「尊い」という言葉があります。これが昔から存在する言葉でありながらも、三省堂「今年の新語2018」で第4位に選ばれたりもしているわけです。確かにまぁ、「昔からの」用法が口語で使われることは滅多にないですし、書き言葉ですら利用頻度は随分と下がっていることでしょう。昔からの用法とは微妙に異なる新しい語として使われ始めた、とは言えるのかも知れません。
そんな現代において、「尊い」という言葉を頻繁に用いるのは専らオタクと呼ばれる人々でしょうか。オタク達が自らの崇めるアイドルを形容すべく使う言葉が「尊い」――というわけです。ただ、「尊い」という言葉の新用法も結局は局所的と言いますか、知られる程度には使われても決してマジョリティになってはいません。自らのアイドルを「尊い」と語るオタクは、世間的には「気持ち悪い」存在であり続けています。
しかし昨今のキンジョー天皇やローマ教皇に黄色い声援を送っている人々の列を見ていると、オタクとアイドルの関係と何ら変わるところはないなと、そう強く感じました。偶像を「尊い」と崇めるオタクも、天皇や教皇の姿に常軌を逸した興奮を見せるいい年した大人の姿も、結局のところやっていることは全く同じではないのかな、と。
率直に言えば、天皇なり教皇なりに群れ集っては道ばたで喝采を送る人の姿を私は「気持ち悪い」と感じています。ただ振り返ってみると、それは世間の人々がオタク達の振る舞いを見て「気持ち悪い」と感じるのと、完全に同じことなのかも知れません。違うのは単に、宗派だけなのでしょう。
国家神道なりローマカトリックなり(あるいは単に世間の権威なり)を信奉する人々からすれば、その最上位の祭司を「尊い」ものとして崇めるのは、至って自然なことだと言えます。そしてこれは権威ある存在でなくても同じである、信奉者の数は少なかろうとも、別の偶像を「尊い」と行って崇める人もまた普通に存在するわけです。
天皇をありがたがる人々も教皇を参拝する人々も、それぞれの偶像を尊ぶ人々も、たぶん信仰する教義や対象が異なるだけで、行動原理は皆一緒なのだと思います。その中でオタク達が「気持ち悪い」ものと扱われやすいなのは、単に少しばかり信仰する対象がマイナーなであるからだけなのだろうな、とも。やっていることは、誰も同じようなものですから。