全職員から10万円寄付前提でコロナ予算 兵庫・加西市(朝日新聞)
兵庫県加西市が新型コロナウイルス対策の財源として、正規の全職員(約600人)から10万円ずつを寄付形式で集めることを想定した予算を組んだ。全国すべての人に一律10万円を配る「特別定額給付金」をあてこんだ取り組みで、市は任意とするが、職員から「半強制的な寄付だ」と反発の声が出ている。給付金をめぐっては、加西市以外にも自治体職員に寄付や負担を求めようとする動きが各地で出ている。
加西市は5月11日、新型コロナ対応の生活支援や経済対策などに使う「みんなで支え合う新型コロナウイルス感染症対策基金」を新設する議案や、補正予算案を臨時市議会に提出した。
基金の積立金として7750万円を計上し、うち6千万円を職員からの寄付、残る1750万円を市幹部や市議の給与・報酬カットなどでまかなうと説明。市議会の賛成(全会一致)を得て同日、可決された。市民からの寄付も募り、売り上げが減った市内の小規模事業者向け支援金事業(総額5千万円)などの施策にあてられる見通しだ。
西村和平(かずひら)市長は4月末以降、「このような苦しい時こそ、加西市が一丸となって対応していくことが求められている」などとして、全職員に「ぜひ基金への寄付を」と呼びかけてきた。
似たようなことは他の自治体でも行われているようですが、いかがなものでしょうか。それなりに懸念する声も聞かれる一方で、この加西市では「全会一致」で可決されたことが伝えられています。人一倍、有権者の声に敏感であろう市議会議員が全会一致で賛成したということは、民意もまた近いところにあると推測するほかありません。
昨今の公務員叩きの盛り上がりは、民主党政権誕生前夜を思い出させるものがあります。かつて官僚批判を看板に掲げた民主党は国民の憎しみを託され政権を奪取、報道陣の目の前で官僚を侮辱してみせるパフォーマンスで国民を大いに喜ばせたものです。(ただし財務省と防衛省が批判の対象から常に除外されていたことは強調しておきます)
民主党政権は最後に消費税増税を決めて自民党に政権を禅譲したわけですが、では次世代のヘイトの担い手はどこになるのでしょうか。批判的な層からは専ら安倍一強と呼ばれる現政権ですが、東京や名古屋、大阪といった要所では現職の首長相手に手も足も出ないのが自民党の現状です。「強」というイメージが似つかわしいようには思えません。何かの拍子に国民からヘイトを託される勢力が結集すれば、国会の勢力図は変わりそうです。
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給与・報酬カットもまた有権者から好意的に受け止められる行為の一つと言えます。自らの報酬を削減したとアピールして支持を集めている首長は少なくありません。もっとも、この削減が首長本人に止まるという事はなく、首長から議員へ、議員から職員へと「倣う」ことが求められていくわけです。そしてこの先に待つのは「職員から市民へ」でしょうか。
実際のところ、議員定数や議員報酬の削減を唱えつつ、それと逆進課税をセットで語る政党・政治家も目立ちます。自身が「痛み」を負ったとアピールすることで、国民に痛みを負わせることを正当化するのは常套手段です。往々にして自己犠牲を披露する人ほど周りの人にも同様の自己犠牲を要求していくもの、最終的には社会を犠牲にしていく存在と言えます。
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そして我々の社会において「自主性」とは、しばしば強制されるものでもあります。政界や官公庁に限らず民間企業でも学校でも「自主的に」行動することが求められつつ、その結果として「上」の意に沿ったものが求められる、日本の至る所で見られる光景ではないでしょうか。上記に引用した「寄付」も然り、求められているのは「自主性」です。
もし政府や首長が己の権限によって命令すれば、そこには「責任」が生まれます。命じられた結果として発生したことに「上」は責任を持たなければなりません。しかし「下」が「自主的に」行動した結果であればどうでしょうか? 首長が職員から金銭の供出を強制すれば恐喝に当たりますが、「自主的に」寄付させれば美談になります。なんと麗しい自己犠牲!
自主性を求める以上に無責任な振る舞いはありません。もし自主的な行動を呼びかけて、その結果が己の意に沿わないものであったとしても甘受するのなら、まだしも許されるところはあります。しかし「こうして欲しい」という明確な意思があるにもかかわらず、己の責任で命じる代わりに相手の責任として「自主的な」行動を求めるのは、実のところ負担と責任の転嫁でしかないのです。