還暦を迎え、最近立て続けにクラス会があった。中学2年と高校のクラス会だがどちらも四十数年ぶり。白くなったり、薄くなった互いの頭を眺め、最初は「誰だったっけ」と引き気味だったが、すぐタイムスリップ。ため口で話し合う当時に戻った▲あの頃にもいじめはあったが、いじめられたりいじめたりで、特定の人がいつもということはなかった。今のような陰湿さもなかった。何よりも悪いことをしているという自覚があったように思う▲テレビゲームがいじめの原因の一つと言われる。ゲームではリセットボタン一発ですべてチャラになる。そんなことを繰り返していると、人生のさまざまな場面で「都合が悪くなったらリセット」という感覚になってしまいそうだが、実際のリセットは簡単ではない。やり直したいことも、やり残したこともたくさん抱えたじいさんの集まりだった。
方々で突っ込まれているので今さらではありますが、毎日新聞がなかなかに間の抜けたコラムを掲載しています。ネタ要素が強いのは「テレビゲームがいじめの原因の一つと言われる。ゲームではリセットボタン一発ですべてチャラになる。そんなことを繰り返していると、人生のさまざまな場面で『都合が悪くなったらリセット』という感覚に~」の行でしょうか。テレビゲームがいじめの原因の一つ云々と「言われる」などと書かれていますが、テレビゲームがいじめの原因の一つと紙面上で暗に主張しながら、さも周知の事実であるかのごとく「言われる」と語る辺りに姑息さを感じるところです。
しかしまぁ、現実の「テレビゲーム」を見たことがある人なら、今時のゲーム機にはリセットボタンが付いていない機種も多いことが分かるはずです。むしろリセットボタンを知らない「ゆとり世代」がいたって不思議ではありません。元より、「テレビ」に接続して遊ぶ据え置き型のゲーム機って下火なんですよね。携帯ゲーム機の方が強い、むしろ携帯電話やスマートホンで遊ぶゲームの方が、数としてはずっと出回っているわけです。この毎日新聞に作文を載せたおじいちゃんの頭の中では、子供達はリセットボタンの付いた機種でテレビゲームを遊んでいるものなのかも知れません。でも、それではお孫さんと話が噛み合わないだろうなと、ちょっと気の毒になってしまいますね。
ゲームをやらない人は、妄想の中のゲームと現実のゲームの区別が付かないのだな、とも思います。むしろソーシャルゲームなどデータが運営のサーバーに管理されていてユーザーの手の届かないところにある、リセットなど通用しない世界で遊んでいる子供の方が多いんじゃないかとも言えますし、例外的にリセットボタンの付いたゲーム機で遊んでいる子供にしたところで、「都合が悪くなったらリセット」という感覚が身につくと、いったい何を根拠に言うのでしょうか。それは単に、ゲームで遊んでいるとそうなってしまうのだと、新聞紙面を使って偏見を垂れ流しているだけのことです。
しかし、それ以上に問題なのは「あの頃にもいじめはあったが、いじめられたりいじめたりで、特定の人がいつもということはなかった。今のような陰湿さもなかった。何よりも悪いことをしているという自覚があった」との行です。本当なのでしょうか。個人レベルであれば、その通りだった可能性は否定できるものではありません。しかし、
単に記者が無自覚なだけ、自分の世代は違うのだと独善家ぶりを披露しているだけという可能性もまたあります。
いじめの加害者側は、せいぜい楽しい思い出程度にしか記憶していないとしても、被害者側は全く異なった思いを秘めている、そういうこともあるでしょう。いじめの記憶は都合良くチャラ、これはいつの時代も同じですね。
昔は良かった、昔は違ったのだ――そういう「設定」「お約束」に沿って話が進められるのは、この毎日新聞の珍コラムに限ったことではありません。むしろ、そうした「設定」「お約束」に則ることでこそ通用している場合も多いような気もします。例えば自称経済誌では定番の「日本的雇用」批判など典型的で、現実の日本における雇用ではなく、あくまで経済誌の中で「こういうもの」と設定されている「日本的雇用」が槍玉に挙げられるわけです。この辺、日本で働いたことがある人なら誰でもフィクションと分かりそうなものなのに、経済誌の中の世界設定の方を真に受けては、経済誌の「お約束」を遵守することで「経済を理解している」風を装う等々。
テレビゲーム云々の話にしても、実際の現行ゲーム機を見たことがある人ならば鼻で笑うところですけれど、逆に知識がない、偏見だけがある、そして今回の引用記事の著者と偏見を共有している人は、必ずしも少なくないのではないでしょうか。そして同じ偏見を共有しているが故に話が通じてしまう、あたかもそれが事実であるかのごとくに受け止められてしまう、こうした繰り返しは政治や経済の分野でも、あるいは原発問題でも頻繁に見られてきたものです。wikipedia的とでも言うべきなのか、実際にそうであるかどうかよりも、受け手の世界観に合致するかどうか、そっちが優先されているところもあるでしょう。