負担と思われてきたのは、電気代ではなく従業員に支給する給料だったと言うことですから。

 なにはともあれ、大口利用者はピーク時の使用電力を大幅に削減しました。景気の低迷も影響したことでしょうけれど、単に「シフトさせた」部分も少なくありません。つまり、電気を大量に使う工場の操業を、平日の昼間から土日や夜間に移したわけです。これはピーク時の電力消費を抑えるには単純かつ確実で効果も大きいものですけれど、必然的に工場で働く人やその取引先の勤務時間をもシフトさせることになります。今までは平日の昼間に働いていた人を、電力不足に対処させるべく土日や夜間に働かせる――こうした労働者の犠牲の上で、昨年の夏の電力需給は保たれてきました。これを今年以降もまた、繰り返そうというのでしょうか? 経営者と消費者のことしか考えないのが日本の世論なのかも知れませんけれど、労働者の犠牲の上に成り立つ節電なんて私は御免です。むしろ、工場の稼働時間即ち従業員の働く時間をシフトさせなくても済むよう潤沢な電力供給を約束してくれる政治家の方をこそ支持したいです。

 昨年の5月の段階では石巻市の亀山紘市長(共産党系の候補です)が「安全対策をした上で再開する方向で考える必要がある」と女川原発再稼働を認める趣旨の発言をしていましたし、折悪しくも震災直後に行われた全国各地の選挙でも、報道側から「原発推進(容認)派」と、たぶん正しくはないのでしょうけれどレッテルを貼られた候補の当選が相次ぎました。震災と原発事故から2ヶ月くらいまでは、まだまだ「早く元に戻ろう、戻そう」という雰囲気も強かったように思います。それが徐々に放射能の脅威を煽るデマ報道や事故を好機とばかりに盛り上がる反原発論に押され、今や被災地のガレキ受け入れさえ反対が出る始末、すっかり迷走の度合いを深めてしまったのではないでしょうか。

 再稼働に反対する人の中には「中長期のエネルギー政策をどうするかという議論が具体的に進んでいない」みたいなことを言う人もいるようですけれど、物事の順序が完全に逆です。中長期的な計画の前に、まず目先の問題に対処するのが当然でしょう。直面している危機を乗り切って初めて、将来のことを考える余裕も見えてくるものなのですが、自分の生活に不安のない人の強者目線では、そうもならないのかも知れません。一口に脱原発と言っても、電力不足によるリスクを負わされる度合いは人によって異なります。自分が平気だからといって、他人も平気だとは限らないものなのですが、そういう想像力を欠いた人が威勢良く振る舞っている、それに政治家が媚びる時代なのでしょうか。政治家にしても、上述の通り電力不足で大規模停電が起こるなど深刻な事態を招いたところで、電力会社を非難して済ませば良いみたいなお気楽なポジションですしね。

 

 ←応援よろしくお願いします

コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誰が運転しても車は危険だ

2012-04-15 11:23:22 | 社会

祇園暴走、容疑者は事故当時意識障害なしと判断(読売新聞)

 京都市東山区・祇園で軽ワゴン車が歩行者をはねて7人が死亡、11人が負傷した事故で、呉服店の社員・藤崎晋吾容疑者(30)(死亡)が直前にタクシーに追突した後、いったん車をバックさせていたことがわかった。

 藤崎容疑者はてんかんの持病があったが、京都府警は当時、発作による意識障害はなかったと判断。歩行者が交差点を渡っているのを知りながら突っ込んだとみて13日、殺人容疑で自宅や勤務先を捜索した。

 

京都の事故「やり切れない」=栃木小学生6人死亡の遺族(時事通信) - goo ニュース

 京都・祇園で歩行者7人が死亡した事故で、暴走した車を運転していた男は持病のてんかんを申告せず、運転免許を更新していた。てんかんが事故につながったかどうかは不明だが、昨年4月に栃木県鹿沼市で小学生6人が亡くなった事故の運転手もてんかんを申告せず免許を取得しており、児童の遺族らは、やり切れない思いを抱いている。

 遺族らは今月9日、てんかん患者が無申告で事故を起こした場合の厳罰化などを求める署名を国に提出したばかりだった。

 大森卓馬君=当時(11)=の父利夫さん(47)は「病気と向き合っていれば、防げた事故」と話す。不正取得できない運転免許制度を求めた署名は約17万人分。「国にお任せする形になった」という言葉に、一刻も早い対応を願う気持ちがにじむ。

 署名活動には、てんかん患者への差別を助長するとの意見もある。「どうすれば差別ではないと分かってもらえるか」。星野杏弥君=同(10)=の母清美さん(35)は、見直しを求める中で悩んできた。「立場を置き換えて考えないと、変わらない」と訴える。

 「繰り返されるのはやり切れない」。清美さんは、京都の事故を伝えるテレビを、杏弥君の双子の兄に見せることができなかった。突然家族を失った遺族の気持ちが分かる。「どうだったかと求められたときは、私はこうでしたと伝えたい」と話した。 

 

 さて、京都では癲癇の患者とされる男性が交通事故を起こして運転者と歩行者7人が死亡しました。それを背景に色々な記事が出てきたわけで、癲癇患者が無申告で事故を起こした場合の厳罰化などを求める署名を国に提出した人々の声も寄せられています。癲癇であることを理由に罰の尺度を違える、それが差別であることをどうすれば分かってもらえるのでしょうか。立場を置き換えて考えないと、変わらないものなのかも知れません。冒頭の報道でも伝えられているように、事故後の調査で癲癇による意識障害が事故の原因となった可能性は低いことが明らかになっていますけれど、この清美さん(35)は「繰り返されるのはやり切れない」と述べており、今回の事故も癲癇のせいだと決めつけていたことが窺われます。被害者なり遺族なりが感情的になるのは致し方ないところですし同情もしますが、感情的になっている人に周りが調子を合わせるのは考え物です。政府や自治体には、被害者の支援はしても同調はしない、そうした分別を見せてもらいたいと思います。

 

<京都祇園暴走>てんかん発作での重大事故 過去にも相次ぐ(毎日新聞)

 藤崎晋吾容疑者の家族は同容疑者がてんかんの疑いで治療中だったと証言し、事故との関連が取りざたされている。てんかん発作による重大事故は、昨年4月に栃木県鹿沼市で小学生6人がクレーン車にはねられ死亡するケースなど過去にも相次いでいる。規制強化を求める動きがある一方、規制が差別に拍車をかけ持病を隠す悪循環も指摘される。

(中略)

 警察庁によると、運転者の発作・急病による交通事故は11年に254件発生。てんかんによる事故は73件で、うち5件が死亡事故だった。
 


 見出しに「相次ぐ」と掲げられている割には、率直に言って「少ない」という印象を受けます。これもまた「犬が人を噛んでもニュースにはならないが、人が犬を噛めばニュースになる」みたいなものなのかも知れません。警察庁の交通事故統計によれば、11年は4,611人が交通事故で死んでいるのですけれど、交通事故で人が死ぬことなど当たり前すぎるのか滅多なことでは取り上げられないようです。しかし、事故を起こした人が癲癇であれば話は別、と言うことなのでしょうか。癲癇患者は100人に一人、つまり日本全国で言えば100万人くらいいると推計されるそうです。それを踏まえて事故件数を見る限り、癲癇であるからといって格段に事故リスクが高いというわけでもないのはないかと思えてきます。実はありふれた病気でありながら、死亡事故は指で数えられる範囲に収まっているのですから。

 もっとも、11年の4,611人という数値は10年前の8,747人に比べれば半分近くまで減っている、史上最多を記録した1970年の16,765人と比べれば4分の1近い数値です。ことによると凶悪犯罪と同様に、件数が減れば減るほどクローズアップされることが多くなる、凶悪犯罪が減って死刑判決が増えたように、交通事故が減れば減るほど厳罰を求める世論も高まるのでしょうか。治安や交通事情が悪かった時代であれば許されたものが、安全が高まるにつれて排除されるようになるとしたら、何とも奇妙な話です。

 

プリウスはもっとも「非倫理的な車」(税金と保険の情報サイト)

カリフォルニアの州法では、横断歩道近辺に歩行者がいる場合、車は停止しなければならない。

高級車は一般的な車の3倍、この法規を破り、歩行者を無視する傾向が強かった。

中でもプリウスのドライバーは約1/3が停止せず、車種の中では最悪だった。

実験を行ったピフ氏は、「地球に優しい車に乗っていることで、非倫理的な行動をしても許される、という特権階級意識を持つため」と分析している。

 

 この辺は半分ネタとしても、危なっかしい運転をするのは別に癲癇患者だけではないと言うことは理解して欲しいと思います。単純に運転が下手な人、健康状態が良くない人、相手が道を空けるのが当然だと思っている人、超長時間の運転を余儀なくされる人、癲癇「ではない」人による死亡事故は、大きく取り上げられる頻度は高くないかも知れませんが件数は決して少なくありません。自動車を運転する人の大半は、自分の運転技術は平均より上と思っているなんてジョークもあります。危険運転の最たるものとしては飲酒運転が上げられますけれど、「他人の」飲酒運転を危険視する一方で「自分は」酒を飲んだくらいで事故を起こしたりはしない、自分はちゃんと運転できると、そう思い上がっているドライバーも少なくないのではないのではないでしょうか。

 それこそまさに安全神話と呼ばれるべきではないかと思うのですが、原発/放射能「だけ」が危険であるとか、あるいは癲癇患者「だけ」が危険であるかのように錯覚し、それさえ排除できれば安全であるかのごとく、そう信じている人もいるのかも知れません。世間の話題を集めやすい、センセーショナルに取り上げられる「何か」さえいなければ安全なのだと、そう思い込んでるとしたらとんでもない誤りです。癲癇患者が運転しなくても車は危険なのです。そこを事故調査前から癲癇と関連づける、というより癲癇に責任を押しつけるような考え方は、根本から対策を見誤らせるものでしかありませんし、不必要な弊害(差別など)を産むばかりのものでもあります。

 

 ←応援よろしくお願いします

コメント (15)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

デマやヘイトスピーチを退ける人と、中立を装う人

2012-04-12 23:32:15 | 社会

 こちらは千葉市市長の熊谷氏による発言です。まず背景として、被災地のガレキ受け入れに前向きな市長に対し、一部の人が執拗に噛みついている、それを市長が個別に(twitter上で)回答している状況がありまして、市長側に「初めから聞く耳を持たない相手に、そこまで対応しなくても……」みたいな意見も寄せられたわけです。それに対する市長の書き込みが上記ですね。千葉市という、割と規模の大きい自治体の首長が特定の「個人」に対して時間を割きすぎるのはどうかと思わないでもありませんが、ともあれ一部の危険を煽り立てる人の言動によって「不安に思う方がそれなりにいらっしゃることは行政として無視できない」との立場から「公開して反論」しているとのことです。

 まぁ、市町村とか自治体の広報と、こうしたtwitterの類となると読者層はたぶん異なるのでしょう。市の広報とか意外に色々なことが書いてあったりするものですが、全く目を通さず関心を持たないまま、それでいてネット上では政治について高説を垂れる、そんな人も多いのではないかと思います。国政については新聞報道で知っていても、身近な市政とかは意外に知られていないもの、地方の政治家にとっては自治体の公式な発表を通じて住民に告知していくだけでは間に合わない部分も多いのかも知れません。だから、twitterなどネット上での活動に一定の重心を置く人も出てくるのでしょうか。もっともネット上の支持を過大視して痛い目を見た例も色々と頭に浮かびますけれど……

 ここで注目したいポイントは、市長が「反論相手自体は殆ど説得不能だと理解しています」と述べている点です。この辺り、どう評価されるのでしょうか。対象が「放射能」の問題となると、いい顔をしない人も多いのかな、とも思います。一方で私は、これと似たような主張を歴史修正主義批判の文脈で何度となく見たことがあります。歴史修正主義者当人の考え方を改めさせるよりもむしろ、歴史修正主義者による珍説の拡散を防ぐことに力点を置いている感じの人は、決して少なくないのではないでしょうか。反論相手を「論駁」ではなく「説得」可能と考えて歴史修正主義を批判している人って、あんまりいないような気がするのです。

 一言で括ろうとするとどうしても乱暴になるので難しいのですが、それでも敢えてフレーズを設けるなら「トンデモ一蹴派」とでも呼ぶべきでしょうか。原発や放射線の影響だったり、あるいは歴史認識の問題だったり、いずれにせよトンデモとしか言いようのない珍説が世に溢れている中で、そうした妄論の何がどう誤っているのかを説明し、きっぱりと否定する人もいるわけです。そして意味合いとしては上述の千葉市市長同様、トンデモを信奉している人そのものを説得すると言うより、その手のトンデモが世間に広まるのを防ごうとしているケースが多いように思います。

 ところが、こうした「トンデモ一蹴派」に否定的な人もまた少なくありません。こちらはどう呼ぶべきでしょうか、強いて言えば「(自称)中立派」みたいなのが当てはまりそうです。「自称」の部分を除けば、当人にも歓迎されそうな気がしますし。具体的にどんな層を「(自称)中立派」として想定しているかと言いますと、「中立的な立場を装い」「その実は専らトンデモ一蹴派の批判に終始し」「トンデモに関しては実質的に容認」する人々ですね。これもまたネット上で賑わしいですけれど、現実世界にも決して珍しい存在とは言えないわけです。

 結局のところ、千葉市市長がそうであるように、歴史修正主義批判者も大半は、巷に流布するトンデモの誤りを指摘することはできても、そのトンデモを「真実」と信じて疑わない人たちを説得し、考えを改めさせることにはほとんど成功していないように思います。むしろ、それを諦めている、不毛に感じているケースもあるのではないでしょうか。それどころか、かえってトンデモ信奉者を意固地にさせる場合さえ見られます。このような現状を前に、コミュニケーションの失敗であると批判する人もいるわけです。確かに、そういう側面は否定しません。とはいえ、いかに誤りを指摘されようとも自身の信仰にしがみつくばかりの人々を前に、いったいどうしろというのかと嘆息してしまうところもあります。

 放射能にせよ歴史修正主義にせよ、それぞれトンデモを「真実」と称揚している人の言うことを真っ向から否定するな、彼らの言うことも尊重してコミュニケーションを図れと、そう説く「(自称)中立派」が結構いるのではないでしょうか。まぁ、それでトンデモ信奉者を社会復帰させることができるのなら、理想的なことなのかも知れません。とはいえ、そんなトンデモに居場所を与える「コミュニケーション」に労力を費やすより、何かを信じたがっている人は放っておいて、その盲信が世間に広まらないように、社会に害を及ぼさないように努めた方が、広い目で見れば建設的なのではないかと思うところです。

 ともあれ、こうした「(自称)中立派」の類型として、歴史修正主義に関してまず頭に浮かぶのは東浩紀です。どの程度まで一般に知られている人なのかは微妙ですが(デビュー当時は、学会では期待される逸材でしたね。今は何とも言えません)、上で書いたように歴史修正主義者の主張を真っ向から否定する歴史修正主義「批判」の態度を、これまた真っ向から否定して一時期はネット上で話題に上ったものです。本人は、自分は歴史修正主義に与するものではないと弁明しつつも、その実は歴史修正主義「批判」のみを専ら批判していました。これが大方の歴史修正主義批判者の強い反感を買うところとなったのは言うまでもありません。

 皮肉なことに、その当時は東浩紀の自称中立的な歴史修正主義への態度(事実上の容認)を強く批判していた人が、原発や放射能を巡る問題となるや、自らもまた東浩紀的な態度に終始していたりします。別に全員が全員とは言いませんけれど、歴史認識に関するトンデモを一蹴しては、その態度を否定する東と対立していたかに見える人々が、こんどは原発/放射能に関するトンデモを一蹴する科学者や専門家を御用学者と呼んで罵倒していたり、得体の知れないトンデモ(差別や偏見を含む)を広めようとする人々を一概に否定すべきではない云々、どっちもどっちなのだ等々とむしろ擁護に回っていたりする、そういうケースもまた少なからず目にしてきました。歴史認識に関するトンデモはマトモに相手にするべきではないが、放射能に関するトンデモとはコミュニケーションを図れと主張する人がいたら、まずその人自体が信用できないと思いますけれどね。

 

 ←応援よろしくお願いします

コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

万年課長はどこへ消えた?

2012-04-10 22:39:30 | 雇用・経済

出世したくないんだが…ずっと平社員じゃダメなのか? | ライフハックちゃんねる弐式

2 : アルファ・ケンタウリ(京都府):2012/03/17(土) 11:02:20.00 ID:IECTtNFm0
役職なんかもらったらしんどいだけだよな
自由もなくなるし

11 : 冥王星(山口県):2012/03/17(土) 11:08:39.04 ID:50JV1PJu0
最低限生きていける金さえあればいいから、労働時間少なめの仕事がええわ。

23 : ニート彗星(奈良県):2012/03/17(土) 11:28:19.98 ID:SIjj+gnV0
客先にそういうの居るけど、
会社のスタイルを見てると、出世=労働環境の悪化  の図式がある。
そりゃ、出世はしたくなくなるわ。

24 : カロン(四国地方):2012/03/17(土) 11:30:49.83 ID:2ZzMIhgf0
出世なんかしたくない。大して給料上がらないのに責任ばかり重くなる
正直、やってられんわ

※ (引用は適宜、抜粋したものです)

 こういう書き込みって、ネット上では定期的に見かけます。たぶん、そういう願望を持っている人はネット上に止まらないのではないでしょうか。私だってそうです、仕事が増えるなんて真っ平ですから。そして時代への適応という意味では良い方向だとも思います。日本の人口が増大を続け、かつ一次産業や自営業から会社勤めへと労働人口の流入が続いた時代であったなら、必然的に若い世代ほど頭数が多くなりますので、そうなると先輩社員が率いるべき後輩の数も増える、当然の帰結として出世して上司になることが求められるわけです。一方で少子化が進行し、かつ一次産業や自営業からのシフトも一段落した現代であれば逆ですね。自分より若い世代の方が人数が少ないということは、率いるべき若手が少ないということです。当然ながら上司になるべき人は一部で十分となります。結果として、上司に「なれない」人が増えることになるのですが、そこで出世できないことに憤るような人と、むしろ出世したくない、出世できなくとも不満を抱かない人、どちらが時代に適応していると言えるでしょうか? まぁ、面接で評価されるのは前者なのでしょうけれど。

 そうなんです。ずっと平社員じゃダメなのか? と言われれば、現状では「ダメ」と答えざるを得ません。超・買い手市場の昨今、まずは採用側に受け入れられるかが最低条件です。「出世したくない」とアピールしたところで採用側に評価されるかと言えば、とりあえず私の経験上は0ですね。むしろ就職活動の成功例として聞かされるのは、バリバリ働く姿勢を見せた方ですから。それでも野心的な風を装って面接官を欺いては採用を勝ち取ったとしましょう。しかしその後はどうなるのか? 仕事はほどほどにして、定時になったらさっさと帰る、そんな日々がどこまで許されるのやら、近年は大いに危ういわけです。

 これがもし、正社員でさえあれば定年まで雇用が保障されているような世界であったなら、社員個人でも強気に出ることが可能なのかも知れません。しかし残念ながら、日本はそういう社会ではないのです。正社員が解雇されないのは、ある種の人が信奉するバイブルの中だけの話、現実は厳しいものです。JALや東京電力にソニーのような超有名企業ですらリストラの嵐が吹き荒れる時代、パナソニックやシャープなど日本を代表する企業ですら給与減額を伝える報道が相次ぐ時代です、こういう時代に「出世したくない」とばかりにマイペースで働く社員の存在を、雇用側はどこまで容認してくれることでしょう? 雇用に関する規制が緩みきった現代において、社畜になることなく会社に残るのは決して易しいことではありません。

参考、うだつの上がらぬおっさんに、私はなりたい

 かつては、そういう人も少数ながらいたように思います。いい年して出世することなく、平社員だったり実質的に部下のいない名目だけの課長だったり、それでも気にすることなくのほほんと働き続けている中高年社員を、希にではありますが見かけたことはあります。ただし、本当にレアな事例です。バブル期までは「万年課長」みたいな言葉がありましたけれど、今は死語になってしまったようです。それと同じで、出世しない中高年社員というのもまた絶滅危惧種になっているのかも知れません。どうして? バブル崩壊後に「リストラ」という言葉が"Restructuring"ではなく「人員削減」の意味で使われるようになった時期に、会社から追い出されてしまったのでしょうか。

 雇用側からすれば、出世しない人=会社からの評価が低い人であり、役に立たない人なわけです。人員削減を進める際に、真っ先に標的にされるのは当然のことながら在籍期間が長いにも関わらず出世しない人となります(逆に出世しすぎて給与が増えすぎた場合も狙われますが)。もし社員の雇用をしかるべく保証するような法制度があったなら、「出世したくない」人が生き残る目もあったことでしょう。しかし、残念ながら日本の解雇規制は必ずしも厳しいものではない、特に運用が緩くて実質的な無法状態になりがち、世間もまた「経営が悪化したのなら当たり前」と、雇用側に妙な理解を示しがちです(大規模な人員削減を行えば、それだけで株価が上がったりもするくらいですし)。この結果、会社に認められるように頑張らないと、即ち出世しないと会社に残れない環境は、むしろ現代になるほど強固になってしまったようです。

 会社に長く勤めているのに出世しない(即ち会社に貢献していないと見なされている)、うだつの上がらないおっさんを「無能な中高年」「フリーライダー」「ただ乗り正社員」「ノンワーキングリッチ」云々と呼び、それをもっと簡単に解雇できるようにすべきだ、その分を若者の雇用に回せと説くのが近年の日本における「改革」論でもあります。そんなの、近年「ブラック」と呼ばれるようになった類の企業であれば既にどこでもやっていることなのですが、経済誌の「お約束」にしか興味がないのか呆れるほど無知な人には何か目新しいアイデアのように映っているのかも知れません。一方で「ゆとり」世代の新卒者は、こうした自分が中高年になったら追い出されるであろうことが明白なブラック企業を避けようとする傾向にあり、なかなか社会を理解しているように思えるのが皮肉ですね。ともあれ、こういう「改革」に引きずられれば引きずられるほど、今の若者が中高年になっても出世できなかった時に「若者に席を譲らされる」リスクは高まる、「出世しない生き方」は許されなくなっていくのです。

 もし「出世しない」で「ずっと平社員」でいたいのなら、平社員のまま中高年になっても会社から追い出されないような、そういう仕組みを作る必要があります。例えば派遣社員や契約社員、非常勤職員などの非正規雇用であれば出世することもなく「当面は」ヒラでいられますけれど、これは往々にして早い段階で首を切られ、より若い人に雇い替えられるのが普通です。「ずっと」平社員でいるために非正規雇用は解決策になりません。派遣期間の定めのない政令26業務なんてのがあって、ホワイトカラーの派遣社員の多くはこれに該当するにも関わらず、やっぱりトウが立ってきたら切られる、より若い人に入れ替えられるのが非正規雇用の世界ですから。「ずっと」平社員でいるためには、「ずっと」平社員でいても解雇されない制度が必要です。結局のところ、やむを得ない理由なき解雇を禁止するなどしていかない限り、会社に奉仕する人生からは逃れられないものと言えます。

 

 ←応援よろしくお願いします

コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする