ノーベル文学賞なのに訳書増刷できず 横浜の出版社(朝日新聞)
今年のノーベル文学賞に決まったベラルーシの作家スベトラーナ・アレクシエービッチさんの訳書の一部が入手困難になっている。在庫が少なくなるなか、版元の群像社(横浜市)がアレクシエービッチさんの代理人から、出版契約が切れており、増刷は認められない、と通達されたためだ。
アレクシエービッチさんの主著は、代表作「チェルノブイリの祈り」(岩波現代文庫)など5冊が邦訳されている。群像社はそのうち「ボタン穴から見た戦争」「死に魅入られた人びと」「戦争は女の顔をしていない」の3冊を2000~08年にかけて刊行。発行部数は計約1万部という。
ロシア文学を中心に扱う同社は、島田進矢代表(54)が1人で運営する小出版社だ。代理人からは受賞が決まったおよそ1週間後にメールで通達があったという。
かつてサルトルは賞の政治性を理由の一つに挙げてノーベル文学賞を辞退したわけですが、まぁ「反ソ連/反ロシア」というのは今なお「西側」では高い価値を持つところもあるように思います。反ソ連であれば軍事独裁政権でも民主主義の同志、反ロシアであれば極右政権でも自由の同志ですから。今年のノーベル文学賞に選ばれたアレクシエーヴィチ氏に関しても「ノーベル賞作家がロシア批判」などと伝えられたものですけれど、「ロシア批判でノーベル賞」的な要素も少なからずあるのではないでしょうか。
なお件のノーベル賞作家作品の邦訳については、契約切れを理由に増刷は認められないとの通達があったそうです。確かに契約ではそうなっているのでしょう。ただしこの通達が届いたのは、契約が切れた時期ではなく「受賞が決まったおよそ1週間後」とのこと。いやはや、現金な話です。日本では無名であった時代から作品を紹介してくれた出版社に対する仕打ちとしてはいかがなものかとも思います。受賞を機にもっと売り上げを伸ばせる出版社と有利な契約を結びたいのは当然かも知れませんが、まぁ義理人情の通じる世界ではなかったようです。
「ダース・ベイダー」に変装?=レーニン像が撤去免れ-ウクライナ(時事通信)
【モスクワ時事】ウクライナ南部オデッサの工場敷地内にある革命家レーニン像が、映画「スター・ウォーズ」の悪役「ダース・ベイダー」に変装した。ロシアの軍事介入後に禁止された旧ソ連の象徴を撤去から免れさせるため、地元芸術家が手掛けた。各メディアは「レーニンを救った」と好意的に伝えた。
ソ連時代に各地に建立されたレーニン像は、反ロシア感情の高まりを受け、ウクライナ民族派によって次々と破壊され、4月には「共産主義の象徴」禁止法も制定された。オデッサでも撤去が迫る中、なれ親しんだ地元住民らが反対。「撤去するくらいなら、変装させてほしい」という声が高まっていた。
さてこちらは、ほのぼのとしているのか殺伐としているのか微妙なニュースです。ウクライナ出身者にもグルジア出身者などと肩を並べてソ連建国に奔走した人はいるのですけれど、一方でナチスと手を組んでソ連と戦った人もいるわけですから、地元での評価は分かれるのでしょう。ともあれ功罪両面があるもの、あるいは負の側面が強いものでも歴史の遺産と呼べるものは残されて然るべきと私は考えます。それをむやみに破壊していくような人々は野蛮だな、とも。
反ロシア派武装勢力は「西側」からの承認を得てこそいますけれど、その「西側」が非難するロシアに比べてどれほど真っ当な人々なのか、その辺は疑問を抱くばかりです。「『共産主義の象徴』禁止法」とやらも、同様に政治的な表明を禁止するような法律をロシアが制定したのなら、国際的な非難囂々であろうことは容易に予測できます。しかしロシアに対抗している勢力であるのなら、多少の蛮行や国内の抑圧は大目に見るのが、民主主義のコンセンサスなのでしょうか。反ロシアなら、クーデターによる政権掌握も民主主義のようですから。
ところ変わってギリシャの債務問題では、まぁ現実的な対応策としてはドイツに徹底抗戦、EU離脱ぐらいが考えられるわけですが――奇策としては「ロシアに接近してみる」なんてもありなんじゃないかと私は考えます。少なくとも、緊縮財政という緩やかな死への順路よりは見込みがありそうなものではないでしょうか。70年ばかり前、共産圏の一角に加わろうとしていたギリシャのためにアメリカは速やかに財布の紐を緩めました。ギリシャで暮らす人々のためにドイツやアメリカが何かをしてくれることはないとしても、ロシアの勢力拡大を防ぐためならば話は別、ギリシャへの対応もきっと違ってくるはずです。
誤った認識を与えやすい用語ってのもありますよね。例えば「実効税率」なんて聞くと「実際に課される法人税率?」みたいに感じてしまう人もいるかも知れません。ここは実効税率ではなく「額面税率」とか言った方が意味が正しく伝わりそうな気がするところです。他にも「奨学金」という呼称も闇が深い、給付型の奨学金は当然ながら奨学金ですけれど、貸与型で返済の義務がある、利子がかかる、返済が遅延するとブラックリストに載せられるような類が日本では主流です。これは「学資ローン」と呼ばれるのが正しいはずですが、なぜか「奨学金」という誤解を生む名称の使用が社会的に容認され続けています。学資ローンを奨学金と称するのは誇大広告なんじゃないですかねぇ。
まぁ学資ローンに限らず半ば意図的に誤解を生むような広報の在り方が許されている分野もあるものでして、求人広告などはまさに典型でしょうか、これは虚偽の記載が許されており、実際の待遇や業務内容とは異なる記述で人を募っても何ら咎めを受けることはありません。実態の酷さもさることながら、こうした嘘偽りが許されているのが嫌だな、と私などは思うわけです。実態は同レベルでも内容を明示しているのと、偽りの看板で人を欺くような類とでは、やはり後者の方にこそ卑劣さを感じるところ、最初から「待遇劣悪、業務過酷、雇用継続の保証なし」とでも書いてあった方が、まだしも正直ですから。
<おいでまいガール>募集 容姿条件ずらり、県文言に批判も 色白美人/スタイル良し /香川(毎日新聞)
県産米「おいでまい」のイメージガールの募集で、県が「フレッシュで透明感があり、色白でスタイルの良い女性」と容姿を条件に挙げていることが23日分かった。他の自治体などでは性別を問わなかったり、元気ややる気を条件にしており、有識者は「時代遅れだ」と批判している。
おいでまいは「米の食味ランキング」の最高ランク「特A」と評価された県産米。PRを担当するイメージガールは県などが今回初めて募集した。応募資格は、「お米が好きな16歳以上の女性」などで、締め切りは来月23日。年内に決定し、来年3月末まで活動する。
県のホームページに掲載されたチラシには、「色白でスタイルの良い方」「色白美人で透明感のあるイメージガール」を募集すると明記している。事務局の県農業生産流通課の担当者は「おいでまいは透明感のある白色、粒ぞろいのいい形が特長で、米のイメージを擬人化したもの。問題があるとは思っていない」と説明している。
米どころとして知られる宮城県では毎年、宮城米キャンペーンキャラクターを募集。対象は男女問わず、「ごはんが大好き」な人とする。同県食産業振興課は「昔は女性のみだったが、米をPRするのに、女性に限定する理由もない」と話した。また、「ミスあきたこまち」を実施する秋田県のJA全農あきた米穀販売課の担当者は「元気でやる気のある人であれば大丈夫だと説明している」としていた。
求人広告においては「若年層のキャリア形成のため」と書いておけば、年齢による差別を行うことが許されています。この辺は公的機関(ハローワーク)のお墨付きのようですが、どうしたものでしょうかね。望み薄ですがTPPとか国際的な枠組み作りが広がる中で日本にもグローバルな基準が適用されるようになれば、許されない差別として是正を求められてもおかしくない慣習であるようにも思います。あるいは年齢による排除を継続するにしても、せめて正直に「年齢による差別を行うため/若くなくなった人には退職を強いることがあります」とか求人広告上に明示させた方が、まだしも誠実ではないかと。
……で、上述の「イメージガール」の募集はいかがなものでしょう。年齢を理由にした選別は「若年層のキャリア形成のため」と、おまじないを唱えれば許されます。では容姿を理由にした選別が許されるためには、どんなおまじないが必要なのでしょうか。まぁ私としては「容姿によって女性に優劣を付けるため/容色が衰えれば外れてもらいます」などと明示した上で「美人」を募集するのなら、それはそれで嘘偽りのない代物として許されてもイイかな、ぐらいには思います。もっともらしい言葉で誤魔化した代物が、一番いけません。実態は包み隠さず伝えるべきです。
なお宮城県は「昔は女性のみだったが、米をPRするのに、女性に限定する理由もない」、秋田県は「元気でやる気のある人であれば大丈夫だと説明している」そうです。では実際に、宮城県と秋田県が採用した人々を見てみましょう。
宮城米マーケティング推進機構/私たち 2015「みやぎライシーレディ」です
どうにも言動不一致と言いますか、宮城も秋田も募集時の「建前」が違うだけで、選別の基準は香川県のそれと違わないように見えます。いずれも若く見栄えの良い女性を求めているのは同じで、ただ香川は「正直だった」ということなのかも知れません。「若年層のキャリア形成のため」と書いておけば済むところを、「年齢による差別を行うため/若くなくなった人には退職を強いることがあります」と隠さず書いてしまったようなものでしょうか。香川県の募集の仕方も批判されて然るべきだとは思います。ただ私には、香川の方が誤魔化しは少ないのかな、とも感じられるところです。嘘の下手な人の方が、私は好きですね。
大学の授業より「就活」の方が成長できる! もう「長期化」を問題視するのはやめよう(キャリコネニュース)
2016年卒で導入された「就活後ろ倒し」が見直しにさらされています。理由は企業や学生から「就活の長期化」が問題視されたためですが、そもそも後ろ倒し自体がこの問題を解決しようとして実施された取り組みでした。
これについて考えるためには大学などからの批判に耳を傾ける必要がありますが、そもそも「就活の長期化」は本当に悪いことなのでしょうか? もしかすると、もはや解決すべき重要な問題とはいえないのかもしれません。(文:河合浩司)
(中略)
しかし、そこまで勉強に力を入れている人は、学生全体から見たらほんの一握りでしかないといえるでしょう。多くの人は「卒業」の単位を確保するための要領の良さを競っているだけ、というのが現実ではないでしょうか。
さて就活の後ろ倒しが政府の旗振りで導入されたものの、かつては就活の早期化を批判していたメディアや論者が今度は後ろ倒しの弊害を叫ぶなど、まぁ色々と政治的なものを感じないでもありません。そういう人は逆に一層の前倒しを政府が指示したとしても否定するでしょうし、逆に決めたのが民主党政権だったら何も言わなかったりするのではないかと思ったりもするところですかね。そしてあろうことか、就活の長期化は悪いことではないと、もはや逆ギレとしか言い様がない代物も出てきたのですから驚きです。
確かに大学で学んだものは日本の会社では活かす機会がありません。猫に小判、豚に真珠、日本の会社に教養です。日本の会社で大切なのは知性ではなく会社に染まること、従順さであり疑問を持たないことであり同調することである、履歴書を綺麗に手書きするスキルや面接官の歓心を買うだけの演技力、英語を使う機会はなくともTOEICで高い点を取る技術等々、いずれも既存の大学教育では得にくいものと言えます。大学の中には企業のニーズに応えようとカリキュラムを英会話学校みたいな類に変えようとするところもあるようですが、それで就職実績が上がったかどうか……
しかし大学教育が軽んじられている、日本の会社から必要とされていない一方で「大学は出ていません」という人が重宝されているかと言えば、全く逆ですよね。高卒あるいは中卒では就業機会も大いに限られてしまうのが実態です。大学の授業で教わることが評価されていないにもかかわらず、日本の採用担当者は大卒を優遇しているのですから、ある意味で大学は必要とされ続けているのかも知れません。大学で学んだ中身は問わないけれど(私は就職に当たって血液型を聞かれたことは一度ならずありますが、大学での成績を尋ねられたことはありません)、どこの大学を出たかは重視する、それが日本的採用というものです。
どこの国でも、純粋に向学心から大学へ進む人は決して多数派ではないように思います。大学へ進むのは勉強するためではなく、より良い仕事に就くため――それは日本以外の国でも共通しているはずです。「大学でしっかり勉強すれば就職に有利になる」社会であれば、その国の学生は必死で勉強するでしょう。逆に「(何を学んだかはさておき)有名大学を出れば就職に有利になる」社会であるなら、その国の学生は有名大学に入ることを優先するわけです。そして大学でガチガチに研究するより運転免許やTOEICの点数稼ぎ、体育会系の部活動の方が就職に効く社会なら、学生が大学の授業に熱心になるかは考えるまでもありません。
文系学部の廃止云々みたいなことを文科省が言い出して、批判を浴びると火消しに走るみたいなこともありましたけれど、実際問題として日本の会社は文系学部で得られるような教養を欲してはいないわけです(そこに行政が媚びてどうする、とは思いますが)。しかし現行の日本的採用が有能な人材を見出し経済的発展を牽引しているかと言えば、むしろ逆であって何かが改められるべき段階に来ているのは火を見るより明らかではないでしょうか。学生は、就職というニンジンに向かって走り出します。「大学で学んだこと」を「就活で学んだこと」の下に置くような社会を続けるのか、それとも変革するのかが問われるところです。
<限定正社員制度>約4割の企業で導入 効果はこれから(毎日新聞)
勤務地域や時間を限って働く「限定正社員」。2013年に、政府の規制改革会議が推進の方針を打ち出した際には、「正社員を解雇しやすくする制度ではないか」などの懸念の声もあったが、厚生労働省によると現在、約4割の企業で導入されているとみられる。職場の実情をみてみた。
和食レストランの、さと多摩ニュータウン店(東京都多摩市)では11月、短時間勤務正社員の平原織江さん(43)が店長に就任する。平原さんは10年前から、パートとしてランチタイムに3時間働いてきた。常連客からも信頼され、平原さんが休みだと、客から残念がる声が上がるほどだという。
(中略)
限定正社員制度導入から1年。同社は地域限定38人、短時間勤務271人の計309人をパートから正社員に転換した。労働集約型で人手不足に陥りがちな外食産業で、質の良い従業員を確保するため内部事情に詳しいパートを正社員化するとともに、育児などに柔軟に対応でき女性が働きやすいようにするのが目的だ。今後も増やす方針という。
(中略)
りそなホールディングス(同江東区)は勤務時間を限定する「スマート社員」を来年4月から導入する。パートからの登用と、育児、介護で限定勤務を望む正社員が対象。全体で100人ほどを想定している。
この「限定正社員」に関しては2年ばかり前から提言されてきたものですが、何でも「約4割の企業で導入されているとみられる」とか。俄には信じがたいところですが、実態はどれほどのものでしょう。確かに、以前に勤めていた会社でも「エリア限定」の正社員採用はありまして、例えば関東エリア限定なら、関西や東北には飛ばされず関東圏内でのみの異動――茨城から山梨、神奈川から群馬など――に限定される雇用枠が設けられていました。こういうのもカウントすれば、もっと高い数字にも届きそうですね。
なお引用元で挙げられている事例はと言えば「短時間勤務正社員の平原織江さん(43)」ですとか、「育児などに柔軟に対応でき女性が働きやすいようにするのが目的」、「育児、介護で限定勤務を望む正社員が対象」等々、総じて「女性限定」で考えられていることが窺えます(好ましからざることであるにせよ、日本では育児と介護は女性に押しつけられているわけで)。要するに昔年の「一般職」に少しだけ手を加えたものが「限定正社員」であると理解すれば、概ね実態と合致するのかも知れません。
参考、「普通」の働き方
最終的には「限定正社員」という呼称で定着しつつあるようですが、内閣府が提唱し始めた当初は「準/凖正社員」や「職種限定正社員」「業務限定正社員」などなど呼び方は定まっていませんでした。どのみち今に至るまで通底しているのは「留保付」正社員という位置づけだと言うことですね。一方の極には「留保なしの」正社員が現状のまま残り、それとは異なる「留保付の」存在として「限定正社員」の枠が設けられているわけです。あくまで、付随的な存在として。
結局、これまでは非正規で都合よく使ってきた女性を「限定正社員」と呼び変えて、それで待遇改善を計ったように装っているのが大半ではないでしょうか。そして無印の社員を「無限定に」働かせる雇用慣行には手つかずのまま、と。無限定に働かされることを受容しないと留保なしの正社員にはなれないという日本的雇用は改められる必要がありますが、「働かせ方」が限定される正規雇用はあくまで「留保付」かつ実質的には女性限定の周縁的な存在である限り、何かが変わるとは考えられないところです。
寂聴さん「若さは恋と革命よ」 岩手・青空説法に2千人(朝日新聞)
僧侶で作家の瀬戸内寂聴(じゃくちょう)さん(93)=京都市=が11日、名誉住職を務める岩手県二戸(にのへ)市の天台寺で約1年5カ月ぶりの「青空説法」をした。社会問題を交えて教えを説いた。
境内を埋めた聴衆約2千人を前に、本堂前に法衣姿で登場。昨前の続き年5月以降、圧迫骨折やがんで約1年間療養した日々や、荒廃してほとんど参拝者がいなかった、かつての天台寺を振り返った。戦後の日本について「お金、お金、お金になり、恐ろしいこと」と指摘。「本当は目に見えないものが大切。神や仏、ご先祖様は目に見えない。もっと見えないのは人の心。しかし、生きていく上で一番大切。目に見えないものによって生かされていると考えて」と説いた。
さて瀬戸内寂聴氏が、「教えを説いた」そうです。伝えられるところでは「(戦後の日本について)お金、お金、お金になり、恐ろしいこと」と指摘したのだとか。確かにこの人、2012年にも「私が生きてきた90年で、こんな悪い時代はなかった」「戦争中の方がまだ、ましでしたよね」とも語っています。安倍総理だって、ここまで露骨に戦前・戦中賛美はしないと思われますが、まぁ恐ろしい人もいたものです。
それはさておき現実の日本の戦後は「お金、お金、お金に」なっているのでしょうか。そうしたステレオタイプの存在は間違いないとしても、どこかシャドーボクシングの印象は拭えません。例えば就職するときだって「お金のためです」と公言できますか? むしろ採用側では「待遇ばかりを気にする学生は採用しない」と断言していたりするのが実態です。「金のため」と口にすることが憚られる、そうではなく「やりがい」だの何だのと「心」を装うことを強いられるのが日本社会のはずです。
「景気が回復したら、改革する意欲がなくなってしまう」とは、小泉純一郎の弁です。小泉政権はまさに日本の暗黒時代、日本が世界経済の成長から取り残されていった時期であるにも関わらず、一方で首相交代まで国民の幅広い層から高い人気を保ち続けた内閣でもありました。今でも朝日新聞や民主党、時には共産党からさえも賛辞の絶えない小泉純一郎ですけれど、それは景気回復に背を向けてでも改革の(自分なりの)理想を追う姿勢もあってのことでしょうか。日本を貧しくしたけれど、金ではなく理想を追った、そんな「心」優先の政治に精神的な満足を覚えていた人は多かったのだろうと言えます。
しかしまぁ、こうした精神論、道徳論が罷り通ってしまうことにこそ私は危機感を抱いてしまいますね。曰く「目に見えないものによって生かされている」等々、その次には「サムシング・グレート」とか言い出しかねない勢いですけれど、そんなオカルトで救われるのは金と時間に余裕のある有閑な人々――瀬戸内寂聴氏のような――だけです。現に貧困に苦しんでいる人、経済的な理由から人生の選択肢を奪われている人、ローンが払えず自殺に追い込まれる人、医療にかかる金すら捻出できない人、そうした人々を救えるのは第一に「金」です。しかし精神論者は「金」の必要性を訴える声を道徳によって封じ込めてしまいます。
「心」の心配が先に来るのは、「金」の心配とは無縁の恵まれた人です。一方で経済的弱者にとって喫緊の課題は「心」ではなく「金」であることは言うまでもありません。しかるに瀬戸内寂聴のような「持てる者」には、それがわからないわけです。端的に言えば瀬戸内寂聴の説法は「金持ちの道楽」以外のものではなく、間違っても弱者の側に立った言説ではあり得ません。まぁ、ブルジョワ新聞やファッションで政治活動をするような人にとっては、共感しやすい領分なのではないかとも思いますが。
「日本式教育」輸出します 文科省、16年度に新組織(日本経済新聞)
運動会や部活動、カリキュラムまで輸出します――。文部科学省は来年度、日本独特の学校教育の仕組みを新興国に“輸出”する取り組みを始める。理数分野での高い学力や規律を重視する教育、即戦力を育てる職業教育などに関心を持つ国は多いという。海外に参考にしてもらい、教育分野での国際貢献を進める狙いがある。
来春以降、外務省や経済産業省、教育関連企業などとともに窓口となる「日本型教育の海外展開官民協働プラットフォーム」(仮称)を設立する。2016年度予算の概算要求に関連予算として1億5千万円を計上した。
想定しているのは主にソフト面だ。クラス内で役割を分担する掃除や給食、集団で練習を重ねる運動会や部活動、防災訓練などは海外では珍しく、協調性などをはぐくむ手段として評価する新興国は少なくない。
過去にも「日本式」教育は中東諸国で評価が高いと聞いたことがありますけれど、文科省の肝いりで「新興国に」輸出する取り組みが始まるそうです。しかしまぁ、とかくグローバリズムが悪玉視される一方で、どうにも自分には「日本独自のもの」と「グローバルの流儀」が対立する場面では十中八九、日本独自のやり方の方に問題があるように思えないでもありません。日本に足りないのはグローバリズムなんじゃないかという気がしてならないのですが――「右」は「日本独自のもの」に誇りと幻想を抱き、「左」はグローバリズムを敵視しがちなのが日本の政治風景なのでしょうか。その結果として、「右」と「左」が対立しているようでいながら実は似通ったことを主張している場面も多い、というのが私の印象です。
ともあれ、「日本独特の」学校教育システムを「新興国に」輸出するのだそうです。一口に新興国と言っても幅広いですが、日本特有の学校教育制度を取り入れたがる国って、果たしてどういう政体なのでしょうね。国民に規律や従順さを要求するタイプの国でほど「為政者から」好まれそうな気がするところでもあります。「先進国」ではなく「新興国」からの需要が見込まれるのは、ちょっと複雑な話です。まぁ、日本の経済界の動きを鑑みれば先進国として発展していくよりも新興国的な在り方を目指しているようなフシは窺えるだけに、ある種の一貫性は見えるのですが……
日本が輸出を考えている運動会や部活動では生徒が重症を負う事故も多い、児童が教員の虚栄心の犠牲にされがちな世界です。先々週辺りには運動会での人間ピラミッドにおける事故などが取り沙汰されましたが、どうしたものでしょう。「安全に配慮する」として人間ピラミッドをマスゲームに変更する学校もあって、その辺を肯定的に評価する論者も散見されますけれど、マスゲームだって非人間性には大差ないように私には思われます。「新興国」の為政者にとって日本的教育は好ましい「躾け」に見えるのかも知れません。しかし「先進国」では人権侵害に当たる、弁護士が怒鳴り込んでくるような自体に繋がりかねない、そういう類も多いのではないでしょうか。
日本の学校教員の労働時間は、他国のそれと比して際だって長いことが知られています。その反面、授業の準備に充てる時間は短かったりするのです(参考、勉強を教えている時間は短い)。授業「意外」に力を注いでいるから、ですね。生徒の時間割を見ても(学力テストの対象になるような)勉強の時間は少なめで、体育や道徳の時間が長いのが日本の学校教育の特徴だったりします(参考、必要とされていないから)。学校教師には勉強を教える能力よりも、君が代を起立して大きな声で歌えることの方が求められるのも日本独自でしょうか。確かに日本の教育には独特のものがある、ヨソの国の教育では得られないものがあると言えます。ただ、それを好ましく思うのはどういう国なのかは、考慮されて欲しいところです。
元プロレスラー馳浩文科相とヤンキー先生“武闘派タッグ”(夕刊フジ)
第3次安倍改造内閣発足に伴い、副大臣・政務官人事が9日、決定。衆参400人を超える大所帯の自民党では、副大臣・政務官ポストも「狭き門」で、8日深夜まで閣僚人事以上に“激しい”調整が行われた。結果、文部科学副大臣には「ヤンキー先生」で知られる義家弘介元文部科学政務官が決まり、元プロレスラーの馳浩文部科学相と“武闘派タッグ”を組むことになった。
……で、冒頭の記事は9月の話ですが、最近の話はこちら。文科省の要職には、元プロレスラーと「ヤンキー先生」が決まったとか。どうにも日本における公教育とは「勉強を教える(生徒の知恵を付ける)」ことよりも「躾ける」意識が強いのだろうなぁと、そう感じるばかりです。面白いのは、こうした日本の学校教育を支えている教員達は総じて「左寄り」と目されているところですかね。そして左寄りの学校教師が形作ってきた日本式の教育を、反対に右寄りの政権が肯定的に評価しているからこそ、他国に輸出しようなんて話も出てくるわけです。勉強を教えるよりも子供達を(自分好みに)躾けたい、という点では幅広い層で目指すところが一致しているのではないかなと、そんな気がします。
読売新聞社は、民法で20歳と定められている成人年齢の引き下げについて、全国世論調査(郵送方式)を実施した。
成人年齢を18歳に引き下げることには「反対」が53%で、「賛成」の46%をやや上回った。
反対する理由(複数回答)は「18歳に引き下げても、大人としての自覚を持つと思えないから」の62%がトップで、「経済的に自立していない人が多いから」56%、「精神的に未熟だから」43%などの順だった。
「反対」は20歳代で66%、30歳代で59%、40歳代でも57%となり、若者と子育て世代で高かった。早大法学部の棚村政行教授(民法)は「若者は社会的、経済的に自立していないと感じる人が多く、18~19歳に大人としての責任は期待できないのだろう。子供への関心が高い子育て世代は、まだ保護の必要があると感じているのではないか」と語る。
さて国会ではさしたる異論も無いまま成人年齢が引き下げられようとしているわけですが、若い世代の間では反対意見の方が強いようです。しかし、成人年齢の引き下げを決めるのは「これから18歳になる人」ではありません。法制度を変える権限を持っているのは国会議員であり、その国会議員の平均年齢は2014年の衆議院議員選直後の段階で53歳(中央値は55歳)だとか。国による「成人」のラインを引き下げるかどうか、それを判断する立場にいる人は50代が中心なのです。20代、30代に反対の声が大きかろうとも、「引き下げるべき」と考えている年代の人が国政を動かしている、そこから導き出された結果はどう受け止められるのでしょうか。
日本の政治において、若さは正義です。見識や政策ではなく「若さ」を売りにして票を獲得する議員は少なくありませんし、「市民」の中には子供を前面に押し出し、己の主張を子供に代弁させることで自らの正当性をアピールする人も珍しくありません。「若い」ということは日本の政治において「正しい」と同義です。その政策が高齢者向きと解釈すれれば罵倒されるもの、逆に「若者のため」と掲げれば好意的に迎えられる、そういう世界です。「18歳の若者にも投票権を」と訴えれば、当の18歳が望んでいなかろうとも、それは反対されにくいものなのかも知れません。
世間の共感を集めるべく子供が前面に立たされるのは通例ですが、それは子供自身が前に進み出たからではなく、周りの大人が背中を押した結果です。「若者の声を政治に~」みたいに説く人もまた若者自身の意思を尊重するよりもむしろ、若者を利用して、若者の支持を背景に自らを正当化したがっているだけなのではないかと、そう私には思えるところです。子供を盾にすれば反論はされにくい、いかに若作りをしたところで50歳を過ぎた政治家がグダグダ言うよりも、子供や若者に支持させた方が何かと格好は付くものです。そして紛争国で少年兵が好まれるのと同じ理由もあるでしょうか、何しろ大人よりも未熟な若者の方が、洗脳しやすいですから!
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地球上の生物の中には、生まれてすぐに独り立ちする種もいます。あるいは1年や2年と、親に育てられる生き物もいます。そして人間は地域によって差はありますが10年以上、時には20年以上、巣立ちまでに時間がかかります。人間は大人になるまでの時間が際立って長いですけれど、しかし人間が劣った生き物であるとは、言えないでしょう。
人間の中でも上述の通り、国や地域で差はあります。10歳くらいの子供でも銃を手に殺し合ったり体を売って年長者の相手を務めたりと、大人になるのが早い国もあります。あるいは10代の半ばで家業の手伝いや丁稚奉公で扶養される側から外され労働力に組み込まれてしまう国もあります。そして20歳を過ぎても親に扶養されて学校に通うのが普通の国もあるわけです。大人になるのが早い国もあれば遅い国もあるのですけれど、別に大人になるのが遅い国が劣った国であるとは私は思いません。
どうにも選挙権を先頭に「成人」のラインを18歳に引き下げる動きは、何の根拠もなく「良いこと」のように扱われているフシがありますが、それは本当に必要な事なのか考えられているのでしょうか。若者を尊重する、若者の意見を取り入れると言えば聞こえは良いのですけれど、当の若年層からは必ずしも望まれているとは言いがたいようですし、現実問題として日本は大人になるのが遅い国でもあります。親に養われている期間の長い文化圏には、高めの成人年齢の方が似つかわしいと私には思えるところです。成人年齢引き下げの積極論は聞こえてきても反対論を唱える政治家が目に付かないのは、ちょっとバランスを欠いているのではないでしょうかね。
[フィフィ]裁判所が認めたアイドルの“恋愛禁止条項”は人権侵害か
【好評連載・フィフィ姐さんの言いたい放題】アイドルグループのメンバーであった17歳の女性が、異性との交際を禁じた規約に違反したとして、東京地裁は18日、65万円をマネジメント会社に支払うよう女性に対し命じた。女性は2013年3月に、交際禁止を定めた規約を含む契約を結び、6人グループとして7月にデビュー。しかし、男性ファンに誘われホテルに行ったことが発覚。グループは10月に解散した。今回の判決は「男性ファンの支持を得るため、交際禁止の条項が必要だった」と、マネジメント会社の主張を受け入れる形となったが、果たして、交際発覚はアイドルのイメージを本当に悪化させるのであろうか。フィフィは、今回のケースが前例となってしまうことで、今後アイドルたちが被るであろう危険性についても指摘する。
先日に書いた話の続きとなりますが、アイドルグループの一員であった女性が事務所に難癖を付けられた挙げ句、裁判所が女性側に金銭の支払いを命じるという驚きの判決があったわけです。こんなのが罷り通るのですから、契約を盾にAV出演を迫る事務所が普通に存在するのも無理からぬことと思うばかりですね。なんともまぁ、日本の人権意識を端的に表わす一幕と言えます。
アイドルの恋愛禁止問題。日本では、アイドルの恋愛が発覚すると「アイドルはイメージを売りにしていることを、彼女たち自身もわかってやっているわけだから、守らなかった本人にも問題がある」と、よく言われがち。だけど、こうした考え方は、人権問題に発展する可能性もあるんです。
(中略)
そもそも、世間の期待に応えたアイドル像を事務所が作り上げていくという手法自体、日本特有の文化だよね。
ひと昔前のアイドルがまさにそれ。アイドルはトイレにも行かないし、好きな食べ物はだいたいパフェで、もちろん恋愛なんかしません、という現実離れしたアイドル像を作り上げることで売り出す、“イメージ商売”がメインでした。同時にこれは、そうしたアイドル像を求めるファンが一定数いたからこそ成り立っていたビジネスモデルであって、SNSが生活に浸透した昨今においては、徐々に限界を迎えつつあります。
尚ここで引用したフィフィ氏に関しては、日頃は日本文化の悪しき側面を代弁しているようなイメージもあったのですが、今回は筋の通った主張を展開しているのではないでしょうか(今回は別のゴーストライターが書いてました、なんてオチだったり?)。問題のニュースへのネット上の反応を見ていると、公序良俗に反する契約は無効だという現実を受け入れたがらない人の多さに驚かされるのですけれど、やはりこうした契約が裁判所に認められてしまうことに疑義の一つも持てないのはどうなんだろうと、そう感じるところです。
なんだかんだ言って日本社会はポルノには厳しいところがあって、先日は例によって契約を盾にAV出演を求めた事務所側が敗訴するなんてケースもありました。しかし一方で、恋愛禁止のルール違反云々との理由で(元)アイドル側に賠償支払いを命じるようなトンデモ判決もまた、出てしまったわけです。あからさまに性的な要素がなければ、「子供を見世物にする」ことは悪いことだなどとは考えられていないのだと言えます。
アイドルが恋愛すればファンの支持を失うというのなら、すなわちファンがそれを求めていることを意味します。そういう人を相手にしなきゃいけない商売というのも大変だなと思いますが、結局のところファンとは対象を愛しているよりも支配したがっているものなのかも知れません。例えば「子供を守れ」と喧しい人ほど、その実は子供に自分の主張を代弁させているばかりで子供の自己決定権など考えようともしないものです。同様にアイドルのファンもまた、アイドル自身の意思よりもファン側の「こうあって欲しい」との欲望を優先するものなのでしょう。
まぁ、我が子の望みを叶えてやりたいと思う親もいれば、親の理想を子供に押しつけるばかりの人も普通にいます。そしてアイドルのファンには、後者のタイプが多いようです。ともすると華やかなイメージを抱かれがちなアイドルの世界も、その実は周りの大人が欲する子供像を演じさせられる存在でもあります。どうにも私には、児童や未成年の芸能活動に対して児童ポルノと同じくらいの闇の深さが感じられてしまうのですけれど、まぁ気にしない人は気にしないものなのでしょうね。