……母親の葬儀で涙を流さない人間は、すべてこの社会で死刑を宣告されるおそれがある、という意味は、お芝居をしないと、彼が暮らす社会では、異邦人として扱われるよりほかはないということである。
アルベール・カミュは自著『異邦人』の英語版の序文で以上のように書いたわけですが、実際のところ我々の社会でも、お芝居をしないと異邦人として扱われることは珍しくありません。むしろ我々の社会でこそ、と言うべきですらあるでしょうか。例えば母親ならぬ「仕事」に対する態度などを考えてください。仕事は生活の糧を稼ぐための手段、あくまで金銭目的というビジネスライクな態度では通用しないのが日本の会社というものです。仕事に「やりがい」を見出さない人間は、全てこの日本で不採用を宣告される他はない、と。
あるいは国旗や国歌でも同様、それらへの服従を他人にも理解できるよう定められた形(自己流ではダメです)で表現しない人間は、この美しい国で死刑を宣告されないまでも職務から追放される恐れがある、お芝居をしないと欠格者として扱われる他はない、みたいな状況を着々と現実のものにしてきたと言えます。何を「好き」であるかも個人の勝手では済まされない、その社会の一員として受け入れられるためには、社会が規定する「好き」を共有するべく自らの心を書き換えねばならないわけです。
最大公約数的なものは「子供」でしょうか。暴れ騒ぐ子供の鳴き声を快く受け入れるべき、とする論調はなかなかに根強いものがあって、子供がうるさいと抗議するような人は即座にモンスター~、クレーマー扱いされてしまいます。熱心に論じられているのはそうした「クレーマー」をいかに黙らせるか、ネット上では「我慢しろ(我慢させろ)」の大合唱ですけれど、まぁ静かなところにお住まいの人は羨ましいばかりです。あるいは子供の鳴き声に快感を覚える人を羨むべきでしょうか。
性的な要素が表に出ていれば眉を顰めてみせる人も多い一方で、子供であることを売りにした見世物は幅広く歓迎されているところでもあります。子供に黄色い声援を送っている人には立派なペドフィリアの素養があると感じるところですが、ともあれ誰しも子供が好きではないわけです。ネコの鳴き声が好きな人もいれば嫌いな人もいる、同様に子供の鳴き声が好きな人もいれば嫌いな人もいる、しかるに「嫌うことが許されない」ものとして「子供」は仕事や国旗・国歌と肩を並べるどころか、その王座に君臨しているように思います。
ちなみに自分はとても大人しい子供でしたので、周りから「子供らしさ」を求められるのが大変に苦痛でした。どこでも遠慮なく駆けずり回っては奇声を上げておけば「子供らしくのびのびしている」と周りの大人は歓迎してくれたかも知れませんが、どうにも私は「子供らしくない」子供ゆえに「可愛くない」存在でもあったようです。幼稚園から小学校に至るまで「外で遊ばせようとする先生達」と「部屋の中で本を読んでいたい私」の対立は続いたものですけれど、まぁ「子供に理解がある」風を装う大人ほど、自分の考える「子供らしさ」を子供に強いる傾向が強いような気がします。
この辺、例えば性表現規制とか脱原発とかで「子供を守れ」と叫んでいる人ほど子供の自己決定権には無頓着だったりするのを思い出すところ、ともあれ当の子供と同様に大人も人それぞれ、「子供」をどう感じるかは本来なら一様ではないはずです。しかし、暴れ騒ぐ子供を「うるさい」を感じる自由はあるのか、子供の鳴き声を「暖かく受け入れる」ことが当然視される中では、どうにも「好きであること」が強要される方向に突き進んでいるように思えてなりません。
ある種の人々が発達障害の予防になると説くところの「伝統的な子育て」ですが、我が国の伝統では子供を間引きしたり奉公に出したり年長の兄弟姉妹に任せたりと、どうも現代ほどには母親がつきっきりで子育てしていたわけではなさそうです。一方で昨今は自動虐待が取り沙汰されることが増えました。まぁ問題視されるようになったのは実数の増加よりも世間の意識の変化によるところが多いような気もしますが、24時間365日、子供に付き合わされるともあらば「子供が好き」を続けるのも辛くなるものなのではないでしょうかね。
「時々」子供に遭遇する程度なら、どんなにやかましくとも「かわいい」で済まされるのかも知れません。でも、ずっと一緒にいる人にとってはどうなのかと。真性の子供好きでも、時には「うるさい」と疎ましく感じることもある、それは至って自然なことだと思うのですけれど、しかるに子供の鳴き声を「うるさい」と感じることを許さない人々が我々の社会にはひしめいているわけです。お芝居を続けなければいけません。
「こうのとりのゆりかご」通称「赤ちゃんポスト」という代物があって、まぁ諸般の事情から子供をひっそり預けていく親もいるわけです。これに対し、「なんでそう簡単に子供を捨てられるのかが疑問です」などと宣う人もいます。実際に子供ができたら、子育てが辛くなることなんていくらでもある、子供が欲しいと思っていた頃には想定していなかった事態に見舞われることなんていくらでもあるはずですけれど、そこまで頭が回らないまま「子供を大事にしろ」と迫っているだけの人が多いような気がします。むしろ子供が嫌になることもあると、最初から織り込み済で動くべきなのではないでしょうかね。とりあえず、子作りするなら「子供が嫌い」と言える人とが良いです。
なぜ子供だけなのか
やはりこれは子供にはパターナリズム、大人は自己責任という日本独特の現象があるからなんだと思います。
しかしやはりこれは抽象的で母子家庭などの困窮世帯の生活には、全く関心がないあたりやはり運動ベースの主張は、ダメなんだなと思わされます。
そりゃ原発が危険なのは認めるけどね
子供を守れ論も反原発論も、根底には支配欲があるわけです。自分なりの理想を相手に押しつける、子供本人よりも、自分の思い描く理想の子供像を守ろうと、そういう動機が強いと言えます。だから自分のモラルの範疇から外れると、困窮世帯をも黙殺できるのでしょう。